薮蚊にあちこち刺されながら、何がどうという理由もないのに、少し自分が情けなく思えていました。
「...莫迦みたい。何やってるの、わたし」
 一所懸命さは、時に滑稽さと表裏一体です。ですが、その滑稽さを誰より知っているのも、いつだって自分自身。もっとスマートなやり方は幾らでもあるでしょうに、どうしてこうも愚直な方法しかできないのか、と。


 念願の歌碑。詠み手の肩書きに帳丁、とありますから恐らくは国府か郡司に関連して仕えていた者でしょう。菊間の国造家父子の歌と似て、それほど切実さも感じられないので、暮らし向きはそれほど深刻ではなかったのだと思います。だからこそ、純粋に旅の安全を祈れたのかも知れません。
 ふと思い出していたのは万葉期より時代を下った1020年。やはりこの地から当時の都・京都へ旅立った人物の日記でした。

| あづま路の道の果てよりも、なほ奥つ方に生ひ出でたる人、いかばかりかはあやしかり
|けむを、いかに思ひはじめけることにか、世の中に物語といふもののあんなるを、いかで
|見ばやと思ひつつ、つれづれなる昼間宵居などに、姉継母などやうの人々の、その物語、か
|の物語、光源氏のあるやうなど、ところどころ語るを聞くに、いとどゆかしさまされど、わ
|が思ふままにそらにいかでかおぼえ語らむ、いみじく心もとなきままに、等身に薬師仏を
|造りて、手洗ひなどして、人まにみそかに入りつつ、「京にとく上げたまひて、物語の多く
|さぶらふなる、あるかぎり見せたまへ」と、身を捨てて額をつき祈り申すほどに、十三にな
|る年、のぼらむとて、九月三日門出して、いまたちといふ所にうつる。
                              藤原孝標女「更級日記」


 上総介だった父親と一緒に、この地へ滞在してた作者・藤原孝標娘は、人伝に聞く物語というものに憧れて、憧れて。けれども誰も彼女の望んだようには物語を暗誦することができないため、それが酷くもどかしく...。いっそ身の丈と同じくらいの薬師像を手ずから彫って、毎日のように身を投げ出し、額づいては
「どうか上京させてください。世の中にある物語のある限りを、わたしに見せてください」
 と祈ってしまいたいほどの思いを抱き続けていたところ、十三歳になろうという年。ついに上京することが叶って9月3日、いまたちという場所より発つことになった。

 ...はい、更級日記の有名な冒頭です。彼女の父親は上総介でしたから、恐らくは国府に詰めていたことにほぼ間違いないでしょう。もちろん、万葉期と平安期の国府が同じ場所にあったかは寡聞にして知りませんが、それでも彼女の出発地もまた、この界隈であろう、と。
 諸人は国つ神である阿須波神に祈りました。けれどもそれより後の世の孝標女は、薬師像を彫りそうな勢いです。...仏教がやっと“あづま路の道の果てよりも、なほ奥つ方”にも浸透したのでしょうね。聖武天皇の国分寺建立の詔からは実に300年弱。
 国分尼寺と国分寺跡で覚えたやるせなさがほんの少し、解けられたのかも知れません。

 そして思うに、思い入れたものは物語と歌で異なりはすれど、抗えないほどの思いと愚直さで求めるものを求めた女が2人。
 これまた随分と我田引水な納得の仕方ではありますが、この藪中の阿須波神社で、諸人と孝標女と自身とが、ほのかに繋がってゆくような錯覚に、酔ってしまってもいいじゃないか、と。...そう思っていました。

 雲ゆくを見まく欲りすのをこならばしにてあらまし 空は空ゆゑ  遼川るか

 いにしへゆいくだも降れど違はざる雨にい辿るひとゝなる象    遼川るか
 (於:阿須波神社)


 芝ではありませんでしたが、わたしも小枝を土に挿しました。この小枝を寄り代として阿須波神が天降りしてくれることを。天降りして生涯という旅を続けるすべての人の安全を、守ってくれることを。
 ささやかに祈りました。


        〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 何だかムキになってしまった阿須波神社探し。随分と時間をロスしてしまいました。そろそろ12時になろうか、というのにまだ市原市から出られていないんですね。この先、袖ヶ浦市・木更津市・君津市・富津市と訪ねなければならないのに、どうしたものやら。20時の最終フェリーに乗れるのでしょうか。

|夏麻引く海上潟の沖つ洲に鳥はすだけど君は音もせず
                          作者未詳「万葉集 巻7-1176」
|題詞:覊旅にして作る                          
|夏麻引く海上潟の沖つ洲に船は留めむさ夜更けにけり
                          作者未詳「万葉集 巻14-3348」


 「海上潟の沖の州に、鳥たちが集って騒がしく鳴いているというのに、あなたからは何の音沙汰もない」
「海上潟の沖の州に、今夜は船を停泊させよう。もう夜も更けた」

 東京湾沿岸。それはわたしの地元・神奈川側も、反対の千葉側も、そして東京都の沿岸も。いまとなっては埋立地ばかりで、本当の海岸線など杳として知ることもできません。また、埋め立てに限らなくても海岸線というものは、様々な要因で変わってゆくものですから、それもまたよし、...なのかも知れませんね。
 前述している律令以前にあった、上総の小国たち。菊麻国造の領土のお隣。現在の市原市南部に領土を構えていたのが、上海上国造。先代旧事本紀の国造本紀によれば、菊麻国造同様、成務天皇期に「忍立化多比命/おしたちけたひのみこと」が国造に定められています。

|上海上国造
|志賀高穴穂朝の御世に天穂日命の八世の孫、忍立化多比命を国造に定賜ふ。
                          「先代旧事本紀 巻10 国造本紀」


 余談ですが、この忍立化多比命は天穂日命(日本書紀の表記にならっています)の8世孫とのこと。ちょっと面白いのでもう少し書いてみます。

 天穂日命というのは記紀それぞれに語られる神代に、天照大神と須佐之男の誓約の際、生まれた神の1柱で、一応は天照大神の皇子となります。天孫降臨の主役であった天孫・天津彦彦火瓊瓊杵尊の父親が正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊なんですが、その弟ですね。
 ただこの天穂日命。天孫降臨に先立つ、国譲りに際して最初の使者として高天原から国つ神・大国主命のもとへ遣わされていまして。...けれども彼は、大国主に惚れ込んで任務を放棄したんですね。つまり、自分の母親が治める国よりも、男気溢れる敵将の国に寝返ってしまった、ということでして。もっとも、その後に国つ神は天つ神に国を譲って帰順していますから、寝返りも何もありませんけれども。

 その後、特にお咎めも受けなかったらしき天穂日命は、出雲で伊邪那美神を祭神とする神魂神社を創建。そして、この彼を祖として出雲はもちろん、各地の国造が生まれています。そのうちの1人が忍立化多比命、ということなんですけれど、他にも東国では武蔵国造や、下総の下海上国造、同じ上総の伊甚国造も彼の系譜になるようです。

|故、此の後に生れし五柱の子の中に、天菩比命の子、建比良鳥命(此は出雲国造・无耶志国
|造・上莵上国造・下莵上国造、伊自牟国造・津島国造・遠江国造等の祖なり)。
                 「古事記 上巻 天照大御神と須佐之男命 2神の誓約」

|次に天穂日命。是出雲臣・土師連等が祖なり。
                              「日本書紀 巻1 神代」


 また、この天穂日命は前述の通り、記紀では寝返ったことになっているのですけれど、延喜式に記載されている出雲国造神賀詞という祝詞では、天孫に先駆けて天降りして各地を平定した、言ってしまえば露払いを務めた偉大な神、とされています。とても有名な祝詞なので少し長めに引用してみましょう。

| 高天の神王高御魂命の皇御孫命に、天下大八嶋國を事避り奉りし時、出雲臣等が遠祖、
|天穂比命を國體見に遣はしし時に、天の八重雲を押し別けて天翔り國翔りて、天下を見廻
|りて返事申し給はく、豊葦原の水穂國は、昼は五月蝿如す水沸き夜は火瓮の如く光く神在
|り。石根木立青水沫も事問ひて荒ぶる國なり。然れども鎮め平けて皇御孫命に安國と平け
|く知ろしめし坐さしめむと申して、己命の児、天夷鳥命に布都怒志命を副へて天降し遣し
|て荒ぶる神達を撥ひ平け、國作しし大神をも媚ひ鎮めて大八嶋國の現事顕事事避らしめ
|き。乃ち大穴持命の申し給はく、皇御孫命の静まり坐さむ大倭國と申して己命の和魂を八
|咫鏡に取り託けて倭大物主櫛厳玉命と御名を称へて大御和の神奈備に坐せ、己命の御子、
|阿遅須伎高孫根の命の御魂を葛木の鴨の神奈備に坐せ、事代主命の御魂を宇奈提に坐せ、
|賀夜奈流美命の御魂を飛鳥の神奈備に坐せて、皇御孫命の近き守神と貢り置きて、八百丹
|杵築宮に静まり坐しき。是に親神魯伎神魯備の命の宣はく、汝天穂比命は天皇命の手長の
|大御世を堅石に常石に伊波ひ奉り、伊賀志の御世に幸はへ奉れと仰せ賜ひし次の随まに
|供斎(若し後の斎の時には後斎の字を加ふ)仕へ奉りて朝日の豊栄登に神の禮白臣の禮白
|と御祷の神宝献らくと奏す。
                           「延喜式 巻8 出雲国造神賀詞」


 ...まあ、この祝詞自体は天穂日命の子孫である出雲国造が書いたものなので、かなり身贔屓はあると思いますし、鵜呑みにする気はないです。ただ、ちょっと面白いな、と感じているのが天穂比命が天孫の露払いとして、葦原中国へ先乗りした時、同行していたのが香取神宮の祭神である経津主命となっている点なんですね。
 このへんのことをきちんと書くにはやはり常陸や下総へ出向かずに済むはずもないのですけれど、あくまでも個人見解、あるいは願望の範疇で語るならば、天穂比命が先発隊であったという点は大いに汲みたい処です。というのも前述している倭建の東征と、天穂比命と経津主命(加えて武甕槌命)の各地平定は、1つの史実が違った形の寓話として、繰り返し語られているだけなのではないかな、とずっと考えているものですから。
 ...そんな仮説がこの旅で少しずつ、固まり始めて来たように感じます。でも、この件はまだまだ流動的なので、ここまでにしておきましょう。

 ...と偉くお話が脱線してしまいましたが、ともあれ上海上国造。彼らの墳墓とされる古墳群もまた、複数残っています。それが所謂、姉崎古墳群。JR内房線、姉ヶ崎駅から内陸側へ1kmも行かない一帯に密集しています。そして、この古墳たちが犇く地区にあるのが、上総屈指の古社・姉埼神社です。


 姉埼神社、延喜式内社ですがこちらも倭建に関連しています。このお社の主な祭神は、風の神である志那斗辨命ですけれど、つまり走水海で暴風雨に襲われ、弟橘によって助けられた倭建が、上総上陸後に風の神を祀った、と。ですが、恐らくこれは、後から付加された意味なのでしょう。周囲の古墳などからしても、大本は上海上国造一族の氏神を祀っていたものなのだと思います。...創建年代は判りませんが、平安期に正五位上に叙された記録もありますから、流石は式内社。由緒と歴史あるお社のようです。

 朝が早かった所為か、そろそろ少し疲れ始めていました。姉ヶ崎駅前を通過しても、何となくぼんやりしながら運転していたんですが、大きな鳥居が見えた瞬間、気分がしゃきっと。この姉埼神社も台地の上に建っているらしく、鳥居から見える階段はかなりの段数がありそうです。
 駐車スペースに車を停めていたら、こんな雨の日だというのに次々と人がやってきます。しかも、みな一様に大きなペットボトルやポリタンクを手にしていて。走水神社もそうでしたが、姉埼神社にも湧水があるようで、何でも飲めば寿命が100年延びる神水なのだとか。
 ...わたしはここでも飲みませんでしたけれどね。

 参拝のための石段を下から見上げます。巧く言えないのですけれど、とにかくわたしの個人感覚ではお社らしいお社なんですね。住宅地の中にひっそりとある、というのではなく。かといって観光客がごった返している大きな神社さんでもなく。森閑として張り詰めた空気と、古社としての威厳。誰に言われたわけでなくとも、自然と背筋が伸びて頭を下げずにはいられない何かが満ちていて、久しぶりにこういうお社に来られたなあ、と。3年前の葛城は高鴨神社以来かも知れません。

 ゆっくり登ってゆく石段は、わたしの貧弱な体力には途中、2回のひと息を要するほどの高さがあって、けれども振り向いても覆い尽くすようにして繁る木々で、遠くを眺めることは叶いません。そして、登りきったわたしを待っていてくれたのは、茅の輪でした。...もう夏の大祓えの時期だったんですね。

|水無月の夏越しの祓する人はちとせの命のぶといふなり
                       詠み人知らず「拾遺集和歌 巻5 賀 292」



 茅の輪くぐりのお作法である、拾遺集の歌を唱えながら8の字に3回、茅の輪をくぐり、ようやく境内へ。わたし自身のお祓いもそうですが、逆にわたしについていた不浄を、お社に持ち込まないように、という思いもあってくぐった茅の輪。そのまま境内を真っ直ぐ本殿へ進み、先ずは参拝からです。

  

 続いて、こちらもそこそこ大きい神社さんでの恒例のお守り購入と、お御籤引きです。お守りは、...畿内の外では初めて見つけました。天然石の勾玉です。もちろん、迷わずに即決します。いや、まさかここで勾玉に出会えるとは思っていなかったので、ちょっぴり興奮してしまいましたね。
 続いて引いたお御籤。番号は44番で吉でした。曰く

照る月の影も波もて砕けども光は海を渡るなりけり

|心は月のように高く澄んでゐて、日常は波に砕ける光のように何気なく活らす。自覚ある
|生涯を過ごすことは立派な態度です。世間を見下して己のみ偉れてゐると考へては不可。
                               姉埼神社お御籤44番


 とのことで、何度も何度も読み返していました。...光は海を渡るなりけり。伝わるべきものは、それでもちゃんと伝わる。だからそこを先ずは信じなさい。そんな風にわたしの胸には響いていました。


 随分、高く登った境内は、けれどもやはり遠くを眺められるものではなく、これは少し残念でしたね。神奈川を出発する前に、「房総の古社」という文献を読んでいて知ったのですが、かつて。それも万葉期の頃は、このお社がある台地の下は海だったらしく、境内のすぐ外の位置には船着場まであったというのです。
 それだけではありません。このお社自体も姉崎古墳群の1基であるようなのですが、この台地より低い位置に点在している古墳群はそんな海の上、つまり干潟の中に築かれたものだったのではないか、という説まであるというのです。
 ちょっと考えても、くらくらしてしまいそうです。

 “夏麻引く海上潟の沖つ洲”と「万葉集」に謳われた場所は、厳密にはよく判っていません。巻7に収録されている「〜鳥はすだけど君は音もせず」の歌には上総国歌という明記もなく、色々な説が存在していますね。ですが、もう一方の巻14の「〜船は留めむさ夜更けにけり」の歌には上総国歌という明記があって、恐らくはかつて上海上国造の領土にして、万葉期には上海上郡がおかれていた界隈のことであろう、と。
 現在も東京湾岸は谷津干潟を始めとする干潟が点在していますから、1300年の昔はきっと遠浅の海岸線が続いていたのでしょうし、そんな干潟には国造たちが残した古墳が所々にこんもりと繁っていたとしたならば...。両方の歌に詠まれた沖つ州が何であったのか。その可能性を考えるのが、とても愉しくなってしまいそうです。

 夏麻引く海上潟の沖つ州を
 あなぐればあがあなうらに
 波の寄り来ぬ
 浮き真砂あれに寄り来ぬ
 剣太刀名こそ問はめと
 走水海見渡させば
 みづのむた
 さねさしさがむはあゆきゐて
 弥離れたる足柄の御坂越えゆき
 なまよみの甲斐のみ雪や
 鶏が鳴く吾妻にありて
 産土を知らにえあらず
 なほし見む
 こはかみつふさ
 天つ日に祈ひ祷めばこそ
 あれ懸くる吾妻継ぎをれ
 ころもで常陸に

 離るゝは寄るに違はじ 
 うみつみちゆくしが先もなほし離れどあきづしまやまと    遼川るか
 (於:姉埼神社境内)


 見たくなりました。どうしても、現代の海上潟を。もちろん、その結果はきっと茅渟廻と同じようなことになるのも承知しています。でも、たとえそうなったとしても、やっぱり見てみたくて、姉埼神社を後にします。この周辺にある古墳のうち、上まで登れる所を何とか探してみよう、と。
 最初に向かったのがこの周辺では文句なしの巨大さを誇る姉埼天神山古墳。ですが、これがまたどうにも見つからないんですね。時間のことも気になっていたので、それではということで二子塚古墳へ。こちらは立地も姉埼神社より西側(海側)にあって、干潟の中に築かれていたかも知れない可能性が高そうです。

 ハンドルを大きく西側に切り、二子塚古墳方面へ向かい始めて、ようやく悟りました。さっきまで探しても見たからなかった姉埼天神山古墳ですが、それもそのはず。ケタ違いに大きかったんですね。その全長なんと119m。綺麗な前方後円墳で、わたしは古墳そのものの麓からこんもり繁る古墳を探していたために、全く気づけなかったようです。


 そして、向かう二子塚古墳も同様に巨大なのだといいます。全長は103m。...どうやらこれでは沖つ州という風情には遠いかもしれませんが。

 二子塚古墳は西側は麓ぎりぎりまで民家が建っていて、反対の東側、つまり姉埼神側はかなり広々としている半ば湿原のような野原が広がっています。ただ、登れるか否かが判らなくて、行ったり来たりうろうろ、うろうろ。たまたまお宅から出ていらしたおとうさんがいらしたので、お訊きしてみました。すると
「裏側からなら登れますよ」
 とのこと。
「...そうですか、良かった」
「昨日も数人の団体さんに同じことを訊かれたんですけどね、登れるって言ってもほんのちょっとだけですよ。登ると何かあるんですかねぇ」
「...はあ、多分みなさん、海上潟を見たいんじゃないか、と」
「うなかみがた、それって何ですか」
 こういう部分も茅渟と同じです。もう、この土地に暮らす人々にとっては海上潟はその名前すらも忘れ去られようとしているのでしょう。...でも、同時に訪ねてくる人もまた、途絶えていません。
 この地の帯びる2つのベクトルが1つになって、なだらかな放物線が描けるように感じていました。そして、その放物線と重なり合うようにして見えていたのは、これから登る二子塚古墳の稜線だったのかも知れません。

 ごみごみしている西側へ回り込むと、二子塚古墳の立て札が立っています。その立て札を読んで思わず小さくガッツポーズをしたくなりましたね。つまり、この二子塚古墳は、5世紀半ばに築かれたもの。そしてその当時、ここは海岸平野の浜堤の上だった、ということなんですね。古墳の周囲には周溝(城のお堀みたいなもの)が掘られていて、そこには水が張られていて。
 海の中から島のように見える古墳、とは少し違うのかも知れませんが、ここに来るまでにあった湿原といい、海上潟の名残らしきものは、確実に1つ、2つ、とわたしの前に現れてくれています。


 そして登った二子塚古墳は、高さはたったの9m。水上に浮かぶ古墳としては、これくらい低い方が相応しいかも知れませんね。
 どうもマムシがかなりいそうな雰囲気で、長時間佇んでいるのは危なっかしく、それでも何とか見通しのいい場所までは草を掻き分けて行きました。...見えたのは現代の海岸沿いに並ぶプラントの煙突が幾つか。あとは家々のアンテナと、電線と。せめてもう少し天気のいい日ならば、何かは違ったかも知れません。でも、きっと海が見えることはないのでしょうね、...きっと。


 やはり「あしがちるなにはゆ〜茅渟廻」と同じでした。歌枕、それは幻想空間であって1300年もの時を経た21世紀に、そのまま残っていること自体が不自然です。変わっている方が自然なんです。...もちろん、変わり方にも色々ありますけれども。
 かつては干潟のように遠浅だった海。その海の向こうには相模国があり、海そのものを越えてやってきたのは地方統治という名の為政者でした。それが国造の領土を認めた倭建や成務期のものであろうが、大化の改新の詔とともに配置された郡司たちであろうが、律令の名のもとに統治する聖武のものであろうが、いや。さらにそれよりも昔、後に国造となる天穂日命の子孫もまた、この地へ移り来た存在なのです。
 でも、その一方で、ここから発っていった者たちもいます。大原今城も、多くの防人たちも、孝標女も。

 領土、国、郡、藩、市町村。地上にはないはずの線が、境界として何かを分断し、何かを接触させて来たことが人の歴史であるのならば、最大の境界は、きっと水なのかも知れません。海と川と湖と。そして最小の境界は皮膚。かはへです。
 時間と距離に隔てられ、隔てられるからこそ、触れられもするということは、すなわち旅。そう旅なのでしょう。もう見ることができない海上潟は、けれども見ることができない、という形で見えています。それが、わたしの古歌紀行である以上、これも阿須波神のご加護ではなくて何だと言うのでしょうか。







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