左・本稿に記述している甲斐訪問時       右・約半年後の再訪時(8月初旬)

 1) 伊耶那岐の子どもである石析神/いはさくのかみ、と根析神/ねさくのかみ
 2) 第9代開化天皇の子で第11代垂仁天皇の叔父にあたる沙本毘古王
 3) 行基
 4) 甲斐国司(名前は未詳)

 言うまでもなく、実際の処は上古の時代。それこそ大和王朝が各地を平定してゆく中で、ここ甲斐の国も恭順。改めて遣わされた国司によって湖ではなく、恐らくは湿地帯であった甲府盆地を、開拓していったことに、ほぼ間違いはないと思います。
 また、行基の名前が登場するのは甲斐に限らず、それこそ全国各地のことですし、まして彼は甲州葡萄の祖、とされる人物。いにしえのロマン溢れる伝説に担ぎ出されるのも、そうそう不思議ではないですから、ここでは割愛させて戴くことにして、と。
 それよりも面白いな、と個人的に感じたのが石析・根析の夫婦神と、沙本毘古王です。いずれも、記紀に登場しています。

 石析・根析。伊耶那美が火之迦具土を産んだ際に陰を焼かれ、その火傷が元で死んでしまった、というのは記紀共に語られている有名なお話。そして、それを嘆いた伊耶那岐は火之迦具土を十拳剣/とつかつるぎで、斬り殺してしまったのですけれども、この時。神聖な岩群に飛び散った血の飛沫から生まれたのが、この夫婦神ですね。個人的には、これでは伊耶那岐の子どもではなくて、火之迦具土の子どもとなるんじゃない? なんて思ってしまうのですが、それはそれとして、と。
 ...わたしの拙い知識では、確かこの場面以外で記紀に、石析・根析の名前が登場しているのは、あとたった1ヶ所だけだったと思います。

 記紀それぞれに語られる神代。そのハイライトである葦原中国の国譲りと天孫降臨については拙作「あきづしまやまとゆ・弐」でも書いていますが、とにかく高天原側から葦原中国へ派遣された使者。要するに葦原中国を恭順・支配下へ組み込むために送り出した2柱の使者が、立て続けに大国主に寝返ってしまっていたんですね。
 そこで、3番目の使者が選ばれるのですが、その場面にこの夫婦神の名前を見つけることができます(日本書紀のみ。古事記には登場しません)。

| 是の後に、高皇産霊尊、更に諸神を会へて、当に葦原中国に遣すべき者を選ぶ。皆曰
|さく、
|「磐裂・根裂神の子磐筒男・磐筒女が生める子経津主神、是佳けむ」
| とまうす。 
                   「日本書紀 巻2 神代 下 葦原中国の平定」

       ※注:漢字表記は基本的に古事記に習っていますが、日本書紀からの引
         用文は、日本書紀の表記のままにしています。

 ご存知の通り、日本書紀版の国譲りでは、これを聞いた武甕槌神(日本書紀表記)も名乗りを上げたので、この2柱が使者として赴き、国譲りがなります。一方の古事記では使者は建御雷之男神(古事記表記)のみ。...はい、石析・根析の孫神は使者になっていないんですね。なので、日本書紀にだけしか、夫婦神の名前は再登場しないのですが。
 余談になりますけれど、この古事記と日本書紀の差は、建御雷之男が中臣氏の祀る神(春日大社)であったために、より物語性の強い古事記では、そう配慮された、というのが通説となっていますね。

 ともあれ、甲斐の国に伝わる湖水伝説にて、それこそ国の開闢をなしたとも言える石析・根析の夫婦神。元々は、岩を裂いてしまうほどの切れ味を誇る、剣の神様であり、同時に雷の神様という性質も持っていまして、恐らくはその力強い印象が湖水伝説の主役にうってつけ、と。そう思われたからこそ、なのでしょうね。
 ...というのも、この2柱が甲斐の国に何らかのゆかりがあった、という記述には、全く行き会えていませんので。神社もありますが、確か栃木県に、だった記憶があります。

 さて、もう一方の沙本毘古王です。こちらは確かに甲斐の国にも縁がありますね。...といって欠史8代の最後・開化天皇の子どもですから、石析・根析同様に実在していたとはやや思い難くはありますけれども。
 古事記の垂仁天皇時代の記述に沙本毘古・沙本毘売、という逸話が収められています。曰く、垂仁天皇の后であった沙本毘古の妹・沙本毘売に、兄が問いました。
「天皇と、兄である自分とどちらを愛しているか?」
 と。すると沙本毘売はとっさに兄の方を愛している、と答えてしまったんですね。ならば、と沙本毘古は妹に八塩折の紐小刀を作って渡し、
「眠っている天皇をこれで殺せ」
 と命令します。

 そんなことも知らない垂仁は、沙本毘売の膝枕で眠ってしまいます。けれども、沙本毘売は垂仁の首を刺そう、と3回も小刀を振り上げるも、哀しくなってしまって、ついに出来ず。...彼女の頬を伝った涙が垂仁の顔に零れ、ようやく彼は目を覚ましました。そして沙本毘売はこの子細を垂仁に洩らしてしまうんですね。
 これは謀反、と垂仁は沙本毘古に軍勢を差し向けますが、兄を思う沙本毘売はこれに耐えられず、自らも兄が立て籠もる稲城(束ねた稲や藁でできた砦のようなもの)の中に入ってしまい...。流石に垂仁には自らの后を討つこともできず、戦況はそのまま膠着状態に。

 が、実はこの時、沙本毘売はすでに垂仁の子どもを身篭っていたんですね。そして膠着する戦況のままに、赤ん坊が誕生しました。彼女は生まれた子供を稲城の上におき、
「ご自身の子どもだ、と思われるならどうか受け取ってください」
 と垂仁へ言います。一方の垂仁は子どもはもちろん、何としても后は取り返したいわけで、腕自慢の部下を集め
「子どもを受け取る時、母親も必ず掴まえて来るように」
 と命令。...でも、だめだったんですね。沙本毘売は垂仁の思いを悟っていましたから、着物や首飾りの緒(結び紐)をお酒に浸けて腐らせ、髪をすべて剃って、剃った髪を頭に載せて稲城の外に現れまして...。はい、腕自慢の兵士が彼女を掴まえようと髪を掴めば髪が落ち、首飾りに手をかければ首飾りはバラバラに。ならば、と着物を掴んだ処、その着物すらも千切れて、ついぞ沙本毘売を掴まえられませんでした。
 稲城に火が懸けられます。沙本毘古はこれにて命運が尽き、沙本毘売もまた、兄の後を追った、という沙本毘古の逸話ですが、古事記の開化天皇の項に、こう記されています。

|次に沙本毘古王(日下部の連・甲斐国造の祖)。
                        「古事記 中巻 開化天皇」


 つまりは、開化天皇の子どもたちについて書かれている中に、沙本毘古は最初の甲斐国造である、と記載されている、ということですね。...前述の通り、この沙本毘古自体の実在が、まだまだ疑わしいですし、実質的な湖水伝説の主役であった、ということもまた、恐らくは有り得ないでしょう。
 ただし、もしもわたしが甲斐の国を開闢したのが、沙本毘古か石析・根析か。このいずれか一方を選ばなくてはならない、というような状況に置かれたとしたならば...。
「沙本毘古」
 そう、答えたいと思っています。何故なのか? それは追々書かせて戴く、この甲斐の国のキー・パーソンへと繋がるお話。

 せの海のそこひいづくやいさと応へむ
 いまさらになにしか来しやいさと答へむ    遼川るか
 (於:紅葉台展望台)


 ...もし、誰か他に人がいたならきっととても稀有、いや。それどころか奇異な光景だっただろうと思います。膝までの雪、それも他に誰の足跡もない小高い展望台で、眼下には青木が原の樹海。はらはらと落ち続ける昨夜の粉雪のもと、歌碑の前で蹲るにして泣いている女が独り。自殺志願者にでも、見えたことでしょうね、きっと。
 母を亡くしてからの日々が、さざ波のように脳裏に寄せて来ては引き、引いていってはまた寄せていました。色々なものも、ことも、目まぐるしいまでに変わってしまった7年。その中でたった1つだけ、揺らぐことなく続けてきたものがありました。続いていたものがありました。
 酔狂極まりない、と自身で思えてならない歌、という衝動が1つ。それだけを支えに、糧に。それでもまだ腐りもせず、厭世もせず、逃げるでもなく。謡って来られたわたし自身が、ただただ嬉しいと。
 ...そんな涙が溢れ続けていました。

 展望台からの下りは、時間こそ掛かりませんでしたが、登り以上に怖かったです。何度も転びましたし、ようやくまたお馬さんたちと会えた時にはジーンズのお尻も膝も裾もぐしょぐしょでした。
 再び車にエンジンを掛け、鳴沢村に立っているという「さ寝らくは〜」の歌碑を探そうと、先ずは村役場へ向かいましたが、考えたら日曜日でお休み。周囲のお店や民家で少し訊いて廻りましたけれど、これといった収穫もなくてこちらは断念しました。
 河口湖大橋を渡り、また山梨県の中心部へと戻ります。時刻は11時少し前。アスファルトに積もった雪もあちらこちらで溶け始めていたようで、けれどもそれも進むほどに視界から消えてゆきました。替わって道路はこの季節ならでは、とでも言いますか。乾燥して土ぼこりすら舞うような、わたしには見慣れた晩冬のそれに様変わり。目指した先は山梨市です。

 古今集にこんな歌が採られています。

|しほの山さしでの礒にすむ千鳥君が御代をばやちよとそなく
                    詠み人知らず「古今和歌集 巻7 賀歌 345」


 個人的に、お琴とは全くもって縁のない人間なのですが、そんなわたしでも何回かは聴いたことのあるお琴の名曲中の名曲にして大曲・千鳥。この古曲には前唄と後唄というものがありまして、その前唄が上記引用の古今集のものです。余談になりますが、一方の後唄は小倉百人1首でも御馴染みのこちらとなります。

|あはぢ島かよふ千鳥のなく声にいくよねざめぬ須磨の関守
                       源兼昌「金葉和歌集 巻4 冬歌 288」


 はい、この前唄に登場する塩の山と差出の磯です。これらもまた、この甲斐の国の歌枕となりますね。
 21代集に採られている差出の磯を詠み込んだ歌たちです(上記、古今集のものは除く)。

|塩の山さしでの礒の秋の月八千代すむべき影ぞみえける
                  前大納言雅言「新後撰和歌集 巻20 賀歌 1584」
|奥つ塩さしでの礒の浜千鳥風さむからし夜半に友よぶ
                     権中納言長方「玉葉和歌集 巻6 冬歌 919」
|さ夜千鳥空にこそなけ塩の山さしでの礒に波やこすらん
                      忠房親王「新千載和歌集 巻6 冬歌 669」


 差出の磯。これが甲斐の国にある、という説が定着したのはそれほど歴史に古いものではないようですね。それもそうでしょう。甲斐の国には海がありません。当然、磯や波、塩、浜千鳥となどなどどれも海に纏わる言葉たちでは、海ではなく、しかも盆地の中にある、とはなかなか想像し難いものがあるでしょう。
 そう、それもまた歌枕という幻想空間なんですね。実際の差出の磯は甲府盆地を滔々と流れる笛吹川の岸です。現在はごく近くに万力公園という大きな森林公園がありますが、その北側にある川原へ岩肌が迫り出している場所でした。

 

 きっと、よい季節に訪ねていればとても美しい場所なんだろうな、とは思いました、確かに。ただ、冬ざれた川原には枯れ草がまばらに生えているだけで、聳える岩肌も、その周囲も、葉がすっかりなくなっている冬木立。しかも、目の前の道路を自動車がひっきりなしに通過してゆきます。デジカメのシャッターを切るも、どうにも釈然としなかった、と言いますか不服だったと言いますか...。
 風光明媚というよりは殺伐さすら醸している光景に、何だか唖然としてしまっていたわたしがいました。
「...ああ、そうか。わたしも差出の磯という歌枕を...、幻想を、追いかけていたんだなあ。だからこんなに、がっかりしているのか」
 ぽつん、と呟いてしまいましたね。

 差出の磯は長いこと千葉や能登半島の海辺のこと、と考えられていたようですね。というのも塩の山、は差出の磯を導く枕詞と見なされていますから、塩=潮。その山というのですから波。そんな公式で海沿いの土地が有力視されていたのでしょう。
 山梨県立図書館で、少しだけ調べましたがこの定説をひっくり返して、甲斐の国のこの場所だ、としたのが国文学者にして歌人の井上通泰博士。実の弟さんは柳田国男博士でいらっしゃいます。
 そもそも、磯という言葉にも色々と意味がありまして、その1つが
「水際の岩石」
 というもの。「万葉集」にもこんな歌が採られています。

|礒の間ゆたぎつ山川絶えずあらばまたも相見む秋かたまけて
                          作者不詳「万葉集 巻15-3619」


 「岩の間を通って流れる激しい谷川が絶えないでいるなら、また一緒に見よう」

 この歌自体は新羅への使人たちが、家族との別れを惜しんで詠んだものですが、ここに明確に磯=水際の岩、という公式が見られます。そう、磯は必ずしも海に限定されるものではないし、それは川でもいいわけで。
 そういうことから名付けられたのであろう差出の磯は、けれども実際を知らない人々の噂の中で流転し、あたかも海沿いの場所であるように歌に詠まれていったのでしょう。塩の山という枕詞までをも、付随してしまったのでしょう。


 ところで、その塩の山。実は、山梨県に実在するんですね。差出の磯からほんの数km離れた場所に。これは一体、どういうことなのでしょうか?
 上述の井上博士に曰く、元々が枕詞として添えたものなのだから、恐らくは古今集の歌にならって山に名前をつけたのであろう、と。...そうなんですね。つまりは虚構、幻想空間であった差出の磯の枕詞なのだから、と近くの山に、塩の山という名前を後付けしてしまった、ということです。いやはや、実から生まれた虚が、今度は実を生んでしまったわけですね。
 さて、この塩の山。現在は塩山市、という市にまでなっているのですから、どうして、どうして。これを歌というものの呪力と言わずに、何とすればいいのでしょうか。1000年にも渡る、長い長い呪術です。

 しほの山さしでの礒にいにしへゆ継がゆる奇 いめとふ奇  遼川るか
 (於:差出の磯)


 余談になりますが、どうしても古典をやっている者としては、京の有名な歌枕である小塩の山と、塩の山との間には何らかの因果関係があるんじゃないのかしら? と邪推もしたくなるんですけれどもね。こちらも随分、文献をひっくり返しました。ですが、それらしい記述にはついぞ辿り着けず。
 少々、知識優先の穿った見方が勝ち過ぎていたようです。妙に情けなくて、しばし反省してしまいました。

 そうそう。個人的な感覚では敢えて書くほどのこととも思えませんが、念のためにふれておきます。件の古今集に採られている差出の磯の歌。古今集は巻7という賀歌の中の3首目なんですけれども、巻の冒頭。1首目がこちらです。

|わが君は千世にやちよにさざれいしのいはほとなりてこけのむすまで
                    詠み人知らず「古今和歌集 巻7 賀歌 343」


 はい、「君が代」の元となった歌ですね。...後の世に、それがどういう風に解され、そして変転していったのかさておき、あくまでも古歌の1首として、わたしは受け止めたいと思っていますので、関連歌もご紹介しておきましょう。前後併せてこの4首が、古今集の巻7、巻頭に採られています。

|渡つ海の浜のまさごをかぞへつつ君がちとせのありかずにせむ
                    詠み人知らず「古今和歌集 巻7 賀歌 344」
|わがよはひ君がやちよにとりそへてとどめおきては思ひいでにせよ
                    詠み人知らず「古今和歌集 巻7 賀歌 346」


 差出の磯まで来たのですから、塩の山へも足を伸ばします。山梨市を北東に走ればすぐに市境に出ます。そして、その先が塩山市。中々場所が判らず、コンビニのお姉さんに訊いた処、向獄寺の裏手にぽっかり現れる単独峰こそがそれ、とのこと。
 なるほど、少し遠目に眺めれば確かに山なのだな、と判るのですが向獄寺の正面から眺めてしまうと、山とも見えず。ただ常緑樹が多いらしき塩の山は、こんな季節でもそれなりに風情があって、虚から生まれた実ではあっても歌枕となったこともまた、頷けるものでした。

 来し方はさてもな問ひそ しほの山、在れば在りとふまにまにあらむ 遼川るか
 (於:向獄寺)

 

 さて、取り敢えず甲斐の国の主だった歌枕は何とか周れたのだろう、と思います。...ある1ヶ所を除いては。そして、その1ヶ所こそが、紅葉台と並んでわたしがこの旅でどうしても訪ねたかった場所です。
 昨春、足柄峠を訪ねました。その感慨の中で改めて思ったのは
「歌はそもそも唱和するものである」
 ということ。恐らくは集団歌謡であった歌垣などが、この国の倭歌の根源に近いのであろう、と。素朴で骨太な民謡は、神様への寿ぎと恋。きっとこの2つのベクトルによって育まれていったのだ、と。
 そう、現時点のわたしは考えています。

 その唱和する、という要素から文芸としての和歌も、歌謡も、発展していったのでしょうし、であるならば記述に残された有名過ぎる唱和された歌の舞台に。どうしてゆかずにいられるでしょうか。
 なまよみの甲斐。この国を巡る、わたしの古歌紀行の最終目的地は、...そう。酒折宮です。すでに時刻は2時を廻っていました。夜には別件の予定がありますので、急いで甲府市内へと戻ります。

 甲府市へ戻る最中、やはり色々と後悔が募り始めていました。出発前に、甲斐の国に纏わる古歌について、あれこれと予習をしました。何分、これまでの他の訪問地と違って、即座に思い浮かんだ歌と言ったら、これから向かう酒折宮での問答歌と、蟲麻呂の長歌、雄略の甲斐の黒駒、そして古今集は差出の磯のものくらいでしたか。
 そんな心許ない記憶と下知識に反して、調べれば、調べるほどに思い出し、また次々と見つかってゆく歌、歌、歌。
「...一体、何だってこんなに歌があるんだろうか? かつて東海道だった官道は、延暦21年(802年)の富士山の噴火以降、廃れていったはずなのに。今の東海道(箱根から静岡に抜ける道)に移行してしまったはずなのに。この歌数はどういうことなんだろう?」
 そう疑問にも思いました。

 もちろん、その最大の原因はここまでにずっと書いて来ている、歌枕という幻想空間。これであることに間違いはありません。...が、もう1つ挙げられると思いますし、今回の旅ではそのもう1つの要素については一切、取り扱うのは無理。止めよう、と。そう決めて甲斐の国へわたしが入ったことは事実です。
 甲斐の国に纏わる記述に数多残る古歌や説話たち。そのもう1つの要因こそが
「甲斐源氏」
 この言葉で要約できることでしょう。

 平家物語、吾妻鏡、太平記、増鏡などなどの軍記物や歴史書には、甲斐の国にゆかりある記述が満載ですし、これら1つひとつを自分なりに検証していたのでは、とてもとても1日ではこと足りないことも、すでに出発前に悟っていました。
 少し迷いましたが、無理なものは無理ですので、古歌と若干の距離がある武家社会関連の歌も、説話も、今回は全て封印。...神奈川からはそう遠くないですから、甲斐の国は。なので、また興味が高まったらば再訪すればいい。
 そうは思ったんですけれどね。でも、やっぱり間近にある古歌の舞台たちには後ろ髪を引かれる思いが募るばかりでした。 








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