しながとりあはゆ・拾遺

 あれから半年。梅雨明けの蒸し暑さばかりが思い出されるあの日の安房国は、今ではすっかり冬枯れて、寒々とした景色ばかりをわたしに映します。
 年も変わり、すでに松の内すらも過ぎてしまったこの日、ようやく叶う安房再訪の為、家を出たのは4時前のこと。アクアラインを通って千葉県に入り、このお社へ向かう途中で見たのは、今年になって初めて拝めた日の出でした。

 千葉県南房総市千倉町牧田。内房線千倉駅から程近い、この地に下立松原神社の論社が鎮座していることに気づいたのは、夏の安房訪問から数週間後。確か、宮下や沓見の莫越山神社から真っ直ぐ野島崎へと進んでしまい、ちょっとモチュベーションが落ちていた時間帯に、通り過ぎてしまったのでしょう。
 ...というよりも、そもそもがもう一方の滝口地区の下立松原神社を訪ねて、それで延喜式では社格小とされる下立松原神社の存在に俄然、興味を持った、というお粗末な経緯だったことも少しずつ思い出しました。

 下立松原神社。莫越山神社が宮下と沓見、という地名を冠して地元でも呼ばれているように、下立松原神社もまた、夏に訪ねたものが滝口の、そして今訪ねているものを牧田の、と地域では呼んでいる、とのこと。
 お陰様で、滝口の時とは違い、さほど迷うことなく着けたお社で、そういえばこれもまた、今年初めて。まさしく初詣になるのだな、と思いながら参道を進みます。


 牧田の下立松原神社の主祭神は天日鷲命、合祀が木花開耶姫命、月夜見命、と。滝口のそれは主祭神が天日鷲命、天太玉命、天富命、伊弉諾命、伊弉冊命。合祀に至っては、やたらに多いのでここでは割愛。...天日鷲命はともかく、天太玉命、天富命あたりの名前が上がって来ないことを是と見るか、非と見るか、が難しいところになりそうですか。
 それぞれの創建は、前述の通り滝口が由布津主命。牧田は社伝によると美奴射持命とのことですが、ごめんなさい。この美奴射持命が誰か、はわたしには手繰れていません。一説には由布津主命と同一人物だ、とのとこなのですがどうでしょう。

 2つの下立松原神社に関し、いまだどちらが式内社であること判明していない根拠は、実は立地にあるようです。...いや、正鵠に言うならば、立地の問題さえなければ滝口と定めてしまってもよいのではないか、という気持ちすらわたしの中にもあります。

|安房国六座 大二座 小四座
|安房郡二座 並
|      大
|      安房坐神社 名神大。月次。新甞
|      后神天比理乃当ス神社 大。元名洲神
|朝夷郡四座 並
|       小
|       天神社 
|      莫越山神社
|       下立松原神社 
|      高家神社
                         「延喜式 巻9 神祇9」再引用


 曰く、下立松原神社は、延喜式に朝夷郡にある、とされているのに対し、滝口地区は延喜式編纂当時は、安房郡に、牧田地区は逆に朝夷郡に、それぞれ属していたのではないか、と。根拠としている文献は和名類聚抄、となります。
 和名類聚抄によると、安房郡には太田・塩海・麻原・大井・河曲・白浜・神戸・神余の郷があり、一方の朝夷郡には、御原・新田・大潴・満禄・健田の郷がある、と。そして、滝口は白浜郷、牧田は健田郷に含まれていたことになるのですが。

 ならば、牧田で決まりじゃないか、と言えたら良かったんですけれどね。そうは単純なお話ではない訳で、その根拠が先にご紹介している洲宮神社縁起にある、とされる下立松原神社に関する記述です。繰り返しますが、わたし自身は洲宮神社縁起を確認していないので、その書き下し文を孫引きとしてご紹介します。

|またここに奇異き鳥ありて大空を翔る。金色の羽、日に輝きて雷光の如し。其の鳴声
|山川に答えて地震る。故れ人悉く恐れ戦きて逃げ惑えり。ここに於て由布津主命、霊
|物と思えり。故れ手に大はじ弓、天の羽羽矢を取り、八目鳴鏑を持ちそえ、弦音高く
|打ち響かせて申さく。神まこと神明ならば、請いねがわくはその験を現わすべし。荒
|振る神ならば、直に飛び去れと。このとき神、人に著きて告る。吾は天日鷲翔矢神な
|り。吾この国に鎮座せんと欲す。故れ天上の祭式の如く吾が前に斎き奉らば、まさに
|この国安泰におわらん。ここに於て由布津主命、祖神の御稜威を畏れて、請のまにま
|瑞の新宮を造りまつり、御稜威と幸魂奇魂を鎮座せしめて祭拝。松原神社と称え奉
|る。其の称うる故は、この神山、松樹大いに茂り生いて、蒼々緑々、大空を凌ぐがゆえ
|なり。又この神、宝殿の正面の戸よりは、高貴の大神並みに天布止玉命を出入し給わ
|しめ、それを畏みて、常に妻戸より出入れし給う。
                               「洲崎神社縁起」
             ※菱沼勇・梅田義彦 著「房総の古社」よりの孫引きです。


 恐らく下立松原神社というお社に関する史料としては、これが最重要だと思われます。そして注目すべきは、やはり創建が由布津主命、と明記されていることですね。逆に、美奴射持命の名前は見当たらず。同一人物説も、恐らくはこれを根拠として興ったものである、と考えた方が妥当でしょう。つまり、洲宮神社縁起に、下立松原神社の創建者が由布津主命とあるからこそ、誰かは判明しない美奴射持命は、きっと同一人物、と後付けされたのだろう、と。
 加えてもう1点。“松樹大いに茂り生いて”という描写は、牧田には当たらない印象がしてしまうのです。

 これは実際に、来てみてたからこそ感じられるのですが、こちら牧田の下立松原神社は、境内にあるのはほぼ杉の木ばかり。もちろん、1000年以上の昔のことですから、当時と変わらずに今もある、とは決して思っていないのですが、それでも滝口には、その形跡が残っているわけでして。
 あとは、相変わらず根拠も論拠もない、わたしがただそう感じた、という印象の話になってしまうのですが、牧田のものは、お社として湛えている空気にかすかな違和感を覚えてしまいまして。何がどう、ということではなくて、ただ何となく、なんですけれどもね。


 参拝を済ませ、境内をひと回りしてみます。源頼朝の馬洗池跡や御霊白幡神社など、後世の影響を受けたものも多く見られますね。あるいは、鎌倉期などは、こちらの神社の方が栄えていた、ということでしょうか。
 ...古歌紀行をしていると、本当に自分の中の不思議を思います。例えば洲崎神社と洲宮神社でのことなど、物的な証拠があったとしても、それで納得できなければ従いませんし、逆にここ・下立松原神社のように根拠が揃えば揃うほど、それを採りたくなってしまうこともあって。結局のところ自身が訪ねて感じたものを、何よりも最重要視しているわけで、ならば最初から史料など漁らずとも、自身の感覚だけを頼りに出来るか、というとそれもまた叶わない。...随分と身勝手といいますか、ご都合主義だな、と率直に思います。

 ですが、それでもやっぱりそう感じたから。これが最後に残るものでもありますし、そもそも多くの学者さんや研究者さんが、議論しても出ていない答えであるならば、こう思うことこそが上代文学や、それに纏わる故地を訪ねる醍醐味。...そうしてしまってもいいんじゃないでしょうか。
 そうそう、件の和名抄の謎については、そもそも和名抄自体の成立までに掛かったタイムラグが関与しているかもしれない、という説も複数目にしていること、書き添えておきます。
 それと、上記孫引きさせて頂いている洲宮神社縁起。再度、書かせて下さい。もしかすると、これこそが失われた安房国風土記の一部、そのものかもしれない、ということを。

 思ふことを思ふと言はむひとの世のうつろひやすく言痛くあれば  遼川るか
 (於:牧田の下立松原神社境内)


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 牧田の下立松原神社からは、さほど離れていない場所に、やはり夏には訪ね漏らしてしまったもう1つの式内社があります。その祭神は磐鹿六雁命。はい、膳部の祖にして、浮島伝説では鰹や蛤を料理したあの、磐鹿六雁。だからか、国内唯一の料理関係者にご利益があるお社です。延喜式での社格は小。高家神社、と書いてたかべじんじゃ、と読みます。
 わたし自身も、その世界の末席を汚す身ですから、流石に前回、ここを落としてしまったことに気づいた際は、ちょっと頭を抱えたくなってしまったこと、今だから明かせるお話です。


 道路を挟んで参道向かいの駐車場で、先ずは身支度。本当は包丁を持参・お祓いしてもらいたかったんですけれど、古歌紀行の目的からは逸れてしまうため、今回は断念。...いや、本当にそうしたくなったら、今度はちゃんとその為だけに来たいな、と。
 ですが、それでもやはり各地を周っている時よりは、ほんの少しだけ背筋も伸びますし、この期に及んで身だしなみくらいは何とか。帽子は当然、脱いで車の中に残し、シートベルトでくしゃくしゃになっていた襟も、きちんと合わせて一番上のボタンまで、しっかり掛け直しました。

 式内社・高家神社。先ずはそのあまりに整然とした参道や境内に、ちょっと驚いてしまいました。境内には、200年を経たお社を再建するべく、奉賛を乞う案内も掲示されているのですが、どうでしょう。...各地でもっと寂れてしまっている無人社などを多く見ているから、ですかね。むしろわたしには、予想に反する威勢堂々たる佇まいに思えてしまったのですが。
 境内もかなり広く、しかも途中の玉砂利1つ、石段1つ、そして白木を多く使用しているであろう拝殿1つとっても
「流石は醤油処・千葉にある、国内唯一の料理の神様をお祀りする神社だ...。醤油業者さんの信奉も、きっと厚いのだろうな...」
 とかなり下世話なことを考えていたのに気づき、思わず自身を咎めたくなりましたが。


 祭神・磐鹿六雁命。浮島での活躍の後の彼については、やはり高橋氏文に詳しいです。

|六雁命、七十二年の秋八月に病を受て、同じ月に薨せぬ。時に、天皇聞こしめして大
|きに悲しび給ふ。親王の式に准へて葬りを賜ひき。宣命の使として、藤河別命と武男
|心命と等を遣はす。宣命に云はく、
|「天皇が大御言らまと宣りたまはく、王子の六雁命の思ほさざる外に卒せ上りたり
|と聞こしめし、夜昼に悲愁び給ひて大坐します。天皇の御世の間は平らかにして、相
|見そこなはさむと思ほす間に別れゆけり。然あれば今思ほし食す所は、十一月の新
|嘗の会も膳職の御膳の事も、六雁命の労はしく始め成せる所なり。是を以ちて、六雁
|命の御魂をば膳職にいはひ奉りて、春秋の永き世の神財と仕へ奉らしめむ。子孫等
|をば、長き世の遠き世の、膳職の長とも、上総国の長とも、淡路国の長とも定めて、余
|氏は任けたまはでをさめたまはむ。若し、膳臣等の継がず在らば、朕が王子等をして、
|他氏の人等を相交へては乱らしめじ。和加佐の国は六雁命に永く子孫等が遠き世の
|国家と為よと定めて授け賜ひてき。此の事は世々にし過り違へじ。此の志を知りた
|びて吉く膳職の内も外も護り守りたて、災患の事等も無く在らしめ給ひたべとなむ
|思ほし食すと申すと宣りたまふ天皇の大御命らまを虚つ御魂も聞きたべと申す」
| と宣りたまふ。
                      「『政事要略』所引 高橋氏文逸文」


 ...中々、すごい内容です。つまり、磐鹿六雁命が病死して、景行は彼を親王として葬った、と。親王といったら、皇子のことですから破格の...、もとい。とんでもない厚遇をして葬儀を出した、ということです。
 実は、すでにご紹介した本朝月令に引用されている高橋氏文の中にも、こんな記述があって、引っかかってはいたんですけれど、これで疑問は解消です。

|朕が王子磐鹿六◆命
                   「『本朝月令』所引 高橋氏文逸文」再引用
                      ◆は獣偏に葛という旁の表記です。


 元々「なみよみのかひゆ」でも少し触れていますが古代、火を扱い、それに纏わる職というのは、それなりに地位ある者が務めていました。磐鹿六雁命の出自も、大元を辿れば皇族です。第8代孝元天皇の曾孫に当たる、とされています。...欠史8代なので、真偽のほどについては、何も申せませんけれどね。
 そして、この磐鹿六雁命を祖とした膳部なる氏のもう1つの名が高橋氏。高橋氏は律令下でも宮内省内膳司に仕えていたわけですが、忌部に対する中臣同様、同じ宮内省内膳司にて務める安曇氏とはそれなりに勢力争いを繰り広げまして。古来ある家伝をまとめて上奏したもの。それが、高橋氏文となります。日本後紀にも両氏の争った記述がありますね。

|壬申、流内膳奉膳正六位上安曇宿祢継成於佐渡国。初安曇高橋二氏、争供奉神事。是以
|去年十一月新嘗之日、有勅以高橋氏為前、而継成不遵詔旨、背職出去。憲司請誅之、特恩
|旨以減死
       「『類聚国史』所引 日本後紀 巻1 桓武天皇 延暦11年(792年) 3月18日」


 簡単に意訳しますと、
「神事に奉仕するときの順序について、かねてから争っていた高橋氏と安曇氏に前年、高橋氏を先とする詔をだしたところ、安曇継成がこれを不服として職務放棄。出奔してしまったので、佐渡へ配流した。官司は死刑を求めてきたが、天皇の恩旨で死罪を免じ、流刑に処した」
 という感じでしょうか。高橋氏文の上奏は、この3年前の延暦8年(789年)とされていますから、この前年の詔に、もしかしたら高橋氏にとってはよい結果を招いた一因となったのかもしれませんね。

 ともあれ、この高橋氏文。現在では、失われてしまって本朝月令などに引用された、逸文のみが伝えられています。...しかし何と言いますか安房国、この手が多いですね。偶然なんでしょうけれど、ちょっと古代氏族の厚い、熱い、思いがそこここに感じられてしまいそうです。
 古語拾遺同様、高橋氏文をどう読むのか、という点については歴史的に、色々とあることと思います。すでに少し書いていますが、これら氏族の家伝は、それぞれに一定の評価はされているものの、歴史的に見れば公平性、客観性にかけている、とばっさり言い切ってしまっている論も、決して少なくはありません。あくまでも記紀こそが、この国の正史である、とする立場で見れば、と。


 夏に安房を訪ね、その後ずっと、わたしの中でこの問いに対する自身の回答は、得られているのか、いないのか。...言ってしまえば、現代に生きるわたしたちですらも、これに似たことは日々、遭遇していますよね。個々の価値観、個々に信じるもの、個々の優先順位、そして個々の立場でしか解り得ない、多く語られることのない種々の事象と、思いと。
 国という1つの政治体制が、そこに筋道をつけること自体は仕方がありませんし、必要なことでもあるでしょう。同時に、ただ事実だけを至上とする学問の世界にも、それは必要不可欠。けれども何度も書いていますが、わたしはあくまでも史料としてではなく、文学としてこれら文献と向き合いたいと思っています。いや、そうしないと、とんでもないことにもなってしまうわけで、もはや収拾など不可能になってしまうんですよ。

 では、文学とは一体、何なのでしょうか。例えば、万葉に多く収められている恋歌1つをとっても、恋に歓ぶもの、恋に嘆くもの、とそこに寄せられた思いも、立場も、信じるものも様々。時にわたしは、そのドラマの一方に肩入れし、時にドラマよりも歴史によって証明されている事実に注視し、そして時にはその歴史すらも疑ってきていますから。ここにあるのは、それこそ下立松原神社ではありませんが、ただそう感じたから。...こうとしか答えられるはずもなく、同時にかつて他の古歌紀行文で書いてきたことさえも、自身で否定することもあって。
 ...解りません。本当に、解らないのです。ですが、こうとも言えるのではないでしょうか。
「解らないからこそ、やっている。解らないからこそ、やり続けている」
 と。この先、一体どれだけの土地を訪ね、どれだけの史料も、文学としての文献も読み、どれだけの紀行文を書けば、あるいはいつかこの答えがでるのでしょうか。

 いや、もしかしたら。もうとっくに答えは出ているのかもしれませんね。今よりも、ずっとずっと以前。それこそ小倉百人一首の絵札を最初に手にした4歳のあの日、あの瞬間にもう、答えは出てしまっているのかもしれません。

 ゆき謡ひすべのたどきの知らざれば歌思ふ心慰もるまで  遼川るか
 (於:高家神社境内)


 高家神社の境内には、かなり大きなアカハラがやって来ていました。飛び交う度に、大きく撓る枝を眺めて、ふと思ってしまいました。枝はわたし。アカハラは旅。あるいは旅によって出会う、様々な訪問地と、数多の史料や文献、そして歌。
 また1つ、大きく撓り、そして戻る枝を耳の後ろで感じていました。





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