私家集に詠まれた甲斐が根も少しご紹介しておきましょう。

|雲やいまうづまさるらむかひがねのさやかにみゆる曙の空
                            雅縁「為尹千首 雑 821」
|甲斐が根に咲きにけらしな足引きの山梨岡の山梨の花
                         能因法師「能因法師集 巻上 42」
|甲斐が根に雪の降れるか白雲かはるけきほどはわきぞかねつる
                        能因法師「能因法師集 巻中 104」
|御坂路は凍りかしげる甲斐が根のささなか晒すいつくりのごと
                        能因法師「能因法師集 巻中 124」
|月まてど雲もよこほるかひがねに光さきたつ秋の白雪
                             正徹「草根集 秋 4168」
|明行くやかひがねならぬ雪の上によこほりふすと見ゆる山かな
                             正徹「草根集 冬 6267」
|雲まよりさやにも見てしかひがねは雪に思ひをかさねてぞふる
                             正徹「草根集 恋 6465」
|おもはすや峰に声する貝鐘のおよふ里人法を聞くとは
                             正徹「草根集 雑 8806」
|明がたはかひがねならぶ雪も見ずよこほる雲の山ことにゐて
                             正徹「草根集 雑 9421」


 ただ、私家集のものはともかくとしても、21代集に採られている5首のうち、やはり実際に甲斐の国に足を踏み入れて詠んだもの、となると古今集の2首のうちの後者だけ、となるでしょう。同じく古今の前者は甲斐へ向かう途上のもののようです。そして、この2首に関しては古今集に明確に
「東歌 かひうた」
 という記述があります。

 一方の他3首には甲斐歌という明記はなく、定家のものは恐らくほぼ完璧な歌枕でしょうし、蓮生法師と寂臣法師は小夜の中山という駿河の国の掛川辺りから南アルプス連峰を眺めるなり、思い起こすなりして詠まれたものだと思います。

 ところで、古今集のそれも確実に甲斐の国の中で詠んだものであろう「甲斐がねをねこし山こし〜」の歌には和泉式部作、という通説があります。...年表と照らし合わせる限り、有り得ないことは判っているのですが、そもそもどうしてそんな通説があるのでしょうか? さらには、ここまでに何度も登場しているキーワードとしての歌枕。
 この答えが甲斐、という国の歴史にあるのだと思います。

 歌枕。それは最初こそ、実景に対する感動が歌を詠ませる原動力となったのでしょうが、やがては評判と噂が独り歩きしたことで、様々に定着していった幻想空間です。
 幻想空間。その判り易いものならば、この能因法師の歌が好例です。

|甲斐が根に咲きにけらしな足引きの山梨岡の山梨の花
                      能因法師「能因法師集 巻上 42」 再引用


 「甲斐が根にどうやら咲いたらしい。山梨の岡の山梨の花が」

 つまり南アルプスの峰に残る雪と山梨の岡で咲いた山梨の白い花を懸けているのでしょう。...が、この2ヵ所。相当離れているんです。とてもじゃないですが、1つの視界に両方を納めながら並べ詠む、という風情では十中八九ないでしょう。そして、彼の歌を読み聞きする側も、事実を知らないのですから歌も成立したわけで。
 能因法師は元々こういう遊びがお好きだったのでしょうね。やはり行ったことも見たこともない白河の関を、あたかも訪ねたかのように詠んだ

|都をば霞とともにいでしかど秋風ぞ吹く白河の関
                     能因法師「後拾遺和歌集 巻8 別 518」


 の逸話は有名です。

 ともあれ、後述させて戴きますが、甲斐の国には富士山や甲斐が根以外にも、上代文学に登場したり、また特に中古以降の和歌によく詠まれた歌枕が複数あります。塩の山、差出の磯、駒牽き、などなど。
 もちろん、言うまでもなく甲斐の国は美しかったのでしょうし、それ自体は何ら疑う余地もありません。ただ、それが遠く離れた畿内で評判になっていた...。
 これは裏を返せば、少なくとも実際に訪ねた人。それも、そういった平安の貴族社会に、噂の元となる感想を語れる程度の地位の人間がそれなりにはいた、ということでもあります。
 ...様々な歌枕が、そこに存在していることを誰1人、知らなければそもそも噂も評判も生まれませんから。

 結論から言ってしまえば、その役を負っていたのが、都より甲斐の国に任命・派遣されていた甲斐守や甲斐の国丁の役人。今で言うところの県知事さんや県庁職員、となりますか。
 はい、この歴代のメンバーの中に、古典和歌の世界では結構な大物やその縁者が複数いるんですね。小野小町晩年の恋人とされる小野貞樹、36歌仙の凡大河内躬恒、壬生忠岑、在原業平の3男・在原慈春、赤染衛門の夫・大江匡衡、と。...個人的な雑感で申し訳ないですが、なかなか壮観な顔ぶれだと思います。
 
かひのかみに侍ける時、京へまかりのほりける人につかはしける
|都人いかにと問はゞ山たかみはれぬ雲ゐに侘びとこたへよ
                     小野貞樹「古今和歌集 巻18 雑歌下 937」

|君がためいのちかひへぞわれはゆくつるのこほりの齢うるなり
                     在原慈春「古今和歌六帖 第2 田舎 1286」
かひのくにへまかりける時、みちにてよめる
|よをさむみ置はつ霜をはらひつゝ草の枕にあまたゝびねぬ
                      みつね「古今和歌集 巻9 羇旅歌 416」
かひの国へくだるまかり申し侍けるに
|君がため命かひにそ我はゆく鶴のこほりに千世はうるなり
                     忠岑「新千載和歌集 巻18 誹諧歌 2165」


 余談になりますが、この中で注目したいのが壬生忠岑の歌。内容的には、甲斐の国に長く赴任しているので早く帰りたい、ということを諧謔的に詠んでいるのですが、実はこれ。要するに待遇の改善を人に依頼している問答歌なんですね。では、そのお相手は? といいますと彼の歌の師に当たる人物。
 はい、紀貫之です。貫之の返歌もちゃんと残っていますね。夫木和歌抄という別の歌集になりますけれども。

|かひがねの松に年ふるきみゆゑに我は嘆きとなりぬべらなり
                      紀貫之「夫木和歌抄 巻29 雑11 13703」


 ...どうやら、貫之ではどうにもできなかったようですね。

 どうでしょうか。こうやって実際に甲斐の国で過ごした者たちの歌と、歌枕として詠まれた甲斐の各地。そこには、もちろん別の理由も多々あるのでしょうが、確実に温度差にも近い格差のあることが手繰れると思います。
 幻想空間としての風光明媚な土地と、実際に都を遠く離れ、大して仕事も忙しくなく、歌の相手すらもいない甲斐の国の寂しさ。...様々な歌枕を訪ねていますが、これほどまでに虚と実の差が明確になっている土地は、わたしにとって初めてになる気がします。

 あしひきの山を越ゆれば見ゆれどもえ見えじものと
 逢坂の山 甲斐が根の峰               遼川るか
 (於:R358途上)

 凍った道路と路肩の雪の中、スタッドレス・タイヤの鈍い音だけが響き続けます。やがて河口湖のほとりまで来て、左折。これまでは右手に眺めていた甲斐が根を背に負うようにして、さらに先を急ぎます。次第に道路そのものも積雪と轍で覆われ、風穴や氷穴の看板なども通り過ぎました。流石に怖くてスピードもかなり落とし、紅葉台の展望台への入口を探します。
 恐らくこんな季節でなければすぐに見つけられるのでしょうが、如何にせん視界は雪、雪、雪...。目印らしいものも見当たらず何度か行ったり来たりしながらようやく見つけた看板の先には唖然とさせられました。もう道なのか、それとも野原や畑の上を走っているのかさえ判断できない、轍すらもない雪一面の道です。
 さらにスピードを落とし、と言いますか徐行するようにして進んでゆくと、建物が数棟。そして、その先に小高い丘のようなものが聳えていました。

 何とか読める看板によれば、紅葉台駐車場はもっと高い場所にあるようではありましたが、とても怖くて車では進めませんでした。甲府市内では昨夜、雪など降らなかったのですけれど、こちらでは降ったのでしょう。前日にできた轍がその形のままに凍結し、その上に真新しい細かな粉雪がどっさり積もっていたんですね。...タイヤ・チェーンを持って来てはいなかったものですから。
 仕方がないので、数棟ある建物の傍の駐車場と書かれたスペースで車を降り、ちょっとしたラッセルなぞ。荷物は最小限に留めるためにリュックの中にデジカメと携帯電話、即詠した拙歌を録音するためのテレコ、そして命綱の喘息の吸入薬だけを入れて、先ずは深呼吸。
 そこで気づいたのは、目の前の建物群が牧場だった、ということです。...といっても牛ではありません。馬です。覗き込んだ厩の中には黒光りする毛並みのややどっしりとしたお馬さん。


「もしかして...」
 ある説話を思い出して、咄嗟に胸が高鳴りました。日本書紀の巻14。雄略天皇の巻なのですが、その中にこんな記述があります。

 木工/こだくみの韋那部真根が石を台にして斧で木を削っていました。1日中、繰り返しても誤って斧を石の台に当ててしまうこともなくて、手元は一向に狂いません。そこへ通りかかったのが雄略です。訝しく思った雄略は真根に問います。
「いつも斧の刃を石に当てることはないのか?」
「決して誤ることはありません」
 そう言い切った真根に雄略はならば、と采女たちを召します。彼女たちの着物を脱がせ褌をさせて、真根が作業するすぐ傍でお相撲をとらせたんですね。これには流石の真根も気をとられてしまい、つい斧の刃を石の台に当てて、刃を傷めてしまいます。
 すると雄略は
「どこの奴だ。朕を恐れず不敬にも妄りに軽々しいことを言いおって」
 と言い放ち、真根を野で処刑しようとしてしまいました。嘆いたのは真根の同僚たちです。そして彼らは謡います。

|あたらしき 韋那部の工匠 懸けし墨縄。
|其が無けば 誰か懸けむよ。 あたら墨縄。
                 作者不詳「日本書紀 巻14 雄略天皇13年(467年)」


 これを聞いた雄略は急に、真根を処刑するのが惜しくなりました。そして嘆きながら
「もう少しで、大切な人間を失うところだった」
 と言い、

|乃ち赦使を以て、甲斐の黒駒に乗りて、馳せて刑所に詣りて、止めて赦したまふ。用り
|て微纏を解く。復作歌して曰く、

|ぬば玉の 甲斐の黒駒。 鞍著せば 命死なまし。 甲斐の黒駒。
                 雄略天皇「日本書紀 巻14 雄略天皇13年(467年)」


 つまり、ただちに許す旨の使者を立てて、使者は甲斐の国から献上されていた黒馬に乗って早駆けに駆けて刑場に到着。処刑を中止にして真根を助けたんですね。縛っていた縄も解かれます。そして雄略も謡いました。
「甲斐の黒駒。あれにゆっくり鞍を着けていたらああは速く走れないだろうから、命は失せてしまっていただろう。あの黒駒こそ、ありがたい」
 と。続日本紀にもこんな記述があります。

|12月丙子、甲斐国、神馬を献る。黒き身にして、白き髪と尾とあり。
                   「続日本紀 巻11 聖武天皇 天平3年(731年)」


 そう、甲斐の国は名馬の産地で、朝廷へ馬を献上していたんですね。やがて、甲斐の国の3ヶ所に官牧が設けられます。穂坂(現・韮崎市)、柏崎(現・北杜市高根町)、真衣野(現・北巨摩郡武川村)です。
 これら官牧で1年間、育てられた馬たちは毎年8月に都に発ちます。お馬さん6頭につき人間が1人、付き添うような形で京都までの道をゆくわけですが、これもまた都人たちにとっては刺激的だったらしく、夏から秋にかけての風物として複数の歌に詠まれました。また、それが歌枕となって江戸期まで詠まれ続けています。

|都までなづけて牽くは小笠原へみの御牧の駒にぞありける
                               紀貫之「貫之集 244」
|逢坂の関路にけふや秋の田の穂坂の駒をつむつむと牽く
                            公実「堀河百首 秋 769」
|関の戸にをはなあしげ見ゆるかな穂坂の駒を引く牽くにやあるらむ
                            隆源「堀河百首 秋 781」
|打ちなびき秋は来にけり花すすき穂坂の駒もいまや牽くらむ
                        家良「夫木和歌抄 巻11 秋2 4376」
|花すすき穂坂の駒にあらねども人おちやすき女郎花かな
                        匡房「夫木和歌抄 巻11 秋2 4377」
|白妙になびくまそでや花すすき穂坂の駒に逢坂の山
                   詠み人知らず「飛鳥井集 巻上 無名百首 493」
|時来ぬと民もにぎはふ秋の田のけふぞ牽きける
                         入道大納言「年中行事歌合 44」


 神奈川帰還後に調べた処、上代からずっと珍重された甲斐の黒駒は件の牧場にはいなかった、といいますか実質的には甲斐の黒駒を復活させよう、と交配などにも取り組んでいらっしゃる所だったようです。
 ですが雪一面の、わたしにとっては異郷の地で、優しい目をしたお馬さんに触れられたことは、何だかとても慰められる思いでした。温かいですからね、動物は。...ただ、不用意に触れようと伸ばした指先をぱくっ、と咥えられてしまったのには少し腰が引けましたけれども。

 いにしへにいめをし負ひし蜷の腸か黒き駒よ
 毛の麁ものや 毛の柔ものや         遼川るか
 (於:紅葉台木曽牧場)


 お馬さんたちとのしばしの憩いもそこそこに、改めて登るべき小高い丘を眺めます。こんな季節でなければ、車で終点までひと息なのでしょう。いや、仮に徒歩で登った処で、ひ弱なわたしでも大して苦痛になど思わないでしょう。
 でも、少なくとも今日のわたしには、延々と続く白い壁のようにすら感じていました。

 誰かの足跡の1つもない道。端の方には何かの動物の足跡が1つだけありましたが。本来の順路、とされている道は、元々登山道などによくある、木で組んだ階段になっているでしょう。でも、それらが雪で全く見えないこと、それと道そのものが細くて片側が柵のない斜面となっていることから、車が通る方の道を選びました。...転んだら、と考えるとちょっと怖かったものですから。
 ですが、斜面から転がり落ちることはないとして、こちらの道は勾配も急で、掴まれそうな手頃な木もあまりありません。向こう脛くらいまでの雪の中、できるだけ腰を低くして、どうしても無理そうならば膝をついていい。そう腹を据えて1歩1歩。流石に土の斜面を登るより苦しくて、先ずは1回目の発作止めの吸入。少し立ったままで休んでから、また同じように進みます。

 

 もうすっかり太陽も昇っていて、雪の照り返しが目に眩しく...。風はそれほど吹いていませんでしたが、それでも木々の梢のあたりには微かな風が吹いていたのでしょう。何故なら、前夜に降ったらしき雪の積もった枝々から、まるで風花のように粉雪がはらはらと舞い降り続けているのです。そして、それらが陽射しを浴びてテレビで観たダイヤモンド・ダストみたいに乱反射して。
 聞こえる音といったら自身の足音と荒い呼吸音だけ。...ふと、自分がとんでもなく酔狂な人間だな、と。本当に、何処まで酔狂にできているのだろう、と自嘲半分で、可笑しくなってしまいました。
 ...こんな思いまでして一体、わたしは何をやっているの? 足、滑らせたら怪我するよね? 喘息の発作、起きたらどうするの? 誰が助けてくれるの? 何、やっているの? 何をやっているのよ...。何を...、何で...。

 怖かったんでしょうね。奈良では体力的にハードなポイントは1人ではなかったですし、足柄は車、竹生島では一緒に島へ渡った人たちが傍にいてくれました。熊野も、参拝者さんたちが目に見える範囲にそこそこいてくれました。
 でも、この雪の紅葉台。視界には人影もなく、足場の悪さもこれまでの古歌の舞台とでは比較になりませんでした。数ヶ月前には肺炎で入院もしています。そして神奈川ではほんの5日前に1度目の手術を終え、2日後にはまた手術を受けようとしている父がいる...。
 そんな条件下で、そうまでして万葉歌碑をただ見るためだけに。たったそれだけのために、まさしく此岸と彼岸との境界に聳えるかのごとき坂を登っている自分。...そんな自身自身が、1番怖かったのでしょう、きっと。

 雪に覆われた紅葉台展望台、という看板が何とか読めました。たった20分にも満たない自問自答の末は、すこんと拓けた視界と雪野原。辿り着いた展望台は、これまで歩き、登ってきた道より遥かに雪も深く、だあれもいません。ベンチらしきものすらもなくて、ただその広場の端に大きな、大きな歌碑が眠っているように立っていました。
 彫られているのは例の「なまよみの〜」の長歌。万葉仮名での全文です。

                                 

 こはきはみ、こに来、こゆ出づ 黄泉比良坂   遼川るか
 (於:紅葉台展望台)


 目当ての歌碑のすべての文字を小さく音読し、ゆっくりと展望台から見える景色を見渡しました。陽射しに向かうかのように眺めた南側に鎮座しているのは富士山なのでしょう。巨大、としか言いようのない山は、けれどもその中腹辺りから上がガスに覆われしまっていて見ることができず。

 

 振り返って、日陰になっている北側を眺めると、そこに広がっていたのは夥しいほどの木々の海。...青木が原の樹海です。そしてそのさらに遠くには、群馬や長野へと続く山並みが聳え、東側もまた山。西側は甲斐が根です。
 甲府盆地。そう、この甲斐の国もまた
「たたなづく青垣山ごもれる」
 土地であったことを、この時ようやく悟りました。それと前日、甲府へと向かう高速道路で感じた、既視感にも近い感覚。あれは、かつて訪ねた奈良の景色と何処かオーバーラップしていたからだったのだ、と。
 ...何かが。解けずにいた結び目のような何かが、わたしの中でゆっくりと解けていくのを、静かに静かに感じていました。

 蟲麻呂の例の長歌の中に、こんな言葉が登場しています。
「〜せの海と 名付けてあるも その山の つつめる海ぞ〜」
 つまり山に包まれた海があって、その名前がせの海、ということになるのですが、さて。このせの海です。
 山に包まれている、というのはまさに盆地ですからよく判るお話。ただ海、というのはどういうことなのでしょうか。...はい、この答えとなるものが、甲斐の国に古くから伝わっています。湖水伝説です。

 この日、古歌の舞台を訪ね終えた後、山梨県立図書館へゆき、色々と文献を斜め読みして来ました。甲斐の国の湖水伝説について、自身の拙い知識を補強することを目的に。
 湖水伝説。それは遠い遠い悠かな太古、この甲府盆地が大きな湖だった、というもので、その湖を富士川などの川へと繋ぐことで干潟にし、現れた土の上に甲斐の国をつくった、というものです。
 ...まるで甲斐の国の国造り伝説ですね。そしてでは、その役を負ったのは? 言いますと諸説に辿り着きます。







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