あと、あまり他の東国では見ないのですが、この地に派遣されてきていた大原今城に纏わる歌も数首、上総縁の万葉歌としてカウントできます。
 果たして、これらの歌々を巡る古歌紀行は、どんな風になるのでしょうか。最終のフェリーの時刻までには、金谷港へ戻って来られるといいんですけれども。ともあれ、先ずは一気に北上して市原市へ。以降は、ポイントを巡りながら、少しずつ南下する行程で再度、わたしは上総国に上陸します。

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|家にして恋ひつつあらずは汝が佩ける大刀になりても斎ひてしかも
                   國造丁日下部使主三中父「万葉集 巻20-4347」
|たらちねの母を別れてまこと我れ旅の仮廬に安く寝むかも
                    國造丁日下部使主三中「万葉集 巻20-4348」
|百隈の道は来にしをまたさらに八十島過ぎて別れか行かむ
                       助丁刑部直三野「万葉集 巻20-4349」


 先日の木更津よりもさらに北。もう少しゆけば千葉市に入ってしまう市原市北部に、現在の住所で菊間とされている地区があります。そう、かつて上総国に存在していた6つの国。うち、1つが菊麻国造の領土でしたが、その名残と言える地区名なのだと思います。余談ですが、ずっと時代を下った江戸期には譜代大名としての菊間藩も存在していました。...まさしく土地に根ざした地名ですね。
 そんな菊間の地をはるか昔、領土としていた菊麻国造。恐らくはその家系か、あるいは国造家に仕えていた家系の者が詠んだ、と考えられている万葉歌が上記引用の3首です。

 「家にいて恋しがっているくらいなら、お前が身につける刀になって、お前を守り、露払いがしたいものを/国造丁、日下部使主・三中の父親」
「恋しい母さんと離れて、ぼくは旅の仮宿で本当に眠れるのだろうか/国造丁、日下部使主・三中」
「何度も何度も道を曲がってやってきて、なのにまた幾つも島を通り過ぎて、故郷に別れてゆかなくてはならないのか/助丁、刑部・直三野」

 大雑把に現代語訳するとこんな感じになるでしょうか。これらは「万葉集」に

|二月九日、上総国の防人部領使少目従七位下茨田連沙彌麻呂が進れる歌の数は十九首な
|り。但し稚拙なる歌のみは取り載せず。
                            「万葉集 巻20-4348〜4359」


 と括られているものの一部です。このうち、「百隈の〜」の詠み手である直三野の“直”が、菊麻の国造家に、中央より与えられていた姓であったことから、菊麻国造家に縁の万葉歌であることが推測できるんですね。
 また、この「百隈の〜」の歌の著名には国造という記載が落ちてしまっていますが、歌番号の並び順からして「家にいて〜」と「たらちねの〜」と同じ国造の家系のものであろう、とも推測できるのだ、といいます。
 もっともこのあたりの細かな詠み手の出自までは、流石にわたしの手には負いきれるものではなく、既述も以降も文献などで得た知識に拠りますけれども。

 菊間の地は、流石に千葉市のすぐ近くだけあって、かなり拓けた印象です。西側、海岸線の方を見ると京葉工業地帯のプラント群が続いているのも見えますし、それに沿うようにして伸びているのは館山道の高架や、何車線もある国道。
 けれどもそういったごみごみしている一帯より、内陸方面へ入るとやや長閑な住宅地が広がっていて。時刻はまだ8時過ぎ。静かな日曜日の朝です。

 目指していたのはこの菊間に残る古墳群。曰く菊麻国造たちの墳墓であろう、とされているものです。...もちろん、古墳の埋葬者と、上記引用の万葉歌の詠み手たちの生きていた時期は、少なく見積もっても1世紀半くらいの格差はある、と考えるのが妥当なのだと思います。ですが、その1世紀半から数世紀に渡る時間の流れが、巨大な墳墓に埋葬される者と、遠く筑紫へ徴兵されたり、身内を兵役に出さねばならなかった者との、立場の落差を生み出したのです。

 「万葉集」という歌集の、これが底力なのだと改めて感じます。まだまだ文字は、一部の者にしか扱えない時代。書き記すものも木簡がせいぜいでした。けれどもその文字がない時代だったからこそ“生き物としての歌”が存在できていたように思えるんですね。
 個人的に思い出していたのは、鹿児島にある知覧特攻平和会館でした。出兵を前に家族や友人に宛てた、特攻隊員たちの手紙が多く展示されているのですが、それらは事実上の遺言や絶筆に相当します。

 ...上総国に限らず、各地から防人として派遣される者たちが「部領使/ことりづかひ」に引率されて難波津あたりまでやって来る。そして部領使は言います。
「歌を提出するように」
 と。もちろん、多くの者はその場で歌を詠み、さらには家を出る時に家族が、自身へ謡い掛けてくれた歌も覚えていれば、併せて提出する...。上記引用の通り、稚拙なものこそ採られていませんが、それでも彼らの声は、きちんと文字によって記され、編まれ、そして残されました。
 「なまよみのかひゆ」でも、西行が甲斐で出会った樵の逸話に因んで触れましたけれど、西行よりもさらに遠い昔の万葉期。これほどまでに人々の生活に、歌は浸透していた、という何よりもの証左です。
 歴史に名を残すことのなかった、そして畿内から遠く離れた東国からやってきた学問とはあまり縁のない青年たちが、それでも歌をみな提出する。彼らの家族にしても、やはり学問とは縁遠かったことでしょう。でも、謡っていたのです。...これこそが上古の時代、この国に生きていた歌・歌謡です。一部の教養ある者だけが愛好するのではなく、貧富も、生まれも、教育も一切関係なく、ただ思いのままの発露として謡われていた歌。
 そのわずかな痕跡は、恐らくは「万葉集」と風土記歌謡くらいにしか残っていないでしょう。そうじゃなければ、平安以降の梁塵秘抄や閑吟集といった中古・中世歌謡に、となるでしょうか。...記紀歌謡ですら、土着の民謡までは収録していないですから。

 謡へば越ゆるて海ゆかむ 謡はゞ越ゆらむ暮れゆきて
 哭び響もし唱ふれば うからたるらむ、みなひとの     遼川るか
 (於:菊間地区)


 また、文字化されていない家族の歌を、上総から遠く離れた難波で、併せて提出できた者たちがいた、ということの意味。上総から難波までの道中、防人へ向かう者たちは、自身への手向けとして謡われた歌を、繰り返し、繰り返し謡っていたのかも知れません。現代のような娯楽などはほぼ皆無。情報もわずかな時代にあって、歌こそが唯一の、彼らを慰める存在だった...。
 そう考えるのは、それほど無理筋ではないでしょう。

 そもそもこの地に国造をおいたのは倭建の父親・第12代景行天皇の後を継いだ第13代成務天皇。倭建の異母弟にあたります。

|故、建内宿禰を大臣と為て、大国・小国の国造を定め賜ひ、亦国々の堺、及び大県・小県の県
|主を定め賜ひき。
                             「古事記 中巻 成務天皇」
|「今より以後、国郡に長を立き、県邑に首を置てむ。即ち当国の幹了しき者を取りて、其の
|国郡の首長に任けよ」
                  「日本書紀 巻7 成務天皇4年(西暦134年)2月1日」
|菊麻国造
|志賀高穴穂朝の御世に无耶志国造の祖・兄多毛比命の兒、大鹿国直を国造に定賜ふ。
                          「先代旧事本紀 巻10 国造本紀」


 この時に、菊麻も国造として任命されたわけで、倭建の東征以降という歴史的な辻褄もちゃんとあっていますね。ですが、年代はどうにもはっきりしていなくて、古墳近くからの出土品は6世紀前後のものとされているようですが、どうなんでしょうか。

 住宅地の中の坂道を上り、千光院というお寺さんから先はまた下りです。そして路地を入ります。もうこの辺になると車が行き違えないくらいのまさしく路地で、しかも周囲は宅地の他に、畑やら何やら...。古墳を探す時は、得てしてこんもり繁った森があればそこを目指す、というくらいアバウトに、そのうえちゃんと宮内庁の管理による、畿内の御陵ばかり見てきている所為か、ここ菊間の地では過去のように簡単にはゆきません。
 道幅も狭いことから、早々にギブアップして、野良仕事をされていたおかあさんに尋ねました。
「東関山古墳ってこの繁みでしょうか」
 ...どうやら、それでも辿り着けていたようです。


 菊間の地には、他にも大小様々な古墳があるらしく、駐車スペースとゆとりがあれば、もっとじっくり探訪したかったのですが結局、わたしに見つけられたのは東関山古墳と北野天神山古墳の2基のみ。
 ある意味、宮内庁管理の御陵よりも、こういった東国の古墳の方がずっと本来あるべき姿なのかも知れません。墳墓として大切に守っていたのは、その当時を知る人々であって、時代が変われば墳墓はされど、墳墓ではなくなりもします。
 淘汰されるものはそのままに。これが最もあるべき自然の法則なのはほぼ間違いなく、でもその流れに抗って再現をしたり、保存しようとするのは本当に美徳なのか、それとも暴挙なのか。...時々、判らなくなります。
 ただ存在は、それが人であろうと、物であろうと、それを愛し、必要としている存在がいる以上、存在すること自体に価値は確実にあるのだ、と...。少なくともわたし自身はそう考えているわけで、県の指定史跡にこそなってはいるものの、誰も手入れをしていないのだろうな、と感じられる大きな繁みに、何とも言い表せない、滲みるような感触が自身の中で広がっていました。

 ちよろづの天つみづまた天つ日の降りたるのちに
 会はれたるゆゑ、会はまくほしくに            遼川るか
 (於:東関山古墳)



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 菊間地区から約3kmほど南へ向かうと、「郡本/こおりもと」という国道297号の交差点に出ます。もちろん、交差点周辺の地区名も郡本。JRの駅名で言うと、菊間が内房線の浜野駅に近かったのに対し、郡本は八幡宿と五井の中間くらいでしょうか。
 はい、菊間が国造の領土の中心地であったのならば、こちら郡本は国造の後に置かれた郡の中心地、となりますね。郡の名前は市原郡です。

|葦垣の隈処に立ちて我妹子が袖もしほほに泣きしぞ思はゆ
                    市原郡上丁刑部直千國「万葉集 巻20-4357」


 市原郡出身の上丁、刑部に配属されることとなった直千國のものです。こちらも直、という姓を持っていますから、家系的には菊麻国造と関わりがあるのかも知れません。ですが彼の出自は市原郡、となっていますので、恐らくは市原郡司に仕える身だったのではないか、と考えられているようですね。
「葦で作っただけの粗末な垣の片隅に立って、妻が袖が濡れそぼるほどに泣いていたのが思われてならない/市原郡上丁、刑部・直千國」

 葦で囲う、とありますから千國氏はあまり裕福ではなかったようです。きっと郡司に仕えてはいても、実質的には農民だったのでしょう。そんな、ささやかで倹しい暮らしの働き手である千國氏を見送る妻。他に家族がいたのかは、この歌から汲みとることはできませんが、下手をするともう生きて会えないかも知れない不安。これからどうやって暮らしてゆくのか、という残される者の不安。そんな妻を残してゆかねばならない夫の不安。
 菊間で引用した防人歌より、この歌がさらに切実なものを孕んでいるのは、詠み手の暮らし向きからなのでしょう。

 市原郡の郡家(郡司の住居。郡の中心地)があったとされる場所が、この界隈にあります。郡家の礎石が郡本八幡宮の境内で見つかっているらしいんですね。...これはやっぱり必見かな、と。
 菊間ほどは道が込み入ってなくて、八幡様はすぐに見つけることができました。が、お参りをしようとしたところ、境内には随分と人がたくさん...。地域の自治会の方々でしょうか。もしかしたら清掃の日だったのかも知れません。
 いくらなんでも地元の方々がお掃除をしてくださっている中、暢気にお参りをするというのも随分と居心地が悪く、やや遠くから数枚の写真を撮るだけにして、ここでの参拝は省略することにします。礎石もきちんと探せなくて、またいつか機会があれば是非、再訪したいですね。


 そろそろ、ぽつり、ぽつりと降ってはやみ、やんでは降る雨。見渡す限り、長閑な住宅地が続いていて、現代を生きているわたしには、どうしても千國が暮らしていた、葦垣の家が脳裏に見えてきません。...こういう時なんですね、何となく自身がとても汚れているように感じるのは。
 経験したことが全くない以上、わたしには千國やその妻の苦しみは、想像するのが精一杯です。でも、「葦垣の〜」の歌を読めば、やはり何かは感じてしまいます。...同情、なのかも知れません。所詮は他人事というか、カタルシスというのか。ともあれ、彼の歌に涙ぐんでしまう自分がいて、でもそれを赦せなくも感じる自分もいて。
 「万葉集」を紐解くたびに身につまされる思い。それはこの豊かな時代の、日本という豊かな国に、生まれることができてしまった者の、安堵ゆえの良心の呵責。生まれる時代も、場所も、親ですらも、誰もが選べないものですから。

 千國は果たして、無事に役目を果たしてこの市原郡へ、葦垣の家へ、戻ることができたのでしょうか。防人の任期は3年。但し、筑紫までの往復の日程は任期に含まれませんから、実質は早くて3年半以上、文献に拠ると遅ければ5年近くの日数が必要だったとのことです。しかも、その往復の日程に於ける食糧配給はなく、あくまでも自弁。
 行き倒れた者が後を絶たなかった、というこの公用から、千國が妻のもとへ無事帰れたことを、せめて祈らずにはいられません。

 祈ひ祷めどいにしへのをや 稲筵たえぬ川ゆゑいましを知らに  遼川るか
 (於:郡本八幡神社)


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 「万葉集」に採られている上総国の防人の歌。それは前述の通り

|二月九日、上総国の防人部領使少目従七位下茨田連沙彌麻呂が進れる歌の数は十九首な
|り。但し稚拙なる歌のみは取り載せず。
                        「万葉集 巻20-4348〜4359」再引用


 と、詠まれた時期が確定しています。年号は天平勝宝7年(755年)のことなのですが同じ年、ある人物が上総国を離れ、都のある平城京を目指しました。...防人としてではなく。
 大原真人今城。一般的には大原今城、と表記されることが多いのですが、ともあれ万葉末期の歌人にして、大伴家持とも親交の深かった人物です。一時期は直属の部下でもあったようですね。

 その彼が上総国にいつ赴任したのかは、調べた範囲では定かではありません。ですが、この年、彼が確かにこの地を発ったことは以下に明記されています(重複している題詞は省きます。以下同)。

|題詞:上総國の朝集使大掾大原真人今城の京へ向ひし時、郡司の妻女等の餞の歌二首
|足柄の八重山越えていましなば誰れをか君と見つつ偲はむ
                          作者未詳「万葉集 巻20-4440」
|立ちしなふ君が姿を忘れずは世の限りにや恋ひわたりなむ
                          作者未詳「万葉集 巻20-4441」


 この2首の題詞曰く
「上総国の朝集使、大掾・大原真人今城が京へ向かった時に、郡司の妻たちが餞別として詠んだ歌」
 とのこと。大掾というのは国に派遣される人物の役職みたいなもので、朝集使というのは務めていた役目の内容です。現代風に言うのなら、○○部××長の○○部が朝集使、××長が大掾。そういう感じなのだと思います。
 朝集使。これは一年間の政の記録を朝廷に届ける仕事のことで、いわば上総国の地方自治体白書を提出する任、ということでしょう。
 「足柄の幾重にも連なった山々を越えて、あなたが行ってしまわれたなら、わたしは誰をあなたと思ってお慕いすればいいのですか」
「優美で凛々しいあなたのお姿を、生きている限りお慕い続けましょう」

 随分と大仰と言いますか、社交辞令の匂いの強い2首になりますが、そもそも大原今城はすでに臣籍となり、叙位もしていましたけれど、元々は皇族なんですね。それが判るのが、以下の万葉歌たちです。

|題詞:、高田女王今城王に贈る歌六首
|言清くいたもな言ひそ一日だに君いしなくはあへかたきかも
                           高田女王「万葉集 巻4-537」
|人言を繁み言痛み逢はずありき心あるごとな思ひ我が背子
                           高田女王「万葉集 巻4-538」
|我が背子し遂げむと言はば人言は繁くありとも出でて逢はましを
                           高田女王「万葉集 巻4-539」
|我が背子にまたは逢はじかと思へばか今朝の別れのすべなかりつる
                           高田女王「万葉集 巻4-540」
|この世には人言繁し来む世にも逢はむ我が背子今ならずとも
                           高田女王「万葉集 巻4-541」
|常やまず通ひし君が使ひ来ず今は逢はじとたゆたひぬらし
                           高田女王「万葉集 巻4-542」


 内容的には結構、シンドい独詠らしき恋歌なんですが、詠み手・高田女王の思い人として今城王、と明記されています。また、こんな記述も「万葉集」にはありますね。

|題詞:大伴女郎の歌一首 今城王の母なり。今城王、のちに大原真人の氏を賜ふ
|雨障み常する君はひさかたの昨夜の夜の雨に懲りにけむかも
                           大伴女郎「万葉集 巻4-519」


 こちらも題詞に注目です。

 今城の正確な生年は判っていません。ですが推測する範囲では、上総から平城京へ向かった天平勝宝7年頃は、40代後半くらいだったのではないか、と。現代はもちろん、この当時でも決して若いとは言えないと思われますから、「立ちしなふ君が姿」というのも、元皇族の中央官人に対する儀礼なのだと思います。...とびっきりのロマンスグレーだったならば、ともかく。

 大掾として上総へ派遣されてきた今城ですから、当然ですが上総の国府(現代ならば県庁のような建物)で任務に就いていたのだと思います。では、上総の国府と何処だったのかというと、現段階ではまだ見つかっていないようですね。ですが、十中八九は市原市にあったのであろう、と考えられています。
 何故かと言えば、市原市からは上総国分寺跡も国分尼寺跡もすでに発掘されているからなんですね。国分寺と国分尼寺は、必ず国府の傍に建立されましたので、これはほぼ断定してもいいかな、と。さらには現存する地名に惣社という地区も、国分寺・国分尼寺跡それぞれのごく近くにあります。惣社。これは恐らく元々、総社だったのでしょうが、総社も国分寺などと同様に、国府近くに必ず建立されたものです。
 実際、考古学領域では、国府発掘の手掛かりとして、国府・国分寺・総社などの地名が重要視されている、と聞いています。

 郡本八幡神社からだと、直線距離にすればきっと2kmはないと思います。住宅地の中とはいえ、それでも随分と長閑な街並みが、その周辺だけ、一気に賑やかで、華やかになっていました。その中心が市原市役所です。街並みだけではありません。車も途端に多くなりますし、何よりも街行く人がたくさん見えます。...実はこの日、上総国を運転していて、あまり歩行者を見かけていなかったものですから、そう感じてしまったのかも知れませんけれど。
 ただ、そのちょっとした喧騒に、
「本当にこの界隈に、国分寺や国分尼寺があるのかなぁ」
 と軽く不安になってしまったのもまた事実だったのですが。

 先ずは史跡上総国分尼寺跡展示館もある、という国分尼寺跡へ。ちょうど市役所の裏手に廻り込むようにして進んでゆくと、目の前に展示館が現れます。早速、閲覧させていただいたところ、瓦を中心とした出土品や国分尼寺を再現したジオラマなどがあって、真剣に見入ってしまいました。


 あと、邪道かもしれませんが複製された木簡と、律令下の上総国の地図は、ここぞとばかりに写真を撮ったり、考えたり。いやはや、入場無料にして撮影OK、という寛大な展示館さんに申し訳ないやら、有り難いやら。少々興奮気味に職員さんへも、訊かれてもいないのにあれこれと語ってしまいました。


 けれども、実はこの展示館の最大の展示物は別にあったんですね。建物を出た裏側には草地が広がっていて、玉砂利を敷いた道もあります。そして、その道の先にあったのは、復元された国分尼寺。
 ...奈良の平城京・朱雀門もそうですが、個人的にはあまり復元された建造物には、好意的になれないことが多いです。でも、この国分尼寺は、何だかびっくりしてしまって好意的も、何も、とにかく呆気にとられてしまった、というのが本音のお話。







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