わぎもこにあふみゆ〜竹生島  

 奇跡だとしたならば、きっと
「ずいぶん、ささやかな奇跡だね」
 と言われてしまうのかも知れません。あるいは大袈裟だ、と失笑を買うことも考えられるでしょう。...でも、構いません。少なくともわたしにとっては奇跡だった、と肌で感じられた瞬間なのですから、もうそれだけでやはり、奇跡だったのだ、と。

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 まだ初夏の頃に漠然と考えていたのは、今年の夏休みは何をしようか、ということで自分の中で、かなり急がなくちゃ、と思えてならない2つの命題を、その照準に据えていました。1つは自身のHP開設。もう1つがいつまで経っても苦手意識が払拭できない仏足石歌について一度、頭を整理しよう、その為にも記述で残されている上代の仏足石歌に纏わる散文を1本書こう。
 そう確かに決めてはいたんです。...が、どういうわけかその両方がものの見事に頓挫。

 HP開設は、4月に新規購入したものの段ボールも開けずに放置していたパソコンをようやくセットアップしようとした途端、異常に気づき、会社のIT顧問に診てもらった結果は、ハードの初期不良。そう、最初から壊れていたということです。仕方なくすぐに修理に出しましたが、戻ってきた時にはすでに夏休みはとっくに終わっていて...。
 因みに現在、退院したパソコンはいまだ段ボールの中です。

 仏足石歌は、あれこれと資料も集め、調べ物も進んではいたものの、どうしても欠かせない資料がついに読解できず。播磨風土記なんですが。
 歌謡ではない、あくまでも和歌として記述に残る仏足石歌は古事記に1首、万葉集に1首(異伝で短歌+7音の、一説にはこちらも仏足石歌と考えられる、という別の歌も併せれば2首)、仏足石歌碑に21首、そして残る数首が播磨風土記に収められている、というものの、どの歌かついに特定できないまま、日々は過ぎてしまいまして...。

 どうにも不完全燃焼以前の徒労感だけが、気持ちの底に常に潜んでいるようなちぐはぐな思いは拭えず。加えて喘息持ちには天敵とも言える台風(による不連続線の通過=気圧の変化)に体調も崩しがちで、珍しく外来入院での緊急点滴にも数回お世話になる始末。
「冴えない夏だったな...」
 などと独りごちるままそろそろ9月の声が聞こえようか、というタイミングに舞い込んできたのが滋賀県長浜市への出張でした。

 滋賀県、つまりは淡海。記紀・万葉好きには言うまでもなく、訪ねてみたいポイントが数え切れないほど犇く魅惑の土地です。当然、出張が決まるやいなや現地で済まさなければならない仕事のことすら半ばそっちのけで、何処に行こうか、何をしようか、と調べ始めたのですが、ここでかなりの落胆が待っていました。
 土地勘のない関東人です。地図で調べて初めて判ったのは、長浜市が記紀・万葉に縁の深い土地とはかなり距離がある湖北だったということが1点。
 さらには当日の行動が、たまたま別件で滋賀・愛知へ数日間の出張をする同僚が運転する社用車に、往路は同乗。そして帰りは新幹線でその日のうちに戻って来い、との社命で、レンタカーを手配するには中途半端な時間しか現地にいることもできそうになく。つまりは現地での機動力がない、ということが1点。...てっきり自分専用の社用車で往復していいものだ、とばかり思っていたんですけれどね。

 結局、取り立てて何処かを訪ねよう、訪ねたい、という気持ちも湧かないまま、前夜はFTANKAのRTでかなり夜更かしもして目覚めた早朝、...もとい深夜3時半。
「別に万葉巡りをやらないなら、服装なんて仕事仕様でいいや」
 と深く考えもせずに、スーツとハイヒールのサンダル履きで会社へ向かい、同僚と合流。運転が大好きだという彼にハンドルを任せ、さっさと助手席で眠ってしまったわたしです。

 「そろそろ、起きて」
 という同僚の声で目覚めると、すでに名古屋を越えていて、時刻も8時半を過ぎていました。どうやら彼も眠くなってしまったようで、ここで運転交代。あとは長浜ICで降りるまで、淡々と運転をし続けました。
 車窓を流れていくのは、そろそろ穂が垂れ始めて淡い黄金色になりつつある田圃で、巧くは言葉に出来ないのですけれど、とにかく嬉しくて...。昔からどういう訳か、田圃や稲というものには血が沸くような感慨があります。初夏の青田も堪らなくワクワクしますし、田圃が金色に変わり始める今頃の季節になると、もうそれだけで感極まってしまう、と言いますかただただ綺麗だ、と。そう思えてしまってならないんですね。

 時は満つ 土にそ根足る
 種懸くる 天よ祝かむや
 けふまでの 吹きし風さへ
 かつも降り 紛ひしあまつ
 みづさへも 堪へ来たる子ら
 いで褒めむ 褒むるなへにし
 子らはなほ 生らゆるにあに
 まとへやも みづほ、やつかほ
 いで祝きまつらむ

 葦原の瑞穂の国よ さにつらふいろもあまねきくがねにそ染め  遼川るか
 (於:米原JCT付近)


 長浜に着いたのは10時半過ぎ。同僚と別れてまずは仕事先へ。プレゼンテーションと店内のディスプレイ、商品陳列などを終えて、店長さんにご挨拶をしたのが12時半。とりあえず、この日の仕事は無事に片付きました。
 さて、これからどうしよう? とは思うものの特段、予定もありませんから何となく最寄のJR長浜駅に移動することにして、位置関係を確認するために近くにあったコンビニへ。雑誌コーナーの隅の長浜市の地図で、駅までの道順と距離を調べた処、道順は単純でしたが距離がどう見積もっても15km弱はありそうで...。
 ミネラルウォーターのペットボトルを1本だけ買って、ともかく歩き始めました。途中、タクシーが来たら停めればいいし、バス停もチェックして、巧くタイミングが合えば乗ればいい。そう思っていたのですが、地方都市のかなり郊外、そして平日の真っ昼間などという時間帯は、そもそもの交通量の極端に少なく、歩けど、歩けど、タイシーは来ず。バスは歩き始めて3つくらいのバス停こそいちいち確認していましたが、何せ1時間に1本あるかないか、という時刻表の文字に諦めた方が現実的、と悟りました。

     

 運動は嫌いですが、歩くことは決して嫌いではありません。それに道端には心をくすぐってくれる稲穂たちがさわさわ風にそよいでいて...。
 これはこれでいいだろう。そう腹を決めて歩いて、シンドくなったら稲穂を眺めて、また歩いて。ようやく長浜駅に辿り着いた時にはすでに2時半ちょっと前になっていました。
 そのまま北陸本線で米原まで移動して、すぐに新幹線に乗っても良かったんです。ただ、コンビニで見た地図の位置関係だと、長浜駅のすぐ先には琵琶湖が広がっているはずで、せめて琵琶湖だけでも眺めていこうか。そんなことをつい、考えてしまいまして。...すでにハイヒールで歩き続けた反動で、足の裏と脛の辺りは重たく感じるようになっていましたし、サンダルの一部が擦れるらしく、左足の中指に出来た水泡が破けて、かなり痛かったんですけれども。
 JRの線路を渡るための高架に登ると、気持ちのいい風が吹いていて、そして見えたのが琵琶湖です。
「...やっぱり、行こう」
 自分に小さく声を掛けて、湖畔まで再び15分ほど歩きました。

 湖畔に着いてしみじみ感じたのは、過去に世界各地で見た湖とも違う、何とも不思議な懐かしさで、とにかく湖面のあまりに深い深い藍色が哀しい、でもなく切ない、でもなく...。風も確かに水辺特有の風ではあるものの、海のように潮の香りがあるわけでなく、河や滝のように音があるわけでもなく。

 石走る近江に来たり なにしか淡海
 いきづかし、なにしか淡海かくも懐かし 遼川るか
 (於:琵琶湖畔)


 湖ってこんなに哀しいものだったかしら。そう思ってしまったものですから、途端に
「船...。船に乗りたい」
 となり。そのまま琵琶湖に吸い寄せられるように、周囲を歩いていくと連絡船という文字が目に飛び込んできました。曰く
「長浜港⇔竹生島連絡船乗り場」
 と。運航時刻表を見ると、竹生島行き最終便が3時15分にあり、さらに竹生島からの帰りの最終便は5時半にまた長浜へ戻ってくるようでした。これなら神奈川へもそう遅くない時間に着けそうです。
 冷房の効いた待合室で船が来るのを待っていたほんの10分間、疲れていたのでしょうね。眠ってしまって、まったく記憶がありません。

 乗船準備をしてください、という係員さんの声で目覚め、連絡船を降りるツアー客の団体と入れ替わりで、タラップを渡ります。この時、気づいたのですが晩夏の平日、しかも最終便ということで乗り合わせた人々はたったの15人前後。3世代のご家族が1組いらしたので、子供も2人いましたが、あとみなさん、どう見てもわたしより年長のようで...。
 それも不思議ではないのかも知れません。何せ、向かう先は竹生島、ですから。

 竹生島。正直、わたし個人の趣味の範囲で語るならば、それほど食指が動く場所とは言えないかもしれません。古典文学に竹生島が登場するのは先ず挙げられる有名なものとして平家物語、さらには謡曲「竹生島」くらいだろうと思います。
 平家物語では巻7の「竹生島詣」の舞台となっていますが、簡単な粗筋を書いてみます。

 木曾義仲が東山道・北陸道を討ち従え、ついに都に攻め入ってくる。そんな噂が流れた京都では、平氏の主力がこれを途中で迎え討ち、さらにはそのまま北上して頼朝も討ち果たそう、との思いから維盛を筆頭に6人の大将軍を立てて、進軍を開始します。けれども維盛が直接指揮をとる1隊はどんどん前進していきますが、別将軍の何人かはいまだ琵琶湖周辺に留まっていて、特に経正(清盛の弟)は元々詩歌管弦に長じ、戦乱の世にあっても冷静さと風雅を愛でる心は失っていませんでした。
 そんな経正が、琵琶湖畔で目にとめたのが湖の沖にぽつんとある小さな島。尋ねれば、あれこそが有名な霊地・竹生島だ、とのこと。琵琶の名手でもあった彼はそれでは、と竹生島へ渡ります。すでに平安期には弁才天を中心とした信仰の地であった竹生島の、噂に劣らぬまるで蓬莱とも言えるような絶景に心打たれ、経正は竹生島大明神にひざまづきました。
 そして夜。居待ちの月が昇る頃、経正は琵琶の調べを奉納します。すると明神も感に堪ええず、経正の袖の上に白龍となって出現。経正は畏れ多さに琵琶をおき、歌を詠みました。

|ちはやぶる神にいのりの叶へばやしるくも色のあらはれにけり
                      平経正「平家物語 巻7 竹生島詣」


 これならば怨敵退散、兇徒から都を守れる、と経正は喜び、竹生島をあとにしたのだそうです。

 ...このあと、実際に平家一門が辿った運命は、いまさらご説明するまでもないことでしょうが、それよりもここできちんと押さえておきたいのは、平安末期の竹生島が一般的にどういう存在だったか、ということです。
 そもそも竹生島信仰については、どうも散漫な記述が多くて、残念ながらわたしの中で、ある程度の筋道の通った歴史的流れはまた組み立てられていません。といいますのも、中世以降に起こった神仏習合と明治期に起こった神仏分離により、島にもお寺と神社が別々に存在していますし、それぞれの縁起が入り組んでいてどうにもややこしく...。

 先ず島、といいますか琵琶湖そのものは地質調査などによると約600〜400万年前にはすでに湖として誕生していたようで、これはバイカル湖やカスピ海に次ぐ世界第3位の古さなのだと言います。なので今でも琵琶湖には古代魚に分類される魚たちが数種、当時のままの生態で存在していることも確認できているそうです。
 一方の竹生島ですが、琵琶湖の中でも最も水深がある地点に、まるで切り立った断崖のようにして出現した花崗岩の島らしく、この島周辺の湖底には古代の遺跡が沈んでいて、縄文初期の祭祀土器や石器もかなりの数で発見されている、といいます。...島の周囲が沈下してしまったのでしょうか?

 島そのものに纏わる神話は、「竹生島縁起」に曰く、孝霊天皇の在位25年(紀元前266年)に霜速彦命の子供である3柱、気吹雄命・坂田姫命・浅井姫命が降臨した、とあります。前2柱は淡海国坂田郡の東方に、浅井姫命は浅井郡の北辺に、それぞれ坐したものの、気吹雄命と浅井姫命は勢力を競い、浅井姫命が後退。結局、琵琶湖の水中に坐することになったんですね。
 するとその湖底からツブツブという音が聞こえるようになったそうで、浅井姫命は都布失島、と呼ばれるようになった、とのこと。さらに、浅井姫命はそれらの水沫を凝て地盤を成し、塵を積もらせて島に成っていきます。たくさんの魚たちを召集して魚が棲める場所を整備し、他の島をたちを召集して植物の種を落とさせて。そして最初に竹が生えたので浅井姫(都布失島)は、竹生島とも呼ばれるようになった、と記されているのだ、といいます。

 一方、室町期に成立した「帝王編年記」にはその昔、伊吹山の夷服岳の神・多多美彦命と久恵峰に多多美彦命の姉である比佐志姫命、さらには浅井の岡に姪の浅井姫命がいて、ある日、夷服岳と浅井の岡が背比べをした処、浅井の岡が一夜で高くなってしまったため、夷服岳が腹を立てて浅井の岡、つまり浅井姫命を切り殺してしまい...。切り落とされた浅井の岡(浅井姫命)の頭が、琵琶湖に転がり落ちて島になったのが竹生島、とありますね。
 加えてこの記述、そのまま近江国風土記逸文としても編纂されています。...もっとも、天平期に編纂された古代風土記に、この記述が存在していたことは、かなり疑わしいであろう、とするのが今日の一般的な見解のようですが。

|又云へらく、霜速比古命の男、多々美比古命、是は夷服の岳の~と謂ふ。女、比佐
|志比女命、是は夷服の岳の~の姉にして、久惠峯に在しき。次は淺井比豆是は
|夷服の~の姪にして、淺井の岡に在しき。ここに、夷服の岳と、淺井の丘と、長高
|を相競ひしに、淺井の岡、一夜に高さを揩オければ、夷服の岳の~、怒りて刀劔
|を抜きて、淺井比賣を殺りしに、比賣の頭、江の中に墮ちて江島と成りき。竹生
|島と名づくるは其の頭か。
                   「近江国風土記逸文『帝王編年紀』」


 以上の通り、竹生島縁起と帝王編年記では微妙に伝承が異なってはいるものの、要は竹生島が浅井姫命とイコールである、ということが肝心で、当然ながら島内にある、都久夫須麻神社の祭神3柱の1柱がこの浅井姫命、となります。

 そんな竹生島という島、もしくは霊地への信仰の歴史もかなり古く、延喜式には雄略3年(459年)に竹生島神社が先ず創建された、との記述があります(この時点での祭神は浅井姫命のみです)。
 また天智天皇が天智6年(667年)に志賀宮を創建した際、宮中の守護神を祀った社殿があるのですが、この時に祀られたのが現在の都久夫須麻神社の主神とされている市杵島姫命です。
 さて、ここまでは竹生島に仏教の影はありません。...が、ここに寺院を建立したのが、聖武天皇となります。神亀元年(724年)、聖武の夢枕に天照大神が立ちます。曰く
「江州の湖中に小島がある。その島は弁才天の聖地であるから、寺院を建立せよ。そうすれば国家泰平・五穀豊穣・万民富楽となるであろう」
 とのお告げがあったそうで。...天つ神である天照が何故、元々はヒンドゥー教、のちに仏教の神様ともなった弁天さまについて語るのだろうか、というような個人的な疑問はさておき、お告げの実行のために勅使として竹生島に遣わされたのが、高僧・行基です。そして寺院を開基。また弁才天像を彫り、それをご本尊として安置しました。さらに翌年には、観音堂建立と千手観音像の安置も行った、といいます。以来、天皇の御幸が続き、弘法大師など、仏教の修行者も多く訪れるようになったのだ、と。
 やがて、この竹生島神社と寺院は、習合されて竹生島明神と呼ばれるようになったという訳ですね。

 余談になりますが、弁才天と市杵島姫命。この出身が、全く違う女神たちは、少なくとも日本では、いつのまにか同一視されるようになっていますね。弁天さまは元々がヒンドゥー教の河の女神なんですけれど、そこから美の神、財宝の神などになり、琵琶を抱えていることから芸事や知恵などの神ともなり...。やがて中国経由で日本に伝わって、水神あるいは農耕神という側面まで帯びていきます。
 一方の市杵島姫命は海や航海の神とされている宗像3女神の1柱で、須佐之男命の娘でもあります。その中でも市杵島姫命はその名前(いちきしまひめのみこと)の音のまま、神霊を斎き祀る島の女性、という役割の女神で、広島は厳島の名前の由来にもなっていますね。
 そんな別々の女神が、中世に起こった神仏習合で同じ女神である、と祀られるようになったわけで、日本3大弁天とされている広島の厳島神社にしても、神奈川の江ノ島神社にしても、そして竹生島にしても。はい、みな一様に市杵島姫命(もしくは宗像3女神)を祭神としつつも、シンボルそのものは弁天さま、としている次第。私見ですが、この同一視の根源には、水辺の女神という共通項があったからではないか、と考えていますが。

 お話を戻しまして、このような経緯で神斎く島、として上古から霊地であった竹生島は、広く信仰の対象となっていきます。仏教では、弁天さまは観音さまの化身の1つともされていますから、行基が安置した弁天像と千手観音像もあって、竹生島明神は西国33ヶ所観音霊場の第30番札所にもなっていった訳ですね。
 明治になっての神仏分離令で、竹生島明神から先ず都久夫須麻神社が分かれました。そして残った寺院も廃寺にして神社に改めよ、という命令が下ったのだといいます。...が、信者たちの嘆願でそれをなんとか免れ、現在は宝厳寺として、ご本尊の弁天像もそのままに存続している、ということです。

 連絡船は半ば貸しきり状態で、やや効き過ぎた冷房の中、うとうとしては慌てて周囲を眺め、またうとうとしては
「せっかく来ているんだから、もっとたくさん目に焼き付けなきゃ」
 ときょろきょろすることの繰り返しでした。船も定員が100人前後という規模でしたから、窓側の客席に座ると、喫水線とそれほど変わらない視線の高さになれて、初めての琵琶湖々上体験は何処がどうリンクしているのかもよく判らないものの、何となく巨大水族館にぽつんといるような感覚で、あたたかいやら、懐かしいやら、心細いやら。不思議な心地だったわけで...。
 ふと思い出した万葉歌です。

|近江の海辺は人知る沖つ波君をおきては知る人もなし
                       作者不詳「万葉集 巻12-3027」


 国としての近江に因んだ万葉歌は、数えてこそいませんけれどかなりあります。記紀にも数首ありますね。ただ、万葉ではやはり天智が遷都した志賀宮に纏わるものが圧倒的に多く、記紀には武内宿禰の関係のものなどが採られていますが、どうも今回の小旅行の気分ではないようで...。
 もちろん他にも、湖西方面は北陸へと続く交通の要衝であったことから、やはり万葉歌が残っていますし今回、わたしが訪ねた湖北でも、もっと北陸寄りになれば、同じく越前方面への山越えルートである、伊香山に纏わる歌が数首、残っています。

 ...余談になりますが、もう少し時間に余裕さえあれば、わたしは迷うことなくこの伊香山方面を訪ねたことでしょう。理由は伊香具神社に参拝したいからなんですが、この伊香具神社。延喜式内社で、古来より火伏せの神と呼ばれているらしく、火を使う職業の人間からは中々な信仰を集めている、ということ。さらにはここの祭神である伊香津臣命は、天児屋命の末裔でして。...はい、天児屋命といえば、言霊を司る神ですね。
 料理と歌、というわたしの2つ主軸の両方で、お世話になりっぱなしのこのお社へは、別の機会にきちんと参拝、即詠して歌を奉ろう、と思っています。

 そんなこんなで、この駆け足での琵琶湖訪問では、やはり琵琶湖そのものに因んだ万葉歌を、頭の中の抽斗からあれこれ探って思い出しながら、となったのですが、わたしの拙い知識ではピンと来る歌もあまり思い浮かばず...。そういう意味では上記引用歌は貴重な1首だったのかもしれません。

 淡海の海 なほ塩海に分かたゆる息嘯のむたにいろあをみ来も  遼川るか
 (於:長浜港・竹生島連絡船内)


 万葉歌に詠まれた琵琶湖。...やはり都から距離があるだけに旅、つまりは会いたい人と離れてしまっている、という状況がそうさせたのでしょう。人々は、湖面の白波や湖に吹く風にも、つい想う相手を重ねてしまっていたようで所謂、妻恋の歌が複数残っています。そして、だからという訳でもないのですが、近江や琵琶湖を導く枕詞にも、その傾向がよく表れています。







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