それでも、さねさしさがむに生まれ、さねさしさがむに育った身としては、やはり切っても切り離せない、愛着も一入な土地です。

 あづまはや あれ生り出でしさねさしさがむ
 生り出でゝけふも有経るさねさしさがむ     遼川るか
 (於:足柄峠)


 上代以降、中古や中世の文学にも足柄は登場しています。

|あしがら山といふは、四五日かねて、おそろしげにくらがりわたれり。
|やうやういりたつふもと|のほどだに、そらのけしき、はかばかしくも
|見えず。えもいはずしげりわたりて、いとおそろしげなり。
                      菅原孝標女「更級日記/足柄山」


 先ず、有名なものとして挙がるのがこちら、更級日記でしょう。作者・菅原孝標女が、父親の赴任していた上総国から長い旅路を経て帰京し、その後の生活をありのままに綴ったものですが、前半の上総から京への紀行文中に、足柄山が登場します。
 彼女はこの足柄山で数人の遊女と出会いますが、その中でも年若い娘が特に容姿が整っていて、しかも例えようもないほど声が美しかった、と綴っています。その歌声は、空に澄み上り即興で「難波わたりに比ぶれば」と歌った、と。
 そんな容姿も声も歌も素晴らしい娘が、こんな恐ろしい山に立ち去っていくのが名残惜しく、宿を出発するまで心残りだった、と。

 同じく日記文学では阿仏尼の十六夜日記にも足柄という字面は登場しています。...が、彼女が実際に峠を通過した、という内容ではありません。

|足柄の山は、みちとほしとて箱根路にかゝるなりけり。

| ゆかしさよそなたの雲をそばだてて
| よそになしつるあしがらの山
                    阿仏尼「十六夜日記 1 道の記 28日」


 日記文学はさておき、肝心の和歌では西行も詠んでいますね。

|雪解くるしみみに拉くかざさきの道行きにくき足柄の山
                      西行「山家和歌集 巻中 雑 975」


 もちろん、古今和歌集以下の21代集にも複数採られています。13歌集、21首ということで、これは思っていたよりかなり多い気がします。

|あしがらの関の山ちを行人はしるもしらぬもうとからぬかな
                  臣静法師「後撰和歌集 巻19 羇旅歌 1362」
|あしがらしよからむとてぞわかれけん何かなにはのうらはすみうき
                 詠みひと知らず「拾遺和歌集 巻9 雑下 541」
|足柄の関路こえゆくしのゝめに一むらかすむ浮島か原
           後京極摂政前太政大臣「新勅撰和歌集 巻19 雑歌4 1301」
|足柄の山路はみねとわかれなばこゝろのみこそ行てかへらめ
                    躬恒「続古今和歌集 巻9 離別歌 835」
|たゞくれね関の戸さゝぬ比なれば月にもこえむあしがらの山
                従二位家隆「続古今和歌集 巻10 羇旅歌 897」
|秋まではふじの高ねにみし雪を分てぞこゆるあしがらの関
               藤原光俊朝臣「続古今和歌集 巻10 羇旅歌 916」
|鳥の音に猶やまがけのくらければ明てをこえんあしがらの関
               土御門院御歌「続古今和歌集 巻10 羇旅歌 918」
|越やらで今日はくらしつあしがらの山かけ遠き岩のかけ道
                従三位光成「続拾遺和歌集 巻9 羇旅歌 708」
|あしがらの山の麓にゆきくれて一夜宿かる竹のした道
                  平長時「続拾遺和歌集 巻9 羇旅歌 709」
|むかしよりかよひし中の跡とめて心へだつなあしがらの関
          常磐井入道前太政大臣「続拾遺和歌集 巻16 雑歌上 1107」
|旅衣しぐれてとまる夕ぐれになを雲こゆるあしがらの山
                従三位頼基「新後撰和歌集 巻8 羇旅歌 560」
|岩がねをつたふかけちの高ければ雲の跡ふむあしがらの山
                 前大納言為家「玉葉和歌集 巻8 旅歌 1195」
|行末も跡もさながらうづもれて雲をぞわくるあしがらの山
                  大江広房「続千載和歌集 巻8 羇旅歌 845」
|あしがらの山の嵐の跡とめて花の雪ふむ竹の下道
                前中納言為相女「風雅和歌集 巻3 春歌下 227」
|深き夜に関の戸出てあしがらの山本くらき竹の下道
                    藤原頼成「風雅和歌集 巻9 旅歌 907」
|富士のねを山よりうへにかへりみて今こえかゝるあしがらの関
                    藤原行朝「風雅和歌集 巻9 旅歌 908」
|さらに今都も恋し足柄の関の八重山猶へだてつゝ
                  津守国量「新千載和歌集 巻8 羇旅歌 772」
|あしがらの山路の月に嶺こえてあくれば袖に霜ぞ残れる
                  祝部成茂「新拾遺和歌集 巻9 羇旅歌 785」
|しぐれつる雲をと山に分捨て雪にこえ行あしがらの関
                  卜部兼直「新拾遺和歌集 巻9 羇旅歌 806」
|行人の心とめすはあしがらの関もる神もかひやなからん
                 藤原行朝「新後拾遺和歌集 巻9 離別歌 855」
|足がらの山立かくす霧の上にひとり晴たるふじの白雪
                 法印慶叡「新続古今和歌集 巻5 秋歌下 547」


 何とも乱暴な一括引用で恐縮ですが...。ただ、こう並べてみると判るのですが、少なくとも「万葉集」以降に登場する足柄の歌は、その殆どが旅の歌になってしまっていて、これもまた時代が名もない民間人や、土着の民謡などを記述として残さなくなった1つの証左とも言えるかも知れません。
 余談になりますが、連歌でも足柄は検索した限り、そこそこ登場していたようですね。

 ただ、最初は確実にあるだろうと思っていたにも関わらず、空振りに終わったのが鎌倉第3代将軍・源実朝の金槐和歌集で全601首中、箱根は4首登場しているのに対し、足柄はゼロ。どうも釈然とせずに、実朝の歌を丁寧に探したら、たった1首だけ、見つけることができました。けれども金槐和歌集に、ではなく鎌倉は鶴岡八幡宮に蔵されている3首のうちの1首に、です。

|東路の関守る神の手向けとて杉に矢たつる足柄の山
                      源実朝「鶴岡八幡宮蔵詠草」より


 見晴台でぼんやり、あれこれ考えているうちに、最初からたった4時間しか捻出していなかった時間は刻々と過ぎていっていました。少し日が傾いたかな、と気づいた時には既に夕方4時近くで、慌てて社用車に乗り込み、さらにもう数kmだけ進んで、足柄の関所跡と足柄神社の旧址を訪ねます。

                    

 足柄神社。別名は足柄明神となりますが、この旧址自体は敷石と柵のようなものが残るだけで特段、目を瞠るようなものでもありませんでした。...ただ、問題は足柄明神という神様にあります。

 既に足柄の地で歌垣が開かれていたであろうことも述べましたし、それに付随して漠然と考えていた和歌の流れについても触れました。ですが和歌より大きな括りとしての大和歌には、万葉期に敷かれたレールである文芸としての流れとは別に、もう1つの流れが確実に存在していることは否定し難いでしょう。そして、そちらの流れにもまた、足柄は大きく関わっている、ということです。
 文芸ではない大和歌のもう1つの流れ。それは歌謡という芸能です。

 重複してしまいますので、詳しくは前述をご参照戴きたいのですが、そもそも大和歌というものは上代歌謡、という言葉からしても実際に節をつけて謡うものでしたし、それが万葉期以降の短歌への集約によって文芸(音読はもちろんあったでしょうが)へと成り代わっていった一方で、歌謡もまた歌謡としての歴史を経ていったことは間違いありません。
 神楽や催馬楽などが典型例ですが、これらは記述として残ることも少なく、あくまでも口伝として受け継がれていきました。そして平安末期には1つのスタイルが大流行します。今様歌です。

 先ず、今様歌について簡単にご説明します。今様歌は民衆的な仏教歌謡の和讃、神楽歌の通俗化した神歌、歌曲化した民謡の催馬楽、中国や日本の漢詩・漢文を日本語読みにして謡った朗詠など、様々な性格を有した歌謡です。
 ただあくまでも、当世風であることがポイントで、前時代からの神楽歌や伝統的な催馬楽、風俗などに対し、今めかしい新興歌謡、と言えるでしょう。
 今様歌は、元々が遊女や傀儡子の専門技芸として隆盛したのですが、彼らは宮廷と民間を行き来できる職業ですから、結果としてその双方に今様歌が広まっていった、ということですね。

 そして歌謡であった今様歌と和歌の差異は、和歌に於る抒情表現よりも、あくまでも自由で、素朴な「歌いぶり」が命とされていた、ということです。楽器による伴奏もあり、多くは鼓、時に笛や笙なども用いられたと言います。そう、芸能は芸能でも、雑芸であったのでしょう。
 この今様歌を、ことの他好んだのが後白河院です。彼は当時の今様歌など、広く知られた歌謡の数々を編纂します。それが、梁塵秘抄となるのですが、その大部分が散逸してしまっているこの歌謡集は、本編とも言える部分と口伝と銘打たれている部分とに分かれていて、注目したいのは口伝の巻11。此処にとても興味深い記述が残されています。

|足柄、大曲、黒鳥子、前張に宮人ゆふしまなり。催馬楽にうたいかへはありと雖
|も、諸國風俗哥なれば大曲の名是なし。足柄は神哥にて、風俗といへども其品
|替ることなり。駿河舞東遊びなどゝいふにも、是なん足柄の中なるべし。足柄
|明神の神哥ゆゑに、風俗と雖もそのせんあり。片下、田哥など、娑羅林など今様、
|是なん曲流なし。神遊の哥に、古今集のうち神遊の歌い出す事は、和國のしる
|しなり。さすれ共哥がらに依て、上句下句のちがいありと知べき也。
                          「梁塵秘抄口伝 巻11」


 要は当時、今様歌の中でも全国各地縁のものは、分ければ風俗歌という扱いにすぎず、今様歌の上級者でないと謡いこなせない大曲/たいごく、という由緒あるものとは、認められないのが一般的だった、と。けれども足柄という曲は足柄地方土着の民謡だったにも関わらず、足柄明神へ奉る神歌でもあったために大曲の1つと認められていた、ということです。
 残念ながら、足柄という歌謡についてはよく知りません。確認できている情報としては、数ある今様歌の中でも最も古典的とされる大曲だった、ということだけ。...ですが、これはもう仕方がないのかも知れません。何故なら梁塵秘抄にはこんな件もあるからです。


|足柄など今様も秘蔵の歌を知らむと思ひて
                           「梁塵秘抄口伝 巻10」


 現代語訳は
「足柄など、秘蔵とされている今様歌も知りたい、と思って」
 と。はい。平安末期の時点ですでに、今様歌・足柄は秘蔵曲とされていた、ということなのですから。

 ...根拠はありません。ただ、何となくそう考えるのが自然だった、というべきなのか。もしくは、積極的にそう考えたかったし、考えたいのかも知れません。ですが前述している通り、足柄山のどこかで歌垣が開かれていた、と考えるならば、それはきっと足柄明神の境内だろう。いや、そうあって欲しい。それならば、全ての辻褄が合うじゃないか。

                  

 そんな思い入れあって踏み込んだ足柄神社旧址。県道から山の中へ入り込んでいるだけに、もはや人影もなく、聞こえるものは風が通り過ぎてゆく音と、葉擦れの音だけでした。

 伊耶那岐・伊耶那美、あなにやし 出雲八重垣、歌垣歌
 ますらを・たをやめ・幽玄も 連ね連なるやまとうた     遼川るか

 敷島の道なほとほく 筑波の道もとほければ
 倭、言の葉、弐千年 足柄明神、奉らむ            遼川るか
 (於:足柄神社旧址)

           

 元々は自由律に近かった歌謡から、それでも七五七五七五七五(七四×4、八五×4、というスタイルもあります)という定型韻律をもつ今様歌というものが発生した背景には、長歌の影響もあったのであろう、と個人的には考えています。五七調だった長歌がより軽妙なテンポ感のある七五調となった万葉末期から平安末期までは、時代差にして200年。
 全て自分勝手な推測です。論拠らしい論拠はほぼ皆無ですが、それでも私にはそう思えてならないんですね。

 文芸としての長歌は、時代とともにどんどん廃れていきました。けれども歌謡としての生命は、常にその時代の「今様」として、人々に口遊ばれ謡われて来たのだと思います。
 そして、その韻律は現代にも確実に受け継がれていることに気づいていらっしゃる方は、果たしてどれくらいおられるでしょうか。

* ちっちゃな頃から悪ガキで
* 15で不良と呼ばれたよ
* ナイフみたいにとがっては
* 触るものみな傷つけた
* ああ わかってくれとは言わないが
* そんなに俺が悪いのか
* ララバイ ララバイ おやすみよ
* ギザギザハートの子守唄
             「ギザギザハートの子守唄」
             <JASRC 025-1055-3 作詞:康珍化 歌唱:チェッカーズ>

* あなた変わりは ないですか
* 日毎寒さが つのります
* 着てはもらえぬ セーターを
* 寒さこらえて 編んでます
* 女心の 未練でしょう
* あなた恋しい 北の宿
              「北の宿から」
              <JASRC 024-5993-1 作詞:小林亜星 歌唱:都はるみ>

* 卒業までの半年で
* 答えを出すと言うけれど
* 二人がくらした歳月を
* 何で計ればいいのだろう
* 青春時代が夢なんて
* あとからほのぼの思うもの
* 青春時代のまん中は
* 道にまよっているばかり
       「青春時代」
       <JASRC 044-2380-1 作詞:阿久悠 歌唱:森田公一とトップギャラン>


 咄嗟に思い浮かぶのはこれらと、あとは童謡の「赤とんぼ」くらいですが、探し出せばかなりな数の、「現代の今様歌」が見つかると思います。

 私自身は確かに幼い時より、亡母の手引きで現代短歌はずっとやって来ていましたが、母の他界を契機に和歌に転向。擬古典和歌を数年続けるも最近になってしみじみ実感したことは、文芸としての和歌も、歌謡も、連歌(連句)も、その全てが大和歌であるということ。そして、もはや自身が謡い、詠むにあたってわざわざそのジャンルを標榜する必要もなければ、詠む歌体も、使う言葉も、自身から産まれようとしている歌に委ねればいいのではないか、と。連句の定座で言われる
「月は出るに任せよ、花は咲くに任せよ」
 ではないですが、
「歌は産まれるに任せよ」
 と。

 もちろん、ただ漫然と詠み続けるつもりはありません。1つのことを明確なベクトルを持たずに続ければ、遅かれ早かれマンネリ化してしまいます。そうなってしまうと中々、抜け出せなくなってしまうわけで私自身、和歌へ転向しようと決めた時点で、それまで4歳から積み上げてきた現代短歌が、変質・崩壊することも覚悟しました。でも、それだけのリスクを負ってでも新天地に行きたかったんです。新しい地平を見たかったんです。その後も細かな自己構築と自己破壊を繰り返してきました。
 ...何故なのか。答えは、...恋。そう、これはもはや恋なのでしょう。この歌という捉えどころのない対象に焦がれ、苦しみ、のたうち廻っている様は、つくづく恋とよく似ている、と。恋そのものだ、と思わずにはいられません。そうでないならば、...狂気。そう思います。

 気づいた時には、鳥肌が立っていました。往時の面影など、想像するのも難しい現在の足柄神社旧址は、それでも連綿たる大和歌の歴史をしっかりと刻んでいるかのように、何処か神意とも、霊験とも言えてしまえる空気に満ちていたように感じます。いや、もしかしたらそう感じたのは、私が歌詠みの端くれだったからなのかも知れません。

 旅に出たい、旅に出たい。ずっと焦がれていました。日に日に募るフラストレーションの中、産んだ歌たちは何処か色褪せているようで、不甲斐なさばかり噛み締めていました。
 でも、何も数日間を費やして遠方に出向かなくても、私にとっての旅は充分に叶うことを...。それこそ、仕事の途中でだって出来てしまえた現実に、随分と自分の視野が狭窄してのだな、と何だか可笑しくなってしまいました。
 足柄峠。和歌と言えば奈良や京都、という地名が当たり前のように人々の脳裏へ浮かぶ一方、確かに此処もまた和歌、そして大和歌二千年の歴史が刻まれた、歌の聖地。...そう私は思っています。

 時刻は5時を廻っていました。7時には厚木へ着いていなければなりませんから、そろそろ山を降りることにします。足柄関連の万葉歌で、まだご紹介していなかったものも挙げておきましょう。

|鳥総立て足柄山に船木伐り木に伐り行きつあたら船木を
                        沙弥満誓「万葉集 巻3-391」
|足柄の箱根飛び越え行く鶴の羨しき見れば大和し思ほゆ
                        作者不詳「万葉集 巻7-1175」
|足柄の八重山越えていましなば誰れをか君と見つつ偲はむ
                     作者詳細不詳「万葉集 巻20-4440」


 小田原まで戻り、高速道路へ乗る直前にもう一度、足柄の山々を眺めました。万葉の時代、人々は足柄の峠に荒ぶる神が御座すと考え、登る前に麓で供物を手向けては、峠でまた祈ったといいます。
 そんな人々の心が最もよく表れているな、と私が感じる足柄万葉歌です。


|足柄のみ坂畏み曇り夜の我が下ばへをこち出つるかも
                    作者不詳「万葉集 巻14-3371」 再引用


 「曇夜の」は下延へ、を導く枕詞。

 「足柄の坂の神の恐ろしさに、心に秘めた思いまで言葉にしてしまったよ」

 鬱蒼と繁る木々と峻険な勾配は、よほど人外魔境のような雰囲気だったのでしょう。その恐ろしさから、神への手向けとしてだけではなく、ついつい心に想う相手の名前まで口にしてしまった、という意味のこの歌は、私が一番好きな足柄万葉歌でもあります。







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