正確には、日本書紀にも古事記にある崇神天皇期の説話はちゃんと記載されています。ですが、こちらでは大田田根子(意富多々泥古の日本書紀での表記)は、あくまでも

|大田田根子を、大物主大神を祀る祭主とした。
                  「日本書紀 巻5 崇神7年(紀元前23年)11月13日」
|冬12月20日、天皇は大田田根子に大物主神を祀らせた。
                  「日本書紀 巻5 崇神7年(紀元前23年)12月20日」
|この大田田根子は今の三輪君らの祖先である。
                  「日本書紀 巻5 崇神7年(紀元前23年)12月20日」


 と三輪氏の祖であることと、三輪山を祀る役に就いた、ということにしか触れていません。大田田根子が鴨氏の祖である、とは言っていないんですね。

 さらには、この三輪山伝説に関連して、もう1つ興味深い記述があります。延喜式です。

|乃ち大穴持命の申し給はく、皇御孫命の静まり坐さむ大倭國と申して己命の和魂を八
|咫鏡に取り託けて倭大物主櫛厳玉命と御名を称へて大御和の神奈備に坐せ、己命の御
|子、阿遅須伎高孫根の命の御魂を葛木の鴨の神奈備に坐せ、事代主命の御魂を宇奈提に
|坐せ、賀夜奈流美命の御魂を飛鳥の神奈備に坐せて、皇御孫命の近き守神と貢り置きて、
|八百丹杵築宮に静まり坐しき。
                           「延喜式 巻8 出雲国造の神賀詞」


 「その時大穴持命(大国主神)は、天孫のお鎮まり遊ばされますこの国は大倭国でありますと申されて、自分の和魂を八咫鏡に憑かせて倭の大物主なる櫛厳玉命と御名を唱えて大御和(大三輪)の社に鎮め坐させ、自分の御子、阿遅須伎高孫根命の御魂を葛木(葛城)の鴨の社に鎮座させ、事代主命の御魂を宇奈提(雲梯)に坐させ、賀夜奈流美命の御魂を飛鳥の社に鎮座させ、天孫の親近の守護神と貢りおいて自分は八百丹杵築宮に御鎮座されました」

 前作でも、大和の神奈備について触れ、引用させて戴いた一説ですが、ここに明記されていますね。阿遅鋤高日子根神を葛城の鴨の社、つまりは高鴨神社に鎮座させて、大国主神の魂の一部・「和魂/にぎみたま(柔和な徳を湛える魂)」を三輪山に鎮座させた、と。...余談ですが、事代主神は雲梯に鎮座。
 この延喜式の記述は、先にご紹介した日本書紀の記述と合致しています。なので余計にわたしは、日本書紀の記述を優先的に採りたい、と思っているわけです。

 その日本書紀にのみ、件の12月20日に開かれた三輪の宴、つまりは大物主神を祀った、お祭のようなものの記載もあり、歌も3首紹介されています。

|此の神酒は 我が神酒ならず。
|倭成す 大物主の
|醸みし神酒。 幾久、幾久
                活日「日本書紀15 巻5 崇神7年(紀元前23年)12月20日」
|味酒の 三輪の殿の 朝門にも 出でて行かな。 三輪の殿門を。
               諸大夫「日本書紀15 巻5 崇神7年(紀元前23年)12月20日」
|味酒の 三輪の殿の 朝門にも 押し開かね。 三輪の殿門を。
              崇神天皇「日本書紀15 巻5 崇神7年(紀元前23年)12月20日」


 そろそろ、鴨氏という古代豪族の輪郭が、何となくでも浮き彫りになってきたでしょうか。どれほどの勢力を誇っていたのか、どれほどわたしたちの歴史の悠か彼方上流に圧倒的な存在感を放っていたのか、が。
 日本という国の故郷・あきづしまやまとに早くから存在していた一族であり、皇統の源(国母の出身氏族)であり、山岳信仰の最高峰とも言える山に祀られた神であり、その宮司なり氏子であり、神奈備信仰の主軸であり、全国各地の賀茂神社の祖となる一族であり...。
 そしてもう1つ。さらに古代に於ける鴨氏の権勢を裏付ける記述が、新撰姓氏録に登場しています。

|鴨県主(かもあがたぬし)。
|〜神日本磐余彦天皇、中洲に向さんとする時に、山の中、嶮絶しくして、跋みゆかむに路
|を失ふ。ここに、神魂命の孫、鴨建津之身命、大きなる烏となりて、翔び飛り導き奉りて、
|遂に中洲に達る。天皇その功あるを嘉したまひて、特に厚く褒め賞ふ。天八咫烏の号は、
|これより始りき。
                             「新撰姓氏録 右京 皇別」


 ...つまり、神武が熊野灘へ上陸したのち、畿内へ進出しようとした際、道に迷っていたところ、鴨氏の「鴨建津之身命/かもたけつのみのみこと」が大きな烏になって、空を飛びながら一行を先導。神武はこれを喜んで、彼に褒美と天八咫烏、つまりは八咫烏の贈り名をした、ということなんですね。そう、八咫烏は鴨氏の1人を想像上の動物に喩えているんです。

 これも、平たく言ってしまえば前述の国譲りの後、鴨氏が天皇氏と連合政権の道を採ったので、国譲りと天孫降臨後に始まった神武の奈良盆地入りを、手助けした、ということ。もっと言ってしまえば迎え入れた、ということなのでしょう。
 そして葛城王朝期が始まる、というわけです。

 ただ、有力説としてこの八咫烏とされた鴨建津之身命は、葛城鴨氏とは全く別の山城賀茂氏である、というものもあります。が、氏族名が同じな為に後世に混同されてしまったのか、元々が別氏族なのかは、もはや皆目見当もつかず...。念の為に書き添えてはおきますが、本題とはさして関わりのないことなので、この点についての考察は擱かせて戴こうと思います。

 さて、その後の鴨氏です。神武から懿徳までの4代こそ、鴨氏の娘を娶っていた天皇氏は第5代孝昭天皇以降、鴨氏以外の娘を娶るようになります。そして、飛鳥時代の到来である第10代崇神天皇以降。特に崇神・垂仁・景行天皇の3代は、それまでの9代が皇宮と御陵を葛城山から畝傍山に至るまでの範囲に集中させていたのに対し、今度は三輪山周辺にそれらを集中させます。
 この3代を後世では、葛城王朝に対して三輪王朝、とも呼んでいて、この三輪王朝の幕開けが、同時に飛鳥(大和)時代の幕開けでもある、ということです。...歴史の舞台が、葛城山から離れてしまったんですね。

 果たして、この葛城から三輪への遷移を、連合政権の崩壊ととるか、それとも鴨氏の懐柔によりやや体場の弱い状態だった天皇氏(要は天皇氏が鴨氏へ入り婿状態だった、ということ)が、鴨氏を押さえつけて下克上的立場の逆転、今で言うならある種のクーデターのようなことの末に、単独政権を確立したととるか。
 この辺に至ると正直、素人の手にはとてもではないですが、負える代物ではなくなってしまいます。

 でも、1つだけ言えるのはこの後、鴨氏は氏族が巨大化すればするほどに傍流も増え、その傍流がそれぞれに新たな氏族名を名乗る、つまりは鴨氏からの1種の独立・離反を起こし続けたことによって鴨氏内部は虫食い状態となり、次第に衰退していった、ということです。そして本拠地も葛城から離れていき、平安期には暦道や陰陽道で高名な一族となっていったようではありますが。
 また、詳しいことは割愛しますが、さらに時代を下ると、歴史的には徳川家の家紋・三つ葉葵。あれも賀茂神社との関わりから発生しているものである、ということ。そして文学的には、鴨氏の子孫に、方丈記で有名な鴨長明がいる、ということをご紹介しておきます。

 随分と上代文学から離れてしまいました。せめて、直接的には無関係でも、鴨氏とそこそこ関係のある万葉歌をご紹介して、鴨氏についてはこれで一旦擱かせて戴きましょう。

|ひさかたの天の探女が岩船の泊てし高津はあせにけるかも
                            角麻呂「万葉集 巻3-292」


 先ず、上記引用の万葉歌は、件の天若日子が天降りした際。様子を見にきた雉がいましたが、その雉の鳴き声が不吉だから、
「射殺してしまいなさい」
 と天若日子を唆した存在がいるんですね。天の探女といいます。...はい、実はこの女性、後にいう天邪鬼のことなんですけれども、ともあれその天の探女が登場する歌、ということで引いてみました。恐らくは、摂津国風土記逸文にある、天の探女の石船が停泊した、という伝説を下敷きに詠まれた歌なのだと思います。

|天降りつく 天の香具山
|霞立つ 春に至れば
|松風に 池波立ちて
|桜花 木の暗茂に
|沖辺には 鴨妻呼ばひ
|辺つ辺に あぢ群騒き
|ももしきの 大宮人の
|退り出て 遊ぶ船には
|楫棹も なくて寂しも
|漕ぐ人なしに
                       鴨君足人「万葉集 巻3-257」 再引用


 こちらは、詠み手・「鴨君足人/かものきみたりひと」によるかつての鴨氏を偲んだ歌、とされているもの。鴨君という氏族は、鴨氏の傍流とされているようで、本流の鴨氏より時代を下り、第9代開化天皇の後に興ったものなのだ、といいます。
 また、現代でも残る地名なのですが、「鴨公/かもきみ」という土地もありまして、これは藤原宮の大極殿跡周辺のこととなります。この符牒からなのでしょう、恐らくは鴨君足人の居住も藤原宮周辺にあったとされていまして、上記の歌は足人が自宅から眼前の香具山を見つつも、その実、遠祖である鴨氏を偲んで詠んだ歌ではないか、と。...何でも有力説によれば、「桜の花は木の下も暗く茂り」という件は下照比売のことを、「沖の方では鴨が妻」は阿遅鋤高日子根命の母神・多紀理毘売の命のことを、「岸の方では味鴨」は阿遅鋤高日子根命のことを、それぞれ表している、とのこと。故に表の歌意とは別に、裏の歌意として今は見る影もなくなった鴨氏のかつての繁栄に思い馳せている...。
 そう解釈されているのだそうです。

 ゆく河の流れは絶えず
 ゆく雲のゆくへは見えず
 ゆく年の願ひは知れず
 息の緒は
 過ぐるを過ぐとなすかぎり
 太敷き柱
 咲く花も
 え果てざるなどあらぬゆゑ
 日経坐す
 春柳葛城山に栄ゆるも
 けふに象なき
 もろひとのいめの沁むれば
 見る空も
 けふの空とも
 いにしへのとほき空とも
 見ゆるゆゑ
 なにうけひせむ
 なに祈ひ祷まむ

 生れば果つ なれど天あり土あればこそうつそみは
 玉の緒結ばるゝをならしむ             遼川るか
 (於:高鴨神社、のち再詠)


             −・−・−・−・−・−・−・−・−・−


 遠い遠い、わたしたち日本人の遠い昔、南方渡来の縄文系倭人たちがあちこちで狩猟中心の生活をしつつ、まだまだ定住すらもしていない頃、大陸よりやってきた弥生系の人々は同時に大陸の文化も、この小さな島国に齎しました。その最たるものが稲作で、言ってしまえば鴨氏も、天皇氏も、全ては大陸よりの弥生系渡来人に他なりません。
 そして定住し、集落をつくり、大きくなり、周囲を統治し、一族のアイデンティティと氏族の結束を強める為に自ずと土着信仰が生まれ。やがて各氏族同士の交流・併合・離反などを繰り返し...。
 時代がいつであろうと、人の歴史はまさに繰り返し。本当にそう思います。

 さて、古事記や日本書紀の神代に於けるハイライト。それは前述の国譲りであり、葦原中国が高天原の支配下に治まったのちに行われるのが、そう天孫降臨ですね。
 天孫。つまりは天照大御神の孫である天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇々芸命(以下、邇々芸命と略)が葦原中国に天降る、ということなのですが、こちらもやはり実際に畿内であったであろう歴史的事実が寓話化したもの、と考えられますし、その舞台となったのが、この葛城山系に現在も高天、と呼ばれる台地。住所としては、奈良県御所市高天に、高天原伝承地と高天彦神社という2つの史跡があります。高鴨神社を後にして、わたしが次に目指したのがこの2箇所です。

 ...何せ、体力という言葉とは凡そ無縁に生きていますから、葛城山系を巡る記紀から万葉への流れを追いたい、という計画そのものがそもそも身の程知らずと言いますか、向こう見ずなのは重々承知していました。登山なんて正直、言葉を聞くだけで腰が引けてしまいますので。
 なので、とにかくギリギリまで車で入れるようならば入り、その後は徒歩。そういう前提で細くて曲がりくねる山道を進んで行った処、案内板によるとこれより先は登山道、とされている地点に辿り着き...。ここで車を降りて、遂に山登りです。

 前日の赤人之墓伝承地への山登りもかなり堪えたのですが、こちらはより一層厳しく、勾配自体はそれほど急ではなかったものの、とにかく人気が全くと言ってないし、鬱蒼と繁った木々であたりはいやに薄暗くて何だか心細くなったこと頻り。階段のようなものもちゃんと造られてはいたのですが、それにしても足場の悪さには少々閉口してしまいました。
 黙々と山を登りながら、つい思ってしまったのが何だってこんなに立地の悪い場所に古代豪族たちは暮らしていたのだろう、ということで、もっと平野部の方が遥かに便利だったのではないか、と。
 ただ、同時に思い出したのがずっと以前、人伝に教わったことで、曰く奈良盆地は太古の昔、湿原地帯だったということです。なので台地や山の中腹から拓け始め、湿原も次第に水が引いて現在の平野とほぼ同じくなっていったことに呼応して、各氏族は山を降り始めた...。その先鞭とも言える最初の一団が、他でもない天皇氏そのものだとしたのならば、とてもよく判るお話なのかも知れません。

 少々息切れしつつも更に歩き続けると、途端に山道から段々畑だか、棚田だかの畦に出ます。まだ今年は耕していないからなのでしょう。草茫々の中、ふと眺めると葛城のお山(厳密には金剛山白雲峰644m)が聳え、手前には神さびた風情のお社が1つ。高天彦神社です。
 ...遂に高天の地へ。大和民族の故郷へ、わたしは辿り着けました。

 高天彦神社は、きっとかなりの樹齢を重ねているであろう杉の大樹が続く参道の奥に、ひっそりと鎮座している。そう事前に資料で読んでいたのですが、残念ながら訪ねた日はお社が工事中で、電気ノコギリやトンカンやっている音が辺りに響いていて実はかなり、がっかりさせられてしまったものです。
 山登りでかなりぐったりしてしまったのでベンチに腰掛けるも、何だか心許無く、歌も中々詠めず。ただぼんやりと天孫降臨について、考えていました。

 高天神社の祭神は「高皇産霊尊/たかみむすびのかみ」。これは日本書紀での表記で、古事記では高御産巣日神(高木神という別称あり)、となります。
 高御産巣日神。...大国主神よりも、天照大御神や速須佐之男命よりも、伊邪那岐や伊邪那美などの神代7代よりも、さらに昔。大和の神話に於ける天地創世に関わった別天つ神、という5柱がいるんですが、その中でもさらに1番最初に高天原に成った神は3柱。天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神です。
 天之御中主神は天地を主宰する至上神。恐らくは後続の全ての神の原点として観念された存在なのでしょう。キリスト教に於けるヤーウェのようなものだ、と個人的には思っていますが。
 一方の高御産巣日神と神産巣日神は、観念神ではなくて恐らく実際に古代に祀られていた神で、高御産巣日神は高天原系神話の至上神なのに対し、神産巣日神は出雲系神話の至上神、つまり国つ神の至上神となります。同じくキリスト教のキリスト的存在ではないか、と。...なので、この高天の台地に祀られているのでしょう、高御産巣日神は。
 古事記の神代冒頭の件を引きます。

|天地初めて発けし時、高天原に成れる神の名は、天之御中主神、次に高御産巣日神、次
|に神産巣日神。この三柱の神は並独神と成り坐して、身を隠したまひき。
                   「古事記 上巻 創世の神 1 五柱の別天つ神」


 この天地開闢ののち、高御産巣日神は天照大御神と共に高天原の最高指令者として名を連ねていて件の国譲りに関わる、様々な策について議論した際に登場しています。

|爾に高御産巣日神・天照大御神の命以ちて、天の安河の河原に八百万の神を神集へに集
|へて、思金神に思はしめて詔りたまはく、
|「此の葦原中国は、我が御子の知らす国と言依さし賜へる国なり。故、此の国に道速振る
|荒振る国つ神等の多に在りと以為ほす。是れ何れの神を使はしてか言趣けむ」
| とのりたまひき。
              「古事記 上巻 葦原中国へのことむけ 1 天菩比神の派遣」


 今で言う処の副首相、もしくは内閣官房長官といったあたりでしょうか。そして前述のようにして国譲りが済み、降臨した天孫、邇々芸命は文字通り天照の孫なのですが、同時に高御産巣日神の孫でもあります。つまり天照の息子と高御産巣日神の娘の間に生まれた(日本書紀には別説も記載)、ということですね。

 天孫降臨。こちらも諸説紛紛ではありますが、個人的には鴨氏と天皇氏の和睦成立により、天皇氏の首魁が直々にこの葛城山麓へ辿り着いた、ということであろう、と見ていますし、続く神武の畿内進出は事実上、葛城から奈良盆地へと天皇氏が山を降り始め、盆地内各地に存在していた小規模豪族を制圧していった過程が寓話化されたものではないか、と見ています。
 といって、先にも述べていますが、わたしの立場はあくまでも全ては畿内で起こったことである、という大前提の上でのお話しで、実際に天孫降臨の地が九州の高千穂である可能性とて、未だ色濃く...。さらには出雲の存在もわたしは全く無視していますから、正確性については杳として知れません。
 ただ、無人のお社である高天彦神社が、工事中ではあれどそれでもあまりにも清冽な空気の中に鎮座していて、確かにここが、少なくともそれこそ大神神社とも高鴨神社とも、また違った意味で厳粛に思える何かを湛えていたことは間違いなく、不思議と涙が零れました。

 なにしかもあれはこにゐて
 なにしかもあれはこに来し
 呼ばひては
 呼ばゝるゝとも
 あれどなく
 見えざる糸は
 血であらむ
 ひとの子よろづちよろづに
 日並べ日並べて
 弥日異に来たれど
 絶ゆることのなく
 果つることなく
 継ぎゐるは
 糸のひとすぢ
 いにしへゆ
 ときはかきはに
 もろひとのかはへを伝ひ
 みなひとのうらを伝ひて
 忘れざる地

 産土はこにありなれどこにあらず産土さてもあれをなす標   遼川るか
 (於:高天彦神社、のち再詠)


 さて、この高天彦神社の参道は、北窪・西窪という集落に通じているそうなのですが、その北窪・西窪界隈を拠点としていたのが、何度か触れている古代豪族の葛城氏です。
 前述の通り、葛城氏はそもそも鴨氏と共にこの地に栄えた氏族ですが、鴨氏と手を結び、次第にその支配下に甘んじるようになっていたのでしょう。...が、その鴨氏も天皇氏に次第に支配されていく中、逆に内部から鴨氏を脅かしていった存在の1つが葛城氏である、と言えると思います。
 葛城王朝は、第9代開化天皇を最後に幕を閉じますが、三輪方面へ移動した天皇氏や、三輪山の宮司の役に就き、同じく移住した鴨氏とは別に、そのまま葛城山麓へ残りかつての葛城王朝期の残存勢力を束ね、大和王朝に恭順しながらも無視しがたい勢力を誇っていたのが、葛城氏です。

 葛城の始祖、と言いますか厳密には葛城王朝をミニチュア版のような形で再興したのが宇智の大野に関して少し触れた武内宿禰。第8代孝元天皇の孫にあたり、第12代景行天皇朝から第16代仁徳天皇朝真で、足掛け5朝に渡って仕えたという長寿の重臣だった人物です。恐らくその権勢は限りなく天皇に近かった、とされていて故に息子の葛城襲津彦命が、改めて葛城氏を名乗ることもできたのでしょうし、葛城襲津彦命の娘・磐之媛も日本史上初の、皇族外出身の皇后となれたのでしょう。
 そしてこの葛城氏からいずれ派生していくのが波多氏、巨勢氏、平群氏、蘇我氏、紀氏などなど。血縁的には天皇氏により近く、三輪山周辺を拠点とした和珥氏と並び、飛鳥時代前半に権勢を誇った大豪族、それが葛城氏です。
 こんな歌まであります。

|葛城の襲津彦真弓新木にも頼めや君が我が名告りけむ
                          作者不詳「万葉集 巻11-2639」


 「武将として名高いあの葛城襲津彦の新木の強い弓のように、わたしを信じていてくださるから、あなたはわたしの名を人に洩らしたのでしょうか」
 ...こんな比喩に登場するほど、ということですね。

葛城の襲津彦真弓〜の歌碑/一言主神社境内

 ただ、歴史的な側面はともかく「万葉集」を語るに当たり、この葛城という名前はとても重要です。「万葉集」4516首。個々に詠草年が判明しているものと、いないものとがありますが、最も古いとされているのが、前述の磐之媛が詠んだ歌群だからです。







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