歴史年号の語呂合わせにあった
「何と(710)美しき奈良の都」
 ではないですが、平城京の中心地・平城宮は当時の人々にも、その美しさを数多く詠まれた都でした。

|あをによし奈良の都は咲く花のにほふがごとく今盛りなり
                         小野老朝臣「万葉集 巻3-328」


 しかし、同じく歴史年号の語呂合わせに
「鳴くよ(794)鶯、平安京」
 とあるように、都として栄えた期間は決して長くはありません。しかも平城宮と平安宮の間には、途切れ途切れに恭仁宮や難波宮、そして最後に長岡宮での10年間が存在します。とはいえ、この平城宮に至るまでの代々の都から比べれば、それでも長いですが。
 「万葉集」には、平城宮の美しさを称える歌よりもむしろ、過去の遺物となり果てていった平城宮を偲んだ歌の方が、多く収められているように思います。

|たち変り古き都となりぬれば道の芝草長く生ひにけり
                田辺福麻呂「万葉集 巻6-1048」 福麻呂歌集より選


 平安宮のように、今なお当時の区画にそって街が作られている訳でもなく、部分々々に資料館や発掘、復元されている場所はあるものの、目の前に広がっていたのは、ただただ茫漠の野原。逆に復元された朱雀門の荘厳さが、妙に無常観を掻き立てているようでした。

 咲く花の 匂ふがごとく
 散る花の 朽つるがごとき
 あをによし 奈良の都や
 うちひさす 宮もかつては
 さんざめき 覇を競ひしは
 外つ國も 浮世、現世
 世の中の 常あらなくに
 茫漠の 野となり果てゝ
 地に眠り いまゝた構ふる
 朱雀門 天平の梦
 いざ返り咲かむ

 人の世の梦に梦見るならひにて青深草は風にそよぐも   遼川るか
 (於:平城宮跡朱雀門)


 「うちひさす」は宮を、「あをによし」はご存知の通り奈良を伴う枕詞です。

           −・−・−・−・−・−・−・−・−

 とにもかくにもだだっ広い平城宮跡を、行ける所までは車で、そこから先は徒歩で。奈良滞在期間中、初日と最終日に2回、廻りました。内裏跡、大極殿跡...。
 東院庭園は今回、行程の関係で立ち寄りませんでしたが、やはり個人的に少しの拘りがある場所です。

 旋頭歌(施頭歌)。歌体は577の上句と下句からなる577577。「万葉集」には62首収められています。元々の起源は「古事記」の倭建命と御火焼翁の掛け合い

|新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる  
               倭建命「古事記 中巻 景行天皇5 倭建命の東国征伐」
|日日並べて夜は九夜 日には十日を 
              御火焼翁「古事記 中巻 景行天皇5 倭建命の東国征伐」


 を祖としている、とされていますが、これが「万葉集」そして「古今和歌集」へと受け継がれました。...それ以降はかなり廃れてしまいましたが。大岡信氏の説に拠れば、この旋頭歌の掛け合いがやがて連歌へ、そして連句へと流れていったとのことです。

|春日なる御笠の山に月の舟出づ
|風流士の飲む酒杯に影に見えつつ
                          作者不詳「万葉集 巻7-1295」
|春日なる御笠の山に月も出でぬかも
|佐紀山に咲ける桜の花の見ゆべく
                         作者不詳「万葉集 巻10-1887」


 この2首に旋頭歌のちょっとした流れが伺えます。というのも前者はどうやら民間で詠われていたものらしく、それを汲んだ貴族の手によって改作されたものが後者、という説があります。そして後者に佐紀山、と出て来るように改作の舞台となったのが、平城宮の東院庭園あたりでの宴会ではないか、と。
歌垣などの民間の掛け合い歌に、貴族の風流が加わり、ひとつの歌体を成すよう昇華される。どんな歌体であれ、歌というものが負っている、大きな流れの実証、とも言うべき2首なのかもしれません。

 観たかったんですけどね...。残念ながら、復元された東院庭園以上に行ってみたい場所があったので。余談ですが、今回の万葉巡りでは旋頭歌に関連する箇所とはことごとく縁がありませんでした。最終日の元興寺も時間が足りずに、見送り。折角、旋頭歌について触れているのですから、元興寺縁の旋頭歌も引用しておきます。

|白玉は人に知らえず知らずともよし
|知らずとも我れし知れらば知らずともよし
                    元興寺僧(詳細不明)「万葉集 巻10-1018」


            −・−・−・−・−・−・−・−・−

 一般に光源氏のモデル、とされているのは在原業平ですが、その他にも候補はいます。特に光が須磨へ流される、という経緯に関しては、作者・紫式部のヒントになったのであろう、とされている人物。それが、中臣宅守です。彼は中臣氏ではありましたが、当時の宮内庁の下級役人。

 「万葉集 巻15」。所謂、贈答歌の巻ですが当時、新羅に派遣された使人たちの歌が145首。残り63首にものぼる贈答歌の主役が彼と、狭野茅上娘子という、平城宮の後宮に務めていた女官です。

 国語の試験によく出る問題に「万葉集の三大部位は?」というものがありますが、これに答えて曰く「雜歌・挽歌、そして相聞歌」となります。
 確かに「万葉集」には様々な恋歌なり相聞歌なりが収められていますけれど、個人的に知る範囲では、この狭野茅上娘子に匹敵するほどの激情に身を焦がした女性は、追々書く予定の但馬皇女くらいじゃないか、と...。

|君が行く道の長手を繰り畳ね焼き滅ぼさむ天の火もがも
                       狭野茅上娘子「万葉集 巻15-3724」


 原因は不明、ですが当時は譬え女官であれ、天皇に仕えるものは全て天皇のもの、とされていましたから、そういう相手と恋愛関係になるだけで十二分に罪となり得ます。だからなのでしょうか。中臣宅守は越前へ流罪。引き裂かれる運命に狭野茅上娘子が残した絶唱ともいえる歌です。
「あなたが行く長い長い道程を手繰り寄せて畳み、そして焼き滅ぼしてしまう天の火が欲しい。そうすれば、あなたは行かなくて済むのに...」
 一方の中臣宅守は
「ものの数にもならない、こんな私の為に嘆く恋人が痛ましい」
 と気遣います。

|塵泥の数にもあらぬ我れゆゑに思ひわぶらむ妹がかなしさ
                         中臣宅守「万葉集 巻15-3727」


 正直、凄いな、憧れるな、と思う反面、少々疲れそうだな、と...。読んでいるだけで何だか消耗してしまうよ...。と、そんな風に思ってしまう私は、きっともう若くないのでしょうね。
 「万葉集」屈指の激しくて熱い相聞。個人的なチョイスで恐縮ですが、幾つか纏めてご紹介します。

|このころは恋ひつつもあらむ玉櫛笥明けてをちよりすべなかるべし
                       狭野弟上娘子「万葉集 巻15-3726」
|あかねさす昼は物思ひぬばたまの夜はすがらに音のみし泣かゆ
                       中臣朝臣宅守「万葉集 巻15-3732」
|人よりは妹ぞも悪しき恋もなくあらましものを思はしめつつ
                       中臣朝臣宅守「万葉集 巻15-3737」
|我が宿の松の葉見つつ我れ待たむ早帰りませ恋ひ死なぬとに
                       狭野弟上娘子「万葉集 巻15-3747」
|他国は住み悪しとぞ言ふ速けく早帰りませ恋ひ死なぬとに
                       狭野弟上娘子「万葉集 巻15-3748」
|向ひ居て一日もおちず見しかども厭はぬ妹を月わたるまで
                       中臣朝臣宅守「万葉集 巻15-3756」
|山川を中にへなりて遠くとも心を近く思ほせ我妹
                       中臣朝臣宅守「万葉集 巻15-3764」
|帰りける人来れりと言ひしかばほとほと死にき君かと思ひて
                       狭野弟上娘子「万葉集 巻15-3772」
|我が背子が帰り来まさむ時のため命残さむ忘れたまふな
                       狭野弟上娘子「万葉集 巻15-3774」
|恋ひ死なば恋ひも死ねとや霍公鳥物思ふ時に来鳴き響むる
                       中臣朝臣宅守「万葉集 巻15-3780」

 少なくとも「万葉集」に残る歌からは、2人が再会できた形跡は読み取れません。こんな2人が一番幸せだった時期、逢引きを重ねた場所が当時の馬寮、馬を飼育管理する役所の馬小屋でした。
 流されてしまった越前で、宅守が平城宮の馬小屋を懐かしんでの歌です。

|今日もかも都なりせば見まく欲り西の御厩舎の外に立てらまし
                         中臣宅守「万葉集 巻15-3776」


 さて、この馬寮ですが、現在の宮跡資料館が建っている場所にあったそうです。ということで、無理は承知でちょっと観てみたかったんですが...。やはり、当時の面影は全くと言っていいほど感じられませんでした。

 「玉櫛笥」は明けて、「あかねさす」は昼、をそれぞれ導く枕詞。

 かつてこは馬寮とふかた 厩にて重ぬる逢瀬の跡消え果てぬ   遼川るか
 (於:宮跡資料館)


 やたらくたらに広かった平城宮から佐紀盾列古墳群へ移動します。

            −・−・−・−・−・−・−・−・−

 平城宮跡の西側から、向かった佐紀盾列古墳群は何と言いますか、とにかくあっちもこっちも古墳だらけで。特に西グループとされている成務天皇陵、称徳天皇陵、そして日葉酢媛陵などは、まさに密集状態。
 そんな中でも殊、興味を惹かれていたのは、日葉酢媛陵です。というのもそれまでの風習にあった殉死(本当にしていたかは不明)を痛ましく思った垂仁天皇と、それならばとアイデアを提供した野見宿弥により誕生し、日葉酢媛陵に初めて奉じられたもの。それが埴輪の起源と言われているからです。

 古墳に限らず、世界各地にこの手の殉死や、やがてそれに変わる傀儡の存在例は沢山ありますけれど、どうなんでしょうね。独りはもちろん寂しいものですけれど、死んでまでそんなこと思うのかな。...誰かの命も、かといって身代わりの泥人形も、どちらも等しく虚しい気がしますが。
 結局、こういう感覚というのは逝った側ではなく、残された側の気持ちの問題で、如何な残された側と言えども、何時までも逝った側の魂を縛っていてはいけないんじゃないか、と。
 でも。でも、やっぱり忘れることなんて出来ないでしょうし、出来ないんですけどね、実際には。

 たれもをも独りと思ふ/\ゆゑほる供 傀儡なれども  遼川るか
 (於:佐紀盾列古墳群・日葉酢媛陵)


 埴輪とは全く関係ないのですが、埴輪発案者・野見宿弥の子孫が土師氏で、土木工事や埴輪・土器の製造に関する技術者集団です。のちに改名を訴え、与えられたのが秋篠氏や菅原氏、となります。
そんな土師氏の大らかで豪快な問答歌も「万葉集」には収められているので、ご参考まで引用しておきます。

|ぬばたまの斐太の大黒見るごとに巨勢の小黒し思ほゆるかも
                        土師水通「万葉集 巻16-3844」
|駒造る土師の志婢麻呂白くあればうべ欲しからむその黒色を
                         巨勢豊人「万葉集 巻16-3845」


 「飛騨産の大きくて黒い馬のように(巨勢斐太朝臣。大男だったらしい)。巨勢産の小黒馬のように(巨勢豊人。小男だったらしい)あんたたちって本当に色が黒いねぇ」
 と土師水通が詠めば、言われた側の2人のうち、巨勢豊人が
「あんたはそんなに色白だから、色黒に憧れるんだよ」
 と答える。居合わせた3人は思わずにっこり笑いあった。そんな感じでしょうか。左注に拠れば。

|右の歌は、伝へて曰く、「大舎人、土師宿禰水通といふものあり。字は、志婢麻呂いふ。
|時に、大舎人、巨勢朝臣豊人、字は正月麻呂といふものと、巨勢斐太朝臣と二人、とも
|に、こもこも顔黒き色なり。ここに、土師宿禰水通、この歌を作りて嗤咲へれば、巨勢
|朝臣豊人、これを聞き、すなわち和ふる歌を作りて、酬へ咲ふ」といふ。
                        「万葉集 巻16-3845」左注による


 「駒造る」は土師を伴う枕詞です。

            −・−・−・−・−・−・−・−・−

 奈良旅行初日。万葉巡り、とは少し言い難い部分もありましたが、それでも個人的な興味と拘りを中心にあっちふらふら、こっちふらふら。翌日以降はほぼ完全に「万葉」となる前に、この日最後の目的地へ。法華寺です。

 藤原鎌足の息子で、朝廷のフィクサー的存在を親子二代に渡って担ったのが藤原不比等。その彼の娘である聖武天皇の妻・光明皇后が、不比等の邸宅跡に建てた法華寺は、女人修行の地でもありました。
 女が幸せでないと家庭にも国にも幸せはない、という女人悉皆成仏の祈りを込めた観音様が蓮の蕾を一輪持っているのが、いまだ叶わぬ祈りのようで印象的です。

 萎草のをんなの代をし待ちゐては開きえぬ蓮ひとつ、いまだし  遼川るか
 (於:法華寺)


 「萎草の」はをんなを伴う枕詞。初めて詠み込んだかも知れません。何となく機会に恵まれなかった、と言いますか...。今回の旅行で詠んだ歌は、やはり万葉調なものが多く、いつか詠み込んでみたいな、と思っていた枕詞や歌枕を、かなりの数でこなせたのも、個人的には大きな喜びでした。
 ただ、その一方で万葉調には意外な落とし穴があります。

 万葉調、つまりは「ますらをぶり」と言いますか、あれこれテクニックなど駆使せずに胸にある思いそのままに、5音7音に載せるだけ。
 たったこれだけの作業なのですが、思いのままだけに当然、気分が高揚してくれば、次々と溢れ出す感情の波に呼応するように、ついつい韻律を打ち連ねてしまい、いやに長い長歌が生まれるのもまた、致し方なし。

 少し話が逸れますが、長歌というのは中々に厄介な代物です。詠み始めこそ、そこそこの長さで、と思うのですが身体に馴染んだ5音7音はやがて詠み手のボルテージをどんどん高めていきます。それはある種のトランス状態とか、殆どシャーマニックな雰囲気すら醸してしまうもので、そうなってしまうともう、自制は利きません。
 そして、詠み終えたあとには、エネルギーを消耗した疲労感がどっと押し寄せます。ましてそれを1日に何首も詠んでしまうと、もうその日はすっかり燃え尽きて灰になってしまうのですが...。
 今回の旅行で、実は一番恐かったのがその状態に陥ることで、せめてそうなるのなら後半になってから...。そんな思いとは裏腹に、歌の神様か、はたまた言霊なのかは判りませんが、この身を依代とする如く、降りて来てしまいました。早くも法華寺で。

 きっかけは本堂の観音様や維摩居士像などを、順番に見ている時。大柄な像たちの中、ガラスケースに入った小さな尼像に、目を留めてしまったことでした。説明書きにあった名前は「横笛」。そう、半年前の京都オフで皆と一緒に散策した滝口寺に纏わる、あの横笛の像です。しかも、かつて滝口入道から送られた恋文を一枚々々張り合わせて造られた、という張子のそれでした。

 「平家物語」に登場する滝口入道と横笛の逸話は割愛させて戴きますが、ともあれあの寺で滝口入道から拒絶・開かない扉に絶望し、指を噛み切って流れ出た血で、歌を残した横笛はその後、法華寺にて剃髪。仏道の修行へと入りました。

|山深く思ひ入りぬる柴の戸のまことの道に我をみちびけ
                          横笛 京都滝口寺・横笛歌石

 この歌からも判るように、私の中の横笛と言う女性はとても激しいものを胸に秘めた人、という印象だったのですが、小さな横笛像は穏やかで、柔らかい目じりが際立っていて...。少し面喰ったというのが本音の部分です。

|そるまでは恨みしかどもあづさ弓まことの道に入るぞうれしき
                        滝口入道 「平家物語 巻10 横笛」
|そるとても何か恨みむあづさ弓引きとどむべき心ならねば
                           横笛「平家物語 巻10 横笛」


 「あづさ弓」は引く、を伴う枕詞です。

 出家後の2人が交わした、として「平家物語」に登場している劇中歌ですが、どうなんでしょうね。
 またまた話は逸れますが、歌というものに私が惹かれる理由の1つに、詠み手の、その時、その時の感情が伺えるから、ということが挙げられます。そしてそれは、言葉遊び的要素の少ない、本当に剥き出しの感極まった状態で詠まれたものほど、読者の心を大きく揺るがす、とも思います。
 「そるとても〜」の歌より、やはり「山深く〜」の歌の方が、少なくとも私には迫ってくるものがありますし、またこういう風に心に迫ってくる歌には、得てしてインスパイヤされてしまったりもします。

 戀やぶれ 女人修行の
 哀しきは また読むことも
 捨つることも 懇しき文
 張子にと かつて指噛み
 血潮にて 歌を残せし
 比丘尼ひとり 先はみどりに
 靡く髪 思ひ描けば
 やはらかき その眦に
 宿しゝた 狂ほしき胸
 円みたる 如何な熱をも
 涙をも 閉ぢしとぼその
 向かうには 辿り得ざらぬ
 現世に 悟る境地は
 たゞ一重 十重も二十重も
 百重にも 天翔ける星
 広ごるゝ 海境、高き
 山の端も みな映はせてや
 な翳りそ まことの道を
 照らさむや 祈らば開くらむ
 あらたしき 仲らひもあり
 思ひあり ひとは人にて
 人ゆゑの 想ひがゆゑに
 とこしへなくに

 糸惜しき背なを見詰めし日の永き忘られまじゝその空の色   遼川るか
 (於:法華寺・張子の横笛像)


 ...仏道に入った横笛は、けれども、その後わずか数年で病を患い、短い人生を終えたそうです。

 法華寺には他にからふろや光月亭、東庭園などが敷地内にありますが、この庭園を詠んだのは、万葉3期の代表的歌人・山部赤人です。



|いにしへの古き堤は年深み池の渚に水草生ひにけり
                          山部赤人「万葉集 巻3-378」


 主である藤原不比等の他界後、次第に荒れていく庭園に侘しさを募らせた赤人の心が天に通じたのか、現在の東庭園は当日も庭師さんたちが作業をしている、という手入れの行き届いた場所でした。

 捨つるとふ ことのこほつに
 あらまじて いづれひりふる
 ほどあらば いざ捨つ/\て
 おのづから 解かれ放たれ
 還らむを 選りたればこそ
 いまのあれ さても八幡
 大菩薩 な振り返りそ
 歩むべきを 歩まばこそに
 またひりふるらめ

 かつて捨てしいのちがはりの織衣の寶が貳いまの代はりに   遼川るか
 (於:法華寺・東庭園)

 「織衣の」は宝を伴う枕詞です。

 少し余談になりますが、上述「いにしへの〜」は、所謂「万葉集」で言う処の不比等邸の「山池」を詠んだ、とされている歌です。山部赤人、という大歌人は、その詳細が全く不明ではあるものの、この1首から恐らくは藤原氏とかなり密接な関係にあったであろうことが、窺い知れます。
 「万葉集」には短歌36首、長歌13首が採られていて、天皇の御行に従駕した歌も多数。やはり彼も宮廷歌人だったのでしょう。詠草年が判っているものからすると、多分に聖武朝前期に活躍したものと考えられます。ただ一説には下級役人だった、というものもありますが。
 また、御行関連のものとは別に現在の千葉県市原市や、富士山を詠んだ歌もあり、当時にしては随分と各地を歩いていた人であったことも確かです。

 後年、「万葉集」編纂に大きく寄与した大伴家持が、友人の大伴池主に宛てて送った書簡に「山柿の門」とあります。そして、「柿」はもちろん柿本人麻呂ですが、一方の「山」は赤人のことであろう、との見方が一般的とされていますね。...山上憶良である、という説もあるにはありますが。
 ただ、中世になってから言われるようになった36歌仙。万葉歌人から選ばれているのは人麻呂・赤人・家持の3人だけですから、個人的には大いに納得できるお話。

|含弘の徳、恩を蓬体に垂れ、不貲の思、陋心に報へ慰む。来眷を載荷し、喩ふる所に
|堪ふること無し。但し稚き時には遊芸の庭に渉らざりしを以て、横翰の藻、おのづ
|から彫虫に乏し。幼き年には山柿の門に至らずして、裁歌の趣、詞を聚林に失ふ。こ
|こに藤を以て錦に続く言を辱くし、更に石を将ちて瓊に間ふる詠を題す。固より是
|俗愚にして癖を懐き、黙已をることは能はず。よりて數行を捧げて、もちて嗤笑に
|酬ゆ。其の詞に曰く
                      大伴家持「万葉集 巻17-3969」題詞

 「弘大な御徳は、この卑しい身にお恵みを下さり、計り知れない思し召しは私の心に応え、酬いては、慰めてくれます。このようにお心を寄せて下さり、嬉しさは喩えようも在りません。ただ若い時に遊芸の場所に参らなかった為、手紙の文章は技巧も乏しく、幼い頃には山部赤人や柿本人麻呂の門下に下らなかったので、歌をつくるにもよい詞を見失ってしまいました。ここに『藤をもって錦につぐ』というお言葉を戴いて、更に『石をもって玉に交える』ような歌を記します。元来、私は世の愚人で、癖で黙っていることができません。よって数行の歌を差し上げて、お笑い種までお応えします。そのむ歌は次の通りです」
 大体、こんな内容でしょうか。先に触れた「山」=山上憶良説を個人的に採れないのは、家持が幼い頃に大宰府で山上憶良とは交流があったから、でもあります。

 余談が長くなっていますが、赤人の代表作を幾つか纏めてご紹介します。

|いにしへに ありけむ人の
|倭文幡の 帯解き交へて
|伏屋立て 妻問ひしけむ
|勝鹿の 真間の手児名が
|奥つ城を こことは聞けど
|真木の葉や 茂くあるらむ
|松が根や 遠く久しき
|言のみも 名のみも我れは
|忘らゆましじ
                          山部赤人「万葉集 巻3-431」
|我れも見つ人にも告げむ勝鹿の真間の手児名が奥つ城ところ
                           山部赤人「万葉集 巻3-432」
|葛飾の真間の入江にうち靡く玉藻刈りけむ手児名し思ほゆ
                           山部赤人「万葉集 巻3-433」

 上記引用の長歌と反歌は、当時は葛飾と呼ばれていた、現在の千葉県市原市界隈にあった、「永遠の乙女」という伝説の間名の手児奈のお墓。その前を、偶々通りかかった赤人が参った際のもの。

|天地の 別れし時ゆ
|神さびて 高く貴き
|駿河なる 富士の高嶺を
|天の原 振り放け見れば
|渡る日の 影も隠らひ
|照る月の 光も見えず
|白雲も い行きはばかり
|時じくぞ 雪は降りける
|語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ
|富士の高嶺は
                          山部赤人「万葉集 巻3-317」
|田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける
                          山部赤人「万葉集 巻3-318」

 こちらは富士山を詠んだ長歌と反歌。特に反歌は、のちに「新古今和歌集」にも採られ、そこから小倉百人一首にも採られていますね。

|田子の浦にうち出てみれば白妙のふじのたかねに雪はふりつつ
                     山部赤人「新古今和歌集 巻6 冬 675」


 因みに赤人のお墓が、2日目に出向いた大宇陀の近く、榛原界隈にあることを、神奈川帰還後に知り、随分と悔しい思いをしたものですが...。

 さて、初日の行程も終えることが出来、翌日からはいよいよ、万葉一色に。滞在中のベースとなる橿原市の宿へ移動します。







BEFORE   BACK   NEXT