なつそびくうなかみがたゆ

 ただ、はしゃげた。はしゃいでいられた。そういう時代は、恐らくもう終わってしまったのだろう、...と。それを望んでいたはずなのに。確かにずっと、そうなりたいと願っていたはずなのに。また1つ戻れなくなってしまったのだという思いが、真っ直ぐに伸びた草の葉の先のように、心に寄り添って離れませんでした。
 闇のすこし手前、群青色の空と、海と、そこに浮かび上がる陸上の灯が、夏本番前の潮風に揺れていて...。やわらかな切なさ、だったのだと思います。

            〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 呼ばれている。こう感じたのは、今回が最初ではありません。というよりも、古歌紀行に出る時は、いつもそう感じていました。...もちろん、現実的には古歌の舞台がわたしを呼んでいるのではなく、単にわたしが行きたくなった、というだけなのも判っています。
 ですが、そういう巡り合わせ自体に意味を見出したくなってしまうのは、抗えないから。抗うことができないくらい、行きたくなると行かずにはいられないからです。

 予定では、何とか今年中に宙ぶらりんになっている「あきづしまやまとゆ・弐」を書き上げて、その後に常陸入り。常陸各地を廻って常陸の古歌紀行を、となっていました。が、梅雨晴れの陽射しの中、ふいに矢も盾もたまらずに行きたくなってしまったのは、常陸ではなく...。走水、そして上総。そう地元・神奈川の東京湾沿い(横須賀市)とその東京湾を渡った向こうに広がる千葉県は上総国です。
 ...こうなってしまうと、もう止まらないのも毎度のこと。翌日には仕事を片付けられるだけ片付けて、翌々日には代休を当て込み、そして東京湾を。東京湾という内海が、外海になるぎりぎりの地点を、目指していました。

 本来ならば横浜から横浜横須賀道路を走ってゆく方が、ずっと速いことは判っていました。でも、久しぶりの晴れ空に気持ちが清々して来て、先ずは湘南まで南下。そのまま鎌倉・逗子・葉山、そして横須賀というルートを敢えてチョイスします。車窓から入ってくる潮騒と潮の香と、もう夏本番とも思える陽射しに、いつからともなく引きずっていた鬱屈が軽くなってゆくのを実感していました。
「ああ、まだ自分はちゃんと世界を感じられるのか。...良かった」


 冬から春にかけて、自身の歌に纏わる環境も、生活の環境も随分と変わりました。それだけじゃありません。恐らく、1番大きく変わったのはわたしのものの感じ方や、考え方なのだと思います。
 いや、違いますね。変わった、というよりはこれまでは幼すぎて見えなかったものたちが、ようやく見えるようになれた...。たぶん、そういうことなのでしょう。
 ですが、いまだその変化に対する、わたし自身の違和感は薄らいでなどなく、過渡期ならではの苛立ちもしっかり抱きしめたまま。そんな不機嫌な状態が続けば、自ずと世界が煤けて見えてしまいます。...煤けていたのは世界ではないんですけれどね。あくまでわたし自身が煤けていたわけで、だからこそ世界をちゃんとまだ感じられる自分自身に驚き半分、安堵半分。...情けないですが、心底からほっとしていました。

 いまだしく風にも震ふ うつそみにあればゆきくと瓊響もゝゆらに   遼川るか
 (於:相模湾沿いR134号途上)


 走水は横須賀市の東京湾沿いのいち地区で、神奈川側から東京湾へ最も張り出している観音崎のすぐ近く。米軍港である横須賀港よりは、かなり南にあたります。ですが防衛大学があるからでしょうか。素人目には漁船や客船とは思えない船が何隻か、視界におさまってしまいます。
 梅雨時だけあって、晴れてはいても海上には少しガスがかかっているようで、あまりクリアではありません。でも、停泊中の船と海上をゆく船たちの奥に、朧げでありますけれど島影が確かにうっすらと。...房総半島です。

 この海を遠いとおい昔、渡った人物の伝説を最初に聞いたのは、まだまだ幼かった頃です。亡母が夜毎、寝物語してくれた古事記の中のひと件。ただ、当時のわたしには、古代日本の英雄として語られていた主人公よりも、その身代わりとして時化の海へと身を投げた、主人公の后が気になってしまって。...少女期のなせる業だったのかも知れませんね。
 あの頃は理解することはおろか、理解しようという気すら抱いていなかったのに、音の羅列としてのみ、何となく丸暗記してしまっていた和歌が1首、あります。

|さねさし 相武の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも
              弟橘比売命「古事記 25 中巻 景行天皇5 倭建命の東国征伐」


 第12代景行天皇の皇子にして、各地の征伐を任されていた倭建命。熊襲、出雲と平定した後に赴いたのが、東国征伐です。
 この東国征伐のルート(古事記に拠る。日本書紀は別ルート)は「さねさしさがむゆ〜足柄峠」でも書きましたが、尾張⇒駿河⇒相模(走水海/現・浦賀水道)⇒上総⇒常陸(筑波山)⇒相模(足柄峠)⇒甲斐(酒折宮)⇒信濃(御坂峠)⇒尾張⇒美濃(伊吹山)⇒伊勢(尾津)⇒近江(能煩野)です。上記引用の歌は、走水海を上総へ渡ろうとしている洋上、荒れた海を鎮めるために自ら犠牲となった、倭建の后・弟橘比売のものとされています(古事記のみ。日本書紀には見られず)。
 歌意は、一行がすでに通過した焼津界隈で、抵抗していた国造たちが放った火に囲まれた時、助けてくれた倭建に、弟橘が
「そんなあなたの為だもの」
 と謡いかけて身代わりなった、といういわば絶唱、です。

|走水海を渡りましし時、其の渡の神浪を興し船を廻らして、得進み渡りたまはざりき。
|爾に其の后、名は弟橘比売命白したまはく、
|「妾、御子に易りて海に入らむ。御子は遣はさえし政を遂げて覆奏したまふべし」
| とまをしたまひて、海に入りまさむとする時、菅畳八重・皮畳八重・絹(*)畳八重を波の
|上に敷きて、其の上に下り坐しき。
                    「古事記 中巻 景行天皇5 倭建命の東国征伐」

                       
(*)本来は糸偏に施の造の表記です。

 余談になりますが、この焼津。日本書紀の記述では駿河国(現・静岡県)のいち地域と推測できますし、現在の地名も静岡県に存在します。ですが一方の古事記の記述では、相模国(現・神奈川県)のいち地域と推測可能です。

|故、爾に相武国に到りましし時、其の国造詐りて白さく、
|「此の野の中に大沼有り。是の沼の中に住める神、甚く道速振る神なり」
| とまをしき。是に其の神を看に行きたまひて、其の野に入り坐しき。爾に其の国造、火を
|其の野に著けき。故、欺かえぬと知らして、其の姨倭比売命の給ひし嚢の口を解き開けて
|見たまへば、火打ち其の裏に有りき。
                     「古事記 中巻 景行天皇5 倭建命の東国征伐」


 仮に神奈川であるならば、行軍の道筋などからしても現在の大和市界隈ではないか、とも言われていますね。

 お話を戻します。そもそも何故、走水海が荒れたのか、と言えば倭建本人の発言が災いしているわけで、寓話性の強い古事記では記述にありませんが、日本書紀にはこんな風に記載されています。

|亦相模に進して、上総に往せむとす。海を望りて高言して曰はく
|「是小き海のみ。立跳にも渡りつべし」
| とのたまふ。乃ち海中にいたりて、暴風忽に起りて、王船漂蕩ひて、え渡らず。
                  「日本書紀 巻7 景行天皇40年(西暦10年)10月2日
  ※ 西暦年は日本書紀記載の年号を、純粋に西暦換算して書いています。よって考
    古学や科学的に算出されたものとは大きく異なる場合が多々あります(以下同)。

 要するに現・浦賀水道である走水海を、
「こんな小さな海などひとっ跳びだ」
 と言い放った為に、海神の怒りをかってしまった、ということ。...どうも倭建という人には、この手の記述がかなり多いですね。絶命のきっかけとなった伊吹山でも、宝刀・草薙剣を持たなくても大丈夫だ、と言って山に分け入り、結果として山の神の呪いにかかってしまっています。
 余談ついでに更に書くならば、倭建の記述というのは古事記・日本書紀ともに、もう「神代」ではありません。神武天皇以降の、
「確かに人間の時代」
 とされている記述であって、例えば不遜な言動が記載されている神ならば、須佐之男命を筆頭に神代にも登場しています。けれど、倭建のようにそれ故の罰、ないしは報復を受けて“難渋すること”もまた、殆ど見受けられないように思います。...報復はあってもそのまま生きたり、逆に神同士の制裁として呆気なく誅されることは多々ありますけれども。
 「あきづしまやまとゆ・弐」にも書きましたが、とにかく人間臭い。それがわたしの中でずっと変わらない、倭建像です。


 目指していた走水神社は海岸沿いの道路のすぐ裏手。海を臨む小高い丘のような立地の、麓から中腹にかけて建てられていました。鳥居や社務所がある辺りはまだまだ平地で、けれども本殿へはそこそこ急な階段を登ります。
 基本的に真夏でもあまり汗かかかない方なのですが、流石にじんわりと汗ばむくらいの陽気に、先ずは手だけも濯いで。...ちょうと居合わせた地元の方曰く、走水神社境内の手水は地下から湧き出しているものらしく、神水なのだそうです。何でも、遠くは東京からもタンクやペットボトル持参で汲みにくる人が後を絶たない、とのこと。わたしは手を濯ぐだけにとどめましたけれどもね。

 これで準備万端、いざ本殿へ。そう思ったのですが2つの石碑に気づいて、そしてびっくりしてしまいました。1つには大きく包丁塚と彫られていて、はい。つまりは料理人が詣でるべき場所、ということです。
 説明書きによれば、走水海を渡る前の倭建に料理を献上した人物がいたらしく、そのまま一行の料理番として取り立てられた、という故事があることから、この地に包丁塚が設けられたそうで。...いやはや正直、これには驚きました。走水神社そのものは目指していましたが、ここに包丁塚があるなんてことは全く知らなかったものですから。もちろん、料理を献上して云々、という故事も記紀にもありませんし、聞いたこともありませんでした。
 もしかして、失われた相模国風土記にでも記載されていたのでしょうか。あるいは、時代とともに人々が編んでいった寓話の1つ、...なのでしょうね。きっと。
 何分、本業が本業ですから、包丁塚の前を素通りなんてできません。先ずはこちらに手を合わせます。


 続いてもう1つの石碑を見るために境内を横切って...。こちらも全くのノー・マークで驚きました。万葉歌碑です。

|草枕旅の丸寝の紐絶えば我が手と付けろこれの針持し
                       椋椅部弟女「万葉集 巻20-4420」


 「道中、着衣のまま寝ているうちに着物の紐が切れてしまったならば、わたしの手だと思って、この針を使ってください」
 ...防人へと出向く、夫へ贈った妻からの歌。作中の針は東国訛から「はる」と読みます。

 防人に関しての詳細は「さねさしさがむゆ〜足柄峠」で書いたので、ここでは割愛しますが、ともあれ防人は当時の東国の人々にとっては、まさしく命懸けの役務でした。歌碑にある歌は橘樹郡に住む上丁、物部・真根の妻のものとなります。上丁は「かみつよろぼ」と言いますが、「丁/よろぼ」=古代に公用に借り出された男子のことですね。どうやら真根氏はすこしは上位の丁だったようです。そして、かれの出身地は橘樹郡、と。
 これは現・神奈川県の横浜市北部(鶴見区)や川崎市辺りに該当し、当時の律令下では武蔵国に含まれていた郡となります。また、橘樹郡という郡の名前も弟橘に由来していて、彼女の陵とされる古墳(子母口富士見台古墳)が川崎市高津区に現存していますし、倭建・弟橘を祀った橘樹神社もあります。
 恐らくはそういう関連から、走水神社にもこの万葉歌碑が建てられたのでしょう。この点はきっと疑う余地はないと思います。...ただ。
 ただ、この歌を拝読した瞬間、わたしははっとせずには、いられなかったんです。

 実はこの日、自宅を出発したのはもう12時近くなっていました。...というのも、わたしの中で絶対に訪ねたい、と思っていたポイントはここ・走水神社だけだったからです。もちろん、
「行けたら、行ってもいいかな」
 という程度に考えていた行き先はもう2ヵ所あります。ですが、それらをすべて訪ねるには、出発時刻が遅すぎました。そのうえ、なまじ地元というだけに持ってきている装備がまた、なんとも貧弱で...。いつも通りにテレコとデジカメこそ持ってはいましたが、デジカメのメモリーカードはたったの32MBのもの。普段使っている大容量のメモリーカードは、たまたま会社に置き忘れてきたようです。
 こんな装備では、せいぜい1ヵ所を訪ねるのが限界。事実、32MBのメモリーカードはこの走水神社にいる間に容量を越えてしまいました。でも...。

 何かが、お腹の辺りで胎動し始めたのだ、と思います。そして、その胎動が結果として、この古歌紀行の方向性を大きく変えてしまうことになったのは、もう少しあとのお話。ともあれ、こちらの万葉歌碑も写真に収めて、本殿へと続く階段を登り始めました。

 走水神社の本殿は、こじんまりとしていて、本当にささやかな近所の神社さんの風情。お賽銭を投げて、鈴を鳴らして。2礼2拍1礼の後、願いごとはいつもと同じです。...音が印象的なお社で、しばしぼんやりと目を閉じて世界の音だけを聞いていました。
 葉摺れの音、さやさやそよぐ風の音、遠くの車の廃棄音。ここまでは過去に訪ねたお社とあまり違わないのですが、決定的に違っていたのは汽笛と、距離的には聞こえるはずのない潮騒でした。本殿に向かって祈っていると、ちょうど背後からの音が、海風と一緒にかすかに響いてくるんですね。決して人里離れているわけでもなく、むしろ住宅地の中なのに、確かに少しくぐもった海からの音たちが、わたしに届きます。


 潮騒もこゑも響めど離るればあまた遠音にて
 くぬがの道はなほし伸び伸ぶ         遼川るか
 (於:走水神社)


 この神社の創建年代などについては、江戸期の享保年間に遭った火災が原因で未詳。ただ、本来は近所のもっと海に張り出している旗山崎の地に、橘神社としてあったものが、倭建・弟橘伝説に由来するお社だった、といいます。ですが、その橘神社周辺一帯は戦後、米軍に接収されたことから、この走水神社が事実上は橘神社と統合された、とのことでした。
 とはいえ、走水神社自体も倭建一行と全く無縁だったわけではなくて、彼らが東征の最中、走水を通過した際、冠を土地に授けたらしく...。そしてその冠を石櫃に仕舞って祀ったことから興ったのが走水神社、ということですね。
 東征中に冠を授ける...。記紀にも記されていない、そして社史も火災で詳細が失われいる、というにも関わらず伝えられている、この伝説が意味するものを考えたならば。...先の料理番の逸話ではないですが、こちらもまた、とうに失われている相模国風土記のひと件が、何となく空想できてしまえそうでした。...恐らくは、何らかの帰順ということでしょう。

 本殿の左側には、もう少し先へと登れるような道があって、さらに登ります。流石にもう視界を遮るものは殆どなく、眼下いっぱいにひろがっていたのは、やはり走水海です。綺麗に咲きそろった紫陽花の脇を蛇行して、本殿の裏手近くまで廻り込むと、とにかく大きな歌碑が1基。はい、「さねさしさがむの小野の〜」の歌の碑です。


 ただ、そのあまりの大きさと、さらには碑の裏側に彫られている文字に、海軍だとか、陸軍だとかの言葉が多く、今まで見てきた歌碑とは明らかに違う、何かを放っています。歴史と呼ばれる時間の帯が持つひとつの残酷、...なのかも知れません。
 歌碑からさらに先へ登ってゆくと、小さな祠が3つ並んでいてました。こちらへもそれぞれに手を合わせます。

 風のあまりない日でした。眼下には確かに海が広がっていたのに、潮の香はさほど届かず、まるで書割を眺めているかのごとく、海をぼんやりと。でも、確かにずっと遠くの島影は、まだ見えています。
 走水海。古事記にはそう記されていますが(日本書紀は馳水)、倭建の行軍はほぼ、古代東海道伝いに進んでいた、とされています。そもそも東国にそのような幹道が拓かれた時期などは、寡聞にして詳しくは知りませんけれども、第10代祟神天皇の時期には四道将軍派遣が行われていますので、これと同時か、あるいはそれよりも以前から、東国への道は存在していたのでしょう。

|九月の丙戌の朔甲午に、大彦命を以て北陸(くぬがのみち)に遣はす。武渟川別をねて東海
|(うみつみち)に遣はす。吉備津彦をもて西道(にしのみち)に遣はす。丹波道主命をもて丹
|波(たには)に遣はす。因りて詔して曰はく、
|「若し教を受けざる者あらば、乃ち兵を挙げて伐て」
| とのたまふ。
                 「日本書紀 巻5 祟神天皇10年(紀元前88年)9月1日」


 東海=うみつみち。その名の通り、畿内から太平洋岸沿いをずっと伸びていた古代東海道は、けれどもすでに多くの支道とも繋がっていたのでしょうか。倭建自身がそうであったように、上総へ向かうには東京湾を陸路で迂回するのではなく、渡海することが当時のメイン・ルートだったようです。だからこそ、彼ら一行は走水海を渡りました。この航路も諸説がありますが、一般的には神奈川の横須賀は観音崎から、千葉の木更津あたりを結ぶものだったとされています。
 時刻はすでに15時過ぎ。念の為に携帯電話に画面メモしてきた時刻表を確認しました。はい、久里浜〜金谷間を就航している東京湾フェリーの、です。

 この日、予定ではとにかくここ、走水神社を訪ねることが最優先事項で、それ以外は余裕があったら。気が向いたら。倭建一行と同じように東京湾を渡って木更津へも行こうか、とぼんやり考えていました。木更津でのポイントは2ヵ所。いずれも走水神社同様に倭建と弟橘に纏わる場所です。
 記者時代に千葉県庁の仕事を請け負っていた時期がある為、千葉県はちょうど10年前くらいに随分、丁寧に周りました。当時はまだ東京湾横断道路(アクアライン)も開通していなくて、逆に木更津〜川崎間にもフェリー便があって。でも、当時からわたしが専ら乗っていたのは久里浜〜金谷間のフェリー。その懐かしさも手伝ってか16時台のフェリーに
「やっぱり乗ろう」
 そう思って走水神社を後にします。階段を降り、境内を進み...。鳥居を潜る時、やはり気になって思わず振り返ってしまったのは、あの万葉歌碑です。
「なんであの時に気づけなかったんだろう...」
 2年前の足柄訪問の記憶が、まるで小さな棘のように、かすかな後悔となって、胸の奥に篭っていました。あの旅も、確か初夏から夏へかけての季節でしたね、そういえば。

 フェリー港の久里浜は、走水よりさらに南。観音崎を越えてゆくのですが、港へ行く前に先ず、わたしが急いだのは家電量販店です。そう、デジカメのメモリーカードがもういっぱいだったので急遽、大容量のものが必要になったんですね。
 一旦、少し横須賀側へと戻って買い物を済ませた時点で16時少し前。それから慌てて久里浜へ。けれども車を運転しながら、少しの躊躇は拭えませんでした。倭建一行の足跡に沿っての上総上陸。本当に、本当に、それだけでいいんだろうか、...と。


 フェリー乗場で切符を買い、乗船も済ませ、そしてフェリーは相模国の岸を離れます。やはり洋上は風が強くて、かなり肌寒かったのですが、それでも甲板から離れてゆく国と、寄ってゆく国と、その間に横たわる海と...。海岸線の形は相模国も上総国も、記紀万葉の時代とでは、もう全く変わってしまっていることでしょう。それは昨年訪ねた茅渟廻でも経験済みです。なので、この海のどの辺りで弟橘が入水したのかは見当もつきません。そう思うと、東京湾そのものが彼女の巨大な御陵のようにも思えて、35分間の乗船中、何度か掌を合わせずにはいられませんでした。

 暴浪の影なき海に真楫榜ぎいづへにゆかむ
 征くを哀しび、知らぬを哀しび          遼川るか
 (於:東京湾上)


 金谷港へ着いたのはすでに17時ほんの手前でした。夏至の前日とは言え、流石に陽射しも翳り始めています。金谷港は千葉県の富津市にあるので、目指す木更津はかなり北。とにかく時間がないですから、ひたすら北上を、としたかったんですけれどもね。無理でした。...海岸線を走っていると、海に夕陽が沈んでゆこうとしているのが見えるんです。


 海に夕陽。意識していなければ、この意味にピンと来られないのかもしれませんが、海に沈む夕陽を見るには、立地条件をクリアしなければなりません。学生時代、秋田出身の友人が上京してきてすぐに言いました。
「こっちは海から日が昇るんだね」
 最初は意味が判りませんでしたけれど、なるほど。日本海側で育った彼女からしてみれば朝陽が山から昇り、夕陽は必ず海に沈むものだったのでしょう。一方の神奈川は湘南にも近い場所で育ったわたしからすると、夕日も朝日も海ではなくて山から昇り、山へ沈むものだったんですね。湘南を含む相模湾は東も西も半島に挟まれているからです。
 でも内房の、それもここまで南へ来ると視界を阻むものはもう何も在りません。あるのはただ、ただ、波。そして海です。その海へ、梅雨時にも関わらず顔を出した大きく、赤い夕陽がゆっくり、ゆっくり沈んでゆこうとしていて...。思わず、車を止めて何度か写真を撮りました。
 それだけじゃありません。海岸沿いを離れ、道路が少し内陸へ入り込んだ途端、道路の両側に広がっていたのはまだまだ幼い田圃たち。車窓からも淡い緑の匂いが流れ込んできて、こちらも車を停めてしまいましたね。


 いにしへゆえ違はじてかなほし古りゆく弥日異に
 みなひと帰らまくほしからむや               遼川るか

 古りゆけばかつもなりゆく
 違はざるものうつそみになければ絶えね、乞ひたきうらの    遼川るか
 (於:木更津へと向かうR127途上)


 君津市を過ぎて、ようやく木更津市内へ入った辺りから、風景は一変します。車線の数も、そこを走る車の数も、音も、ネオンも一気に増えて。それまでは、運転しながらついぼんやりと考えごとに浸っていたのですが、そろそろ木更津市内で観て廻るポイントの位置関係などを確認しつつ...。地図と標識を見比べながら、木更津での最初の訪問地・太田山公園へ急ぎます。
 ただ、公園自体はすぐに見つかったのですが、何処が公園の入り口か判らずに周囲をぐるぐる。その間もずっと見えていたのは、空に真っ直ぐ伸びた塔と、その上に設置された倭建と弟橘の像。きみさらずタワーという名前らしく、太田山公園の中に建っています。







BACK   NEXT