奈良盆地の南の端、宇智の地を後にして再び国道24号を北上。やや遅めの昼食を終えて、いよいよ葛城へ。昼食時には、葛城での行程の確認と、地図の確認などに励んでいたこともあって、準備は万端でした。
 向かうべき葛城では、南側からやはり北上する、というルートを組んでいたのですが、これはそのまま葛城古道を北上することに相当します。

 葛城古道。奈良盆地の西側、つまりはあきづしまやまとと、おしてるやなにはの境界は、生駒・二上・葛城・金剛といった山並みがずっと連なっていて、その二上山から金剛山にかけての悠然たる山並みが、葛城山系です。そして、この葛城山系こそが、人麻呂に関しても少し触れた、三輪山と並び称された
「神のいます山」

 山麓一帯は葛城の国、とも呼ばれかつて日本でも最も古い文化の中心地として栄えていた、とも言います。その証拠に葛城の地には、神武・綏靖・安寧・懿徳・孝昭・孝安・孝霊・孝元・開化まで、9代天皇の皇陵・宮跡の伝承地が集中しているということと、それ故にこれらを総称して
「葛城王朝」
 ともされている、ということ。さらには、現在でも住所はそのまま「高天/たかま」となりますが、葛城山麓には高天と呼ばれる広大な台地があり、この台地こそが古代日本民族の考えた
「神々のいますところ高天原」
 である、ということです。

 神々の御座す山。東の三輪と、西の葛城。東に山の辺の道があるように、西にもまた道があります。これが葛城古道で、その南端が風の森峠。
 葛城で最初に訪ねるのが、この風の森峠です。

 風の森。恐らくはこの「森」もまた神社がある、つまりは神様が御坐す地、という意味なのでしょう。「青垣 山隠れる」ではないですが、大和盆地は本当に高きも低きも含めて沢山の山々、峰々に囲まれた地で、盆地へ吹き込む風はみな、それらの山を越えてやって来ます。
 大和の南にある紀伊、そしてその先に広がるのは太平洋。黒潮が育んだ南風は幾つもの峠を越えて大和盆地へと至るわけですが、その入り口。そう、大和盆地への南風の入り口が、風の森峠ということになるんですね。

 では、この風の森に祀られている神様は、と言えば当然ですけれど風の神・志那都比古神、神社の名前はそのまま志那都比古神社、です。
 古事記では、伊邪那岐命と伊邪那美命による神生みによって、志那都比古神は生まれたことになっていますが、日本書紀では伊奘諾尊(古事記なら伊邪那岐命、日本書紀なら既出の表記です)が朝霧を吹き払おうとして吐いた息から生まれたのが「級長戸辺命/しなとべのみこと」で別名が級長津彦命、となっていますね。

|次に風の神、志那都比古神を生み、
                 「古事記 上巻 伊邪那岐命と伊邪那美命 3 神生み」
|伊奘諾尊と伊奘冉尊とは、協力して大八州国を生み出された。そして伊奘諾尊がいわれ
|るのに、「われらの生んだ国は、朝霧がかかっているが、よい薫が一杯だ」といって、霧を
|吹き払われたら、その息が神になった。名づけて級長戸辺命という。別名を級長津彦命と
|いう。これは風の神である。
                             「日本書紀 巻1 神代上」


 風。古代の人々が大切に崇めたもの、としてはやはり筆頭格が水、大地、そして太陽となりますが、その次くらいに確実に挙げられるのが、風です。何せ稲は風媒花ですから、稲作に風はなくてはならない自然現象だったんですね。
 けれども同時に、台風などの暴風は当時の言葉なら「悪風」と畏れられてもいました。なので全国各地の大社には、風を祀っている所が多いわけです。例えば伊勢神宮(祭神の1人は級長津彦命)や龍田大社(祭神は志那都彦神と志那都比売神)などが代表的で、境内にはこれら風の神を祀った風の宮すらも見られますね。
 つまり、志那都彦神にしても級長津彦命にしても、風の神というのは五穀の稔りを風水害から守る農業神、ということです。

 少しお話しがずれるかもしれませんが、上代歌謡の時代から枕詞「神風の」を伴う伊勢の地。その大社では1年を通じて様々なお祭りが行われています。ですが、それら全ての趣旨はたったひとつで
「聖寿の万歳とお米の豊作を祈る」
 ということ。豊作であれば万民は飢えることなく幸せで、世界は平和である、という極めてシンプルで原初的な祈りが、今なお続けられているんですね。
 例えば、春の祈年祭と種蒔きの「神田下種祭/しんでんげしゅさい」、そして5月14日と8月4日には「風日祈祭/かざひのみさい」などですが、この風日祈祭。つまりは5月と8月というのは稲の成熟にとても重要な時期なので、適当な雨と風に恵まれて風雨の災害なく五穀が豊かに稔りますように、と祈るわけです。
 かみかぜのいせ。彼の地に天照大神が鎮座した約2000年前。その最初から風の祭りはなされていた、と言われているようで、古い祝詞には
「雨甘く、風和にして」
 とあって一言でいうなら「五風十雨」、適度な雨風を賜れるように、ということでしょう。そして時を経た現代。伊勢神宮では、内宮神域内の風日祈宮と外宮神域内の風の宮はもちろん、14の別宮と所管社まで併せて125社の神々に
「悪風荒水に相はせ給はず/あしきかぜあらきみづにあはせたまはず」
 という祝詞が上げられている、と聞いています。

 一方の風の森、志那都彦神のお祭りは毎年6月の後半。近隣の人々がお神酒やお供え物を持ち寄り、祝詞を上げているのだそうです。...とはいえ、流石に祝詞の内容までは調べきれませんでしたが。

 万葉はもちろん、古典和歌には本当に多くの風を詠んだものがあります。風、朝風、春風、沖つ風。詠まれ方はそれぞれですが、恐らく1番多いのは秋風でしょう。ただ、少し注意が必要なのは万葉はさておき、古今以降はこの秋風。「秋」と「飽き」が懸かり男女間の愛情が冷えたことを指す比喩表現として、多く詠まれるようになります。
 その代表例を幾つか。

|秋風は身をわけてしも吹かなくに人の心の空になるらむ
                         紀友則「古今和歌集 巻15 恋5 787」
|秋風にあふ田の實こそかなしけれわが身むなしくなりぬと思へば
                        小野小町「古今和歌集 巻15 恋5 822」
| 題詞:建仁元年三月歌合に逢不遇戀の心を
|忘れじの言の葉いかになりにけむ頼めし暮は秋風ぞ吹く
                    宜秋門院丹後「新古今和歌集 巻14 恋4 1303」


 その点、万葉歌はそういう暗喩もなく、純粋に風を詠み、風に寄せて人々は歌を残しました。「万葉集」に題詞として詠風もしくは寄風、とある歌だけでも纏めてご紹介します。

|恋ひつつも稲葉かき別け家居れば乏しくもあらず秋の夕風
                           作者不詳「万葉集 巻10-2230」
|萩の花咲きたる野辺にひぐらしの鳴くなるなへに秋の風吹く
                           作者不詳「万葉集 巻10-2231」
|秋山の木の葉もいまだもみたねば今朝吹く風は霜も置きぬべく
                           作者不詳「万葉集 巻10-2232」
|我妹子は衣にあらなむ秋風の寒きこのころ下に着ましを
                           作者不詳「万葉集 巻10-2260」
|泊瀬風かく吹く宵はいつまでか衣片敷き我がひとり寝む
                           作者不詳「万葉集 巻10-2261」


 極めて個人的な発想なのですが、特段万葉歌と関係ない、この風の森を訪ねたかったのは、例えば讃良の「春過ぎて〜」にしても、舒明天皇の「大和には群山あれど〜」にしても、字面上は風が登場しなくとも、何となく思い描く光景に穏やかにそよぐ風が感じられるんですね。他にもそういう歌はとても多く、それらはみな大和盆地の何処かで詠まれたものでもあります。
 ...もちろん、冬の北風は該当しないでしょうが、南側からの風は、この風の森から吹き寄せたもの、と思うこととてでき得るわけで。志貴が懐かしんだ、明日香の采女の袖を揺らした風だって、そうでしょう。そう考えると、この峠は一体どれほどの万葉歌を育んだのだろうか、と。
 再引用や前作でご紹介したものを除き、個人的に好きな風の登場する万葉歌をチョイスしてみました。

|天降りつく 天の香具山
|霞立つ 春に至れば
|松風に 池波立ちて
|桜花 木の暗茂に
|沖辺には 鴨妻呼ばひ
|辺つ辺に あぢ群騒き
|ももしきの 大宮人の
|退り出て 遊ぶ船には
|楫棹も なくて寂しも
|榜ぐ人なしに
                           鴨君足人「万葉集 巻3-257」
|春風の音にし出なばありさりて今ならずとも君がまにまに
                            大伴家持「万葉集 巻4-790」
|我が背子が着る衣薄し佐保風はいたくな吹きそ家に至るまで
                          大伴坂上郎女「万葉集 巻6-979」
|風吹きて海は荒るとも明日と言はば久しくあるべし君がまにまに
                 作者不詳「万葉集 巻7-1309 柿本人麻呂歌集より撰」
|青柳の糸のくはしさ春風に乱れぬい間に見せむ子もがも
                           作者不詳「万葉集 巻10-1851」
|天地と 別れし時ゆ
|久方の 天つしるしと
|定めてし 天の川原に
|あらたまの 月重なりて
|妹に逢ふ 時さもらふと
|立ち待つに 我が衣手に
|秋風の 吹きかへらへば
|立ちて居て たどきを知らに
|むらきもの 心いさよひ
|解き衣の 思ひ乱れて
|いつしかと 我が待つ今夜
|この川の 流れの長く
|ありこせぬかも
                           作者不詳「万葉集 巻10-2092」


 長短入り混ぜて6首だけ選びましたが、特に好きなのは最初の長歌と4番目、5番目の短歌です。
「天から降ってきた、という天の香具山は霞が立つ春になると埴安の池に松風が波を立たせ、桜の花は木陰が暗くなるほど繁り咲き、沖辺では鴨が妻を呼び、岸辺ではあじかもの群れが騒ぎ。かつて大宮人が藤原宮から来て遊んだ舟には、今となっては櫓も棹もなくて寂しいことだ。榜ぐ人もいなくて」
「風が吹き、海が荒れていても、お逢いするのは明日にしましょうなどと言ったらやはり、待ち遠しいでしょう。だからあなたの思うようになさってくださいね」
「柳の葉の糸のように細やかなことだ。春の風に乱れてしまわないうちに見せたい女性がいたらなぁ」

 国道から細い路地へと入ると、途端にかなりな急勾配になります。やはり峠というだけあって、走っていた国道自体もずっと上り坂でした。風の森神社は、風の森峠(標高280m)の正に頂上にある、とは聞いていたのですが、改めて実感してしまいまして。
 周囲には民家も結構あって、その向こうにはまだ水も張っていない田圃があって。やがて右側に見えてきたのが森。...林、程度なのかもしれません。厳密に言うならば。

 神社、とはいえ鳥居があるわけでもなく、まして社殿もなく。あるのは木々に囲まれた薄暗い空き地のような空間。子どもの頃によく遊んだ森にあった、ちょっとした広場に何処となく似ている印象でした。
 そして、その広場のような空間の奥には小さな、...余りにも小さな祠が1つ。小学校にあった百葉箱よりも低くて小さいその祠は、きっと抱きしめたなら向こうで両手が繋げるんじゃないかしら。そう感じてしまうくらいのささやかなものでした。


 吹き寄せて
 峯に峯をし越ゆる風
 とほき影面
 綿津見ゆ
 生れて懸くるは
 たゝなづく青垣隠れるまほろばの
 倭の国の
 鴎飛び
 煙たなびく
 国原の空をし往くをほりすらむ
 来し方さても
 麻裳よし紀伊ゆそむれば
 吉野山過ぎて越え過ぎ
 風の森
 志那都彦とふ風の神
 坐す峯とてなほし越え
 采女が袖を吹き返し
 大和三山
 天降りつく天の香具山
 白栲の衣靡かせ
 青丹よし奈良の都にゑみてゑむ花ら愛づりて
 なほしゆかむ
 佐保山
 歌姫
 奈良坂も
 ゆくがゝぎりにゆくすゑに
 果つれば清し
 吹くなれば
 吹くがまにまに吹け
 天つ風

 弥高く天をし懸くる風の音のなにをかほるや、なにをか祈むや  遼川るか
 (於:風の森峠、のち再詠)


 傍にあった説明書きを読んで初めて知ったのですが、葛城地方は日本に於ける水稲栽培発祥の地なのだそうです。なるほど、だからこその風水害から田畑を守る農業神、それが風の神なのだし、ひいては風神信仰、ともなるのでしょう。
 また下知識として知っていたのが古代、葛城氏や鴨氏が崇拝していた神様の1人が志那都比古神だった、ということで、風の森神社の近くにある高鴨神社とこの祠は1対、とされているようです。摂社ではないのかも知れませんけれども。
 ただ祠が頂上にある、という配置からするに、風の森神社は風神信仰の現れでありながら、同時に山岳信仰とも無縁ではないと言えるように、個人的には感じてしまいましたし、それであるならば先の
「神のいます山=葛城山」
 という図式ともリンクしてきますね。

 再び余談になりますが、日本に於ける神様たちというのは大きく分けると、3種類になると思います。

 1) 自然現象を神格化した自然神
 2) 人々の日常生活に深く関わる生活神
 3) 実際の人物が神格化した人間神

 これらの中で、記紀の時代はもちろん万葉期も特に、厚く信仰されたのは自然神です。古代の人々は天地を形づくる全てのものを神と崇め、天変地異はすなわち神の怒り。なので神を祀り崇めることで、そういった難を逃れ氏族の安泰と繁栄を図っていたのでしょうし、農耕民族である日本人にとっては、自然神に祈ることこそが豊作に繋がる。...こう考えていたんですね。
 そして彼らが崇めた自然神が、日神、月神、星神、風神、雨神、田神、山神、海神、水神、火神、雷神などなど。この殆どが、件の伊邪那岐命・伊邪那美命による神生みの際に生まれていて、これでようやく古事記も何もない時代から、人々が自然発生的に崇め始めた信仰と、それによって生まれた神話、さらにはそれを祀る神社や祠といった建造物、そして最終的には氏族の繁栄企図との融和、という図式が成立するわけです。

 現代人のわたしたちが、こういった古代に思いを馳せる場合、最初に手にとってしまうのは古事記ですし、だからなのか、どうしても何となく錯覚しがちなのは先に古代神話とそれを編んだ古事記があって、それから人々の信仰があって、という順番の逆転です。
 けれども、実際は当然ですが全くの逆。最初にあったのは、あくまでも自然発生的に生まれた土着の信仰ですし、そこから生まれた神話は万葉期に天皇の命によって編纂されました。古事記と日本書紀です(日本書紀は正確には神話とはいえない部分がありますが、ここでは敢えてこう書きます)。
 個人的には、特に古事記を読むときは、古事記とはそういった当時、すでに人々が当たり前のように身近に感じていたものの集大成にすぎない、という視点を忘れないように努めていますし、正史として部分的に歪曲や偏倚があることの否めない、日本書紀よりもむしろ誇張はあれど本質的には古事記の方が在りのままに近いのではないか。そんな風にも思っている次第です。

 神。...どうなんでしょうね。個人的には様々な宗教の経典は、人類の英知として結構、何度も読んだりもしていますけれど、信仰そのものには全くといっていいほど興味がありません。
 ですが、そんなわたしでもかなりしっくり来る神としては、やはり自然と、先祖と、今在るものを大切にしたい、という気持ちの現れとしての八百万。これくらいでしょうか。...きっと古代の人々だって同じだったと思います。
 流石に世界3大宗教までいってしまうと権力その他が絡んでもはや、何がなんだかさっぱりな印象ですけれど、そのどれもがそもそも根底で尊んでいるものは、生きていること。生きていられること。その為に命を繋いでくれるものと、心を満たしてくれるものと、そういった全てのものに対する
「今、在ってくれることへの感謝」
 たったこれだけに思えてしまいます。

 生きていると、否応なく直面させられる忍耐や諦観、屈辱、絶望。でも、そういったものとて、自らの周囲に様々な人やものが在ってくれるから、生まれ出ずることとてできるわけで、絶対的な無。虚無の中ではささいな情動の1つすら生まれないのではないでしょうか。
 だからこそ、在ってくれるものによって生まれた情動と、その情動の軌跡としての歌。個人的に歌に対しては絶対的な禁じ手、として戒めにしているものが1つだけありますが、それ以外に於いては自らを偽ることなく、隠すことなく、装うことなく、在りのままを詠むことによって、在ってくれる全てに対する感謝としたい処です。

 天地の
 初めて発けし時とても
 いまだしく地も国稚く
 浮べる脂の如くして
 くらげ成しては漂ひし時とて
 天つ神在りて
 別天つ神、
 独神、
 五柱神、隠れたり
 次ぎて成りしは後に称ふ神代七代や
 伊邪那岐と伊邪那美在りて国生めば
 大倭豊秋津島さへもつかねて
 大八島国も
 六島現はれたり
 さても神をもまた生めば
 子は孫を生み
 孫はなほ子を成し継ぎて
 数ふるに八百万神
 この国に集ひ集ひて千代八千代
 このかみとても神御座す
 あなうまし国あきづしま
 山には山の神在れば
 海にも、
 田にも、
 月に、
 日に、
 星にも、
 火にも、
 風に雨、
 水に雷みなゝべて
 在るべきものゝ宿しつるおほいなる意志
 悠かなるあがりたるよゆ継がれゐる
 生き命とふまたとなき
 尊きものこそ嬉しけれ
 いま在るものを
 在り給ふものを崇めつをしみつゝ
 されどこの身が踏みゐたる
 なほ拓けゐる玉鉾の鄙の長路ありきゆかむ
 人はいづくゆ越したりや
 人はいづくへ往くべしや
 たれもたれとて知り得ざる理ほらば
 息の緒を
 玉の緒結び
 魂を振り
 たゞ有り渡るそのかぎり
 辿りい辿る血脈の
 もとは綿津見この星斗
 あそもあれをも、たれもかも
 弥遠き日はなべて泡
 水泡、
 泡沫
 在り経とは海のそこひゆ浮き初めつ
 水面し懸くるものならむ
 かひろぎ、
 とをらひ、
 つむつむと
 ゆたにたゆたに、あゆきつゝ
 せゞにおぼゝれなづさひて
 ひたおもむきに、
 ひとすぢに、
 いづれ弾けつ果てば果てよ
 在りとふいまを抱きては
 繋ぎゐる手を離さずに
 ほとほり孕みたゞねびゆかむ 

 幾辻も経ては辿りぬこに在りてこには在らざる産土 とこしへ

 あものごとよろづ言の葉つかねたる地よ 息の緒のかぎりに思はむ  遼川るか
 (於:本日さねさしさがむゆ
      /同時掲載:第500回トビケリ歌句会お題「温故知新」)

 
 風の森。ささやか過ぎる祠の上に、葉桜になりかけた枝が張り出し、残り少ない花びらが吹き渡る風に乗って降っていました、わずかに北向きに。南風。この微かな風も黒潮に育まれ、紀伊の国を渡ってきたものなのでしょう、きっと。









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