いずれにせよ、文字がないからこそ謡うしかなかったいしにえの人々。それは同時に貴族社会や武家社会に属していなかった人々、とも言えるでしょうし、だからこそいにしえの因習を、引き継ぎ続けた部分はきっとあったのだ、と思えてならないんですね。
 その証左として、甲斐の国に限定しないならば、特に「万葉集」の巻14、東歌には歌垣歌、とみなされているものが意外なほど沢山、しかも様々な国の歌として、採られています。
 余談になりますけれども、前述の「さ寝らくは〜」も、1説によれば歌垣歌とされていますね。

 さっきまでは笛吹川沿いのどことなく侘しかった景色が、次第々々に建物で雑然として来ました。車の量も一気に増え、半ば渋滞のような有様。...甲府市内です。しばらく進んでから右折して、JR中央本線の線路を越えようとすると、その先にこじんまりとした鳥居が見えました。あれが、酒折宮なのでしょう。
 酒折宮周辺は、意外にも住宅地で路地も狭く、駐車場があるか少し心配になりましたが、お社の前にほんの数台だけ停められるスペースが何とか。車を降りてみて気づいたのは、自身があまりにも泥だらけだ、ということでお宮さんへの申し訳なさから、慌ててあちこちをぱたぱた、はたきました。踏んづけていたスニーカーの踵もちゃんと履き直し、朝からずっと被っていた帽子も脱ぎました。
 やはり、それこそご近所にある神社さん、という位に小さな、小さなお宮さんです。社務所も窓口すら開いていない様子で、かすかに拍子抜けをしてしまった、と言いますか...。
 でも。何でなんでしょうね。恐らくここが大きなお社であったならば。きっとわたしは違和感を覚えていたような気がしています。

 拙作で何度も書いていますけれど、この酒折宮という場所は、和歌や連句、俳句関係者からは1種独特の場所と見なされている、と思います。その由来が例の

|新治 筑波を過ぎて幾夜か寝つる  
              倭建命「古事記26 中巻 景行天皇5 倭建命の東国征伐」
|日日並べて夜は九夜 日には十日を 
              御火焼翁「古事記27 中巻 景行天皇5 倭建命の東国征伐」


 という倭建命と御火焼翁の問答歌が交わされた舞台、ということに拠るものですし、これが和歌の道=敷島道に対して、連歌の道を筑波道とするきっかけとなったやり取り、ということでもあります。...ここで交わされた片歌の問答。これが連歌の祖である、としている文献がとても多いですしね。

 詳しくは「さねさしさがむゆ〜足柄峠」をご高覧戴きたいのですが、ともあれ東国各地を平定して廻った倭建一行は、甲斐に入ってここ・酒折宮でしばし繰り返された戦いと、旅の疲れを癒していました。
 そして倭建が問います。
「常陸の新治や筑波を過ぎて、もう幾日くらい経ったのだろうか」
 これには随行していた者たちも、狼狽したのではないかと思います。...といって何も日数が判らないから、というのではもちろんありません。問題なのは倭建に歌で問いかけられていた、ということですね。
 歌で問われた以上は歌で答えるのが、当然ですけれどお作法ですし、そうしなければ不敬にも当たったのだと思います。といって、武人としては勇猛だった部下たちも、これには即座には答えられなかったのでしょうね。...が、これに堂々と答えたのが意外な人物でした。
「日に日を重ねて夜ならば9夜、昼は10日になりますよ」

 御火焼翁。果たしてこの人物が何者だったのかは、よく判っていません。行軍の日数を即座に答えられたのですから、少なくとも筑波からは随行していた者なのかも知れませんね。また軍内でのその役割も御火焼、です。
 今から悠かに遠い時代のことです。火というものがどれほど大切にされていたのか、は少し考えれば容易に悟れると思います。錐のような木を板に擦り続けて発火させる...。これには相当な時間と労力が必要です。なので、例えば山火事などで火種を得て、それを行軍には大切に管理・携帯するのが当時は一般的だったわけで。そんな大切にして神聖なる火を扱う専門職となれば、それなりに高い地位であった可能性が高い、と考えられます。

 ですが、もう1つ可能性があるんですね。それは酒折宮、という名称から手繰れるものなのですけれども、倭建が平定して廻った、当時の日本各地。西国もあれば東国もありますが「宮」と名前にあるのは、酒折だけなんです。
 宮。言うまでもなく、天皇や皇族の住居や神聖視される神社など(神宮)、要するに敬うべき神様か、神様に等しい存在の坐す建物のことです。どうも釈然としないんですね。...というのも、この酒折宮の祭神が他ならぬ倭建だからです。

 もしここで酒折宮が、それこそ天照でも、素盞鳴でも、大国主でも構わないのですが、少なくとも記紀それぞれの「神代」に登場する、天つ神なり国つ神を祀っているならば、こんなことは疑問にもならないでしょう。
 けれども、この酒折宮は祭神である倭建が逗留した時、すでに酒折宮という名称であった、ということです。

|即ち其の国より越えて甲斐に出で、酒折宮に坐しましける時
                  「古事記 中巻 景行天皇5 倭建命の東国征伐」


 これはつまり、甲斐の国が相当古い時代から大和朝廷に恭順していて、何らかの離宮のようなものが存在していた、と考えないわけにはゆきそうにないですし、その離宮のような存在こそが、酒折宮であったのだろう、と。
 ...とするならば、御火焼翁は随行していたのではなく、むしろ倭建一行を現地で迎えた存在だったのではないか、とも思えるんですね。...行軍の日数を知っていた、という点はやや引っ掛かりますけれど、これくらいは随行していた者たちに聞いていた、など如何様にも仮説は立てられますからね。

 もう1つ、これまた図書館で仕入れた知識なのですが、甲斐の国からは古代の甲冑が複数、出土しているようなんですね。考古学にはとんと明るくないですが、少なくとも甲冑などの鉄の加工技術というのは、大陸渡来にして大和王朝の独占のものだったはずです。なので服従した国にだけ、王朝から初めて授けられるものだったことも。
 それが出土しているということは、御火焼翁が甲斐の国の人間であったかは別問題としても、甲斐の国そのものは倭建一行が逗留したこの当時より以前に、大和王朝に服従をしていた、と考えられる要素ともなります。
 それならば、古事記や日本書紀に於ける、酒折宮での何とも和やかな風情も頷けます。逆に、甲斐の国がまだ平定できていなかったとしたならば...。片歌の問答などしているゆとりが果たしてあったのか。...それは、かなり疑問です。
 さらに思うのが、紅葉台で実感した甲斐の国と大和の国の景色の相似です。遠く離れた故郷・大和の国によく似た甲斐の国で、倭建一行は久方ぶりにしばしの休息をとったのではないでしょうか? 酒折宮は、東国全体に対する総督府のような存在だったのかも知れませんね。

 お話を御火焼翁に戻します。件の問答の後、古事記にはこう綴られています。

|是を以ちて其の老人を誉めて、即ち東国造を給ひき
                  「古事記 中巻 景行天皇5 倭建命の東国征伐」


 これが何よりも曲者の記述でしょう。因みに日本書紀には、この記述がありません。

 東国造。もちろん、ここで言う東国というのは、これまで平定してきた東国全てを指している訳ではなく、どちらと言うと甲斐の国周辺という感じになると思います。...そう、少なくとも古事記は、この御火焼翁が甲斐の国を束ねる首長になった、としていまして。
 ここで思い出して戴きたいのが、沙本毘古王です。やはり日本書紀には記述がないものの、古事記には甲斐国造の祖、とされている彼の子孫に関して「国造本紀」にこうあります。

|甲斐国造
|纏向日代朝の御世に、狭穂彦王の三世孫・臣知津彦公、此子・塩海足尼を以て、国造
|に定賜ふ。
                        「先代旧事本紀 巻10 国造本紀」


 纏向日代朝というのは第12代景行天皇の時代のことで、狭穂彦王というのも沙本毘古王のことです。彼の日本書紀での表記が「狭穂彦王」なんですね。
 つまり、国造本紀によれば、彼のひ孫となる臣知津彦公と、玄孫となる塩海足尼が、景行天皇の時に甲斐国造に任命されたとのことで、その景行天皇は倭建の父親です。そう、倭建が各地を平定したのが、まさしく景行天皇が統治した時代なわけです。

 ...はい、これらにより御火焼翁と塩海足尼(もしくは臣知津彦公)が同一人物ではないか、という推測が生まれますし、沙本毘古王の子孫ということは同時に開化天皇の子孫。
 いやはや、欠史8代に関わる記述である以上、どれもとても鵜呑みにはできないものではありますけれど、それでも翁が傍流とは言え、皇室の血筋であったならば...。神聖な火を扱う役を負っていたことも、即座に歌を返せる程度の知識と嗜みがあったことも。そして酒折宮が神宮ではない、まさしく宮であったことも。
 全ての辻褄が合ってしまうんですね。なので個人的には、湖水伝説の主役もまた、沙本毘古王としたい、という次第です。

 また、それほどに古くから甲斐が大和朝廷に従っていたのならば、歌枕。そう、あの幻想空間の元となる、現地逗留経験者による甲斐のお土産話も、早くから畿内に持ち込まれ、噂となり、尾ひれのついた評判になり、浸透・定着し、そして歌に詠まれた...。
 これらに欠かせない時間的要素を計算に入れたとしても、そう破綻はしていないのではないか、と思えてしまうのですが、如何でしょうか。

 柔らかい風と陽射しと空気でした。かつて訪ねた熊野や三輪山のように、ひれ伏したくなるような神意も霊威も不思議と感じてはいなくて、あったのは懐かしいまでの温もりと、息が楽になってゆく安心感と。
 それはこの酒折宮が神ではない、人(あくまでも記紀での取り扱いによります。現代から見れば、もちろん神様です)を祀っているからなのかも知れません。単にこじんまりとしているから、というだけだったのかも知れません。ですが、あれこれと作り込まずにただ胸にある、有の侭を詠んだ片歌、という歌体からわたしが感じ取っている、どうしようもないほどの懐かしさや肌へと馴染む浸透感に、このお社の佇まいがとてもとてもそぐっていて...。
 何故だかは判りませんが、子どもの頃。それも、とてもちいさな頃に、初めて海に連れていってもらい、潮溜りを
「お風呂だよ」
 と言われてちゃぷちゃぷ遊んだ時の暖かさに、よく似ていました。


 境内には本居宣長が書いた、という「酒折宮寿詞」の碑と、山縣昌貞による酒折祝碑が立っていました。
 本殿へのお参り。相変わらず祈りごとはいつもと同じです。1礼2拍1礼し、続いてこちらも恒例のお御籤を。結果は...、吉。書かれていた件を今でも覚えています。曰く
「願いごと必ず叶う。心を清くたもち、身を正しく努めたならば、全てに道ひらける。迷わず精進せよ」
 お御籤を信じているわけではありません。むしろ叱咤の言葉が欲しくて、各地でお御籤を引いてきています。でも...、このお御籤は掛値なしに嬉しかったんですね。考えるより早く酒折宮の本殿へ、
「ありがとう...、ありがとうございます」
 と言いながら頭を下げているわたしがいました。


 御幣を謡ひ手向けむ 酒折宮
 言挙げす 弥遠になほ言霊のむた

 敷島の道はろ/\といまあれに見ゆ
 廻ろふ筑波の道も こは秋津島

 あもよ、あも あれは真幸く生れたるものと
 ゐぬきみが護らふ御空 あが夫よ、夫

 くさまくら 旅に身罷りかつも生れぬる
 あなぐりしわぎへはいづへ あるきて在り来

 うみつぢをゆけば常世と呼ばゝゆる国
 またも出づ くぬかをゆかば御坂あらまし

 連並むる思ひに歌に 水泡のごとく
 績み麻なす長き日に日に、夜には夜に

 太占にあらずも沁むる神、八百万
 言霊の八十のひとなす八十のいめとて

 とこひゐしもの数多あり あれ宗としき
 たなうらに集ふものこそほかひ初めゝと

 稲筵かはゝ時 なほ流れ/\て
 五百重波、八重雲はうた 玉藻刈る沖

 あれに問ふ なにしかあるや、なにしかゆくや
 あれ、あれにあるゆゑよしとあれに答へむ       遼川るか
 (於:酒折宮)


 余談になりますが、酒折宮への感謝が高ぶった勢いで、自然と詠んでしまったこの片歌連歌(独詠)。起首の片歌を、宿に戻ってテープから起こしていて、実感しました。
 ...連句。わたしごときが語るのもおこがましいですが、連歌の後に成立した連句というものの発句と、その精神。それは
「その場の主への挨拶性と即興性」
 だったと思いますけれど、なるほど、なるほど。恐らくそれは、歓喜と感謝なんじゃないだろうか、と。迎えて戴いた喜びと、それに対するお礼と。

 その是非はともかくとして、この日。この酒折宮という場の懐に、まるで迎え入れて戴けたような暖かくて穏やかな感覚に満たされて、宮へのご挨拶をせずにはいられなかった、という事実。そして、そういうわたし自身。
 これは、卵と鶏ではないですが、わたしが少しばかり連句を齧っていて、発句に必要とされる精神を、知識としてもっていたからこそ生まれたものだったのか。それとも、そもそもがそうあるべきもので、たまたま条件が揃ったから生まれたものだったのか。
 きっと連句に限らず、連歌に限らず、和歌にかぎらず。万物はみな誕生と発展という変転を経て、また還る。極まれば収束し、その収束した中からまた膨張して極まる。この螺旋のような繰り返しの中で、少しずつ何かを積み上げてゆくものなのだ、...と。そんな断片的な感慨だけが静かな渦となって、わたしの中に宿った気がしています。

 こじんまりとした境内の隅々まで観て廻ります。本殿の裏手や、参道脇の茂み、本殿正面の鳥居とは別に、東側に設けられた小さな鳥居などなど...。雪門派の辻嵐外(のちの嵐雪)の句碑もありました。

|月の雲 雲から先に 離れゆき
                           辻嵐外 酒折宮境内句碑


 少しだけ調べた範囲では素堂も来訪しているようですね。あとは与謝野鉄幹・晶子夫妻や井伏鱒二、とやはり甲州を訪れる文人たちが欠かさずに参拝してきているのでしょう。
 余談になりますが、この翌日。朝から別の用事を済ませた後、その関係者の方々ともう1度、酒折宮を訪ねました。その時に、こっそり上述の片歌連歌をお賽銭箱へ投じてきたわたしです。半紙もお習字の道具もこの旅に持って来ていなかったので、和紙の便箋にボールペンで綴った、という情けない状態ではありましたが。

 一旦車に戻り、最低限度の荷物だけを持ち、余分なものも上着も、みな車に残します。午前中の紅葉台に続いて、きっと体力的にハードになるであろう、最後の目的地へ向かうためです。
 酒折宮。現在のお社は後年に建てられたもの、とされています。それでは、倭建たちがしばしの安息をした、当時の宮は? といいますと、現在の酒折宮の裏手、北側にある山の中腹なんですね。そして、そこには件の片歌問答の歌碑がある、とのこと。そろそろ陽射しが傾き始めていましたから、とにかく急ぎます。

 本殿に向かって東側に立っているちいさな鳥居を出て、まだまだアスファルトの坂道を登ります。そのまま道なりに、ちょうど本殿の裏手へ回りこむようにしてゆくと、不老園という梅林があって。日曜日でしたし、ようやく5分咲きかな、という紅梅・白梅を観に、人が結
構来ていました。...この時、初めて気づいたのが、人の気配です。
 はい、ふと思い出すとこの日は、朝から殆ど人と遭っていなかったんですね。ホテルを出た時と、鳴沢で歌碑のありかを尋ねた時、塩の山を訪ねたコンビニ以外で、凡そ人には行き会わずにずっと独りだったんだなあ、と改めて恐怖と安心が押し寄せていました。
 目指す古天神跡(酒折宮が本来建っていた、とされている場所)は、この不老園という梅林の奥の小高い丘を登った先。梅林の柵の外にある細い細い獣道を歩いている最中、柵の向こうから観梅の人々の話し声と、華やいだ雰囲気が洩れて来ていました。

  

 象徴的だな...、と感じていました。この時、自身という存在と、そのやり続けていることの実像を、改めて突きつけられているような、そんな思いを痛感していました。

 梅林脇を抜けると、道は一気に険しくなります。下草を焼いて日が経っていないからなのかは知りませんが、一面に立ち込めているのは焦げた酸っぱい匂い。足元は、こちらも何故だかはよく判りませんでしたが木々の切り落とした枝が積み上げられていて、しかもそれらは既に乾燥しきっていて。
 クッションのように嵩があるものの、踏めばみな折れてしまう、という歩きづらさに一層、呼吸が荒くなります。加えて、岩までがゴロゴロとあちこちに転がっている有様は、まるで瓦礫の山か廃都...。その異様な光景を、早春の午後の光がくっきりと映し出します。このコントラストもまた、不気味なくらいわたしには異様で、これは今まで訪ねたどんな古歌の舞台にもなかったものでした。


 自然のままの剥き出しの岩や石は、当然ですけれど人間の歩幅などというものを、これっぽちも考えてくれてはいません。とてもわたしには足が掛けられそうにない次の1歩、という場面に出くわすたびに、周囲の枯れた枝や草に掴り、何とかよじ登る。少し登ればまた、同じようにしてよじ登る。その間、ずっと匂っているもは焚き火のあとのような灰と火と...。
 紅葉台がきちんと死ぬための、彼岸へと向かう坂なのだとしたら、この古天神跡までの坂は差し詰め、現実社会という此岸へ辿り着くための坂。

 い辿りて絶ゆれどもなほい辿りて 生るとふ海に榜ぐ真楫はも  遼川るか
 (於:古天神へ向かう上り坂途上)


 数回、喘息の発作を止めながらなおも登ると、異様な視界がやっと少し拓けました。もう少し登ってゆかなくてはならない先に見えていたのは、鉄錆だらけの囲いと、さらに大きな岩が幾つか。囲いには看板が下げられていて、近づいて読んでみると、酒折宮旧址である旨の簡単な解説文でした。
 特段、立ち入り禁止という表示も、注連縄もありませんでしたから、錆び付いている柵の中に入ってみます。
 ...そこは、まるで人ひとりを横たえさせるには丁度いい、墓穴のような空間と、1つだけ残る礎石のような腰掛石のようなものがぽつん、と。

 

 怖いと思いました。といって紅葉台で感じた死に対する恐怖とか、1人であるという恐怖ではなくて、巧く言い表せられませんが、禁足地。そう、もはや人間が来てはいけないような場所、という怖さが全身の肌に刺すような警告を発していて、慌てて柵からでました。
 出て、すぐに膝まづいて手を合わせました。...個人的には無宗教です。信心などはもっていないはずなんですが、この時だけは自然とそうしている自分がいました。

 柵のお隣には大きくて、でもゴツゴツしていない岩が1つ。登ってくる方向からは単に岩、としか見えなかったのですが、裏側に回りこんで見れば、初めて判ります。...これが酒折宮連歌碑である、ということに。
 随分、たくさんの歌碑や句碑を見てきています。でも、その殆どが表面を何らかの形で平らにし、その上に文字を彫っていたものでした。でも、この歌碑はそういう加工が一切、施されてはいなくて元からある石の表面に、万葉仮名を刻み付けただけ、といいますか...。
 勝手な推測ですが普通、碑というものは石材所のような処で彫られてから予定地に立てられるものなのだと思います。ですが、この連歌碑だけは最初からここにあった石へ、ここで石工さんが碑を刻んだような、そんな印象でした。

      

 荒くなっていた呼吸が、ゆっくり鎮まってゆきます。見渡す周囲には甲府市内と、四方の山々。今朝は雲に隠れていた富士山の頂が、ようやく青い青い空の端にぽっかりと浮いていました。
「...ああ、そうか。あの歌も今様歌だったんだ」
 自分だけしかいない古天神跡に、わたしの声だけが小さく響き、そして山の風に流れて消えてゆきます。
 わたしが思い出していたのは、懐かしい児童唱歌。きっと誰もが知っているでしょうし、唱ったことのある、あの歌です。







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