なきことのあるにほかなし 阿須波の神よ
 なれば消ゆ さにあれどまたまどかなる世に

 来るのは夏にあしたに いざうけひせむ
 常世とふ海境 たれも海ゆかばゆけ

 土にあればなほしいたくな畏みそ みづ
 雨に聞くえ知らず夜の世を 孤悲のごと

 うつそみに幸はふかつもえ幸はずに
 あれの目あれにあだなふ ゆふの面影

 世のかぎり知らまくほしと旅にし思へば
 寄るべなきを哀しばずゐる かくも廻るや

 謡はれしいにしへのうら 歌は渡らる
 弥遠に弥若に越ゆ けふあるくしび

 ちよろづの道のすゑとふ道の祖 こにあり
 いつゆかむ、いづへにゆかむ 魂なる水泡

 いをでゐしほどは陸処の軛のみ知り
 ひとなればみづの横たふ 鳥ならばけだし

 待つとふは影面ゆ吹ける風 はろはろに
 ゆくとふは背面ゆとほき月こそを見め

 問ひ問へば答へまくほしなにしかなるか
 あれどなき天つみ空の色ゆゑ謡はむ      遼川るか
 (於:ニ子塚古墳)


 「夏麻引く〜」の2首のうち、上総国歌と明記されている「〜船は留めむさ夜更けにけり」は、東歌にしては随分と洗練されているというか、ちょっと気取った印象すらしていますけれど、それもそのはず。有力説では奈良から派遣されてきた官人が、干潟で舟遊びをした際に詠んだものではないか、とされているんですね。
 もしそうならば、少なくとも大化の改新の詔以降に詠まれたことになりますか。当時の上海上郡家は、現在の住所ならば小折か海保のあたりにあったのではないか、と推測されているみたいですけれど、どうなんでしょうね。

 「〜鳥はすだけど君は音もせず」の歌は、上総国歌と明記されてはいないことから説が2つあって、1つがここ、上総の海上付近。もう1つがお隣は下総の海上付近、と。...正直、そのどちらの海上を詠んだものなのかは、わたしには見当がつきません。
 下海上。2005年の市町村合併で旭市になってしまいましたが、それ以前は海上郡海上町という自治体も存在していました。また、現代の感覚ではその界隈は九十九里浜沿いの完全なる外海で、どうも鳥たちが集う干潟になっていたとは思い難かったのですが、JR総武本線の駅名に干潟とあるんですね。

 これは流石に気になって少し調べました。もちろん、現地には今回、行っていません。ただ、記者時代には頻繁に訪ねていた界隈なので、多少は海岸線の雰囲気も記憶しています。
 ...結論から言ってしまえば、やはりかつては海水の入り込んでいた低湿地帯が存在していたようですね。しかもその周辺には古墳も多くあります。いやはや、さっぱり判断がつかなくなってきました。

 余談ですが、九十九里浜の干潟について。駅名はひがた、ではなくひかたと読みます。元々は低湿地帯だった一帯があって、けれどもそこに、流れ込んでいた沿岸流を閉鎖して椿海という湖が造られて。江戸期にこの湖を干拓して水田にしたそうで、駅名のひかたはこの新田開拓に由来しているようですね。

 歌そのものは、こちらの方が自然体で民謡っぽいと感じます。干潟に集う鳥の鳴き声はなかなか姦しいですから、どうも恋の苦悩というよりは、それを捩って面白可笑しく謡った、宴席の歌といいますか。いずれせよみんなでわいわい謡うような、朗らかで土着のもののように、わたしには思えています。
 片や洗練された畿内の官人の舟遊び歌。片や土着の民謡...。もしかしたらわたしは、「〜鳥はすだけど君は音もせず」の歌を上総のものではない、と考えたいのかも知れません。

 二子塚古墳を降りて、とりあえず上海上の郡家があったかも知れない、と言われている海保界隈まで行ってみました。海上八幡宮というお社にも立ち寄りはしましたけれど、すでに地元の人たちからも忘れられようとしているのでしょうね。細かな雨が降る中、すっかり荒れた八幡宮は、鬱蒼と繁った木々の枝に覆われて、まるで自ら人目を避けるかのようで...。
 せめて、と張っていた蜘蛛の巣を掃って参拝を済ませました。


 たなうらのいたくな恋ひそ八重波をいにしへに知る遠つ土こそ  遼川るか
 (於:海上八幡宮/旧・上海上郡)


        〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 すでに書いていますが、国造たちの領土は、大化の改新の詔によってすべて廃止。代わって郡が配置されましたけれど、その際に各国造たちの領土は統合・整理、または分割されました。かつては上海上国造の領土と、お隣に当たる馬来田国造の領土だった中間に、それぞれから一部を分割させて新しい郡も生まれたんですね。望陀郡。現在の住所だと袖ヶ浦市から木更津市にかけての一帯になると思います。
 望陀。この響きから即座に租庸調を思い出された方も、もしかしたらいらっしゃるかも知れません。そう、望陀布の産地・望陀郡ということです。

 上総国望陀郡では畿内への税として、租の穀物、庸の公用人員、そして調として望陀布を納めていました。この望陀布、要するに麻布なんですけれど、とにかく上質で、天皇の皇位継承の儀式や唐への貢物、大嘗祭などに使われていたほどといいます。
 大宝律令の後に制定された養老令には、美濃のあしぎぬと並んで、あたかもブランド指定されているかのごとく貢納する際のサイズなどが規定されていたようです。曰く
「望陀の布は、4丁で端を成すこと(長さ15m41cm、広さ83cm)」
 と。また続日本紀にもこう書かれています。

| 辛卯、諸国の調の布は長さ二丈八尺、闊さ一尺九寸を、庸の布は長さ一丈四尺、闊さ一尺
|四寸を端として貢らしむ。常陸の曝布と、上総の望陀(*)郡の細貲と、安房の細布と、およ
|びあしぎぬ(*)を出す郷の庸の布とは旧に依りて貢らしむ。
                 「続日本紀 巻12 聖武天皇 天平8年(736年)5月12日」

  *望陀は正確にはこざと偏に施の旁を合わせた表記、
              あしぎぬも糸偏に施の旁を合わせた漢字一文字の表記です。


 そんな望陀郡から、租庸調の調ではなく、庸の防人として旅立った青年がいます。

|旅衣八重着重ねて寐のれどもなほ肌寒し妹にしあらねば
                    望陀郡上丁玉作部國忍「万葉集 巻20-4351」


 「旅の衣を何枚も重ね着して寝ていてもやっぱり妻がいないから肌寒い」
 恐らく、望陀布の産地出身とはいえ國忍が寒さを凌ぐために重ね着した衣は、望陀布のように立派な代物ではなく、粗末なものだったのでしょう。

 JR内房線・袖ヶ浦駅から1〜2km、内陸に入ると袖ヶ浦公園があるのですが、その近くに延喜式内社があります。飫富神社。正式には、おおじんじゃと読むようですが、実際は「飽富神社/あきとみじんじゃ」とか「飯富神社/いいとみじんじゃ」などとも呼ばれているらしく、少々紛らわしいのですけれども。
 そもそも上記引用の万葉歌と、飫富神社自体には直接的な関連はありません。ただ、式内社であることはもちろんですが、望陀布の産地出身の青年が衣を詠んでいる、という偶然がちょっと面白かったですし、改めて当時の租庸調という制度についても考えしまったので、何となくふらふらと立ち寄ってみました。

 延喜式内社・飫富神社の祭神は倉稻魂命。倉稻魂命と表記してしまうと判り辛いですが、阿須波神社で触れた、大年神の弟・宇迦之御魂神のことです。こちらも大年神と同じ穀物の神様となります。
 面白いのが、このお社で毎年行われている筒粥神事というもので、何でも正月14日の深夜から、身を清めた若者たちが摩擦熱で熾した火に先ず粥をかける。しばらくしてから、今度は葦の筒を放り込む、と。そしてその筒の中に入った粥の量で、作物の豊凶を占うということなのですが、この放り込む筒。9本あって、9種類の作物を表すそうです。曰く
「大麦、小麦、麻衣、早稲、中稲、晩稲、稗、粟、大豆」
 と。やはり麻が入っていますね。逆に、もっと考えられそうな黍や蕎麦などは入っていませんから、この地に於ける、麻の重要性を表している神事なのだと思います。

 また、麦が2種類、稲に至っては収穫時期の違いで3種。これだけ見てもかなり肥沃な穀倉地帯だったことが窺えそうです。神事に蕎麦が入っていないのも納得できます。
 ただ、そんな穀倉地帯で、麻という特産品まであっても、租庸調の庸は当然のように課せられていた、ということであって。だから國忍は筑紫へと発った...。いやはや、何とも。流石に何も語るべき言葉が見つけられそうにありません。


 袖ヶ浦公園周辺は、少しずつ宅地開発も進んでいるらしく、造成中らしきコンクリートの土台があちこちに。けれども、飫富神社へと向かう、細い上り坂へと道を曲がった途端、風景は一変しました。
 まるで、どこかの営林署にでも向かっているんじゃないかしら、と思えてしまうくらい鬱蒼と繁る杉林のなか。未舗装の細い坂道が蛇行しながら先に伸びているのを、フロンドガラス越しに見ていました。やがて大き目のカーブを過ぎると右手に石段が現れて。
 飫富神社です。

 ぱらぱらと降っているはずの雨は、杉の木立が凌いでくれているのか、わたしには殆ど感じられません。まだ14時を廻ったくらいなのに、何だかとても薄暗くて、しかもわたし以外に誰もいない...。
 境内に入ると迎えてくれたのは、こちらも茅の輪でした。姉埼神社とは8の字の廻り方で違うようで、書かれているお作法に倣って茅の輪をくぐります。もちろん、拾遺集の歌を口ずさみながら。


 拝殿は何かあって建て替えられたのでしょう。それほど歴史を感じられないのですが、拝殿脇の樹には、すこし驚きました。どっしりとした幹と、その幹を覆うようにしていた苔か黴の1種がこのお社が刻んできた長い時間を、伝えているように思えてなりませんでした。
 延喜式内社ですから、神社という存在そのものは1000年近い歴史があるのでしょう。そもそも伝承されている、飫富神社の創建は第2代綏靖天皇元年(紀元前581年)となっているようですが。
 綏靖...、いきなり欠史8代ですから、そうそう鵜呑みにはしませんけれども。


 曰く、創建者は綏靖天皇の兄・神八井耳命。「あきづしまやまとゆ・弐」でも書きましたが、綏靖(神沼河耳命)と神八井耳命は神武天皇の皇子でした。その神武亡き後、皇位の継承を巡って躍起になったのが2人の異母兄にあたる多芸志美命。神武の皇后だった伊須気余比売を妻にして、綏靖たちを殺そうと画策します。それに対して綏靖と神八井耳命は、逆に多芸志美命を討とうとしたものの、いざ矢を射る時になって、兄の神八井耳命は震えてしまい適わなかったんですね。そこを間一髪、切り抜けたのが弟の綏靖で、兄の手から弓矢を奪い、そして放って。矢は見事、多芸志美命に命中しました。
 これにより皇位継承は順番でゆけば神八井耳命が、となるのですがそこは大事な時に活躍し、助けてくれた弟・綏靖に譲り、自身は神事を司る役目についた、というわけです。

|「僕は汝命を扶けて、忌人と為りて仕へ奉らむ」
| とまをしき。故、其の日子八井命は茨田連・手島連の祖。神八井耳命は意富臣・小子部連
|坂合部連・火君・大分君・阿蘇君・筑紫の三家連・雀部臣・雀部造・小長谷造・都祁直・伊余国
|造・科野国造・道奥の石城国造・常陸の仲国造・長狭国造・伊勢の船木直・尾張の丹波臣・島
|田臣等の祖なり。神沼河耳命は天下を治めたまひき。
                             「古事記 中巻 綏靖天皇」
|是に、神八井耳命、懣然ぢて自服ひぬ。神渟名川耳尊に譲りて曰さく、
|「吾は是乃の兄なれども、懦く弱くして不能致果からむ。今汝特挺れて神武くして、自ら元
|悪を誅ふ。宣なるかな、何時の天位に光臨みて、皇祖の業を承けむことは。吾は当に汝の輔
|と為り、神祇を奉典らむ」
| とまうす。是即ち多臣が始祖なり。
                         「日本書紀 巻4 綏靖天皇即位前紀」


 これらの引用の中にちゃんとありますね。意富臣、あるいは多臣。どちらも読みは“おほのおみ”。おほ=おおですから、飫富神社のおおと直接的な関連がきっとあるのではないか、と。恐らく、この神社は意富氏の氏神から興って、後に倉稻魂命も祀るようになった、と考えるのがずっと自然だと思います。
 ですが、祭神が誰であれ、そして貢納するものが何であれ。古くからこの地に根ざした人々は田畑を耕しては収穫し、そして麻から糸を績んでは紡ぎ、紡いでは布を織って。

 枕詞に「夏麻引く」というものがあります。夏に繁る麻を細く裂いては撚り糸を紡ぎだす作業がバックボーンにある枕詞で、麻糸を績むことから“う”の音に懸かったり、あるいは糸に因んで“い”の音から命にも懸かります。
 詠み込まれている和歌を幾つか引用します。

|古ゆ 言ひ継ぎけらく
|恋すれば 苦しきものと
|玉の緒の 継ぎては言へど
|娘子らが 心を知らに
|そを知らむ よしのなければ
|夏麻引く 命かたまけ
|刈り薦の 心もしのに
|人知れず もとなぞ恋ふる
|息の緒にして
                           作者未詳「万葉集 巻13-3255」
|夏麻引く宇奈比をさして飛ぶ鳥の至らむとぞよ我が下延へし
                           作者未詳「万葉集 巻14-3381」


 万葉以外でも枕詞としての「夏麻引く」はうの音に懸かる例が、中世以降にも幾つかあるようですね。夫木和歌抄や万代集、草根集などに見つけましたけれども。源俊頼や藤原信実などが詠み手のようです。

|夏そひくうなての杜の葉をしけみまとりすむともみえぬ陰かな
                            正徹「草根集 巻2 夏 2202」


 火曜日に上総へ来て、その帰路からずっと考えていました。この古歌紀行のタイトルをどうしようか、と。何分、上総そのものに懸かるものがなく、といって「鶏が鳴く吾妻ゆ」ではやたらと広義になりすぎます。
 あと...、やはりそもそも東の方角を吾妻と呼ぶようになった発端は、伝承によれば倭建にありまして。詳しくは「さねさしさがむゆ〜足柄峠」で書きましたからここでは割愛しますけれど、どうも今回。わたしは倭建や今城といった、この地に西からやって来た者たち側からだけで、この地を見てはいけない気がしてならなかったんですね。だからこそ、もう一度上総に上陸しているわけで。

 西からここへやって来た者、ここから西へ発った者。今城や孝標女もそうですが、わたしもまたやって来た者でありながら、同時にここから西へ発ってゆく者です。夏麻を績んで織られた望陀布も、西へと発っていった...。
 かつて広がっていた上海上の干潟は、もうありません。望陀布も今では失われてしまっています。それでもわたしが、それらがあった時代の片鱗を探し歩いているのもまた事実。

 この飫富神社で、ようやく今回の紀行文のタイトルを決めました。「なつそびくうなかみがたゆ」。わたしにとっての幻想空間、歌枕としての内房を象徴する枕詞です。

 夏麻引く海上潟にひと績みし
 糸を伝ひて継ぎ継げば
 日の緯
 日の横
 繋がりて
 またいにしへにけふの継ぎ
 杜に賜ふは
 違ひゐつ違はざる世の土の香に
 あれのいづへゆ来しとふを
 あれのいづへに行くとふを
 あなぐるもよし
 あなぐらずゐるもまたよし
 いづれとて果ては違はぬ海境に
 い帰らゆるて
 なほし謡はむ

 糸交はし息の緒交はす 
 なにしかあれの謡ふはしあれがゝぎりの沁むるを沁みたし  遼川るか
 (於:飫富神社)



 望陀郡の飫富神社、けれども大化の改新前、この界隈は馬来田国造の領地内だったそうなんですね。それならば、ということで馬来田国造が治めていた、本拠地周辺へ行って見ようと思います。

        〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 かつて千葉県全域を取材で周っていた頃、こんな印象を持っていました。
「千葉県って山が殆どないんだな...」
 よく聞いたのは完全なる島の県、ということでつまり東京湾、九十九里浜、利根川、隅田川というみづの境界によって分断された県なのだ、と。確かに河川は多いな、と感じますけれど河川が多いということは山だってあるわけで。
 もちろん、1000m級のものは皆無に近いのかもしれません。でも、山がないというわけでは決してありません。「万葉集」にも房総半島の山は詠まれています。

|馬来田の嶺ろの笹葉の露霜の濡れて我来なば汝は恋ふばぞも
                          作者未詳「万葉集 巻14-3382」
|馬来田の嶺ろに隠り居かくだにも国の遠かば汝が目欲りせむ
                          作者未詳「万葉集 巻14-3383」


 馬来田の嶺ろ。木更津が始発となるJR久留里線に、馬来田という駅が、今でもあります。そして万葉歌に詠まれた馬来田の嶺ろは、馬来田駅から東へ進んだ先、音信山の北西から袖ヶ浦方面に向かって続く丘陵地帯のことらしく...。山、と言い切るのはいささか戸惑うかも知れませんが。
 そして、この界隈こそが馬来田国造の領土にして、本拠地だった地区なのだといいます。時間があったら久留里線にも乗ってみたかったんですけれどね。乗って、ちゃんと馬来田で降りて、としたかったんですけれど如何にせん単線でして、時間的に何とも。
 袖ヶ浦方面から、内陸を突っ切るようにして馬来田界隈へやって来た頃には、もうそれまでの小降りではなくて、雨は本降り。その上、丘陵地帯はガスに包まれ始めていました。


 最初に目指したのは馬来田の駅。ロータリーに歌碑があるんですね。「〜汝が目欲りせむ」の歌です。
「馬来田の嶺ろに隠れてしまってもう郷が見えない。まるでとても遠くへ来てしまったようで、この先もっと離れたらもっとお前が恋しくなるだろう/#3383」

 恐らくは当時の人々のごく一般的な感慨なんだと思います。というのも、現代を生きるわたしたちは例えば山に隠された自分の家を、そもそも振り返り見て感慨に浸るようなことはあまりないですから。交通手段と、通信機器と、情報の氾濫と。
 微妙に違ってはいますが、大枠で似ている感慨に立脚している有名すぎる万葉歌と言えば

|三輪山をしかも隠すか雲だにも心あらなも隠さふべしや
                             額田王「万葉集 巻1-18」


 がありますけれど、少し考えてしまったんですね。わたしが考えていた当時の境界は、やはりみづが筆頭格なんじゃないのかな、と思っていて。だからこそ、そう書きもしました。でも、地続きではあるものの、視界を遮ってしまう山も、また別の境界だったのかも知れないと思い始めてしまって。
 このへんは指向の問題かも知れませんね。見えているのに渡れない境界と、地続きだけれど見えない境界と。もしどちらかを選べと言われたなら、わたしはどっちを採るだろうか。
 そんなことをぐちゃぐちゃ考えながら、馬来田駅のロータリーの歌碑にシャッターを切っていました。...この歌の詠み手が向かった先、それは恐らく上海上国造の領土でしょう。ちょうど、わたしがここへ来るのと逆送するようにして、馬来田国内を出たのだと考えられそうですね。







BEFORE   BACK   NEXT