なまよみのかひゆ

 譬えそれが、人から理解され難いものなのだとしても。そうだとしても、譲れない思いであるならば、納得できるまでやって来るしかなかったし、ゆくしかなく...。登っているのか、下っているのかすら判らなくても、進むしかない。
 そういう熱を1つ、知っていました。

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 冬が来ると、毎年のように不貞腐れ出すのがわたしの旅心です。日照時間の短さは即、行動時間の短さとなるのでフィールドワークの効率が下がりますし、防寒の関係で荷物も多く、そして何より自身があまり行動的ではなくなる冬。それでも新しい風を欲しがる心は、毎年のようにわたしに囁きます。
「何処かへ行きたいね。いにしえの歌の舞台に行きたいね。...早く、早く春にならないかなあ」
 と。そして来るべき春に何処を訪ねようか、ということばかりを考えてしまいます。当初、思っていたのは神奈川の大山詣。それから茨城の鹿島神宮と千葉の香取神宮。仮に時間的なゆとりが得られれば出雲。このいずれかからの選択で、今年も春に何処かへ行こう。
 そう心に誓っていたものです。

 けれども、それらのどの選択肢でもなく、また冬のそれも一番寒い時期に、自分が旅に出ることになったのはひょんなきっかけから。でも、きっかけはきっかけとしてさておき、わたしはわたしのための旅の支度を始めます。訪ねる先は地元・神奈川のお隣、甲斐の国。昨春、訪ねた足柄峠の先にあたる土地です。
 仕事の合間に、という本当にささやかな小旅行はそれでも何とか続けてきていますが、訪問地に宿をとっての旅は1年以上していません。またこの時期の山梨であれば、きっと積雪という障害もあるだろう、と。長年乗り続けている愛車のタイヤをスタッドレスに換え、さらには出発前の古歌の予習にもそれなりに時間を割き...。
 というのもわたしの拙い知識では、甲斐の国に纏わる古歌というのが即座には殆ど思い浮かべられなかったんですね。記紀に登場する有名すぎる問答歌はともかくとして「万葉集」は、となるとたった1首だけがすぐに思い浮かんだのみ、という有様。
 なので、出発前の1週間はかなりあれこれと文献をひっくり返したものです。

 旅の期間は2泊3日。土曜日に出発して月曜日の夕方に神奈川へ戻る、というもの。とは言え、最終日は別の予定に振り当てていましたから事実上、甲斐の国を巡れるのはほぼ、日曜日の丸1日のみです。
 山梨までは鉄路を使わず、現地での機動力を考えて自家用車でのひとり旅。荷物を積んで車へ乗り込む前に、これから向かう西の方角を眺めます。まだまだ雪で真っ白に輝く富士山が静かに待っているかのように聳えていました。

 

 くさまくら いまし旅にそまる寝して弥日異に来し旅を偲ばむ  遼川るか
 (於:出発前自宅)


 お昼過ぎ、八王子I.C.から中央高速に。あとはひたすら甲府昭和I.C.を目指します。次第に登ってゆく標高、雑然とした街並みから離れて拓ける視界。
「ああ、旅に出ているんだ...」
 車窓からは、耳や首の後の辺りを少し解放していっているような、かなり冷たくて、でも決して鋭くない、柔らかな風が吹き込んできます。霊峰・富士のお膝元へと向かうわたしを、まるで禊ぎしてゆくかのような、風の小さな小さな渦を右頬に受け止めながら、連なる山々にかつて見た景色がオーバーラップしてゆくのを感じていました。

 拙作「さねさしさがむゆ〜足柄峠」でも書きましたが、記紀万葉の時代、この国の中心は畿内であって、現在の関東周辺はまさに辺境の地。そして、これら東国に纏わる万葉歌は東歌、として「万葉集」巻14に纏まって収録されていますが、その中に甲斐の国のもの、と明記されている歌はありません。
 では、東歌ではなくとも万葉歌全体では、と言えば前述の通り1首と、さらにはいまだ推測の域をでない、とされているものを辛うじて2首。何とか発見することができました。

|なまよみの 甲斐の国
|うち寄する 駿河の国と
|こちごちの 国のみ中ゆ
|出で立てる 富士の高嶺は
|天雲も い行きはばかり
|飛ぶ鳥も 飛びも上らず
|燃ゆる火を 雪もち消ち
|降る雪を 火もち消ちつつ
|言ひも得ず 名付けも知らず
|くすしくも います神かも
|せの海と 名付けてあるも
|その山の つつめる海ぞ
|富士川と 人の渡るも
|その山の 水のたぎちぞ
|日の本の 大和の国の
|鎮めとも います神かも
|宝とも なれる山かも
|駿河なる 富士の高嶺は
|見れど飽かぬかも
              高橋蟲麻呂「万葉集 巻3-319」 高橋連蟲麻呂歌集より撰


 「なまよみの」は甲斐、「うち寄する」は駿河、「日の本の」は国家としての大和をそれぞれ導く枕詞です。

 「甲斐の国と駿河の国、その真ん中に聳え立っている富士の高嶺は、空ゆく雲も進むのを阻まれ、飛ぶ鳥ですら飛び越えてゆくことができず、燃える火を雪で消し、降る雪を燃える火で消す、言いようもなく名付けようもないほど神妙な神の山であるなあ。せの海と名付けられているものは、富士が包んでいる湖のことなのだし、人が渡ってゆく富士川という川も、富士から出る水の激しい流れだ。日の本の大和の国の鎮護としておわす神であることよ、宝となる山であることよ。この駿河の富士の高嶺は見ても見ても飽きないものよ」

|さ寝らくは玉の緒ばかり恋ふらくは富士の高嶺の鳴沢のごと
                         作者不詳「万葉集 巻14-3358」
|むろがやの都留の堤の成りぬがに子ろは言へどもいまだ寝なくに
                         作者不詳「万葉集 巻14-3543」


 「むろがやの」はつるを導く枕詞。

 「共に眠る時間はまるで玉の緒のように短く、恋焦がれている時間はまるで富士の高嶺に響く鳴沢の滝の音ように限りないものだ」
「むろがやの都留川の堤がやっと出来たようにあの子は、2人は出来ていると言う。まだ共寝もしたことがないというのに」

 先ずは、これらの歌と甲斐の国との関わり(推測されているものを含みます)です。「さ寝らくは〜」に詠み込まれている鳴沢。これが1説には南都留郡にある鳴沢村界隈のことではないか、ということですね。実際に現在の鳴沢村には、村名の由来として歌碑が立っているようです。...残念ながらわたしは、探し出すことができませんでしたが。
 その一方でこの歌は、「万葉集」の巻14に駿河国の歌、と明記されていますから真偽のほどは判りません。ただ、歌意をご覧戴ければ一目瞭然ですけれど、この鳴沢は詠み手が実際に訪ねた際に詠んだものではなく、あくまでも比喩として詠み込まれている、という按配。
 また、ややこしいことにこの歌には異伝が2つありまして。

|まかなしみ寝らくはしけらく さ鳴らくは伊豆の高嶺の鳴沢のごと
                      作者不詳「万葉集 巻14-3358」 異伝
|会へらくは玉の緒しけや 恋ふらくは富士の高嶺に降る雪なすも
                      作者不詳「万葉集 巻14-3358」 異伝

 果たして、どれがどうなのか、ということはもはや知りようもありませんが、伊豆と字面に登場していますから、どうにも甲斐の国にゆかりがある、と見るにはかなり厳しいだろう、と個人的には考えています。

 「むろがやの〜」は同じく「万葉集」の巻14に採られていますが、都留。これが甲斐の国ゆかりの地名なのではないか? ということですね。こちらは同じ巻であっても東歌の括りではなく、相聞歌としての収録。恐らく甲斐の国の地名である可能性は「さ寝らくの〜」よりもずっと高い、と個人的には思っています。
 ですが、肝心の場所がわたしの拙い知識の範囲では、全くと言っていいほど特定できていません。...というより、地名であるという定説もないようです。わずかに見知っている「むろがやの都留」の解釈諸説によると

 1) 道がつるつる滑らないように茅を敷くという意味
 2) 陸奥の国の地名
 3) 甲斐の国の都留郡(現在の北都留郡上野原町界隈)の地名

 などが鎌倉時代から、今日に至るまで繰り返し推測されているようです。確かに、現実に鶴川という川が流れていますから堤、というのは頷けそうですが...。
 ただ、実際の場所が何処か、ということ以上に気になるのが歌意です。やはり、こちらも比喩ですね。詠み手が実際に訪ねて詠んだものではないでしょう。

 さて、後2者もさることながらもっと判らないのが、高橋蟲麻呂の「なまよみの甲斐の国〜」の長歌です。こちらはそのものずばりの「甲斐」と詠み込まれていますから、甲斐の国にゆかりがあること自体は疑いようもないでしょう。
 ですが、歌意を追ってゆくと判るように冒頭では、甲斐の国と駿河の国の真ん中、と謳っているにも関わらず末尾では
「駿河なる 富士の高嶺は」
 と、駿河の国側から見た富士山の光景になってしまっているんですね。果たして、これはどういうことなのでしょうか? ...答えは恐らく、たった1つだと思います。高橋蟲麻呂もまた、実際に甲斐の国を訪ねたのではなく、駿河側から富士山と、その向こうにある甲斐の国に思いを馳せたのだ、と。
 そうなると、ここで避けて通れないのが「なまよみの」という甲斐の国を導く枕詞です。

 「なまよみの」。...各種文献にもそう書かれていますし、わたしも気になって調べはしましたが、少なくとも中世までの和歌になまよみの、が登場するものはこの1首だけのようです。この歌の異伝のようなものは、歌枕名寄と夫木和歌抄にも登場しますが、いわゆる枕詞として「定着していた」と見るには無理がありすぎるでしょう。
 また、枕詞とその導く言葉である「甲斐」の懸かり方も厳密には未詳となります。最も有力視されていて、今では定説になりつつあるものは、半ば黄泉。つまりは生と死の中間だとか、静と動の中間という未開の地となりますが、それ以外にも若々しい、という解釈をしているものもわずかな例ですけれど、わたし自身が拝読しています。
 ただ、あくまでもわたし個人の考えでは、定説通り半ば黄泉=未開の地。こう思っているんですね。理由は幾つかあるのですが、先ず第一に前述の通り、万葉歌に現れる甲斐の国というのが、実際には訪われていそうにない。けれども、それにも関わらず歌に詠まれている、ということ。そう、つまりは歌枕です。

 拙作「あきづましやまとゆ」の中でも書いていますが、歌枕というものは実際に訪われて詠まれることも多々あります。ありますけれどもその多くは、それも畿内から遠く離れた土地になればなるほど、憧れという幻想の象徴になる、ということです。
 実際に訪ねた人がとても美しい場所だったよ、と話したことが噂となり、その噂によって喚起された憧れだけで歌に詠まれるようになる。...古典和歌ではもはや常套とも言えるものです。恐らくは甲斐の国も、富士山を筆頭に山に囲まれ、清らかな川の流れる土地として、人々の評判になっていたのであろうことは、想像に難くもないでしょう。
 ...けれども、甲斐の国がその評判通りに、本当に美しいのか、否か。これを蟲麻呂本人が確かめられていなかったならば、甲斐は当然まだ見ぬ地となりますし、蟲麻呂自身が詠んでいるように噴煙を上げ、鳥すらも飛び越えてゆけそうにない富士の向こう。噂には美しいとされているものの、富士山という境界を挟んでしまうと、その向こう側の国からは何処か不気味な雰囲気すらも、感じてしまっていたのではないだろうか。
 そう考えるのはそれほど無理筋ではない気がしています。

 同時に、やはり駿河との対と考えた場合、「うち寄する駿河の国」のうち寄する、という枕詞との対比も考えられると思うんですね。うち寄する、とはすなわち波であり海。そして、古代の人々が海の向こうにある、と考えていたのは常世の国。そう、死後の世界です。

|我妹子は常世の国に住みけらし昔見しより変若ましにけり
                         伴宿祢三依「万葉集 巻4-650」
|君を待つ松浦の浦の娘子らは常世の国の海人娘子かも
                          吉田連宜「万葉集 巻5-850」


 「あなたはきっと、あの海の向こうの常世の国に住んでいたに違いないでしょう。昔お逢いした時よりお若くなられたように見えますから」
「あなたを待つ松浦の浦の娘は、常世の国の仙女なのでしょうか」

 編纂時期がほぼ同じ丹後風土記(逸文)に端を発している浦島太郎伝説もそうですし、古事記に登場する海幸山幸(火照命と火遠理命)も同じです。つまり海の向こうの常世の国とは、不老不死の国であり古代人が考えていた1つの仙境といいますか、理想郷のような概念であったのであろう、ということです。
 余談になりますけれど、沖縄にもニライカナイ神話がありますから、海の向こうの理想郷、というのは大和民族特有ものではなく、恐らくは海沿いの土地ならきっと世界各地にあるものでしょうね。
 その駿河の国との対比として、見た目にも霊験あらたかな富士の向こうの国を半ば黄泉とした、というのは納得できそうな気がするんですね。さらには、その黄泉。詠み手であった蟲麻呂にとっての黄泉とはどんな地だったのか、ということです。これには好例があります。

|葦屋の 菟原娘子の
|八年子の 片生ひの時ゆ
|小放りに 髪たくまでに
|並び居る 家にも見えず
|虚木綿の 隠りて居れば
|見てしかと いぶせむ時の
|垣ほなす 人の問ふ時
|茅渟壮士 菟原壮士の
|伏屋焚き すすし競ひ
|相よばひ しける時は
|焼太刀の 手かみ押しねり
|白真弓 靫取り負ひて
|水に入り 火にも入らむと
|立ち向ひ 競ひし時に
|我妹子が 母に語らく
|しつたまき いやしき我が故
|ますらをの 争ふ見れば
|生けりとも 逢ふべくあれや
|ししくしろ 黄泉に待たむと
|隠り沼の 下延へ置きて
|うち嘆き 妹が去ぬれば
|茅渟壮士 その夜夢に見
|とり続き 追ひ行きければ
|後れたる 菟原壮士い
|天仰ぎ 叫びおらび
|地を踏み きかみたけびて
|もころ男に 負けてはあらじと
|懸け佩きの 小太刀取り佩き
|ところづら 尋め行きければ
|親族どち い行き集ひ
|長き代に 標にせむと
|遠き代に 語り継がむと
|娘子墓 中に造り置き
|壮士墓 このもかのもに
|造り置ける 故縁聞きて
|知らねども 新喪のごとも
|哭泣きつるかも
              高橋蟲麻呂「万葉集 巻9-1809」 高橋蟲麻呂歌集より撰


 「しつたまき」はいやし(賤し)を、「ししくしろ」は黄泉を、それぞれに導く枕詞です。

 はい。有名な菟原娘子伝説を題材にして蟲麻呂が詠んだ長歌ですけれども、この中に黄泉が登場します。「ししくしろ 黄泉に待たむと」ですが、この意味は
「黄泉の国でお待ちしようと」
 となります。少し意外に思われませんでしょうか? 現代のわたしたちにとって一般的な黄泉は再会の地というよりは、地獄に近い雰囲気があると思いますし、わたしたちが
「あの世でお会いましょうね」
 とした場合のあの世は、少なくともそう悪いイメージではないと思います。

 上代文学に於ける黄泉という意味では、伊耶那岐が伊耶那美を訪ねた先が恐らくは1番有名でしょうし、あの件そのものには、当時の死というものに対する、不浄な感覚が確かにあると思います。
 けれども、同時にその黄泉から帰って来た伊耶那岐がいますし、その彼から生まれたのが天照や月読、そして素盞鳴という3柱なわけで...。何処か黄泉は、再生のイメージも表裏一体で宿しているように感じられてならないんですね。
 幾つかの古語辞典には、黄泉の国と常世の国をほぼ同義語(上代語として)と括っているものまであります。そうであるならば、高橋蟲麻呂が詠んだ「なまよみの」と「うち寄する」。この対比がとても良く判りますし、彼自身が駿河側から件の歌を詠んでいるのも頷けるでしょう。

 あれをゝき給はましかやなまよみの甲斐
 あれいでに来たる裾廻は天の原不尽       遼川るか
 (於:甲府昭和I.C.付近)

 甲府昭和I.C.で中央高速をおりて、甲府市内に着いた時にはすでに日が傾き始めていました。なので、そのまま山梨県内の地図を数冊購入しただけで宿へ。夜は訪問予定地の位置関係の確認に12時過ぎまで取り組み、そして朝。まだ日が昇り切っていない6時前に宿を出ます。
 目指した先は紅葉台。前日、ずっと考えていた高橋蟲麻呂の歌碑があるという、富士山のまさしく麓にして、周囲に青木が原の樹海や風穴・氷穴がある河口湖の向こう側です。

 甲府市から紅葉台まではそこそこ距離がありますが、まだ車もまばらな国道や県道は進めば進むほど蛇行し、そしてあちこちに積もった雪で視界が白くなってゆきます。右手には南アルプスの山々が常に見えていて、こちらも山頂辺りはほぼ真っ白。
 この南アルプス連峰こそが、上代文学ではありませんが古今和歌集や、それに続く中古・中世の和歌に多く詠まれた歌枕・甲斐が根でしょう。


|かひがねをさやにも見しかけゝれなくよこほりふせるさやの中山
                詠み人しらず「古今和歌集 巻20 大歌所歌 1097」
|甲斐がねをねこし山こし吹風を人にもがもやことづてやらん
                 詠み人しらず「古今和歌集 巻20 大歌所歌 1098」
|かひがねははや雪しろし神な月しぐれて過るさやの中山
                   蓮生法師「続後撰和歌集 巻19 羇旅歌 1315」
|かひがねはなをいかばかり積るらんはや雪深しさやの中山
                    寂臣法師「新拾遺和歌集 巻9 羇旅歌 808」
|かひがねに木葉吹しく秋風もこゝろの色をえやはつたふる
                 前中納言定家「新拾遺和歌集 巻11 恋歌1 929」


 21代集に採られているものに限定すれば、甲斐が根という名前そのものが詠み込まれているのは上記引用5首くらいか、とは思いますが甲斐が根はむしろ中世以降の私家集に多く登場している気がします。








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