「...お客さん、歴史の学者さんか何か?」
「いえ、単なる趣味で茅渟宮に興味があるだけです」
「趣味って何ですのん?」
「ああ、和歌です」
「はぁ...、和歌ですかぁ」
「ええ。それで万葉集や古事記や日本書紀に登場する土地を、暇を見つけては歩いているんですよ。...今回は歩きではなくて、タクシーになっちゃいましたけどね」

 万葉期よりはずっと時代は新しいでしょうが、紀伊へと続く官道があったのであろう街は、現代風の家屋に混じって昔ながらの黒壁や板塀のお宅もそこそこ見受けられ、そういう家屋の列が途切れると畑が広がり、その畑の脇には用水路が流れていて。そんな、ちょうど自身が本当に子どもだった頃の、地元の雰囲気がそっくり残っているような風情と、早くも黄昏時とも言える時間帯の、柔らかに翳りを含む明るさと。
 すでに鍵っ子になっていたあの頃、帰宅して誰も迎えてくれない玄関を開けて、居間へゆくと、いつも大好きだったジュニア版の古事記物語を抱きしめてソファーに丸くなりました。家庭内での役割だった夕飯の炊事を始める前の、ほんの短くて遅いお昼寝です。そして目覚めて窓越しに眺める庭は大体いつも、ちょうど今と同じような翳り具合でした。
 もう30年も前のことです。それなのに、上代文学という鍵によって、その30年分の時空が音もなく開きます。...かすかに漂う切なさと一緒に。

 スプーンでつぶしたいちごとぎゅうにゅうのいろのおにわに
 だあれもいない                    るか(詠草時6歳)


 弥日異に来つ 弥若ちに耀ふものは
 あれ且もあれにあらざるとほき少女子    遼川るか
 (於:上之郷農協界隈)


 農協の前まで来ると、運転手さんはフットワークも軽く車を降りてゆきます。一方のわたしは、104番で地元のお役所の番号を教わり、お役所の郷土資料室の方に茅渟宮跡周辺の目印などを尋ねて。
 どうやら運転手さんにも、ようやく茅渟宮跡の場所が判ったようです。
「もうすぐそこですわ」
 という言葉に続いて、タクシーは再び用水路を渡り、畑を通り過ぎ...。車同士が行き違えないほどの細い辻を曲がると、道幅が少し広くなっていました。そして、その両脇には冬からこっち、まだ草茫々のいち面の畑が広がり、畑の先にはささやかな児童公園のジャングルジムがぼつん、と。


 公園の前でタクシーが停まります。
「この公園の奥が、お客さんの探してはる茅渟宮跡らしいですわ」
 促されるままに足を踏み入れた児童公園は、ジャングルジムが1基あるだけで他に遊具は何もありません。ただ、子どもの目にも何となく興味がもてそうな丸太や立て札を模した碑がありました。立て札状のものは歌碑。記載されていたのはこの歌です。

|とこしへに 君も会へやも。 いさな取り 海の浜藻の 寄る時時を。
                  衣通郎姫「日本書紀 66 允恭11年(423年)3月」



 茅渟へ移り住んでからの衣通郎姫と允恭は、それでも逢瀬を続けていました。当時の日根野界隈には原野が広がっていたのを幸いに、遊猟に出向いては、茅渟宮にも立ち寄る、といったあらまし。日本書紀が語るその頻度もかなりな数になりますね。允恭9年(421年)の2月、8月、10月、そして年を越した允恭10年(422年)の1月、と。
 これでは実の妹に対する嫉妬がどうこう、ということよりも国の統治にまで悪影響がでてしまいかねないことから皇后も允恭を窘める以外になかったわけで。...結果として茅渟に独り離れ住む衣通郎姫は、寂しさに耐え続ける日々を送らざるを得なくなった、ということですね。
 さらに翌年の允恭11年(423年)の3月、久しぶりに茅渟を訪ねた允恭に彼女が詠んだ歌。それが歌碑にある「とこしへに〜」です。

 「いつまでも変わらずに、あなたさまは私に逢ってくれるでしょうか。きっとそうもいかないでしょう。海の浜藻が波のまにまにふと岸辺に近寄り漂うように、稀にしか逢えないのでしょうね」

 浜藻というのは現代で言う処のホンダワラのことなんですが、件の歌を聞いた允恭は皇后を恐れるあまり衣通郎姫にこう言ったんですね。
「この歌を人に聞かせてはならない」
 と。そこからホンダワラ=浜藻は「名告藻/なのりそも」とも呼ばれるようになった、というのが、この衣通郎姫の伝説になります。因みに名告藻というのは、人に告げるなという意味ですね。そして同時に名、を導く枕詞にもなっていっています。

 先ずは児童公園の碑をデジカメで写します。日根野の駅に降りた時に感じた、南国の風は錯覚ではなかったのでしょう。ささやかな公園の空を覆うように枝を張り出している桜たちは、すでに満開。ほろほろと静かに降り続ける花びらのもと、春のとろんとした黄昏時は見るものすべての輪郭を柔らかく、柔らかく浮かび上がらせ、またわたし自身の動きも何処となく緩慢にさせていって...。
 歌碑から視線を逸らして眺めた公園の奥。ジャングルジムの向こうには小さな門扉と、その周囲を丸く囲うようにして設えられた用水路。まるでミニチュアみたいなお堀に守護されるようにしてあったのは恐らくは墓碑でしょう。そして、その墓碑に薄紅の花びらを降らせ続けている桜の古木が1本、門扉の奥にひっそりと佇んでいます。
 用水路は跨いで渡ることができましたが、門扉の中へは入ることができませんでしたので、その空間の中央に鎮座していた石碑が、果たして本当に墓碑なのかは判りません。ただ、そう古くなっていない花が数束、手向けられていたことや、誰かの手で定期的にお掃除もされているらしき雰囲気からするに、やはり墓碑なのだと思います。

 象すらも絶ゆれば絶えぬ 空蝉の世にそ何しか弁はゑまふむらむ  遼川るか
 (於:茅渟宮)


 ...もちろん、実際にそこが誰かのお墓か否か、は別です。記憶している限り、允恭天皇陵は確か大阪の藤井寺市にあったと思います。市ノ山古墳の恵我長野北陵ですね。こちらは他の御陵同様、もちろん宮内庁によって管理されていて、規模も全長230mにもなろうか、という前方後円墳。ですから、この茅渟宮跡が彼の墓碑となっているわけもなく、やはり衣通郎姫の墓碑として地元の方が守っていらっしゃる、とするのが妥当でしょう。


 そして思うことは、それが当然である、というかのごとく墓碑に寄り添うように植えられている桜の木...。衣通郎姫には、それが当然なのだ、として桜が植えられたのならば。それでもまだかすかに、この地の歴史が受け継がれて来ている証にもなるわけで...。
 あの駅のロータリーで覚えたある種の落胆が、少しだけまあるくなってゆけそうに感じていました。

|花ぐはし 桜の愛で。 同愛では 早くは愛でず。我が愛づる子ら。
             允恭天皇「日本書紀 65 允恭8年(420年)2月」 再引用


 「花ぐはし」は桜を導く枕詞。

 「細かく美しい桜の花の見事さよ。同じ愛するならば、もっと早くに愛するべきだった。早くに賞美しなかったのが惜しまれるばかりだ。愛しいわたしの姫よ」

 衣通郎姫伝説が語られる時、その姫の美しさを謡いあげた1首として必ず引用されるこの允恭の歌。前述の通り、彼がこの歌を詠んだとされているのはここ・茅渟ではなく藤原です。けれども、そんなことなど些事に過ぎない、という気にさせてしまうだけの力を、この歌が宿しているように感じてしまうのは、恐らくわたしだけではないと思います。...その答えが、桜です。
 日本文学に於いて、欠かすことの出来ない美意識の象徴としての花。和歌の歴史では最高の歌材でもあるこの花は、けれども現在のような特別な位置づけにされるまでになるには、まだまだ時代をかなり下らなくてはなりません。

 そもそも桜という花そのものは、もちろんこの国の人の心にきちんと根ざしていました。さくら、という名前も「さ=田」ですから、田の座(くら)。つまりは田神(さがみ)の坐ます樹であり、依代と信じられていた花であったわけで。穀物の種を撒く頃に咲く、この樹と花を農耕民族であるこの国の民はとても神聖視していました。記紀に登場する木花佐久夜媛の「木花」も、桜のことを表しています。
 けれども、その桜は万葉期、大陸渡来の白梅の存在感には敵わなかったんですね。とにかく大陸の進んだ文化を積極的に取り込んでいった万葉期の日本。渡来文化は、渡来文化であるからこそ持て囃され、珍重されました。
 その結果、古来より神聖視されていた桜より、人々は白梅に魅せられてしまいましたし、歌にも白梅の方が多く詠まれていたことは、「万葉集」を眺めれば判ります。

 平安中期には、それまでの花の代名詞である白梅と並ぶ存在として、何とか桜も扱われるようになりました。けれども、桜=花の公式が不動のものとなるのには、さらに少しの時間を要します。平安末期に登場した西行。「山家和歌集」などで桜を多く詠んだ、彼の功績あってこそ、桜=花の公式が成立した、ということは否定する人などいないほど有名なお話。
 そんな、桜を詠み込んだ記述に残っている最古の歌。それこそがこの、日本書紀に綴られている衣通郎姫伝説のものなんですね。

 それだけではありません。当時はまだまださほど目立たない存在であった、桜の花に喩えられた衣通郎姫は後世、花の代名詞となっていった桜と同様に、やはり和歌の世界では不動の存在として祀られるようになります。
 詳しくは「あきづしまやまとゆ・弐」に書きましたが、和歌三神です。柿本人麻呂・山部赤人と並ぶ和歌の神様、それが衣通郎姫ということなんですね。...最も、彼女自身の歌とされているものはあまりに少ないですし、厳密に言えば小野小町との混同があったために、彼女が和歌三神に組み込まれてしまったであろうことも、どうにも否定しがたいのは事実ですけれども。
 つまり衣通郎姫の美貌の伝説が、小野小町を絶世の美女だ、と人々に思わせてしまったように、小野小町の歌才が、衣通郎姫の歌をも類稀なるもの、と人々を錯覚させてしまった、ということですね。
 余談になりますけれど、その混同の源となったのがこの件です。

|小野小町は、古の衣通姫の流なり。あはれなるやうにて、つよからず。いはば、よき女
|のなやめるところあるに似たり。つよからぬは女の歌なればなるべし。
                         紀貫之「古今和歌集 仮名序」


 「小野小町の歌は、古代の衣通姫の歌と同じように、嫋々とした女心を歌ったものである」

 ただ、允恭の歌に詠まれている衣通郎姫と桜の、それぞれのその後に、奇妙な符号があるからなのでしょうか。わたしには、まるで件の歌に籠められているある種の悔恨が、そのまま遅れて桜を賞美するようになった大和島根に根ざしたものたち全体の悔恨にも、思えて来てしまいそうになっていまして。...どうにも、果たしてこれは後付けの知識によるものなのだ、とは何処か言い切れない気が、個人的せずにはいられないのですけれども。

|白雲の 龍田の山の
|瀧の上の 小椋の嶺に
|咲きををる 桜の花は
|山高み 風しやまねば
|春雨の 継ぎてし降れば
|ほつ枝は 散り過ぎにけり
|下枝に 残れる花は
|しましくは 散りな乱ひそ
|草枕 旅行く君が
|帰り来るまで
            高橋蟲麻呂「万葉集 巻9-1747」 高橋連蟲麻呂歌集より撰
|我が行きは七日は過ぎじ龍田彦ゆめこの花を風にな散らし
            高橋蟲麻呂「万葉集 巻9-1748」 高橋連蟲麻呂歌集より撰
|白雲の 龍田の山を
|夕暮れに うち越え行けば
|瀧の上の 桜の花は
|咲きたるは 散り過ぎにけり
|ふふめるは 咲き継ぎぬべし
|こちごちの 花の盛りに
|あらずとも 君がみ行きは
|今にしあるべし
            高橋蟲麻呂「万葉集 巻9-1749」 高橋連蟲麻呂歌集より撰
|暇あらばなづさひ渡り向つ峰の桜の花も折らましものを
            高橋蟲麻呂「万葉集 巻9-1750」 高橋連蟲麻呂歌集より撰
|島山を い行き廻れる
|川沿ひの 岡辺の道ゆ
|昨日こそ 我が越え来しか
|一夜のみ 寝たりしからに
|峰の上の 桜の花は
|瀧の瀬ゆ 散らひて流る
|君が見む その日までには
|山おろしの 風な吹きそと
|うち越えて 名に負へる杜に
|風祭せな
            高橋蟲麻呂「万葉集 巻9-1751」 高橋連蟲麻呂歌集より撰
|い行き逢ひの坂のふもとに咲きををる桜の花を見せむ子もがも
            高橋蟲麻呂「万葉集 巻9-1752」 高橋連蟲麻呂歌集より撰


 「白雲の」は龍田を伴う枕詞。

 茅渟の地との直接的な関係は希薄ですが、まだまだ花=白梅だった万葉期に詠まれた、桜に纏わる歌から幾つかをご紹介します。上記引用歌はすべて高橋蟲麻呂のもので、しかも纏わる土地が龍田です。そう、現代の奈良と大阪の県境、当時で言えば大和と難波の境に横たわる山並みと言えば、生駒・二上・龍田・葛城・金剛、といったあたりになるのですけれども、その龍田です。
 龍田は、ここ・茅渟と山並みを挟んで、果たして同じくらいの緯度であるかは判らないですが、それでも直線距離にしたらそう、遠くもないことは事実でしょう。

 余談になりますが、前述している鴨氏と三輪山、意富多々泥古の関係について、わたしが今回の古歌紀行で得た実感というのも、実はこの距離感覚なんですね。つまり、元々は葛城山を拠点としていた鴨氏は、神武以降の数代の天皇に娘を輿入れさせていて、一説には葛城王朝と呼ばれる、鴨氏と天皇氏による連立政権時代を形成した、と考えられています。...もちろん欠史8代のことになりますから、正確性や信憑性については敢えて追求はせずに語ります。
 けれども次第に天皇氏は鴨氏を屈服させる形で独立政権を握っていったわけで、王朝の拠点も葛城山から、東の三輪山へ移行しています。その結果、政権から脱落していった鴨氏はあまり歴史の表舞台に現れなくなりますし、判っている範囲では最終的に、平安以降の陰陽師・安部氏に辿り着くとか、着かないとか、謂れているようです。

 先の茅渟県に因んで引用した日本書紀の記述は、そんな衰退し始めた鴨氏の意富多々泥古が茅渟に遁世といいますか、世間から忘れ去られたように暮らしていた処、三輪山信仰の祭主として王朝に登用された、という内容になっています。
 ...かつては王朝の拠点であった葛城山一帯と、鴨氏と決別して連立ではない、あくまでも独立王朝の拠点として、天皇氏が選んだ三輪山一帯。葛城山と三輪山は、大和盆地の西と東に位置しているわけですから、これは事実上、西側の葛城山から東の三輪山まで、天皇氏が盆地を掌握していった、と言えるでしょう。
 畿内、という言葉は元々は大和盆地のことです。古代、この日本という島に於いて、少なくとも記述に残っている範囲で、最初となる王朝であった大和王朝(葛城王朝はまだ説でしかなくて、記述に残ってはいませんので、ここでは葛城王朝時代も大和王朝時代に含まれている、という立ち位置で書いています)の領土である国、とはこの畿内を指します。そう、当時の概念にならうなら、大和盆地の掌握こそが、覇王の覇王たる証ということですね。

 蛇足になりますが、記紀それぞれの神代に於ける最大のハイライト・天孫降臨。これは葛城山から大和盆地へ、天皇氏が移動したことの寓話化だと個人的には思っていますし、それに先駆けて行われた国譲りは、鴨氏と天皇氏による連立政権が、天皇氏の独立政権になった、事実上のクーデターを寓話化したものだ、とも思っています。
 その一方で脱落した鴨氏の意富多々泥古が暮らしていたのは、葛城山を越えてしまった難波は茅渟の地。つまり大和盆地の外、ということですね。この立地的関係だけを見ても2つの氏族の栄達と没落が克明に浮かび上がりますし、こういう位置関係は実際に来てみないと実感などできないものだ、と思います。
 そして、意富多々泥古は三輪山信仰の祭主に据えられた...。これはもはや完全屈服といいますか、天皇氏による独立政権にあくまでも臣下として組み込まれた鴨氏と、同時にそうやって内部に抱え込むことによって謀反を未然に防ごうとしていた、天皇氏の懐柔策、マヌーバーだったのだ、と考えるのが現実的だ、と改めて納得してしまいましたね。

 お話を桜に戻します。高橋蟲麻呂のもの以外にも、個人的に好きな桜の万葉歌、としてはこちらでしょうか。

|桜花時は過ぎねど見る人の恋ふる盛りと今し散るらむ
                        作者不詳「万葉集 巻10-1855」
|桜花咲きかも散ると見るまでに誰れかもここに見えて散り行く
              作者不詳「万葉集 巻12-3129」 柿本人麻呂歌集より撰


 「桜の花は盛りの時が過ぎたわけではないのに、見ている人が花に焦がれている盛りだ、と思って今こそ散るのだろう」
「まるで、桜の花が咲き散る様が見えるほどに、ここに見えて散ってゆくのは誰なのだろうか」

 奇しくも散り際に力点が掛っている歌ばかりを個人的にとってしまったのは偶然で、他意なんてないんですけれどもね。...ただ、桜にしても、鴨氏にしても、葛城にしても、そして人々の記憶から忘れ去られようとしている茅渟の歴史にしても。わたし自身がそういう気分になってしまっていたこともまた、否定はできません。
 そして、それにはこの国の歌、つまりは倭歌というものの経てきた過程を語らないわけにはいかないでしょうし、改めて自身がただ好きだ、というだけで選択していたものの意味と重みをしっかりと受け止めなければならない、と思わずにはいられません。

 高橋蟲麻呂。万葉3期と4期を代表する歌人で、よくこう称されます。伝説歌人、と。政治的には藤原宇合と親交があったらしく、彼が次々と詠んだそれこそ当時、口承されていた様々な伝説を材とした歌の数々は、高橋蟲麻呂歌集として、宇合の妹にして聖武天皇の皇后となった光明子や、もちろん天皇である聖武、そして後宮のものたちへ奉じられたといいます。

|葦屋の 菟原娘子の
|八年子の 片生ひの時ゆ
|小放りに 髪たくまでに
|並び居る 家にも見えず
|虚木綿の 隠りて居れば
|見てしか いぶせむ時の
|垣ほなす 人の問ふ時
|茅渟壮士 菟原壮士の
|伏屋焚き すすし競ひ
|相よばひ しける時は
|焼太刀の 手かみ押しねり
|白真弓 靫取り負ひて
|水に入り 火にも入らむと
|立ち向ひ 競ひし時に
|我妹子が 母に語らく
|しつたまき いやしき我が故
|ますらをの 争ふ見れば
|生けりとも 逢ふべくあれや
|ししくしろ 黄泉に待たむと
|隠り沼の 下延へ置きて
|うち嘆き 妹が去ぬれば
|茅渟壮士 その夜夢に見
|とり続き 追ひ行きければ
|後れたる 菟原壮士い
|天仰ぎ 叫びおらび
|地を踏み きかみたけびて
|もころ男に 負けてはあらじと
|懸け佩きの 小太刀取り佩き
|ところづら 尋め行きければ
|親族どち い行き集ひ
|長き代に 標にせむと
|遠き代に 語り継がむと
|娘子墓 中に造り置き
|壮士墓 このもかのもに
|造り置ける 故縁聞きて
|知らねども 新喪のごとも
|哭泣きつるかも
            高橋蟲麻呂「万葉集 巻9-1809」 高橋連蟲麻呂歌集より撰
|芦屋の菟原娘子の奥城を行き来と見れば哭のみし泣かゆ
            高橋蟲麻呂「万葉集 巻9-1810」 高橋連蟲麻呂歌集より撰
|墓の上の木の枝靡けり聞きしごと茅渟壮士にし寄りにけらしも
            高橋蟲麻呂「万葉集 巻9-1811」 高橋連蟲麻呂歌集より撰


 蟲麻呂の伝説を材とした歌は、葛飾(現代の千葉県市川市)は真間の手児奈に纏わるものや、水江の浦島子に纏わるもの、上記引用の菟原娘子に纏わるものなどが有名ですけれども、ここでは茅渟に直接関わっている菟原娘子のものを引かさせて戴きました。先ずは、簡単に歌意を綴ります。

 「葦屋の菟原娘子は八歳の頃から婚期が近づき髪を結い上げる年頃まで、周囲の人たちに姿を見せず籠りきっていた。男たちは一目見たいと、もどかしがっては人垣を作り言い寄った。茅渟壮士と菟原壮士は、血気に逸り娘子に求婚。焼き鍛えた太刀の柄を握り、白木の弓と靫を背負い、水にでも火にでも入ろうと立ち向かい争ったその時、この愛しい娘子は母に語って曰く、『賎しい私の為、立派な方たちが争うのを見ると、生きていたとて想う人に添えるとは思いません。いっそ黄泉の國で待ちます』と世を去って行った。茅渟壮士は続いて後を追った。先を越された菟原壮士は、天を仰ぎ叫びわめいて地団太踏んで歯ぎしりし、猛り口走り『あいつに負けてはならない』と後を追った。一族の者たちは遠い未来に語り伝えよう、と娘子の墓を真中に壮士たちの墓を右と左に作った。...その謂われを聞いて昔のことは分らないのに、今亡くなった人の喪のように私は泣いてしまった」
「葦屋の菟原娘子の墓を行き来するたびに、声をあげて泣かずにはいられない」
「墓の上に生えている木の枝は茅渟壮士に靡いている。やはり伝え聞く通り彼の方を好きだったのだろう」

 ここに登場する菟原という土地は摂津の国。現在の大阪府北部から、兵庫県東部一帯のことでして、一方の茅渟は河内の国。現在の大阪府南部、となりますから、この歌の中に登場する茅渟荘子は余所者、だったということですね。







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