帰宅後に確認できたのですが、他には釈迦堂の跡も見つかっているようですね。ですが、やはり伽藍は未確認。これを、まだ発掘されていないから、と捉えるのか。あるいは、そもそも存在していなかった、と捉えるのか。これによって往時の安房国分寺の輪郭は、随分と変わってしまいそうです。

 幾つかの見解も調べましたし、加えてわたし自身が現地で直感してしまったものも、ほぼ同じ。やはり、安房国分寺は...。少なくとも各地で見た、聖武の執念と狂気と切望を湛える存在としてあった、天平の国分寺は...、安房国にはなかったのでしょう。もっと言ってしまえば建立できなかったのではないか、と。
 各国がそれぞれに国分寺造営に取り組んでいた時期、この世には存在しなかった安房国。それだけを根拠とするには弱いかもしれませんが、恐らくはこの場所に元々存在していた寺を改修するような規模で、国分寺を成立させようとしたのではないでしょうか。そう考えるのが、少なくともわたしには一番納得できます。

 鳥が鳴くあづま知らるかあをによし奈良つおほてら
 おほみことはも おほせごとはも            遼川るか
 (於:安房国分寺跡)


 とはいっても、基壇跡や出土している古瓦などが1300年の昔、確かにここにあった古刹の存在を、静かに訴えています。これが、天平の安房国だ、と。忌部たちや、倭建がやってきた頃とは違い、すでに古東海道(うみつみち)、の果ての地ではなくなっていた、日本という国の版図の1つとしてあった、天平の安房なのだ、と。
 国分寺がここである以上、きっとこの界隈には、国府や国分尼寺の跡も、きっと眠っているのでしょうね。いまだ見つかってはいないようですが、必ずあるのでしょう。同時に、ここが天平期の安房国の中心地であった、とも言えてしまいます。


 安房神社などが点在する、忌部が辿り着き、上陸した、とされる海岸線からはおよそ10km。代わって館山湾、つまりは内房からの距離は約3km。この立地が物語っています。畿内から安房や上総、下総へ続くルートが、変わってしまっていることを。
 古東海道はもう完全に伊勢から一気に安房までやってくる海路ではなく、陸路で走水の海まで来てから、木更津界隈に渡海するそれに切り替わってしまっていたからこそ、でしょう。往々にして官道に近い、あるいは沿う形で国府などは置かれます。そうしないと不便ですから。倭建の東征時は、それでもまだ2つのルートが語られていたのですけれどもね。天平の頃までには、駅馬や駅鈴などの制度も、行き渡っていましたから、当然なんですけれども。そして、それこそが安房が上総の一部となったり、そうではなくなったりした要因の1つでもあるでしょう。

 古代官道から逸れ、人の行き来が少なくなれば、その土地に流れる時間の速度は、次第に遅くなってゆきます。新しい人、物、技術、情報。それらから少しずつ、少しずつ取り残されていったゆえに、国としての威勢もなかなか振るわず、上総の属州ともなってしまったのかも知れません。
 ですが、仮にそうだとしても、それだからこそ今、こうして訪ねられてもいる、ということ。忌部たちの足跡が、それほど変わることなく残ってもいる、ということです。

 海岸部と山ばかりで、農地としてはあまり期待できなかったであろうことは、訪ねて周った今ならば、何となく理解できます。大きな風車が回る莫越山神社界隈の水持ちの悪さも、あちこちに残る溜池も。
 延喜式主計寮に残る租税の内容にしても、上総に課せられていたものとの差は、あまりにも大きい...。

|安房国【行程上卅四日、下十七日】

| 調、緋細布十二端、細貲布十八端、薄貲布九端、縹細布二百五十端、鳥子鰒、都都伎
|鰒各廿斤、放耳鰒六十六斤四兩、著耳鰒八十斤、長鰒七十二斤。自餘輸細布、調布、凡
|鰒。
| 庸、輸海松四百斤。自餘輸布。
| 中男作物、紙、熟麻、丶紅花、堅魚、鰒。

|上総国【行程上卅日、下十五日】

| 調、◆二百疋、緋細布廿端、薄貲布百十四端、細貲布六十三端、小堅貲布五十一端、
|紺望陀布五十端、縹望陀布七十三端、縹細布三百八十端、望陀貲布百端【長八丈、廣
|一尺九寸】、貲布一百八端、自余輸望陀布、細布、調布、鰒。
| 庸、輸布。
| 中男作物、麻二百斤、紙、熟麻、白暴熟麻、丶紅花、漆、芥子、雜醋、鰒、凝海藻。
                     「延喜式 巻24 主計寮上」一部再引用
                        ※◆糸偏に施の旁の表記です。


 皮肉なことに、この地に麻を齎した忌部の功績は、上陸地の安房よりも上総に大きな恵みを授けました。...いや、むしろ、それこそが忌部の底力があってこそ、なのでしょう。奥地へ、より奥地へ、と開拓を進めた結果であり、その開拓の助けとなったものは、他でもない技術者集団・忌部氏の業。
 きっと彼らには、安房だ、上総だ、などという小さな考えなどなく、あったのは大八島国、あきづしまやまと。日本という国のすべてに、寄与することを。それこそが彼らの誇りであり、そして開拓を支えた原動力ともなったことでしょう。...ならばもう、ずっとずっと後世を生きる者があれこれ考えてしまうことなど、無粋にして邪推ではありませんか。するべきは、ただこの安房国に今なお息づく、かつての断片たちへ感謝を込めて、謡って書くだけです。...それだけを胸にまた、わたしは帰りましょう。

 最後になってしまいましたが、安房に限定しない、すべての忌部氏の中には、万葉歌人もいます。忌部首黒麻呂。4首、採られていますね。残念ながらわたしが手繰れる範囲の忌部氏の系譜の中には、彼の名前を見つけることは出来ませんでしたが。

|題詞:忌部首黒麻呂の遅く来るを恨る歌一首
|山の端にいさよふ月の出でむかと我が待つ君が夜はくたちつつ
                       忌部首黒麻呂「万葉集 巻6-1008」

|秋田刈る仮廬もいまだ壊たねば雁が音寒し霜も置きぬがに
                       忌部首黒麻呂「万葉集 巻8-1556」

|梅の花枝にか散ると見るまでに風に乱れて雪ぞ降り来る
                       忌部首黒麻呂「万葉集 巻8-1647」

|題詞:夢の裏に作る歌一首
|あらき田の鹿猪田の稲を倉に上げてあなひねひねし我が恋ふらくは

|右の歌一首は、忌部首黒麻呂が夢の裏に此の恋の歌を作りて友に贈り、覚きて誦習
|せしむる前の如し
                       忌部首黒麻呂「万葉集 巻16-3848」


 長くなるので引用は割愛しますが、続日本紀にも彼が天平宝字2年(758年)8月に正六位上より従五位下になったこと。翌天平宝字3年(759年)12月には首から連に改姓したこと。天平宝字6年(762年)1月には、図書寮の内史局助になったこと、などが認められます。
 同時代の忌部氏で、系譜として辿れるのは広成老の大叔父に当たる忌部鳥麻呂(広成老の祖父・忌部虫名の弟。日本書紀の編纂者の1人・忌部子首の孫)ですか。いずれにしても、忌部首の祖は子首の曽祖父である忌部豊止美。そして、忌部子首は忌部宿禰の祖となりますから、恐らくは子首の父・佐賀斯の弟たちの曾孫あたりではないか、と推測しますがいかがでしょうか。


 また、忌部首ではあれど、個人が誰かは特定できていないものも1首。こちらも黒麻呂のものではないか、という説は複数見ています。

|題詞:忌部首、数種の物を詠む歌一首[名は忘失せし]
|からたちと茨刈り除け倉建てむ屎遠くまれ櫛造る刀自
                          忌部首「万葉集 巻16-3832」


 ともあれ、黒麻呂のものと特定できる4首です。...いやいや、いまだ奈良に都があった頃に詠まれたであろう歌としてはかなり技巧的ですし、何と言いますか。
 もう平安初期のもののようですね。それこそ、小倉百人1首の歌番号20番までに収められていてもおかしくないような風情です。率直に意外。広成老のあの愚直な印象とは随分、遠いですね...。

 同時期を代表する万葉歌人と言えば、もちろん大伴家持なのですが、個人的には家持の方がずっと万葉調に感じられてしまうのですけれども。恐らく、神職でもなく、政治家でもなく、氏族の嫡流でもまたなかった、中級官僚ゆえの歌境なのかもしれません。
 そして都は長岡京へ、さらには平安京へ。天平すらも遠く、古く、去っていったのでしょう。

 都路を遠みか安房のおほそらに見ゆるいにしへつちにほふ国  遼川るか
 (於:安房国国分寺跡)


 名残惜しさはいまだ尽きず、それならば最後にまた、浮島を眺めてゆこうと思います。





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