結局、わたしたちが古に思いを馳せるには、文献として現存しているものに頼らざるを得ません。そう、文字による保存性です。
 けれどもそれは、きっとほんのごくごく一部にしか過ぎず、大部分は過ぎる時代の中で当然のように、そしてそれが本来あるべき形として、失われてゆきました。...古歌紀行に出ると毎回、この自問をわたしはわたしに突きつけられ、そしてわたしはわたしに突きつけてしまいます。曰く
「残すこととそれを守りゆくことは、果たして罪ではないのか。同時に失うにまかせることもまた、果たして罪ではないのか」
 と。...もちろん、罪であったならばどうだという訳でも、またないのですけれども。ただ、単なる個人的な居所のなさのようなものです。単なる戯言、感傷に過ぎません。

 近江にありし歌枕 名にし負ひしか布施の池
 けふに知らえぬ歌あるか 世は移れども池知らに  遼川るか

 まとひては
 なほし問はまくほしきとも
 なほし問はまくほしざるとも
 いにしへの野に風の吹き
 いにしへのみづ風に寄り
 なにをかのりてゐるものか
 なにをか知りてゐたれども
 なほしまとひて
 またまとふ
 あれゆく地のあるがゆゑ
 あれは来りてゐたれども
 あれ来るなへに
 かつもあれゆくなへに問ふ
 問ひ問ひて
 けふのかはべに受くる風
 けふたなすゑにふるゝみづ
 畏まれるか
 千早振る神にあらざる
 空蝉のひとなれどかく天地のむたにあらざる玉の緒に
 ひとにしてなほ天地に逆らむをほる息の緒に
 しかもな忘れそ
 玉の緒の絶ゆはことはり
 よろづよにえ違はざるもの
 変はらえぬものにありせば
 まとふなど
 いやしまとはむ
 なほしまとはむ

 風吹けば風のやむらむ 流れては流れらるゝを霊といはむか  遼川るか
 (於:布施の池)


 土曜日の午後。親子連れで賑わう布施公園の奥に、布施の池はありました。水草が水面に多く茂り、恐らくは白鷺でしょう。たくさんの水鳥が寛いでいた、静かな池です。
 ただ、そんな水面を乱してゆく風だけが、わたしにはとても奔放なものに感じていました。まるで、わたしたち人間たちになど飼い慣らされないぞ、と言わんばかりに鋭く、そして超然と吹きつけます。


 何故なんでしょうね。何故だかわたしには、それが太古からこの地に留まっている神意のように思えてなりませんでした。何処かで、わたしたちを拒んでいるのだ、と。
 罪の意識、というものはある意味で存在の安全弁なのだと思います。人によっては、そこに視線を向けることに抵抗感を覚えるかもしれませんがひと度、その川を越えてしまえれば逆に、自らの中にどれだけの罪を探り出し、それらを石を積むかのように確かめてゆくことで得られる安心は、確かに手繰れます。

 ...懺悔録。あるいは告白録とでもすればいいのか、いずれにせよ生きていることは、ある意味に於いて懺悔録のようなものなのかも知れない、とぼんやり考えていました。
 何を贖いたいのかは、漠としか感じられないのですけれどね。

 在ることのかなしびうれしびさぶしゆふさる
 ゆくものゝ春とも夏とも秋夜も降つ        遼川るか
 (於:布施の池)


       −・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−

 3年前、ここ近江国のお隣・大和国である伝承地を訪ねました。伝承山部赤人之墓。また、それに纏わる紀行文も「あきづしまやまとゆ・弐」に書いています。
 もちろん、あくまでも伝承地ですから、そこに固執はしたくないですし、するつもりもありません。同時に、突き詰めれば確たることは誰にも判らないのだから、同様の伝承地なり、何なりが、別の場所に存在していてもいいとも思います。

 ただ、意外にも不思議に感じたのは、わたし自身が歌詠みとして、赤人よりもずっと近く感じている人麻呂や、家持の終焉地(あるいは墓誌)には、いまだ訪ねられていないというのに、それほど近くは感じられない赤人縁の地を、訪ねようとしていること。...いやはや、これも1つの縁なのでしょうか。

 布施の池を後にして...、つまり蒲生野と呼ばれる地を後にして車を東南へ10数分ほど走らせます。視界に広がっているのは、一面の長閑な田園風景。すでに稲刈りが終わったものもあるようですが、その大部分はまさに、今を盛りと垂れる稲穂たちです。
 窓をあけると初秋の風にのって懐かしい香りが漂ってきます。
「ああ、旅にきているんだなあ...」
 知らず言葉が洩れました。

 古歌紀行では、毎回現地入りする前に、当然ですが訪問地のピックアップをします。そして、それには該当する地域にどんな万葉故地や上代文学、古代史の舞台があるのかを洗いなおさなければならない訳で、思ってもいなかったような旧跡に驚かされることは、決して珍しくありません。
 今回、特にびっくりしたのがこれから訪ねようとしている赤人寺と山部神社、さらには紀貫之の墓誌。けれども貫之の墓誌は、結果的には時間の関係で探すのを断念してしまったんですけれどね。
 ともあれ、赤人と近江という取り合わせ自体が、わたしには何とも奇異に感じられて、
「これはちょっといってみたいなあ」
 と思ってしまいまして。

 山部赤人。今さら語るまでもない万葉3期の代表歌人にして36歌仙の1人であり、同時に人麻呂と並んで歌聖とされている歌人です。略伝などは全くと言っていいほど判っていませんし、おそらくは下級官人であったであろうことのみが、「万葉集」から手繰ることができます。そして特徴的なのは、あの時代の官人にしては珍しく各地を歩いた“旅する歌人”であったということです。
 東は現在の千葉県市川市辺りまで行っていますし、西も愛媛辺りまで、となります。天皇の行幸従駕でもあちこちへ行っているようです。...が、そんな赤人にして何故か、ここ近江国で詠まれたものだ、と確定できる歌が残っていないんですね。

 そもそも彼の活躍時期は聖武朝の頃ですから、追々書く紫香楽宮など、近江と全くの無縁だったと思い切れないのもまた事実ですが、それでも「万葉集」はおろか、後に「36歌仙集」として成立した赤人集にも、どうやら見つけられないようです。
 余談になりますが、この赤人集。大部分は「万葉集」の巻10にある作者未詳歌が編まれていて、実質的には赤人作の歌はそれほど多くはないのでしょう。

 お話を戻します。ともあれ、近江の歌を1首も残していない赤人に纏わる場所が、近江にある。...この現実だけでも、わたしにはとても興味深くて、こうして車を走らせてしまっているんですね。
 やがて田圃の先に小さな集落のようなものが現れ、それらの屋根の向こうに緑の梢が見えてきました。恐らくは、あの木の辺りが赤人寺と山部神社なのでしょう。


 細い路地を徐行しながら進むと、すぐに神社境内と思われる一角と出合います。そして車を降りて臨むと左手に山部神社が。その隣、右手には赤人寺がそれぞれ、集落の中に溶け込むようにして佇んでいました。
 先ずは山部神社から参拝を、ということで鳥居に向かって黙礼してから境内へ。やはり集落と共にあるお社なのでしょうね。広さそのものもささやかですし、目につくものと言えば歌碑のみ。刻まれていたのはお馴染みのあの歌です。

|田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける
                            山部赤人「万葉集 巻3-0318」


 そしてもう1基、こちらの歌碑あるそうです。残念ながら、わたし自身は見落としてしまったようなのですが。

|春の野にすみれ摘みにと来し我れぞ野をなつかしみ一夜寝にける
                            山部赤人「万葉集 巻8-1424」


 ...恐らく、多くの万葉故地とてそうそう大差はないのでしょうし、伝説というものはこうやってつくられてゆくものなのだ、ということでしょう。つまり、この地に元よりあったのは赤人堂という寺。そしてさらに遡れば、赤人堂と呼ばれるようになったのは鎌倉時代からであって、それ以前の呼称は阿衡寺であったのだといいます。
 一方、お隣の山部神社。こちらも現在の名前は明治期からのものであって、それ以前は小松宮、とされていたとのこと。
 さて、それではこの阿衡と小松という単語で導き出せるものは何なのか。

 先ずは阿衡。これは簡潔に言ってしまえば関白などの位のこと。宰相、というのが最も適しているのかもしれません。そして小松。こちらに至っては小松内大臣、とすら呼ばれた人物が歴史上いますから、迷うこともないでしょう。...もちろん、宰相の地位でいた人のことです。
 はい、平清盛の嫡男にして保元・平治の乱で活躍した平重盛です。詳細までは確認していませんが、地元の文献などにもこの考え方は述べられているようです。

 平重盛は近江守に就任していた時期がありますし、県内には彼に纏わる伝説が他にも残っています。また、極めつけとも思えるのが彼の末裔である小松宗定が、平氏追善のためにやはり県内は栗東市に新善光寺を興している、という点でしょう。
 これらを併せて鑑みると、どうもこの赤人寺と山部神社。大元では平重盛を祀っていたのではないか、と考えられるんですね。

 けれども現在、山部神社の祭神は山部赤人になっていますし、赤人寺もその名の通り。この取り違え、あるいは変容は何故起こったのでしょうね。
 これについては、わたし自身は皆目見当がつきません。山部神社の宮司家に、口伝で赤人伝説が継がれている、というような記述は幾つか目にしましたし、その内容にも目を通しました。ですが、如何にせん、わたし自身がその口伝を宮司さんからお聞きしたわけではないので、何とも判断のしようもなく...。

 

 曰く、かつて薬草を摘みにこの地を訪れた赤人は、川の氾濫で戻ることができず、この地で1泊したのだ、と。そしてそれによって詠まれたのが件の「春の野に〜」の歌ということですね。
 前述している通り、これについてわたしは、一切が不明ですし未確認ゆえに考察するのもどうか、と。けれども、そういった口伝が本当にあるのならば、軽はずみなこともまた、書けませんので、ここではご紹介させて戴くだけに留めます。
 ただ、あくまでも1つの夢として。この口伝のようであったならば現代のわたしたちがイメージしている判り易い赤人像とも合致して、
「そうだといいね」
 とも思いはしますが。

 赤人が残した万葉歌のうち、「万葉集」の歌番号はもちろん、詠まれている季節などから、まるで連作のようにも思えるものをご紹介しましょう。少し注目してしまうのは“標めし野”ですね。

|春の野にすみれ摘みにと来し我れぞ野をなつかしみ一夜寝にける
                          山部赤人「万葉集 巻8-1424」再引用
|あしひきの山桜花日並べてかく咲きたらばいたく恋ひめやも
                            山部赤人「万葉集 巻8-1425」
|我が背子に見せむと思ひし梅の花それとも見えず雪の降れれば
                            山部赤人「万葉集 巻8-1426」
|明日よりは春菜摘まむと標めし野に昨日も今日も雪は降りつつ
                            山部赤人「万葉集 巻8-1428」


 「春の野に薬草の菫を摘みにきたというのに、何だかこの野から離れがたくて、ひと夜を明かしてしまったよ」
「山桜の花が、毎日々々こんなにも咲くならば、花を待ちわびることもまた、なくなってしまうだろう」
「あの人に見せようと思っていた梅の花が、何処だか判らなくなってしまった。雪が降っているから」
「明日から、春の草を摘もうと標をつけておいた野に、昨日も今日も雪が降ってしまっているよ」

 もちろん、これら4首が連作だという確証は無いですし、宮司さんのお宅に口伝となっている説話も前述の通り。そして、ここで詠まれている標めし野と、額田の標野では若干、意味に微妙な差がありますが。標。つまりは印のことで、標野=禁足地というのも、現代で言う立入禁止の札と綱、つまりは印に囲まれた野、ということ。それが額田の詠んだシチュエーションでは禁足地となりますし、赤人の詠んだシチュエーションでは純粋に印、となります。本質的には同義語でしょう。
 ...ここが蒲生野にほど近いから。たったそれだけで額田と赤人の歌が云々、とは間違っても言いませんし、それこそが夢。ですが、夢は夢に過ぎないことを承知の上ならば、わたしとてそこまでの忌避はしませんよし。

 ...どうもここで赤人の歌だけを引くのは、重盛に対して失礼な気がしてしまって、彼が残したとされる歌はないのだろうか、とあれこれ引っくり返して探してみたんですけれどね。なかなか見つかりませんでした。早世してしまった人だけに、仕方がないのかもしれません。
 ならばせめて、と彼の次男。壇ノ浦で非業の最期を遂げた資盛の歌を幾つかご紹介しておきます。はい、建礼門院右京の大夫との恋仲で知られる、資盛です。

|五月雨の日をふるまゝにひまぞなき芦のしのやの軒の玉水
                     前右近中将資盛「新勅撰和歌集 巻3 夏 167」
|心にも袖にもとまるうつりがを枕にのみや契をくべき
                     前右近中将資盛「玉葉和歌集 巻11 恋3 1567」
|かよひける心の程は夜をかさねみゆらん夢に思ひあはせよ
                     前右近中将資盛「玉葉和歌集 巻11 恋5 1759」
|あるほどかあるにもあらぬうちに猶かくうきことをみるぞかなしき
                     前右近中将資盛「玉葉和歌集 巻17 雑4 2345」
|なかなかにたのめざりせばさ夜衣かへすしるしはみえもしなまし
                     前右近中将資盛「風雅和歌集 巻11 恋2 1081」


 余談ですが「心にも〜」の歌は建礼門院右京大夫集だと、藤原隆信の歌として扱われています。ですが、わたし個人は玉葉を頼りたいです。

 うつそみのむなしきものか
 皆人の見まくほしきは日のいめ
 射干玉の夜にいめ見しも
 覚むれば消ぬを沁みゐては
 え覚めざるをし懐かしと
 思ふを欲りしてなほ欲りす
 なにしかゝくもうつそみゆ
 さからむとすや
 うつそみをとほくちかくに違へては
 なにをし見むと欲りすとや
 生れば立ちゐる地のへに
 あなうらの知る土に草
 みづにも波のあるがごと
 うつそみなれば知らるゝを
 見むと欲りさずあるならば
 よろづちよろづ
 皆人は年渡らえずゆくかぎり
 あれはほりさむ
 うつそみに間なくも絶えて
 絶え果つる
 あまた玉の緒
 そのことごとを

 野にかすみいにしへの春きみゆきしかも
 野はくがね秋にあれゆくさにつらふいろ   遼川るか
 (於:山部神社・赤人寺)



 幼かった頃、亡母が話してくれた物語たち。古事記や万葉にまつわる伝説や説話は本当に様々で、当時のわたしにとってはグリムやイソップ、アンデルセンなどと変わらぬものでした。それが今、わたしはあの懐かしい幼馴染にも等しい物語たちを、この手で、この足で、この目で...。
 どうしようとしているのでしょうね。守りたいのか、暴きたいのか、近づきたいのか、遠ざかりたいのか。
 熊野から始まったわたしの古歌紀行。そろそろわたしは、わたし自身を斬りつけなければならない。そんな予感が、静かに固まってゆくのを感じていました。

       −・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−

 近江入り初日。ですが、市辺駅のすぐ側で、夕方から用事があるため今日、訪ねられるのはあと1件くらいが時間的に限界でしょうか。もと来た道を、そのまま戻ります。もっとも、これから訪ねるのは古代史の舞台とも、万葉故地とも少々、言い難いのかも知れません。
 先に訪ねた船越山と蒲生野。そのごく近くに妹背の里、というレジャー施設がある、といいます。そしてそこには歌碑が幾つか建っているのだそうです。

 雪野山とあかね古墳公園と妹背の里。地図上で確認した限りでは、この3ヵ所で小さな三角形が描けます。また、妹背の里は、この界隈ではもっとも大きい日野川の畔でもあるようですね。
 県道から住宅街の路地に入って、徐行しつつ辺りをきょろきょろ。向こうに見えている川は地元・神奈川のコンクリートの河岸に挟まれて、窮屈そうに流れてゆく様子ではなく、のんびり悠々と流れていっているのでしょう。背の高い草がその周囲に繁っています。どうも、路地が複雑に入り組んでいて、思うように進めません。...行きたい場所は、ずっと見えているんですけれどね。

 何度か行ったり来たりを繰り返してやっと、日野川が渡れました。そして、その先には大きな看板です。
 妹背の里。もちろん、レジャー施設であることは知っていましたけれど、歌碑があるくらいですからきっと公園か何かなのだろう、と勝手に思い込んでいたんですね。けれども、妹背の里の駐車場に入った途端に、唖然とさせられました。

 かなり広い駐車場だというのに、果たして空いている場所はあるのかしら、と不安になってしまうほどの混み様。また、とまっている車の多くがアウトドア向きの4駆車やバンで、流石に妹背の里とはどういう場所なのか、と。
 ようやく見つけたスペースに車を入れ、最初にしたことは施設の説明看板を読むことでした。...どうやら、バンガローやバーベキュー・スペースもある野外公園のようです。道理で初秋の土曜日、午後。混み合っているのでしょうね。

 しかし、そうなると入場するのには料金が発生するのではないかな、とも思ったのですが、そちらは問題なし(バンガローなどは有料です)。ゲートを抜けてすぐ目に入ってきたのは西日に浮かび上がった像の陰でした。
 逆光のシルエットだけでも明らかに、古代装束と御髪で判ります。男女が寄り添うように立っているのですけれど、解説を見るまでもなく女性は額田でしょう。では、その額田に連れ立っている男性は、と。
 ...何せ“妹背”の里ですからね。後の天武・大海人皇子か、はたまた天智・中大兄皇子か。







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