やがて清寧も崩御し、即位した顕宗(弘計王)が即位の翌月に行ったのが古老たちへの問い掛けでした。...はい、
「野中で果てた父・市邊忍歯王の亡骸が埋まっている場所を、知っている者はいないか」
 と。集めた古老たち一人ひとりに尋ねてゆくと、置目という老婆が進み出ます。

|「置目、御骨の埋める処を知れり。請ふ、以て示せ奉らむ」
| とまうす。是に、天皇と皇太子億計と、老媼婦を将て、近江国の来田絮の蚊屋野の
|中に幸して、掘り出して見たまふに、果たして婦の語の如し。穴に臨みて哀号びたま
|ひ、言深に更慟ひます。古より以来、如斯る酷莫し。仲子の尸、御骨に交横りて、能く
|別く者莫し。爰に磐坂皇子の乳母有り。奉して曰さく、
|「仲子は、上の歯堕落ちたりき。斯を以て別くべし」
| とまうす。是に、乳母のまうすに由りて、髑髏を相別くと雖も、竟に四支・諸骨を別
|くこと難し。是に由りて、仍蚊屋野の中に、双陵を造り起てて、相似せて如一なり。
                「日本書紀 巻15 顕宗天皇 顕宗元年(485年) 2月」


 つまりようやく見つけた市邊忍歯王の遺骨は、一緒に殺されてしまった佐伯部売輪のものと交じり合ってしまっていて、頭蓋だけは何とか判別できたものの、その他の遺骨は別けられなかった、ということですね。そのため、この地に双子の御陵を造ったのだ、と。

 余談になりますが、遺骨発見の立役者となった置目という老婆です。彼女はその功績を称えられて宮の近くに住まわされ、顕宗によって何不自由なく暮らせるように取りは計らわれました。足元が覚束ない彼女のために綱が張られ、また、彼女が来たことがすぐに判るように、と今で言う呼び鈴の役割となる鈴も設えられたんですね。
 そんな、置目がやって来る景を顕宗が謡った歌が、記紀それぞれに収められています。

|浅茅原 小を過ぎ 百伝ふ 鐸ゆらくもよ 置目来らしも
                「日本書紀 巻15 顕宗天皇 顕宗元年(485年) 2月」
|浅茅原 小谷を過ぎ 百傳ふ 鐸響く 置目来らしも
                          「古事記 下巻 1 置目老媼」


 さらにはこの置目、もう綱に掴まっても歩くのに難儀するようになると、故郷へと帰るのですが、その際に顕宗が彼女を見送った歌もありますね。

|置目もよ 近江の置目 明日よりは み山隠りて 見えずかねあらむ
                「日本書紀 巻15 顕宗天皇 顕宗2年(485年)9月」
|置目もや 淡海の置目 明日よりは み山隠りて 見えずかもあらむ
                         「古事記 下巻 1 置目老媼」


 わたし自身は今回の古歌紀行で訪ねていませんが、この置目を祀った神社も東近江市と隣接する日野市にあるようです(馬見岡綿向神社の摂社・村井御前神社)。

 ほんのついさっき。本当にまだ近江国入りして1時間も経っていないというのに、もう古代史の迷路の真っ只中へ自身が放り込まれた気がしていました。こんもりと隆起している2つの御陵。しかしその敷地を囲う柵の向こうには、当たり前のように現代の民家が所狭しと立ち並んでいるのが垣間見えています。
 御陵そのものも正直、あまりに日本書紀の記述そのままで、却ってできすぎのようにも思えてしまっていました。恐らくは、日本書紀の内容になぞらえて後世、造られた御陵なのでしょうね。...因みにこの双陵に纏わる記述は古事記と先代旧事本紀には残っていません。


 ですが肝心なのは御陵がどうか、ということではなく、やはりまだまだ流動的だった当事の大和王朝、あるいは天皇氏と他の豪族たち、という図式なのだと思います。実は、この顕宗・仁賢が発見され即位に至るまでの間に、とても興味深い記述が日本書紀はもちろん、それとほぼ語句も変わらない状態で先代旧事本紀にも存在しています。曰く

|是の月に、皇太子億計王と天皇、位を譲りたまふ。久にして処たまはず。是に由りて、
|天皇の姉飯豊青皇女、忍海角刺宮に、臨朝秉政したまふ。自ら忍海飯豊青尊と称りた
|まふ。当世の詞人、歌して曰はく

| 倭辺に 見が欲しものは忍海の この高城なる 角刺の宮
              「日本書紀 巻15 顕宗天皇 即位前紀(清寧5年1月)」

|時に、皇太子億計王と天皇と、位を譲りたまふ。久にして処たまはず。天皇の姉飯豊
|青皇女、忍海角刺宮に、臨朝秉政したまふ。自ら忍海飯豊青尊と称りたまふ。
                   「先代旧事本紀 巻8 神皇本紀 清寧天皇」


 中皇命。「あきづしまやまとゆ・弐」で少し書きましたが、天皇不在の時期に中継ぎとして臨時に即位した女帝たちのことです。但し、日本書紀が記す皇統には、彼女たちはカウントされていませんが。
 つまり、上記引用部が語っているのは、その中皇命の1人である、飯豊青皇女が、皇位を譲り合う兄弟に代わって、臨時にまつりごとを執ったのだ、と。この飯豊青皇女は現在、ほぼ定説となりつつある中皇命たちの中でも、最も古い時期の存在となります。

 ...すみません。もういい加減、記紀のこの手の記述に触れ続けて来ているからなのでしょう。もはや、わたしにはとてもじゃないですがこの一連の流れ自体が素直には読めないですし正直、
「解せないなあ」
 とも。つまり跡継ぎがいなかった清寧が、はとこである顕宗・仁賢を見つけて朝廷に迎え入れることも、迎え入れられた兄弟が皇位を譲り合うことも、そしてその空白の期間に中皇命として臨時即位していたという飯豊皇女のことも、すべてです。
 さらにもう1つ、ダメ押しとも思える記述が日本書紀にのみあるんですね。

|秋七月に、飯豊皇女、角刺宮にして、与夫初交したまふ。人に謂りて曰はく、
|「一女の道を知りぬ。又安にぞ異なるべけむ。終に男と交はむことを願せじ」
| とのたまふ。
                「日本書紀 巻15 清寧天皇 清寧3年(482年)7月」


 ...何とも下世話な記述です。よりによって勅命により編まれた日本書紀に、何だってこんなことまで明記されているのでしょうか。わたし自身、まだまだくっきりとして輪郭が描けるほどの推測...、もとい。空想はできていません。
 ただ、このいかにも後から造られました、と言わんばかりの双陵を目の前にして思ってい待ったのは、顕宗・仁賢自体が実質的には天皇氏の血筋を継いでなかった可能性が高いのではないか、と。そして、それを隠蔽するための美談や、下世話なあれこれが、皇統の正統性確立の為に必要だったのではないか、と。

 そもそも天皇の空位も、ましてやその期間を正式に即位はしなかった女帝が司っていたことも、日本書紀にはすでに前例があります。はい、神功皇后ですね。
 第14代仲哀天皇の皇后だった彼女は、早世してしまった仲哀の後を継いで国を纏め、あまつさえ半島にまで攻め込んでいます。そして、その帰途で生まれたのが第15代応神天皇となりますが、いずれにしてもこういう前例がある以上、どうにも飯豊皇女に関わる記述自体が不自然です。
 かと思えば、兄弟による皇位の譲り合いはかなり卑近な例が、日本書紀にはありまして。第16代仁徳天皇の即位前紀です。

 いや、それどころかもっと突き詰めてしまえば、奇異な印象を最大に放っているのは清寧の父親・雄略です。他の時代ならば隠蔽されてもおかしくはない皇位継承のための悪行も、彼の場合は明記されているんですね。これは、ある意味で天皇氏の荒魂といいますか、いざとなったらそういう荒事もやれる力を有している、という側面での肉付けだとしても、それだけではないように思えます。
 身勝手な空想ですが、雄略は氏族内外のライバルたちを徹底して排除していったのでしょうし、その結果、自らの継承者すらも殆どいないような状態までに、粛清あるいは殲滅を繰り返したのではないでしょうか。

 そしてその後を継いだとされる清寧は生まれつき白髪、という異形の者として描かれる。...これはもう、先代の罪を背負ってきてしまったような存在とも言えそうですし、その彼には跡継ぎすらいなかった、と。
 唯一、可能性がありそうだったのは履中天皇の血筋の飯豊皇女。ただ、その彼女が何処の誰とも判らない男の子どもを産んだとしても、それだけでは皇統を継ぐ根拠としては弱すぎるでしょうし、同時に皇族の子どもを産みそうな可能性があるならば、それは皇統を継ぐ有力候補ともなり得ます。
 ...結果として、そのいずれもなく、彼女は中皇命として臨時即位。そして顕宗が後に即位するわけですが、顕宗・仁賢と彼女の関係は姉弟、と。

 どうも、皇統と無関係の存在を皇位につかせる為の、苦し紛れの身元保証として飯豊皇女という“姉”が必要だった気がしてならないんですね。そうわたしが思う根拠の1つがこれです。

|是に由りて、天皇の姉飯豊青皇女〜
            「日本書紀 巻15 顕宗天皇 即位前紀(清寧5年1月)」再引用

|秋七月の己酉の朔壬子に、葦田宿禰が女黒媛を立てて皇妃とす。妃、磐坂市辺押羽皇
|子・御馬皇子・青海皇女 一に曰はく、飯豊皇女といふ。 を生めり。
                「日本書紀 巻12 履中天皇 履中元年(400年7月)」


 言葉を選ばずに書くならば、変です。つまり顕宗・仁賢兄弟の姉であるならば、飯豊皇女は履中の息子である市邊忍歯王(市辺押羽皇子)の、子どもでなくてはならないわけで、なのに後者では同母の妹である、と。
 もっとも、この手の矛盾や食い違いは日本書紀にそこそこ見られますから、それほどは驚かないのですが、そういう食い違いや矛盾があること自体が、もう日本書紀というものの性質を如実に語ってしまっているように思えてならないんですね。
 因みに古事記の記述は市邊忍歯王の妹、というのみ。そして清寧崩御後に、飯豊皇女が自ら顕宗・仁賢兄弟を宮中に迎え入れています。

|御子、白髪大倭根子命、伊波礼の甕栗宮に坐しまして、天の下治らしめしき。この天
|皇、皇后無く、また御子も無かりき。故、御名代として白髪部を定めたまひき。故、天
|皇崩りましし後、天の下治らしめすべき王無かりき。ここに日継知らしめす王を問
|ふに、市邊の忍歯王の妹、忍海郎女、亦の名は飯豊王、葛城の忍海の高木の角刺宮に
|坐しましき。
                    「古事記 下巻 清寧天皇 1 二王子発見」


 古事記のほうが、はるかにシンプルです。明言はしていないものの、やはり古事記も飯豊皇女が中継ぎでまつりごとを司っていたことを言っているようなものですし、その彼女が甥(日本書紀では弟)たちを見つけてきて、めでたしめでたし。皇統断絶の危機は免れたのでしたとさ、という内容です。
 ...いくらなんでも、そんなできすぎた話なんてないでしょうね、やはり。そして、だからこそ日本書紀は余計にややこしくなっているように感じます。実際は彼女の養子のような存在たちを不遇の皇子たち、としたのでしょうし、かといって、神功皇后ですら皇統にカウントされていないのですから、飯豊皇女だって歴代天皇としてカウントすることもできないわけで。
 また、そうやって野から迎え入れられた兄弟は、本来の皇位継承者ではないからこそ殊更、慈悲深くなくてはならないでしょう。結果、もういい加減、日本書紀では手垢ついている皇位の譲り合いをしてみたり、そうかと思えば惨殺されたことになっている父親の遺骨を捜しあて、それに助力した老女さえも、厚く厚く慈しんだり...。そもそも件の遺骨探しそのものが、兄弟の血筋、あるいは天子たる人柄の正統化のために用意されたもののようにすら感じてしまえます。

 さらにもう1つ引っ掛かるのが、これら何とも落ち着かない時期直前の雄略期に雄略の娘で第5代の伊勢斎宮だった稚足姫皇女が、父親から不義密通の疑い持たれ、それに対する抗議と身の潔白の立証として神鏡を持ち出し五十鈴川の畔で首を吊った、という事件も起きていることです。
 後世の持統天皇がそうですが、伊勢斎宮は必ずしもすべての時代に存在したわけではなく、まして女帝期には天皇自らが斎宮も兼ねる場合があるともいいます。稚足姫皇女のあと、記述として残る第6代斎宮は継体天皇期の荳角皇女まで待たなくてはなりません。清寧・顕宗・仁賢・武列・継体、という皇統ですから実に間が空いてしまいますね。
 なので、その空白期に中皇命だった飯豊皇女が伊勢斎宮にも近い役割を担っていたのやもしれず、日本書紀のあの下世話な記述はもしかすると斎宮、という側面からのものだった可能性も考えられます。

 いずれにせよ、自身が何てヘソ曲がりなんだろうとは思います。ですが、そう考えてゆくとこの一連に漂う違和感が悉く払拭できてしまうわけで、近江国での最初の訪問地から、こんな調子でいいんだろうか、と。
 どうにも近江国に申し訳なく自身を恥じてしまっていました。

 まことなることのあらなく
 まことゝはいかなるものと
 ひと知らに
 弥日異にゆき
 弥日異に来つゝいにしへかへりては
 まことのなきをおのづ知る
 あれのまことのたれをかに
 悪しき風とて吹くもあり
 またゝれをかのまことゝて
 あれに流るか荒き水
 もろひとひとしく平らかに
 あるの難きもあらざるも
 沁みゐるゆゑに祈ひ祷まむ
 過ぐる時
 また過ぐる日に月に年なむ
 願はくは世にまことなる呼ばゝるゝを
 まことな思ひそ
 まことなるは世になきを知り
 なきゆゑにあなぐらまくほし
 あなぐるを欲りさむ
 なきを知りゐればこそ

 うつそみにいめをし見まくほしきがひとと
 いめにあればなほしいめをしひと見る欲る    遼川るか
 (於:市辺押磐皇子陵)


 何ともいきなりのトップギアから幕明けした近江国の古歌紀行。この先、どんな感慨が待っているのでしょうか。降り出したかと思えばあがる、9月の雨を見上げながら、この国が見つめ続けてきた歴史の重みを感じて、早くも肌が軽くざわざわして来ているのを、何処かぼんやりと感じていました。

 引用中に地文と一緒に登場している記紀歌謡を再引用しておきます。

|稲筵 川副楊 水行けば 靡き起き立ち その根は失せず
   顕宗天皇「日本書紀 巻15 顕宗天皇 即位前紀(清寧2年(481年)11月)」再引用

|倭辺に 見が欲しものは忍海の この高城なる 角刺の宮
       作者未詳「日本書紀 巻15 顕宗天皇 即位前紀(清寧5年1月)」再引用


       −・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−



|五月五日に、天皇、蒲生野に縦猟したまふ。時に、大皇弟・諸王・内臣及び群臣、皆悉に
|従なり。
              「日本書紀 巻27 天智天皇 天智7年(668年)5月5日」


 日本書紀にたった1行ある記述。けれどもこれが、現代を生きるわたしたちにとっては恐らく、「万葉集」で最も有名ではないか、と思われる歌を歴史的に裏打ちしています。

| 題詞:天皇の蒲生野に遊猟したまふ時、額田王の作る歌
|あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
                         額田王「万葉集 巻1-0020」
| 題詞:皇太子の答へませる御歌
|紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に我れ恋ひめやも
                        大海人皇子「万葉集 巻1-0021」


 はい、近年はどうか知りませんが、少なくともわたしの頃は教科書にすら載っていたあの贈答歌です。...贈答歌。そう、贈答歌であって、ここでわたしが相聞歌、とは決して書かない理由もすでに「あきづしまやまとゆ」や「あきづしまやまとゆ・弐」で書いてきています。
 日本書紀を眺めていると、それまでの飛鳥の後岡本宮から近江大津宮へ遷都したのがこの前年の3月。つまりは、遷都後の様々な雑事もひと段落したのでしょうか。この近江国へ来て、天智が初めて行った宮中あげての一大行事がこの蒲生野薬猟だった、と言えそうなんですね。

 そんな大イベントの後、夜の宴席で面白おかしく謡われたであろう額田と当事の皇太子・大海人皇子のもの、とされている歌たちですが、果たしてどうなのでしょうか。
 現代の感覚ならば、大勢での半ば社員旅行のようなシチュエーションで、昔の恋人同士が人目を忍んで...、とも思いがちですがそこはまだまだ7世紀末。白村江の戦いで大敗し、また専横的な振る舞いを続ける蘇我氏を大化の改新で滅ぼしたばかり、というきな臭さの残る時期に、強行した半ば無謀とも言える遷都直後です。

 きっと宮中の誰もが気忙しく、ピリピリもせずにはいられなかったでことでしょう。そして、それもややひと段落。ようやく実現した宮中上げての大行事です。
 どうにも、いきなり昔の恋人との云々、というような想いが錯綜するタイミングと思えないんですね。それよりもむしろ、人々はやっと迎えた穏やかな世を謳歌したく思っていたのではないか、とわたしは感じます。同時に、そんな時だからこそ得られる解放感から、宴席でコミカルな歌も自然と謡っていたように思えますしね。

 この贈答歌は勅撰説の根強い「万葉集」の巻1、2の巻1に収録。この意味がお判りでしょうか。つまり巻1は雑歌の分類で、一方の巻2は挽歌と相聞歌が分類されている巻なんですね。
 ...もはや、この分類がすべてではないか、と個人的には断定していますし薬猟当時、額田はすでに40代です。万葉期、女性は30代にして“神さび”るとされていましたから、蒲生野での額田は現代で言えば十二分におばあちゃんです。その額田に対して
「紫のにほへる妹」
 と謡うあたりがいかにも宴席の印象ではないか、と。

 例えば、かつては横丁で評判だった看板娘や小町が嫁いで、母親になって、そして老いて。そんな人としても、女性として充分に円熟した頃、かつて恋の鞘当をした、こちらも充分に円熟し、子ども孫もいる男性が、
「あの頃のあんたは可愛かったねえ」
「あらあら、いまだって充分に可愛いおばあちゃんだろう。第一、そう言うあんただって、すっかりじい様じゃないか」
「そりゃそうだ」
 というような懐旧にも近い思いを素地に謡い合うのは、少なくともわたしにはとても素直で、違和感もなく思えます。
 それからさらにもう1つ、興味深い説もあります。

 先の額田の歌はいいのですが、それに答えた「紫のにほへる〜」の歌。この歌の題詞には

|皇太子の答へませる御歌
                       大海人皇子「万葉集 巻1-0021」題詞


 と明記されていて、それに続いて注釈としてこうあるんですね。

|明日香宮に天の下知らしめしし天皇、謚を天武天皇といふ。
                      大海人皇子「万葉集 巻1-0021」題詞


 お判りでしょうか。つまり、この記述があるからこそ、件の贈答歌の当事者が大海人皇子、つまりは後の天武とされているわけで、けれどもそれは果たしてどうなのか、と。
 そもそも「万葉集」はかなり長い時期をかけて、様々な編纂者がその時々の時勢なり、情勢なり、潮流なりに沿って手を入れているのはほぼ間違いありません。なので逆を言えば、注釈そのものの信憑性は如何なものか、ということです。
 ...歌そのものの題詞には、あくまでも
「皇太子が答えた歌」
 としかないわけですから。


 ...とするならば、ここで最大の争点となるのが
「当時の皇太子とは一体誰だったのか」
 ということになるでしょう。そう、天智7年(668年)5月5日の蒲生野遊猟の時、立太子していたのは果たして誰だったのか、と。







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