|日出處天子致書日沒處天子無恙
|書き下し:日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無しや。
                                 「隋書倭国伝」


 こう書かれた国書を携え、ある人物が「丹比道/たじひみち」、後世では竹内街道と呼ばれる道を進み行きました。目指した先は難波の港、そしてその先の海を越えた向こうにあった隋の国。時は推古15年(607年)、人物の名は小野妹子。彼に託された文書に登場する日出づる処の天子、とは推古朝に於ける摂政・厩戸皇子のことであろう、とされています。

|秋7月3日、大礼小野妹子を大唐(もろこし=隋)に遣わされた。
                     「日本書紀 巻22 推古15年(607年)7月3日」
|16年夏4月、小野妹子は大唐から帰朝した。
                       「日本書紀 巻22 推古16年(608年)4月」
|また小野妹子臣を大使とし、吉士雄成を小使とした。
                      「日本書紀 巻22 推古16年(608年)9月5日」
|9月、小野妹子らが大唐から帰った。
                       「日本書紀 巻22 推古17年(609年)9月」


 日本書紀に残る、小野妹子が隋と倭を行き来した記録です。...当時のこの国。ここまでにも、推古朝よりずっと昔のことをあちこちで書いてきていますが、すべてその時々にピンスポットを当てているために、少し判り辛いものがあると思います。
 特に1つ、とても重要な客観的史実をベースに据えないと、誤解の源となりそうですので、改めて書かせて戴きます。

 葛城王朝やそれ以後の、三輪王朝と呼ばれた大和王朝。さらには仁徳朝や、允恭、雄略、武烈、などなど全ては大陸渡来とされている天皇氏を中心とした、この国の歴史ですし、記紀が天皇氏を国政の中心として記述していることも覆しようの無い事実。
 ですが実際の当時は、現代の感覚でいう天皇なり、国政の中心なり、とは多分に様相が異なっていて要は全員、実質的には大豪族の首魁に過ぎず、政治を司っていたといっても、それは同様に存在する他の大豪族たちや、同祖傍流の豪族たちとの間で繰り広げられていた覇権抗争の渦中にありつつ、というものだったということです。

 そう、クーデターのように天皇氏失墜、他の豪族が国政の中心に取って代わる可能性がまだまだ多大に潜んでいたのが、推古朝以前の日本です。...当然、その天皇氏とて時に弱体化したり、衰退しかかったりもしましたし、虎視眈々と覇権を狙う平群氏や、和珥氏や、葛城氏や常にそういう脅威となる存在たちに晒され続けて天皇氏、つまり大和王朝は崩壊寸前にまで追いやられていたんですね。
 やがて台頭したのが馬子率いる蘇我氏と物部氏という2大豪族。それまでに数多の有力豪族が衰退していった中で、逆にそれを追い風として強大になっていった2大豪族の鍔迫り合いの中、もはや天皇氏は形骸というかお飾り、もしくは担いだ者勝ちの御神輿のような存在だったとも言えるでしょう。
 そして中皇命はさておき、記紀による我が国最初の女帝が、そんなきな臭い時代に於いて即位しました。推古です。

 女帝・推古。彼女に関しては色々な見方がされていて、立太子していた摂政の厩戸皇子に実権を握られていた形だけの存在、という印象が強いですが個人的にはそうも思えないんですね。彼女は馬子の姪にあたりますけれど、蘇我氏というあくまでも天皇氏ではない実力者との距離を上手にとって何かとかわしてもいますし、遠ざけようという意図もかなり見られます。また、弱体化する一方の氏族も、国政も、何とか復興させようとして大陸渡来の先進的な文化や技術を積極的に取り入れてもいますね。

 そして、それを全面的にバックアップもすれば、ある程度の青写真を描いた人物こそが推古の甥にあたる厩戸皇子、別名・豊聡耳皇子その人だったのでしょう。
 厩戸皇子。彼が推古と共に成したもの。それが冠位12階や17条の憲法の制定で、これによってこの日本という国は、史上初めて中央集権国家となったわけですね。特に17条の憲法という我が国最初の成文法は、明確に記しました。国家とは君・臣・民の三要素からなるという新しい国家観と政治思想を、です。これによって天皇氏が国政の中心である、という観念は鎌倉時代、つまりは武家社会の到来までほぼ、不動となります。
 ...念の為に明記しますが、あくまでも天皇氏、です。天皇という制度を成立させたのは、推古たちよりさらに後世の天武となりますよし。

 そんな、まだまだ混沌にして極めて流動的だった古代社会のエポックメイキングとなった時期。元々あった峠越えの道が日本最古の官道、つまりは現在の国道のような位置付けとして整備されました。これが丹比道、今に言う竹内街道です。

|難波から都へ至る大路を設けた。
                     「日本書紀 巻22 推古21年(613年)11月」


 地理的には、十三峠の南にある信貴山よりさらに南。二上山の南側になります。余談ですが、二上山の北側には穴虫越えという道もありますけれど、こちらはあまり食指が動かなかったので、見送り。わたしが三度登った峠道は、竹内街道でした。
 竹内街道。この道はよくこう呼ばれます。シルクロードの終点、と。ユーラシア大陸に於ける東西文化が行き来した道は、一般に中国は長安が終着点とされていますが、そこから朝鮮半島を通過し、東シナ海を渡って極東・日本にまで文化の交流を齎しました。都が奈良へ移ってからは、シルクロードの終点は奈良ですし、それ以前の都が飛鳥界隈にあった時期では、推古が整備した竹内街道こそが終点・飛鳥へと続く最後の道。

 仏教も、儒教思想も、中央集権という政治思想も、すべては竹内街道を通じてこの島国に渡り、それを貪欲に吸収、血肉とした最初の人物が厩戸皇子なのでしょう。だからなのか、竹内街道沿いには推古、用明、敏達、といった該当時期に即位していた天皇陵や、小野妹子の墓(近江にも彼の墓所、とされている史跡が存在しています)など古墳が実に30基。さらには厩戸皇子の墓がある叡福寺もあります。それゆえに、大阪側の竹内街道界隈は通称・王陵の谷と呼ばれています。さらには、この王陵の谷の先に広がる一帯こそが河内飛鳥、すなわち近つ飛鳥となりますね。
 ただ、十三峠同様にあくまでも、あきづしまやまとゆであって、おしてるやなにはゆ、ではないですから今回、わたしはこれら大阪側の史跡は敢えてすべて見送りました。ただ1点、住所としては大阪府太子町にある竹内街道歴史資料館だけ訪ねてあとは峠を眺めたのみ。すでに天気はすっかり崩れて雨が降り出していました。
 十三峠を降りて平群へ戻り、再び国道168号を南下します。途中、斑鳩界隈や竜田山界隈も一気に通過。この両地は翌日に重点的に見て廻る予定ですから。

 右側の車窓を流れる景色は大津の二上山。こちらもギリギリまで山頂にあるという彼のお墓をお参りしたくて、何とか行けないものかと思案したのですが、山頂までは車で登れないこと。徒歩で登る距離が成人男子の足でも1時間以上掛かるらしきこと。
 そんなこんなから泣く泣く断念。どう考えても自分の体力では無謀だろうな、と。なので、運転しつつもついチラチラと駱駝の瘤のような二上山の尾根を眺め続けました。前方には、前日に走り回った葛城山と金剛山。

 やがて交差する国道166号を右折すると、中将姫伝説の舞台となった當麻町となります。ここから竹内峠とその少し先の歴史資料館まで、時間にしてわずか20分ほどでしたか。一気に走り登りました。
 この日に登った3つの峠の中では、間違いなく1番道幅も広く、路面コンディションもよかったのが竹内街道でしたが、どうもあまりにも現代的に人の手が加えられていて、かなり興醒めしてしまったのも正直なお話。何せバイパス状になってしまっていて、肝心の峠に佇むということも難しく、あれよあれよという間に県境を越え大阪府へ。仕方がないのでそのまま歴史資料館に向かいました。

 竹内街道歴史資料館は、その名の通り竹内街道が辿った歴史に関連する資料を展示してあって、太古は石器の材料であったサヌカイトの産地として。続いて推古による最古の官道として。さらには王陵の谷へと続く葬送の道や太子信仰の道として。時代をかなり下って江戸期の堺商人たちが通った商業の道として。時代別の構成になっていました。
 ただ、思っていた通り和歌という側面ではそれほどの収穫もなく、専ら個人的に好きな厩戸皇子関連の展示物やビデオを見るばかりでしたが。そんな資料館で購入した唯一の資料は「竹内街道沿いの歌碑」という小冊子で、けれども地図と照らし合わせた処、その殆どは大阪側。奈良側も二上山周辺のものばかりで、実際に見学できそうな碑は2つだけ、と判明したのには、何とも落胆してしまいまして。
 ともあれ、先ずは厩戸皇子が残した歌を幾つか。

|しなてる 片岡山に、
|飯に飢て 臥せる
|その旅人あはれ。
|親無しに 汝生りけめや、
|さす竹の 君はや無き。
|飯に飢て 臥せる
|その旅人あはれ。
             厩戸豊聡耳皇子「日本書紀 104 推古21年(613年)12月1日」


 これは、厩戸皇子が片岡(現・奈良県香芝市今泉界隈)に出向いた際、道に人が倒れていたので、食べ物と自身が着ていた服を与え、
「安らかに眠れ」
 と告げて詠んだもの。因みにこの2日後に皇子が使いを出すと、倒れていた者はすでに絶命していた、と。なので手厚く埋葬したのですが、さらに数日後。皇子曰く件の者は聖者であろうから、もう1度見てきて欲しい、とまた使者を出して。使者が見たものは、墓を動かした形跡はないのに亡骸はなくなっていて、皇子から賜った衣服だけが棺の上にきちんと畳んで置かれていた様。そして使者が持ち帰った衣服を皇子は、何事も無かったかのようにまた身に纏ったんですね。それを見ていた周囲の人々は、聖は聖を知る、と大層驚いた、と日本書紀に記述されています。また、この行き倒れの人物こそが達磨の化身とされて、皇子がこの地に草創したのが達磨寺なのだといいます。

 この伝承自体は、日本霊異記や日本往生極楽記、今昔物語あたりにも語り継がれていて、いかにも役行者や行基ともよく似た雰囲気ですね。そして、この飢人伝にもう1首添えられるかのような歌が「万葉集」にあります。

| 題詞:上宮聖徳皇子が竹原井にお出かけになった時、龍田
|    山の死人を見て悲しんでお作りになった歌一首
|家にあらば妹が手まかむ草枕旅に臥やせるこの旅人あはれ
                         上宮聖徳皇子「万葉集 巻3-415」


 あくまでも「万葉集」の記述を信用するのなら、こちらの舞台は竜田山、となりますがどうなんでしょうね。

 それから面白いのが拾遺和歌集で、件の「しなてるや〜」の歌の異形が採られているのですが、それへの返歌として飢人の歌まで採られているんですね。

|しなてるや片岡山に飯に飢ゑて臥せる旅人あはれ親無し
                      聖徳太子「拾遺和歌集 巻20 哀傷 1350」
| 題詞:飢ゑ人のかしらをもたげて御かへしを奉る
|斑鳩やとみの小川の絶えばこそ我が大君の御名をわすれめ
                詠み人知らず 飢ゑ人「拾遺和歌集 巻20 哀傷 1351」


 引用歌一括で。「しなてる」は片岡山、「しなてるや」は片を、それぞれ伴う枕詞。...この2首は、やはり原典の日本書紀や「万葉集」というより、日本霊異記を始めとする様々な説話を受けてのものなのでしょう。


 続きまして、奈良側の竹内街道沿いにある石碑についてです。資料館を後にして再び奈良側へ戻る途中、肝心の竹内峠では、何とかバイパスから外れ旧道に立ち寄ることができまして、そのまま訪ねた旧峠では、歌碑も見つけられました。...が、情けないことに掘られている歌について、殆ど知識がありませんで。

|我思ふ心もつきぬ行く春を越さでもとめよ鶯の関
                               康資王母「明玉集」


 歌碑自体は司馬遼太郎先生の筆によるもの、とのことですから中々に見応えもあったのですが、さて。問題は歌です。資料館で購入した資料には明玉集に所収されている、と書かれていましたけれど、その明玉集がよく判らなくて、何でも鎌倉末期に編集されたもの、とのことですが。
 ただ、この歌に登場する鶯の関。こちらについては少しばかり予備知識がありました。鎌倉時代末期に、この竹内峠の近くに設けられた関所なんですが、けれども明玉集の成立が鎌倉中期ですので、これは一体どういうことなのか、と。
 恐らくは鎌倉末期以前にも規模はともかく関所らしきものが存在していたのではないか、と考えられます。だとしたら、もしかすると関係があるかも知れない記述が、日本書紀にあります。

|この月、初めて竜田山、大坂山に関所を設け、難波に羅城を築いた。
                      「日本書紀 巻29 天武8年(679年)11月」


 この記述のうち後世、鶯の関と呼ばれたやも知れないのは大坂山の関の方です。といいますのも日本書紀ではやはり竹内街道沿いにある孝徳天皇陵を、大坂磯長陵、と記しているものですから恐らくは天武の時代、この一帯は大坂の地と呼ばれていた可能性が高く思えてならないんですね。...正直、自身でもかなり強引かな、とは思いますけれど、もし本当に竹内街道にあった鶯の関が、大坂山の関とイコールで結ばれるならば幾つかの矛盾は確実に解消されます。
 また同時に、わが国最古の官道であった竹内街道に、同じく最古の関所が設けられたというのも、それほど無理筋な推測ではないように思います。
 蛇足になりますが、百人一首で蝉丸や清女が詠んでいる逢坂の関は、京都と大津の間にあったもので、この大坂山の関とは別物であることを、念の為に書き添えておきます。

 こに出でゝこにそ暮るれば
 日の出づる国に日降す恙無く
 海処
 陸処もひとのゆく
 玉鉾の道
 影面も背面も継ぎて
 日緯も日経も継ぐ
 いで問はむ
 こはいづへとや
 このいづへ
 たれのこに答へらるゝか
 たれもこに答へらるれば
 あはになあなぐりそねを思ふ
 むねと初めの道のへに
 降りて積む時
 積む土に
 あらたしき道またも成り
 また積みかつもまた成りて
 継ぎゐるものは
 とこしへに交はし継ぎゆく
 いにしへといまゝたけふの通ひ合ふ橋

 世にあるはみな橋なるを道とせばいかに離れど、いかに懸くれど

 言霊も歌も橋なるとふ思ひて弥見がほしきあれのたなうら   遼川るか
 (於:竹内峠、のち再詠)


 さらにもう1つ余談ではありますが、この鶯の関からふと思い出したこと。全く関係のない内容なのですが、前述の通りこの街道沿いには大化の改新時に即位していた孝徳天皇陵もあるんですね。大阪側ですけれども。そして、その孝徳の御陵の別名が鶯の陵です。清女が枕草子の中でこう書いています。

|山陵は、うぐひすの陵。柏原の陵。あめの陵。
                       清少納言「枕草子 19段“山陵は”」



 もう1つの石碑は、歌碑ではなく句碑でした。峠を降りてそれなりに賑わう當麻町へと戻る道すがら、わざと脇道を選んだんですね。何故なのか。はい、暗峠に当時の小京都のような風情を残す一画があったように、こちら竹内街道も同様。竹内集落といって、暗峠が黒壁ばかりだったのに対して、こちらは白壁、漆喰造りの町並みが細い通りの両側に連なっていました。
 そして、この竹内集落にかつて暮らしていたのが、芭蕉の門下であった千里(粕屋甚四郎)。そう、芭蕉が野ざらし紀行の冒頭にて

|何某千里といひけるはこの旅路の助けと成りて万いたはり、心を尽し侍る。常に莫逆
|の交り深く朋友に信あるかなこの人。
                            松尾芭蕉「野ざらし紀行」


 と記した人物の出身地なんですね、竹内は。...個人的には江戸期の文献は有名なものを斜め読みした程度の状態なので、相当怪しくなってしまいますが、確か芭蕉は笈の小文の時と、この野ざらし紀行の時と併せて2回、当地を訪ねていたと思います。

|綿弓や琵琶になぐさむ竹のおく
                            松尾芭蕉「野ざらし紀行」


 千里の屋敷跡は現在、開放されて休憩所になっていました。庭は芭蕉公園と呼ばれていたようで、かなり驚きましたけれども。肝心の句碑は、千里旧宅跡にほど近い綿弓塚にあり、掘られていたのは上記引用の句でした。
 この竹内街道に纏わる芭蕉やその門下の者たちによる説話も、実際の句もかなりあって、わたしでは得られない感慨も俳句畑の方ならきっと一入ではないかな、とも思いましたが。

 世の道はみな繋がりぬ山帰来       遼川るか
 (於:竹内集落、のち再吟)


 竹内集落を抜けてまた、近鉄の線路やら大きな県道やらの辺りまで来て、もう1度竹内峠を振り返りました。「万葉集」には、直接この峠や街道を詠み込んだらしき歌は採られていません。ただ1首だけ、様々な物議を醸している歌はあります。

|明日香川黄葉流る葛城の山の木の葉は今し散るらし
                       作者不詳「万葉集 巻10-2210」 再引用


 実はこの歌、前作と本作併せて実に3回目の引用でして、地味ながら一連のあきづしまやまとゆという私的紀行文の中で最もヘビィ・ローテーションとなっているんですね。...それもすべてはこの歌に纏わる物議がそうさせている、と言ってしまっていいと思います。

 前述している通り、飛鳥という地名は現・奈良県明日香村の遠つ飛鳥と、大阪は河内、現・羽曳野市界隈の近つ飛鳥とがあり、この歌の明日香川とは一体どちらの飛鳥を差しているのか、ということですね。極めて現実的な説として葛城山の紅葉が奈良の明日香川に流れるわけがないので、これは近つ飛鳥のことであるとするものが1つ。ですがその一方で、やはり風情からして奈良の遠つ飛鳥のことである、とするものが1つ。
 ...というわけで前作の大和飛鳥川に関して引用し、本作の葛城に関しても引用し、そして三度、近つ飛鳥へと続くこの竹内街道でも引用させて戴いた次第。また、この歌を本歌取りしたものが新古今集に採られています。しかも人麻呂作、として。

|飛鳥川もみぢ葉流る葛城の山の秋風吹きぞしぬらし
                    柿本人麻呂「新古今和歌集 巻5 秋歌下 541」


 単に詠み人知らずの歌の作者が、時代の経過の中で人麻呂作、という説に固着されてしまっただけなのか。あるいはその逆で、本来が人麻呂作だったものの、万葉期には何らかの理由で作者名が伏せられてしまい後世、それがようやく開示されたのか。
 正直「万葉集」から21代集へ、という和歌の歴史からすれば、どちらもあり得ることだと思っています。似た例はそこそこありますので。

 やはり、判らないものですね。この本歌たる1首をとっても、「万葉集」は、上代文学は、判らないことだらけです。上述している厩戸皇子にしてもそうです。わたしたちは彼を当たり前のように聖徳太子と呼び、かつては高額紙幣にその肖像が描かれていたほどのまさに古代史随一の著名人です。
 ...が、そんな著名人の彼ですら、厩戸皇子という人物の実在こそ疑うべくもないですが、「聖徳太子」という人物は、存在の真偽が未だに議論されています。曰く、日本書紀編纂の際に理想的な天皇像として捏造されたのではないか、と。
 聖徳太子という記述が最初に登場するのは懐風藻です。

|逮乎聖徳太子 設爵分官 肇制礼義 
                                  「懐風藻序」


 聖徳太子という人物がもし、架空のものだとしたならばもはやこの国の歴史そのものが大きく引っくり返ってしまいます。彼が生きた600年代後半からすでに1400年。この膨大な時間に積み上げられたものが根底から変転を余儀なくされてしまう、と言いますか...。
 疑い出せば、物事は切りがないですし、推測に推測を重ねた処でそれは恐らく実質から加速度的に懸け離れていくのが、歴史にしても何にしても同様に言えることなのでしょう。これはかつて自分自身が疑心暗鬼にかられて、何を信じていいのか判らなくなってしまっていた時期が長くあったからこそ言えることなのですが、それらを経た上で今しみじみ実感しているのは、やはり真実は誰も知りうることが出来ない、ということでしょうか。

 なきことの祝とそ思ふ、いつしかと祈ひしもうらに生れたれば みづ  遼川るか
 (於:竹内集落、のち再詠)








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