時刻はすでに4時近くなっていました。これでも随分と早足で周ってきているのですが、やはりあれこれと時間のロスは重なってきていますね。本来ならば、万葉巡り3日目はここ、吉野で終われるはずでした。でも何分、初日に見つけられなかった衾道への再チャレンジをこの後にもってこようとしていましたから、とにかく急がなくてはなりません。
 前述している通り衾道は大和盆地の東側。吉野からはもう少し東へ進んだのちに北上、というルートになります。雨脚はどんどん強まってきていて、それを受ける吉野の川音が、一層圧がかかるようにして響いていて。...すこし心細くなっていました。

 知らない土地に独り、というシチュエーションは時にちょっと驚くくらい人を弱くしてしまうものだ、と旅先でよく感じます。個人的にはこれに加えて、かなり重度の喘息という爆弾を背負っていますし、今回は貧血の方もやはり多少は気がかりでしたしね。
 でも、それだからこそ
「届きそうかな、届けたかも知れない...」
 と思える感慨もまた、あります。

 「万葉集」に限らず、上代歌謡に限らず、凡そ古典和歌というものの材として旅は、ずっと不動の存在でした。もちろん平安期も、中世もです。
 旅=レジャー、という公式が固定化してしまった現代とは違い、往時の旅は1つ間違えば死に繋がるものだったのだ、と思います。...もちろん、現代だって飛行機事故などはないとは言えませんし、客死という言葉もいまだ存在していますけれどね。ですがやはり、可能性は桁が違っていたことでしょう。

 生命の危機と隣り合わせになった時。心からの恐怖と対峙している時。人は何を最初に思い浮かべるのか。
 ...このプリミティブな問いの答えが、和歌の世界には溢れています。雷丘でふれた“食べられる”という恩恵に対しても同様ですけれど、わたしたちは死という概念から、随分と乖離してしまっている気がしますし、それは同時にその表裏一体の生という概念からもまた、随分と乖離してしまっている、ということのように感じています。
 自身にとってはかなりな弱点で実際、色々な制約を甘受しなければならない持病たちなのですが、だからこそ多少は、万葉期の旅人たちが感じた不安や、恐怖を、自身の中に再現できるのかも知れない、と。
 そんな風に思えることもまた、万葉巡りの恩恵なのでしょう。

 車は昨夏に来た宮滝界隈を走り抜けます。急ぎたいのは山々だったのですが、吉野にはもう1ヵ所、寄り道したいポイントがありました。...いや、前回も訪ねたんですけれどね、訪ねたんですけれど、当時のわたしでは半ば素通りにも近い感覚でしか接することができなかった場所。
 前作でもご紹介した、吉野の菜摘です。吉野宮の遺跡がある宮滝よりほんの少し吉野川の上流に位置する地区なのですが、「万葉集」4516首の中でこの菜摘を唯一詠んでいるのが湯原王。光仁天皇と並ぶ、志貴の子どもです。

 わたしが知る範囲では、志貴の子どもたちのうち歌が残っているのは、恐らく湯原王と、聖武天皇の妃となった海上女王くらいだと思います。

|梓弓爪引く夜音の遠音にも君が御幸を聞かくしよしも
                          海上女王「万葉集 巻4-0531」


 ですが、志貴に近い印象のお歌かな、と感じられるのは、湯原王の方だと感じますね。

|吉野なる菜摘の川の川淀に鴨ぞ鳴くなる山蔭にして
                           湯原王「万葉集 巻3-0375」
|秋萩の散りの乱ひに呼びたてて鳴くなる鹿の声の遥けさ
                           湯原王「万葉集 巻8-1550」
|夕月夜心もしのに白露の置くこの庭にこほろぎ鳴くも
                           湯原王「万葉集 巻8-1552」


 「万葉集」には19首ほど採られていますが、その大部分は実は相聞歌。巻4に収められている娘子とのやりとりは、家持や坂上たちの相聞と併せて、万葉より後の平安・王朝へと続いてゆく和歌の流れの兆候が、すでに見え始めている気がします。

|目には見て手には取らえぬ月の内の楓のごとき妹をいかにせむ
                           湯原王「万葉集 巻4-0632」
|ありと見て手にはとられず見れば又ゆくゑもしらず消えしかげろふ
                          紫式部「源氏物語 蜻蛉の帖


 もっとも、
「妹をいかにせむ」
 とあっけらかんと言ってしまうあたりがやっぱり、ますらをぶりの万葉歌なんですけれども。
 いずれにせよ、個人的には湯原王のお歌の魅力は、こういった相聞よりも、むしろ叙景のものに強く感じます。...わたしが叙情より叙景を選択するなんてことは、そもそもかなり珍しいのですが。
 そんな彼の叙景歌の1首が菜摘界隈を詠んだもの、と。

 いや。もしかしたら、単にわたしは志貴を手繰り寄せたかっただけなのかも知れません。決して意図したわけではないのですが、今回の万葉巡り、歌人としてはどうも志貴と人麻呂から離れることができていないように、朧げに感じていました。
 前述もしていますが、片や自らをコントロールした韜晦、片や自らではコントロール不能だった韜晦。自らを隠していながらも、恐らくは隠し切れずに洩れてしまっていたであろう思いは、1300年を経た現代でも人々を魅了し続けている歌だと思っています。そして、そういった彼らの歌という謎に、わたしも掴まってしまった、ということなのかも知れません。

 菜摘の十二社神社は、やはり雨の所為か昨夏とは印象が全く違っていました。そして、湯原王が聞いたという鴨の声は、当然ですけれど聞こえません。季節ももう春というより初夏に近いですし、何よりもこの雨音です。
 万葉に詠まれている鴨は、えてして秋から冬を指すもの。湯原王が詠んだのも、そんな物悲しい秋の光景か、さもなくば厳しい冬のものだと考えられます。そう思うと、吉野の川も一気に違って感じられて来ますね。

|葦辺行く鴨の羽交ひに霜降りて寒き夕は大和し思ほゆ
                          志貴皇子「万葉集 巻1-0064」


 吉野ではないですが、やはり都から離れた難波にいた志貴は、冬の鴨の鳴き声に望郷の思いを寄せました。一方の湯原王は望郷ではなく何を思っていたのでしょうね。身勝手な感覚論に過ぎませんが、わたしには鴨の声に生命力を見ているようにも感じますし、けれども同時にある種の無常観のようなものも感じます。
 もっと言ってしまうと、志貴よりはずっと貴族的といいますか...。何処かで切迫感が希薄かな、と思ってしまうのは志貴贔屓のわたしの欲目なのか、それとも志貴という人の立場を知ってしまっているがゆえのバイアス、なのかも知れません。

 いやはや、すっかり父子の歌比べなどという無粋なことを考えてしまいました。これでは湯原王に随分と失礼ですね。
 ただ、個人的な思い入れは別として、彼の相聞歌。わたしが言うのも難ですけれど巧いな、と感じさせられるものは多いです。

|月読の光りに来ませあしひきの山きへなりて遠からなくに
                           湯原王「万葉集 巻4-0670」
|玉に貫き消たず賜らむ秋萩の末わくらばに置ける白露
                           湯原王「万葉集 巻8-1618」


 湯原王。その足跡は「万葉集」にあるだけで、実は記紀には何も記載されていません。ただ、「万葉集」の数首の題詞に、こう明記があるのみです。

| [志貴皇子之子也]
                         「万葉集 巻4-0631〜0634 題詞」


 ...はてさて、一体わたしはどうして、菜摘に寄りたくなってしまったのでしょうね。正直、自分でも良く判りません。でも、確かに寄りたかったことだけは、事実です。

 あがうらであれあれ知らに
 吉野なる菜摘の川に
 寄り来ては
 陰なるゆゑかあがうらの
 影をあなぐりまくほしく
 いでな思ひそ
 思ひても
 手には取らえぬ
 目には見て手には取らえぬ月のごと
 世には見えゝぬものゝふさ
 手には取らえぬものもふさ
 ありと見れどもなきものも
 なきと見れどもあるものも
 いづらもひとし
 また沁むる
 いづらもむがし
 なきことの祝知れるは
 ゆく道の暗き知れると
 違はずにゆく草枕
 旅にし在るは

 みづを聞きやすくなりゐるうらなれば見ゆるゆ聞こゆるとふを頼まむ 遼川るか
 (於:菜摘十二社神社、のち再詠)


           −・−・−・−・−・−・−・−・−・−


| 題詞 柿本朝臣人麻呂、妻死りし後、泣血哀慟作歌二首[短歌も并たり]
|天飛ぶや 軽の道は
|我妹子が 里にしあれば
|ねもころに 見まく欲しけど
|やまず行かば 人目を多み
|数多く行かば 人知りぬべみ
|さね葛 後も逢はむと
|大船の 思ひ頼みて
|玉かぎる 岩垣淵の
|隠りのみ 恋ひつつあるに
|渡る日の 暮れぬるがごと
|照る月の 雲隠るごと
|沖つ藻の 靡きし妹は
|黄葉の 過ぎて去にきと
|玉梓の 使の言へば
|梓弓 音に聞きて
|言はむすべ 為むすべ知らに
|音のみを 聞きてありえねば
|我が恋ふる 千重の一重も
|慰もる 心もありやと
|我妹子が やまず出で見し
|軽の市に 我が立ち聞けば
|玉たすき 畝傍の山に
|鳴く鳥の 声も聞こえず
|玉桙の 道行く人も
|ひとりだに 似てし行かねば
|すべをなみ 妹が名呼びて
|袖ぞ振りつる
                         柿本人麻呂「万葉集 巻2-0207」
|題詞 短歌二首
|秋山の黄葉を茂み惑ひぬる妹を求めむ山道知らずも
                         柿本人麻呂「万葉集 巻2-0208」
|題詞 短歌二首
|黄葉の散りゆくなへに玉梓の使を見れば逢ひし日思ほゆ
                         柿本人麻呂「万葉集 巻2-0209」
| 題詞 柿本朝臣人麻呂、妻死りし後、泣血哀慟作歌二首[短歌も并たり]
|うつせみと 思ひし時に
|取り持ちて 我がふたり見し
|走出の 堤に立てる
|槻の木の こちごちの枝の
|春の葉の 茂きがごとく
|思へりし 妹にはあれど
|頼めりし 子らにはあれど
|世間を 背きしえねば
|かぎるひの 燃ゆる荒野に
|白栲の 天領巾隠り
|鳥じもの 朝立ちいまして
|入日なす 隠りにしかば
|我妹子が 形見に置ける
|みどり子の 乞ひ泣くごとに
|取り与ふ 物しなければ
|男じもの 脇ばさみ持ち
|我妹子と ふたり我が寝し
|枕付く 妻屋のうちに
|昼はも うらさび暮らし
|夜はも 息づき明かし
|嘆けども 為むすべ知らに
|恋ふれども 逢ふよしをなみ
|大鳥の 羽がひの山に
|我が恋ふる 妹はいますと
|人の言へば 岩根さくみて
|なづみ来し よけくもぞなき
|うつせみと 思ひし妹が
|玉かぎる ほのかにだにも
|見えなく思へば
                         柿本人麻呂「万葉集 巻2-0210」
|題詞 短歌二首
|去年見てし秋の月夜は照らせれど相見し妹はいや年離る
                         柿本人麻呂「万葉集 巻2-0211」
|題詞 短歌二首
|衾道を引手の山に妹を置きて山道を行けば生けりともなし
                         柿本人麻呂「万葉集 巻2-0212」
| 題詞 柿本朝臣人麻呂、妻死りし後、泣血哀慟作歌二首[短歌も并たり]或本の歌曰く
|うつそみと 思ひし時に
|たづさはり 我がふたり見し
|出立の 百枝槻の木
|こちごちに 枝させるごと
|春の葉の 茂きがごとく
|思へりし 妹にはあれど
|頼めりし 妹にはあれど
|世間を 背きしえねば
|かぎるひの 燃ゆる荒野に
|白栲の 天領巾隠り
|鳥じもの 朝立ちい行きて
|入日なす 隠りにしかば
|我妹子が 形見に置ける
|みどり子の 乞ひ泣くごとに
|取り与ふ 物しなければ
|男じもの 脇ばさみ持ち
|我妹子と 二人我が寝し
|枕付く 妻屋のうちに
|昼は うらさび暮らし
|夜は 息づき明かし
|嘆けども 為むすべ知らに
|恋ふれども 逢ふよしをなみ
|大鳥の 羽がひの山に
|汝が恋ふる 妹はいますと
|人の言へば 岩根さくみて
|なづみ来し よけくもぞなき
|うつそみと 思ひし妹が
|灰にてませば
                          柿本人麻呂「万葉集 巻2-0213」
|題詞 短歌三首
|去年見てし秋の月夜は渡れども相見し妹はいや年離る
                          柿本人麻呂「万葉集 巻2-0214」
|題詞 短歌三首
|衾道を引手の山に妹を置きて山道思ふに生けるともなし
                         柿本人麻呂「万葉集 巻2-0215」
|題詞 短歌三首
|家に来て我が屋を見れば玉床の外に向きけり妹が木枕
                         柿本人麻呂「万葉集 巻2-0216」


 いまさらではありますが「万葉集」3大部位である雑歌、相聞歌、そして挽歌。挽歌にも色々ありますけれど、とりわけ際立っている歌人はやはり人麻呂でしょう。
 前作で引かせていただいた高市皇子への挽歌や、草壁への挽歌も、それこそ人麻呂節と呼びたくなってしまうような彼一流のものですが、衾道の地に因む歌群は、それらとはやや一線を画す、と言ってしまっていいと思います。

 官人として、自らが仕えていた尊ぶべき存在に対する挽歌。それも恐らくは何らかの儀式で上奏もしなければならなかったであろうものは、やはり何処となく体温に違和感があるのかも知れませんね。やたらと熱かったり、ややもすると何となくぬるく感じたり。
 ですが、人麻呂自身の身内の挽歌となれば、いかな韜晦の歌聖と言えども、滲み出てしまうぬくもりは隠そうとも隠せなかったのだ、と思います。

 吉野からではかなりの移動距離でした。吉野、大宇陀、桜井、橿原、田原本、そして天理まで来ると、もはや辺りは薄暗く、しかも気温が下がってきているからかガスが立ち込め始めていました。
 目指していたのは天理市にある衾田陵と、その近くにあるという人麻呂の歌碑です。

 衾道。地名である、とする説と枕詞である、とする説があります。ただ、地名であるならば衾田陵の周辺のことだ、されていますし、枕詞であるならば引手の山という地名を導く、とされていますから、正直なところ本質的には、どちらでもいいかな、というのがわたしの考えです。
 また、引手の山というのは現在では龍王山、と呼ばれる山である、というのが定説となっていますね。


 衾田陵に眠っているとされているのは、宮内庁の定めるところによれば手白香皇女。第26代継体天皇の皇后とされている人なんですが、どうもこれが諸説入り乱れているみたいです。
 というのも考古学的に導き出される被葬年代と手白香皇女の生きていた時代がどう見積もっても200年くらいは格差があるらしく...。

 念の為に日本書紀を読み直してみましたけれど、彼女が没したことについては記載がないようです。でも、わたしがここを訪ねた理由とは、関わりが殆どなさそうなので、擱いてしまいましょう。
 では、わたしが衾道へ来た理由は何なのか。...はい、これもまた人麻呂となります。上記引用している歌群は題詞の通り、人麻呂が自らの妻を失った際に詠んだ、とされているまさしく挽歌なのです。

 引手の山に妻を埋葬し、その帰りに歩いていた道。これが衾道となりますが、そもそも衾とは寝具の1種。白い布でつくった掛け布団のようなものです。
 俳句の冬の季語にも襖とは別に、衾というものがちゃんとありますね。もちろん意味も、同じく掛け布団のようなもののこと、となっています。

 ですが同時に衾には別の役割もあるんですね。現代でも、仏式の葬儀では棺の中に一重衾を敷きますけれど、何でも万葉期は棺を衾で覆った、とのこと。そして白い棺は埋葬地へと運ばれるわけで、衾道は黄泉路、あるいは葬送の道、という解釈が一般的には採られています。







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