不思議な時間でした。誰も何も喋ろうともせず、ただただぼんやりと青い青い琵琶湖を眺めているだけでした。
 そんな空気を破ったのは、さっき追い越して来た3世代に渡るご家族連れの話し声で、どうやら例の足がお悪いおばあさまを庇いながら、祈りの階段を下りて来たようです。子供たちは早速、桟橋の先端まで駆け進み、ご夫婦は何やらお喋りをしているのですが、肝心のおばあさまは相変わらず、何かを呻いているような、呟いているような...。
 これには居合わせた人々も、それぞれに顔を見合わせてしまったのですが、おばあさまの呟きがこう聞こえた瞬間、やはり居合わせた人々が偶然にも反応しました。
「仏の御手にいだかれて」
 という件です。

 「ああ、そうか。あのおばあさまはずっと唄っていたのか...」
 思ったのは一瞬でした。何故なら、おばあさまに唱和するように、みながそれぞれ唄い出したからです。...もちろん、わたしも唄いました。そして、それは同じ船でこの島へ来た人間のうち、小さな子供2人を除く全員での斉唱にまでなって。わたしたちが唄ったのは、そう。琵琶湖周航の歌です。

*「琵琶湖周航の歌」

* 作詞:小口太郎 作曲:吉田千秋

* 1 われは湖の子 さすらいの  旅にしあれば しみじみと /ウミ   
*   のぼる狭霧や さざなみの  志賀の都よ いざさらば

* 2 松は緑に 砂白き      雄松が里の 乙女子は   /オマツ
*   赤い椿の 森蔭に      はかない恋に 泣くとかや

* 3 浪のまにまに 漂えば    赤い泊火 なつかしみ   /トマリビ
*   行方定めぬ 浪枕      今日は今津か 長浜か

* 4 瑠璃の花園 珊瑚の宮    古い伝えの 竹生島
*   仏の御手に いだかれて   ねむれ乙女子 やすらけく

* 5 矢の根は深く 埋もれて   夏草しげき 堀のあと
*   古城にひとり 佇めば    比良も伊吹も 夢のごと

* 6 西国十番 長命寺      汚れの現世 遠く去りて
*   黄金の波に いざ漕がん   語れ我が友 熱き心


 琵琶湖周航の歌は、調べた範囲によると大正6年(1917年)、旧制第3高等学校(現・京都大学)の水上部々員である小口太郎の作。水上部というのは今でいう処のボート部のことらしく、琵琶湖一周を行った際に、披露されたそうです。
 曲の方はその当時、3高生たちの間で流行していた「ひつじ草」のものそのままのようで、件の詞をその旋律に載せて歌われるようなり、ついには3高の寮歌にまでなってしまったのだ、とのこと。大本の「ひつじ草」の作曲者は吉田千秋。因みに2人とも、残念ながら夭折してしまったようですね。
 ...といって、竹生島では上記のようなことは全く知らなかったんですけれども。歌そのものは、子供の頃にキャンプなどで唄ったことがあったので、辛うじて覚えていた、という状態でしょうか。

 斉唱が始まった4番から5番に進み、6番になり。そしてまた最初の1番から唄い直します。もちろん、歌詞をフルレングスで覚えていたわけではないので、判らない部分は鼻歌で繋ぎ、また歌詞が判る部分が来ると唄い出して...。
 たった、それだけのことです。ほんの些細な出来事に過ぎないのでしょう。でも、わたしはその場に居合わせた全員のボルテージが静かに高まっていくのを肌で感じていましたし、それだけではありません。
 船が来て、長浜港で降りたらもう全員、何処の誰とも判らない人間同士です。恐らくは2度と会うこともないでしょうし、仮に会ったとしても気づくこともまた、ないと思います。なのに、
「この一体感は何だろう...」
 唄いながら何となく、そんな思いが浮かんでいました。それくらい普段は縁もゆかりも無い烏合の衆が唄う、という行為によって1つになっていました。...ただ、唄いながら目が合う人と笑い合い、頷き合い、そしてその隣の人へ視線を移すと、また笑い合い、頷き合う。

 そうやって、もう3度目かの1番に歌詞が戻った時、ようやく気づきました。そう、韻律です。上記引用の歌詞をご覧戴ければ一目瞭然。韻律が七五七五七五七五、というほぼ完璧な今様歌です。
 今様歌に関しては、拙作「さねさしさがむゆ〜足柄峠」他で書いていますので割愛しますが、あくまでもわたし個人としては、今様歌というものを
「万葉末期に七五調へ推移した長歌の1つの末端だ」
 と考えていますし、その長歌のさらに上流には、韻律など何もない本当に自由気侭な古代歌謡があったのだとも思っています。

 歌。それは文芸としての和歌も、現代まで韻律として受け継がれた歌謡も含めて2000年にもなろうか、という歴史を誇るこの国古来の倭歌なのでしょう。そして、その倭歌が今日まで途絶えることなく継承されて来た1つの要因に、この魂の高揚が...、少なくとも、そういう人々の心を揺さぶる力を、歌というものが秘めていたからなのだとも思います。

 古代、わたしたち人間はあまりにも無力でした。家族が病に倒れても、病院はおろか、ろくろく薬すらもない、という環境で人々に出来たのは苦しむ同胞の平癒を祈り、そして励ましの言葉を掛けることだけだったのでしょう。
 科学がない時代、最も怖いものは病気や怪我と、そして飢饉です。定住し農耕生活に入っていた人々は、とにもかくにも自分たちが飢えることなくその年、その年、きちんと収穫でき、ちゃんと食べられることこそを何より願っていました。

 けれどもその農作物は、天気や気候で収穫高があまりにも左右されてしまいます。だから彼らは、身近で伏せっている人に接するのと同じように祈り、そして言葉を掛けます。天に、大地に、太陽に、水に、風に、田圃に、稲に。さらには竈や火や、まさに身のまわりのすべてのものに話し掛け、その話し掛けている相手を神格化、つまりは擬人化していきました。...八百万信仰です。
 彼らは経験から知っていたのではないでしょうか? 苦しい時、声を掛けてもらうことで、どれほど安心でき、励まされるか、を。そういう逆の立場を知っているからこそ、人ではないものにも同じように作用する、とも考えたのでしょうし、同時にだからこそ、言葉というものに神秘的な力を見ていたのだ、としてもそれは不思議ではない、と思わずにいられません。

 勝手な推測にして感覚論に過ぎませんが、そうやって言霊という概念は広がり、定着し、やがてはこちらも信仰になっていったのだ、個人的には感じているんですね。そして、言霊信仰の本質といいますか真髄は、やはり祝ぎなのだと思います。元々が祈りや願いを託していたものなのですから、これはもはや当然、ともいえるでしょう。さらには同時に、その裏返しの祈りや願いもまた、言霊は負っていったのでしょう。そう、呪いです。祝と呪、表裏一体の人間の願望です。
 言葉によるあらゆるものへの語り掛けは、さらに呪術性を帯びていきます。独りで語り掛けるよりは、2人。2人よりは3人、4人、となっていき、大勢での呼吸を合わせた言葉は、ついに韻律までも生み出し、詠唱ともなったことでしょう。古代歌謡の誕生です。

 より大勢の人間が心を1つにして願い、祈る。科学という力を持っていなかった時代の人々だからこそ、人独りにできることがどれほどのものなのかは、現代よりもずっと、誰もが知っていたでしょう。またその逆を言えば、多くが集うことによって生まれる力も、きっと古代の人々は知っていたのだ、と思います。
 現代のわたしたちですら行進など、大勢での行為にはリズムが不可欠となります。律動によって1つに束ねられた人々は群集心理的高揚により一層、「力」を得たような思いにも駆られたことでしょう。不安に打ち勝てるような覇気も涌いたことでしょう。そして、詠唱と祈祷は舞をも伴うようになり、掛け合いにもなり...。

 そういう「力」の象徴としての言葉、そして歌謡。人々が歌というものに見た幻想は、極端な表現をするならば、ある種の覚醒作用だったのかもしれません。だから逆に、今度は大勢ではなくても、その「力」を借りようとする流れが発生しても不思議ではなく、個人詠での歌謡も増えていったわけで...。
 他に娯楽がなかったこともあるでしょうが、個人での歌謡は当時、最も身近にして、最も侭ならぬものへの願望を託されるようになります。...恋です。
 そして到来したこの国初の中央集権・律令国家である大和王朝の時代。自然神と同等、もしくはそれ以上とも思われる偉大なる人物への祝ぎにも、歌謡が機能しました。大王や天皇に、です。
 記紀や風土記歌謡、そして万葉歌などが、まだまだ実際に謡われていたものであったことは、「琴歌譜歌謡集」という文献が証明しています。「琴歌譜歌謡集」はさまざまな古代歌謡が和琴の伴奏付きで謡った際の譜本で、平安時代に成立。収録されている歌には、上記文献に収録されているものと、重複している例が複数ありますが、これもそれらが詠草当時より、謡い継がれて来たものであるからでこそ、なのだと思います。

 やがて歌謡であった倭歌が、次第に想念の文芸へとなっていった経緯については、「さねさしさがむゆ〜足柄峠」で書きましたが、元々が「語り掛けるもの」であった歌が完全なる文芸へと成り代わるまでの過渡期。そう、万葉後期から平安期ですが、すでに和歌が謡われることは少なくなっていても、相変わらず語り掛けの役を担ったコミュニケーション・ツールとして機能していたのもまた特段、疑問のない流れだったのだ、と個人的には感じています。
 そして中世、もはや歌は本来の語り掛け、という要素を失い、けれども連歌によって語り掛けではないものの、唱和する部分だけが復活し...。
 相変わらず、極めて手前勝手な推測です。ただ、そう感じるというだけで論拠はありませんし、そもそも論ですらありません。でも、少なくともわたしがそう感じ、信じていることもまた、事実です。

 自分にとっての歌、ではなくて「わたしの歌」とは何か。そして自分は歌で何をしたいのか。ずっとそんなことを考えて来ました。その答えは、恐らく歌詠みであり続ける限り、永遠に続く煩悶だ、とは思います。
 ですが、1つだけ言えるのは、自分は決して独りだけで生きられているのではなく、それは周囲の人々もそうですが、同時にやはり自身を取り巻く、世界や自然があるからこそ、な訳で。...しみじみ、自分は世界に生かさせて戴いているのだと心底から思わずにはいられません。

 ともすれば手段が目的と、そして目的と結果が、摩り替わってしまいがちな現代。日々の中ですぐ見失ってしまう自分という、ちっぽけな存在をきちんと認め、その上で生かしてくださっている世界への感謝の表明の場として、また自らを見詰め続ける鏡として、自覚するより早くそう機能していた「わたしの歌」があります。

 抱く、ということは抱かれる、ということ。支える、ということは支えられる、ということ。そして話し掛ける、ということも話し掛けてもらう、ということだ、と思っています。言葉を持たない動植物や自然、無機物だってそうです。そういうものに話し掛けることで、わたしはわたしに話し掛けているのですし、彼らもわたしを映し出す鏡としてきちんと応えてくれ、わたしはそれに対する感謝をまた謡い・語り掛けて。
 古代、人々が当たり前にしていた世界への語り掛け。そして人々が時代の中で何処かに置き去りにしてしまったこの感覚と行為を、わたしは自分自身の中に復興させたいのだ、と...。それがわたしが歌でやりたいことなのだ、と竹生島でのささやかな奇跡の最中、ずっと噛み締めていました。

 可笑しなものです。叙景の歌ばかり詠む亡母と、叙情の歌ばかり詠むわたしは、その点でよくぶつかっていましたし、それは永遠の平行線だ、とすらも思っていました。なのに、気づけば自身のインナー・スペースを見詰めながらも、世界に目を向けているわたしの歌があります。
 想像詠みはしない、と言いつつも心象として脳裏で像を結んだ光景は、見方を変えれば、それとて1つの想像なのかも知れません。ですが、想像は同時に主観の産物ですし、主観とはすなわち「わたし自身」です。

 きっとわたしは何も変わってなどいないのだと思います。ですが、わたしから生まれる歌たちが、次々と変わっていきます。変わるということは、変わる以前との決別であり、延長線上でもあります。
 もはやそれらについて、後付けの理屈をあれこれ捏ねるよりもただ、自身の心の赴くままに、詠みたいものを詠めればそれでいいじゃない? わたしはわたし、それでいいじゃない? そんな思いが、まるで自身の中から込み上げて来る波のようで、またその波に任せるままに唄っていた今様歌・琵琶湖周航の歌。
 今様歌は歌謡、すなわち雑芸です。芸能の神・弁天さまが鎮座するこの島で、謡曲「竹生島」のひと場面ではないですが、天から妙なる音楽が響いて来ているような、まさしく「仏の御手にいだかれた」瞬間だった、と今でも感じています。

 謡ひうたふは言の葉や 合はせあはする息のむた
 降りてふりたる調べはも 抱きむだかれ弁才天   遼川るか
 (於:竹生島桟橋)


 余談になりますけれど、大陸渡来の芸能の神は弁天さまですが、わが国独自の芸能の神は、そう。天宇受売です。日本人的何でもアリ、な宗教観の所為か、好きな神様は? と問われれば間違いなくわたしが答えるのが、言霊の神である天児屋、芸能・神楽の神である天宇受売、さらに弁天さまで、彼らへの募る思いはそれこそ恋にも等しいものです。そしてご存知の通り、弁天さまと天宇受売は「女性」です。
 そんな3神のうちの弁天さまに、念願かなって逢えたのだなあ、と帰宅後にぼんやり考えていました。だから、わぎもこにあふみゆ。

 吾妹子に淡海 直にし逢へたるがゆゑ  遼川るか
 (於:竹生島桟橋)


 この日最終となる、竹生島発の連絡船が接岸されました。さっきまでは一緒に唄っていた人々が、またそれぞれに「個」としての表情へ戻り、がらんとした船内へばらばらに座ると、船は静かに神斎く島を後にします。島にいられたのはたったの1時間強。でも、とてもとても濃密な時間でした。

      

 次第に小さくなっていく島を眺めながら、琵琶の形をした鈴を買った観音堂で聞いたことをもう一度、思い出していました。それは弁天さまを含む七福神についての話で、曰く七福神のメンバーは全員、それぞれ身体の何処かしらに不具合を抱えている神であるのだ、と。恐らくは「福」という響きが似ているからなのでしょうけれども。
 紅一点の弁天さま。美貌と才気に溢れ、柔肌も露に婀娜な風情が、古来より人気のこの女神が、抱えていた不具合を教えてもらった瞬間は、思わず絶句というか、息を呑んでしまわずにはいられませんでした。...弁天さまは、子供が産めない女神、石女でした。

 ずっと旅をしています。わずかな時間とチャンスは逃さずに、近くでも遠くでも、その時に行ける場所を訪ねて来ました。そして旅は、必ずわたしに新しい何を授けてくれましたし、別の土地ではそういった以前の授かりものの再確認もさせてもらえました。
 2年前、亡母との約束を果たしに奈良を訪ねた時に、授かったものは数え切れないほどありますが、そのうちの1つに地母神、というキーワードがあります。女でありながら、子供が産めない。産まない、ではなく産めない、という現実は拭っても拭っても、わたしに圧し掛かっていました。もちろん、何も子供を産むことが女である証や、義務や、役目、などという暴論を振りかざすつもりは皆無です。ただ、それでも引っ掛かってしまっていたのは、
「ならば女って何なんだろう?」
 と。

 一面の青田がうねる奈良、という土地がわたしに授けてくれた答えは
「女は産み、育むものである」
 ということで、それは何も子供だけではない。...何の気負いもなく、そんな風に感じられました。だからこそ、わたしは歌を産もう。そうも思えました。自分を取り囲む様々な命に語り掛けて、ほんの少しでも育むことの助けになれたらどんなにいいだろう、とも思いましたし、思っています。弁天さまに逢えたことで、それらをまた、心に刻み付けられたのは、この竹生島への小旅行の授かりものの1つです。
 そして、弁天さまに限らず、他の七福神にもまた、それぞれの不具合があるように、きっと誰もがそれぞれに苦悩を抱えているのも、当たり前ですけれど忘れてはならないことなのだ、と。


 長浜港からJR長浜駅へ移動して、北陸本線に乗ります。米原駅へと向かう車窓からは、早くも黄色く稔り始めている稲穂が、夕日に照らされて一層、黄金色に輝いて見えました。風にうねる金色の波です。
 ふと、近江にゆかりの神楽歌を思い出していました。

| 本
|細波 滋賀の辛崎や 御稻搗く 女の佳さ さや それもがな
|かれもがな 愛子夫に ま 愛子夫にせむや
| 末
|蘆原田の 稻舂き蟹の や 汝さへ 嫁を得ずとてや
|捧げては下し や 下しては捧げ や 肱擧をするや
| 又本返
|滋賀の辛崎や 御稻搗く 女の佳さ さや それもがな
|かれもがな 愛子夫に ま 愛子夫にせむや
| 又末返
|稻舂き蟹の や 汝さへ 嫁を得ずとてや 捧げては下し や
|下しては捧げ や かみなげをするや
| 本方
|あいし あいし
| 末方
|あいし あいし
                             神楽歌「細波」


 これは本が男性、末が女性による、やりとりの形をした神楽歌ですが、内容は要するに稲を搗いている女性に対し、男性が
「嫁さんになっておくんなよ」
 と求愛をするんですね。すると女性は
「何言ってんだい、この蟹野郎が。何てザマだよ」
 と、男性のまるで「頂戴な」をしているように差し出した手が、蟹が鋏を振りかざしている姿に似ている、と悪態をついて返事するわけです。そしてまた、その繰り返しをして、悪態の交換による隔てのない、親愛感を表現しているものだといいます。...まあ、とても大らかな時代ならでは、のものなのでしょうが「産み、育むもの」である女の逞しさの片鱗が、ここにも垣間見えるように思います。

 萎草の女、生し育むものなればあれ生さまくほし
 ことほきの歌 よごとなる歌           遼川るか
 (於:JR北陸本線車内)


 米原に着いた時にはもう日が暮れていました。新幹線のひかりに乗り込み、小田原を目指します。気持ちが昂ぶっていたからでしょう。充分、疲れているというのに少しも眠くならず、ただただ車窓を流れていく景色を眺めては、次から次へと歌だけ詠んでいました。

 かつて歩いた世界各地でも思いましたが、この日本でも旅に出るたびに必ず思います。
「ああ、世界は何でこんなに、泣きたいくらい綺麗なんだろう」
 と。...もちろん、そんな薄甘い感慨など通用しない、過酷な現実の国も随分、歩きましたし、治安がとことん悪い地では、2度ほどこめかみに銃口をつきつけられるなど、
「...もうダメだ」
 と覚悟したこともあります。それでも、やはり思ってしまうんですね。世界は本当に綺麗だ、と。







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