|秋風はすごくふけども葛の葉の恨かほにはみえしとぞ思ふ
                  和泉式部「新古今和歌集 巻18 雑歌下 1821」


 余談になりますが、上記引用の和泉式部の歌は問答歌の返しです。では、先に歌を贈ったのは、と言いますと彼女の親友だったとされている赤染衛門です。

|うつろはでしばし信田の杜を見よかへりもぞする葛の浦風
                  赤染衛門「新古今和歌集 巻18 雑歌下 1820」


 はい。そして信太の杜、というこの界隈に実在する地名が出て来てしまった以上、触れずに過ごすことができないのが葛の葉姫伝説です。簡潔に綴ります。
 要は陰陽師・安部晴明の父親に当たる阿部保名が陰陽博士・加茂保憲に師事し、その師の娘である榊の前と婚約。けれども彼女は、婚礼を前に不運な最期を遂げてしまうんですね。
 これによって保名は発狂。和泉国信太の森に迷い込みます。そんな彼を助け、癒したのが、他界した榊の前と瓜二つの実妹・葛の葉姫の姿に化けた白狐。やがて2人は結婚して男子にも恵まれたのですが、平穏な暮らしは長くは続きませんでした。本物の葛の葉姫が訪ねて来てしまったんですね。
 白狐の葛の葉姫はそれを境にいずこともなく消えてしまいます。部屋の障子にたった1首の歌だけを残して。

|恋しくば訪ね来てみよ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉
                    竹田出雲「人形浄瑠璃 蘆屋道満大内鏡」


 この時、残された男の子が後に和泉国の信太の杜を訪ねました。狐の葛の葉姫と再会し、母の形見として鳥獣の声が人間の声として聞こえる、という霊玉を授かります。そしてこの男の子が成人し、あの陰陽師・阿部晴明となるわけですね。
 またしても余談になりますが、前述している通り、安部氏は鴨氏と血縁であった可能性が囁かれています。その安部氏を代表する人物である晴明に縁ある説話や史跡までもが、この泉州一帯には残っているわけで...。葛城山を、いや。大和盆地から後退して茅渟に移り住んでいた鴨氏の意富多々泥古と、安部晴明。鴨氏と安部氏を繋ぐ血脈という線がうっすらと浮かび上がってきますね。


                                   

 さらには、これらの歌や説話などから「葛の葉の」がうら、を伴う枕詞となっていったのは平安中期以降のこと。

 さて、この説話に登場する狐の葛の葉姫に因む神社(葛の葉神社)も、JR阪和線沿線にあるようで、清女の枕草子にも登場しています。

|大荒木の森。忍の森。こごひの森。木枯の森。信太の森。生田の森。うつきの森。きくだ
|の森。いはせの森。立聞の森。常磐の森。くるべきの森。神南備の森。假寐の森。浮田の
|森。うへ木の森。石田の森。かうたての森といふが耳とどまるこそあやしけれ。森な
|どいふべくもあらず、ただ一木あるを、何につけたるぞ。こひの森。木幡の森。
                       清少納言「枕草子 112段“森は”」


 ...が、わたしは今回、訪問を見送りました。

 一方の紀貫之です。そもそも紀氏は名前の通り紀伊国の豪族。その支配圏は紀伊に留まらず和泉国南部の日根野辺りまでが含まれていた、とされています。つまりはお膝元だった、ということですね。そんな彼の、土地に纏わる逸話は謡曲「蟻通」に見られますし、その出典は貫之集となります。
 あらましを掻い摘んで書きます。

 和歌の神として知られる住吉の玉津島明神への参拝に出向いた貫之。途中、馬に乗って和泉国まで来てみると突然の大雨が降りだし、馬も地に伏してしまって動こうとしません。立ち往生している彼のもとに、1人の宮人が通りかかり、この土地の伝説を貫之に語って聞かせます。
 曰く、蟻通明神の御前は下馬して通らなければならず、馬が突然、伏したもこの戒めに障ったことからなのだ、と。明神の怒りを貫之はかってしまったのだ、と。さらには、もし知っていて犯した罪であったならば、命すらもなかったはずだ、とのこと。

|シテ詞「さて御身は如何なる人にて渡り候ふぞ」
|ワキ詞「これは紀の貫之にて候ふが。住吉玉津島に参り候」
|シテ「貫之にてましまさば。歌を詠うで神慮に御手向け候へ」
                                謡曲「蟻通」


 貫之は宮人に自らの素性を明かし、どうしたら明神の怒りが解けるか尋ねます。すると、宮人は当代きっての和歌の詠み手なのだから、歌を神に捧げるのがよいだろう、と答えます。

|ワキ「これは仰にて候へども。それは得たらん人にこそあれ。われらが今の言葉の
|  末。いかで神慮に叶ふべきと。思ひながらも言の葉の。末を心に念願し。雨雲の
|  立ち重なれる夜半なれば。ありとほしとも思ふべきかは」
|シテ「雨雲の立ち重なれる夜半なれば。ありとほしとも思ふべきかは。面白し面白
|  し。我等かなはぬ耳にだに。おもしろしと思ふこの歌を。などか納受なかるべ
|  き」
                                謡曲「蟻通」


 そこで貫之が「雨雲の立ち重なれる夜半なれば有りと星(蟻通)とも思うべきかは」と詠んだ処、宮人はその出来栄えに深く感じ入ったようで、彼の和歌の徳を讃えます。すると、地に伏していた馬がまた元のように歩きだしたではありませんか。
 流石にこれには、貫之もようやく宮人が只者ではないことに気づきます。そこで祝詞をあげて、神の心を慰めたいと願い出た処、それを聞き入れて、宮人は木綿花(幣の1種。神へ奉納するもののこと)を雨のように降らせながら、礼拝を始めて...。
 その礼拝では、そもそも神を慰めるには和歌が何よりも相応しいということや、さらには宮人こそが蟻通明神の神体であることなどが語られます。やがて明神はゆっくりと鳥居の影へ消えてゆき、貫之は、自身の歌を神が受納してくれたことの歓びを噛み締めつつ、再び旅路を急ぐのでした。

 これが謡曲「蟻通」の大雑把な内容なのですが、この曲の主題はまさしく和歌の徳、となります。実際、後半の祝詞をあげる場面では、貫之が残した古今和歌集の仮名序に書かれている内容を、主になぞるような掛け合いになっていますね。
 そして、その仮名序に書かれている和歌の六義。こちらも謡曲「蟻通」で触れられています。「風賦比興雅頌」、つまりは

|和歌有六義。一曰風、二曰賦、三曰比、四曰興、五曰雅、六曰頌。
                         紀貫之「古今和歌集 真名序」


 のことです。そへ歌、かぞへ歌、なずらへ歌、たとへ歌、たゞごと歌、いはひ歌、とこの6つの歌の有様が、古今和歌集が編纂された時代に尊ばれていた和歌の機軸とも言える概念ということでしょう。
 けれどもその「風賦比興雅頌」は、中国は唐代の「詩経」にある「大序」からの転用なんですね。そう、そっくりそのまま移植された概念、とでもいいましょうか。...ここにも、万葉期に死んでしまった倭歌と、大陸文化を吸収して生まれ変わった平安期以降の和歌の流れが、克明に残っていますね。

 お話を貫之に戻します。謡曲「蟻通」の中では

|雨雲の立ち重なれる夜半なればありとほしとも思ふべきかは
                                謡曲「蟻通」


 となっている、蟻通明神が感服した彼の歌は、貫之集には少し違った形で収録されています。念の為に、そちらも引いておきましょう。

|かきくもりあやめも知らぬ大空にありとほしをば思ふべしやは
                         紀貫之「紀貫之集 第9 830」


 蛇足ですが、どちらの歌も4句目の「ありとほし」は「蟻通」と「有りと星」との懸詞になっています。

 さて、この謡曲の舞台となった蟻通神社。こちらの所在地もJR阪和線沿線です。そもそもの神社の由来は天武天皇の時代に、唐の高宗が日本国の知恵を試すべく、七曲りの玉を献じて、曰く
「この玉に糸を通せ」
 という難題を吹っかけてきたことから始まります。この難題が解けないならば、国を征服してしまうぞ、と。
 すると、翁が1人何処からともなく現れて、蟻の腰に糸を結び、玉の入り口に入れます。一方の玉の出口には蜜を塗り、その匂いに引き寄せられた蟻は、七曲の玉を糸も伴ったまま通過。これにて難題は解決されます。そんな知恵者の翁に、人々が名前を尋ねた処、翁はそれに答えようとはせず

|七曲にまがれる玉の緒を貫きて蟻通しとは誰が知らずや
                   清少納言「枕草子 244段“蟻通の明神”」


 という歌だけを残して消えてしまった、のだそうです。蟻通神社は、この伝説によっておこった学問の神のお社です。

 余談になりますが、この貫之の説話と七曲の玉の伝説の両方について触れているのが、またしても清少納言。引用は長くなりますので控えますが、枕草子の243、244段に蟻通神社に纏わる記述が登場しています。


  

 政治家には凡そ魅力的ではなかった、という和泉国。けれども、文人にはとても好まれた、ともいわれている和泉国。蟻通神社も、時間との兼ね合いでわたしは訪ねませんでしたが、余裕があったならば行ってみたかった、とも思いましたし、思っています。

 タクシーは浜辺を求めてなおも走り続けます。正直、こんなに走らないと砂浜に辿り着けないとは思ってもいなかったので、何だか不安になって来ました。夕陽は早くも沈みかけています。街自体が工業地帯などであれば、こういう展開も判らなくはないのですけれども、こんなに長閑な街です。一体、どうして...。
 やがて周囲の風景が変わり始めます。何とも近代的で幅の広い複数車線の道路。明らかに埋立地、と判る人工的な街路樹の列。
「お客さん、この辺で砂浜がある処とゆうたら、この先の海岸だけなんやけど」
 次第々々に前のめりになり、食い入るようにフロンドガラスの先を見続けているわたしに、運転手さんが申し訳なさそうに言います。
「10年くらい前までは、もっと内陸に海岸線もあったし、潮干狩りができる砂浜もあちこちにあったんやけどなぁ」
「...そうなんですか」
 何とも気まずい空気が車内に漂う中、ようやくタクシーは停まりました。
「この辺で唯一の砂浜ですわ」

 茅渟の海。ようやく、ようやく辿り着きました。辿り着けました。やっと逢える古歌の舞台で、けれども最初にわたしを出迎えてくれたのは、背の高い椰子の木なのか、棕櫚の木なのか...。いかにも造られた南国の風情の象徴たちは定規で測ったような等間隔で、入り江のカーブ沿いに並んでいます。


 足元の砂もあまりに白くて、何で内海の砂浜がこんなに真っ白なんだろうか? と、かすかに違和感を覚えましたが、そんなことよりもとにかく海です。ハイヒールのまま、清潔すぎる砂浜を波打ち際まで進み、沖に見えるであろう淡路島や友ヶ島を眺めようとした時です。
 ...そのあまりな現実に、思わず天を仰いでしまったわたしがいます。確かに、海です。春の湿り気の多い夕暮れに霞むようにして友ヶ島であろう、と思える島影も目を凝らせばかすかに見えました。
 けれども、そういった自身が見たい、と望んでいたものはあまりに朧げで...。でも、その一方で考えてもいなかったものが。ない、と思い込んでいて、あるなどとも思っていなかったものが。どう角度を変えても視界の中に飛び込んで来てしまっていました。
 この21世紀の茅渟の海。ここで何よりもの存在感を放ち、鎮座していたもの。...それは関西国際空港でした。

 可笑しなものです。日根野まで乗っていた阪和線は関空快速でした。知識でも大阪湾に関空があることぐらいちゃんと知っていました。明らかに埋立地と判る海沿い、人工的な砂浜...。そのどれもが、この波の向こうに関空があることを指し示していたはずなのに、茅渟の海、茅渟の海、と半ば呪文でも唱えるようにしてやって来たわたしは、それらを結びつける回路が麻痺してしまっていたのです。
 後を振り向くと、あの葛城山がいまでもちゃんとあります。なのに、また前を向きなおすと、茅渟の海がない...。

 いや、違いますね。「なまよみのかひゆ」でも書きましたが、これこそが歌枕という幻想空間、そのものなのでしょう。わたしにとっての茅渟の海という幻想です。そして今、目の前に広がっているものこそが、この現代の茅渟の海に他なりません。

 春柳葛城の山越えざれどあれ砂のむた こは貝のこゑ     遼川るか
 (於:樽井サザンビーチ)


 2年前、葛城山を訪ねた時に感じたこと。それは
「ない、ということだけがある」
 でした。ただ碑が立っていただけで、他には何もなかった高丘宮跡。2000年にも及ぼうか、という時間の流れは有を無に帰していましたし、同時にそれが本来あるべき姿なのだ、とも思いました。逆に復元された平城宮の朱雀門などは、わたしの目にはむしろグロテスクなもの、として映りました。
 けれども、無のうえへ新たな有が存在するようになるのも、また時間の流れという大きな摂理の側面なのでしょう。

 万葉期で衰退してしまった倭歌の後には、中国文化を取り込んだ新たな和歌が生まれました。神聖視されていた桜を凌駕した白梅の歴史があります。天皇氏との連立で葛城王朝をなしていた鴨氏と、その後の没落を経た末裔の陰陽師・安部氏。そして茅渟の海には関西国際空港が浮かび、茅渟という呼び名すらも、時代の中で失われてゆこうとしています。
 ...けれどもその一方で、白梅に凌駕されたはずの桜が、今度はその白梅を凌駕してもいるのです。

 光と闇、闇と光。表と裏、裏と表。そして、有と無、無と有...。相対するものはその両面で1つ。もしも真理というものがあるのだとしたら、これこそが真理のように、わたしには思えています。
 そして何故、蟲麻呂はそれでも倭歌に拘ったのか? 宇合は何故、それでも倭歌を残そうとしたのか? 多分、その答えもまた、この表と裏なのだ、とぼんやり思わずにはいられませんでした。
 倭歌。確かに、現代まで残っている記録から手繰れる範囲では、この国に最初からあったもの、とされている倭歌は上代歌謡や万葉歌です。けれどもそんな倭歌とて、もしかしたらそれよりも前に存在した、全く別の詩歌なり歌謡なりを、凌駕した存在なのかも知れません。たまたま、現存する記録の中では最古というだけなのかも知れません。白梅よりも古来から神聖視されていた桜が、神聖視された理由は農耕文化に拠りますが、その農耕文化さえも大陸渡来のものだ、という史実は覆せないでしょう。
 ...一体、何が最古なのか? どれが最初のものなのか? 判りません。現代に生きるわたしたちは、過去の記述の中からのみ、その片鱗を手繰り寄せられますが、それはきっと、ほんのひと握りの片鱗でしかない、ということなのでしょう。

 だとしたならば今、自身が表だと信じているものが、本当に表であると断言する術など、きっと誰にも持ち得ないものなのではないでしょうか? そして、そもそも表であると断言する必要性も、証明する必要性もきっとないのだ、と。...そう思えています。
 結局、わたしが倭歌に倣おうとしている理由も、ただ自らが惹かれるものだからです。だから、それを信じているに過ぎません。たった、それだけです。
 時間という流れの中で有と無も、表と裏も、次々に入れ替わってゆきます。まるで永遠に寄せては返し、返しては寄せる波のように。

 人工の浜辺は、けれどもちゃんと自然の海藻も生えていました。衣通郎姫が謡ったホンダワラではないのでしょうが、それでも人造のうえにさえ新たなものは発生します。何となく口をついて出たのは今様歌の韻律を残しつつも、すでに変則もし始めている歌でした。

 


* 「浜辺の歌」

* 作詞:林 古渓  作曲:成田為三

* 1 あした浜辺を さまよえば  昔のことぞ しのばるる
*   風の音よ 雲のさまよ    寄する波も 貝の色も

* 2 ゆうべ浜辺を もとおれば  昔の人ぞ しのばるる
*   寄する波よ 返す波よ    月の色も 星のかげも

* 3 疾風たちまち 波を吹き   赤裳のすそぞ ぬれひじし
*   病みし我は すでにいえて  浜辺の真砂 まなごいまは


 この「浜辺の歌」はご覧の通り、1番と2番の歌詞が、前半2連こそ7575の今様歌の韻律ですが、後半2連が6666という破調になっています。3番も同じく前半が今様歌の韻律なのに対し、後半が6676の破調になっていますね。
 元々、浜辺の歌の4番まであったそうで、3番の歌詞は元来の3番の前半と4番の後半が一緒にされてしまったものなのだ、といいます。
 だからでしょう。作詞者である林古渓は、3番を唄われることを何かと嫌がったというのは有名なお話のようですね。けれども、大元の原稿を古渓自身が失くしてしまったために、欠落している本来の3番後半と4番前半の歌詞は、ついぞ人目に触れることがありませんでした。

 突き詰めてしまえば、すべての記録というものの信憑性はまるで浜辺の歌の歌詞のようです。記録として残っているもののみを人々は認識し、ともすればそれを事の全体像と錯覚してゆきます。そしてその錯覚のうえに時代が降り積もれば積もるほど、錯覚が真実を凌駕し、それこそが真実として成立してゆきます。
 そして、それが...。それこそが、永遠普遍のものなどない、この世界に課せられた宿命であり、現実でもあるのでしょう。

 源あれば終ひありて 終ひあればこそいまはあれ
 終ひはいづへや源も 源いづへや終ひさへも        遼川るか

 継ぎて継ぎたる川なほし 往きて往き往くばかりゆゑ
 失するも成るもなべて川 よろづ束ぬる川ひとつ      遼川るか
 (於:樽井サザンビーチ)


 そういえば、件の甲斐の国でお話させて戴いた現代短歌の先生は、こうも仰っていました。
「こういう、いにしえのものはそれをそっくりそのままこの現代には持ち込めない。当時と今は、それでもやはり別の時代である以上、いにしえのものを内包しつつも全く別の新たなものを生み出す気概で取り組まなければならない。第一、そもそもがいにしえのままを復元することなんて不可能だ。何故ならば、わたしたちはこの21世紀に生きているのだから」
 と。...そういう意味では、たまたまわたしには選択することができなかった現代短歌も、わたしが信じている現代の歌謡的和歌も何ら違うことなどないのかも知れません。たまたま根ざしているものが違うだけで、けれどもこの現代に詠んでいるというまたとない事実は、違えようもないのですから。

 ただ、1つだけ思うのは最終的にすべてのものに終焉が来るのだとしても。それは絶対に避けられないことなのだとしても。その時代、その時代に残したい、という意思を持つ者がいるならば、それもまたそのものが負っている命運なのではないか、と。
 淘汰というゆったりとした大きな渦は、すでに存在していたとしても、残そう、引き継ごう、という意思を持つ者が存在していれば、渦はその間だけでもよりゆったりになります。逆を言えば、意思を持つ者が途絶えた時点で、淘汰の渦そのものすらも消えてしまうのですから。...存在し続けられないのですから。
 裏は表で、けれども同時に表は裏です。淘汰の渦が存在していることこそが、今ある証でもあるではないでしょうか。

 時は、...川。けれども時は、...海でもあるのでしょう。どれほど広くとも、この星の表面以上には広がることなどできない海。海という大きな大きな湖です。







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