ロータリーからは、東側へ伸びている道路を真っ直ぐに。近くを武田川が流れていて、川沿いにはコスモスロードという遊歩道も設けられているようです。...どうやら、そのコスモスロードには万葉歌碑がもう数基ある、という情報も聞き及んではいました。
 ですが、ここでは何よりも実際の馬来田の嶺ろを見てみたかったわけで、歌碑たちも遊歩道もパス。音信山が見えるまではとにかく進みます。

 単線の駅とはいえ、それでも駅周辺は賑やかな方だったのでしょう。武田川の橋を渡ったあたりから唐突に広がるのはさみどりの田圃だけで、対向車とも殆ど行き違いません。雨と、雨雲の所為で薄暗い中、徐行しながら内陸へ、内陸へ。
 そして正面に現れたのは、緩やかな尾根の稜線でした。
「...これが、馬来田の嶺ろなのか」
 ぶっちゃけてしまえば特別、珍しい光景ではありません。長閑な丘陵地の田園風景でしかなくて、それがどうだと訊かれたならば、わたしはきっとこう答えます。
「いや、特には何も...」

 ですが、この古歌紀行の中で数少ない、当時とほぼ変わらないままの万葉故地です。これがどれほど珍しく、貴重なものなのか。各地の万葉故地を周っているからこそ、知っているつもりです。
 内房の古墳たちも現存しているものは確かに多くありますが、それ以上に多くは失われています。また、残っている古墳も部分的に、宅地として削られ、農地として削られ、原型通りのものはとても少ないのが現状でしょう。

 我儘、あるいは身勝手なもので、人為的に保存しようとすることには何らかの拒否反応を示し、では失われてもいいのかというと、やっぱりなくなって欲しくない、と思います。どちらも欲しくて、どちらも欲しくない。...何とも人間という生き物の傲慢さを、たっぷりと抱え込んでいる我が身だと心底、感じています。
 それでも1300年前の青年が見た稜線を、わたしもまた見ている...。たった31文字の糸が時空を穿って、まるで隣にその青年がいるかのようさえ思わせてくれる瞬間は、やはり越境なのだ、と。それを助けてくれるのが風であり、水であり、緑であり、そして歌であり。

 ずっと6歌体、短歌・長歌・片歌・旋頭歌・仏足石歌・今様歌を詠んでいます。そしてそれぞれの歌体は、わたしの中でも綺麗に住みわけできていて、ずうっとそのまま詠んでゆけたらいいな、とも思っていましたし、います。
 ですが、最近うっすらと感じ始めて来たのはやはり短歌と今様歌以外は、歴史の中で淘汰されてきたものだという実感で、ならば淘汰されてしまった理由もあるのだろう、と。...すべての歌体ではありません。ですが仏足石歌と長歌は、その淘汰されてしまった理由が何となく、自身の中で浮き上がってきていることに、わたしは気づいています。

 歌謡だった当時の和歌。それは実際に節をつけて謡ったからこそ歌謡なわけで、黙読あるいは音読をするべくして存在していたものでは絶対的にないです。...そう、何故なら当時に文字などなかったのですから。
 当然、謡うものとしての要素が強い歌体ほど、謡わずに続けるのは難しくもあります。仏足石歌は、5句目と6句目の対句が、やはり何首も何首も詠んでいるとシンドくなってきますし、パターン化しやすくもなります。例えば、現代の流行歌でもよくあるアレンジで、曲の終わりにサビから後の部分を若干違う歌詞でリピートするタイプの曲は、とても多いです。...むしろ殆どがそうだと言ってもいいかも知れません。
 個人的には仏足石歌の後2句のリフレインは、そういう音楽的な要素から生まれ、定着したものだと思っていますし、もっと言ってしまえば現代の流行歌もまた、その源流には仏足石歌と同じ要素がある、とも思っています。...であるならば、節のない状態でのリフレイン、あるいは対句は、詠み手が歌に込めたい情感にとって1つの桎梏となってしまったのではないか、と。

 長歌。わたし自身、とても好きでたくさん詠んでいますし、大好きな歌体であることは否定する気もありません。ですが、哀しいかなわたしは文字がある時代に生まれ、長歌よりも散文を書く頻度の方がずっと高い生活をしているのです。
 元々が記者で、散文を書くのも慣れています。そんなわたしだからなのでしょうか。ここ1年ほど、長歌を自然と詠んでしまう頻度が激減しました。
「何故、長歌なのか」
 ここの根拠がわたしの中で、希薄になってしまったからなのでしょう。文字がないからこそ謡っていた人々は、文字と筆記具を手にした途端、韻律などない散文を綴り始めました。思考するままを、綴り始めたのです。これは平安期の文学を時代順に追えば一目瞭然です。
 万葉期に時代が近いものほど伝誦性が高く、平安中期になると伝誦性はほぼ、影を潜めてしまいます。竹取、今昔、伊勢、枕草子、源氏。そして同時期に花開いた日記文学。...文字を持った人々は、思いの丈を謡う必要性がなくなってしまったのかも知れません。

 中でも、1番早く淘汰の渦に巻き込まれたのは、きっと片歌でしょう。元々が歌謡中の歌謡で、1人では謡えなかった片歌は、独詠の旋頭歌となることで、一時的には淘汰を免れました。けれどもそれは、同時に完全なる淘汰でもあったはずです。...何故なら旋頭歌は、もう片歌ではないのですから。
 そしてその旋頭歌も、短歌隆盛の渦中に於いて舞台の端っこで消えてゆくことしかできなかったのでしょう。

 生き残れたのは、散文よりも短く簡素で、でも歌謡としての要素が少ない、つまりリフレインが少なくアンシンメトリーな韻律をもった短歌。短歌だけが、文字による黙読という、そもそもの歌の存在理由を引っくり返してしまった状況にもフィックスできる韻律だったのではなかったのか、と。
 それを裏返して立証する存在が今様歌です。リフレインだけで成り立っている韻律は、されど文字ではなく節をつけて謡うものだったからこそ、本来あるべき存在理由のまま時代を次々と生き延びて、この21世紀でも相変わらず、今様の歌謡曲の中に生きています。

 自分自身が続けることで、自身の中に上代歌謡が辿った歴史を再現できないだろうか、とずっと願っていました。そうなりたいとずっと、心から望んでいたのは事実です。ですが、わたしの中で再現されたかも知れない歌謡の歴史は、ちょっぴり呑みくだすのに難儀しそうなもので、嬉しいような、哀しいような...。やわらかな切なさとして、わたしの血管を流れ続けてゆきます。

 失われたものと残ったもの。歌だけに限らず万葉故地もまた、わたしにとっては具現化された、やわらかな切なさです。決して見ることの叶わない海上潟、手触りを確かめることのできない望陀布、復元されてはいても本来のそのものではない国分尼寺跡...。
 でも、ここには確かに、21世紀まで残ったものである、馬来田の嶺ろがありました。

 「ならば、新たな存在理由を探せばいい。それを築けばいい」
 道端に車を停め、雨に濡れながら馬来田の嶺ろを見ていました。...結局、そういう道をゆくしかないのでしょうね。古墳が観光地として生き残るように、仏足石歌も、長歌も、片歌も、旋頭歌も。わたしが、わたしにとっての存在理由をきちんと見つけ、それを1つひとつ積み上げてゆくことこそが、わたしが本来やらねばならないことなのでしょう。
 実際、どうやらいつの間にかわたしは、載せたい情感に合わせて韻律を無意識に選んでいる傾向があるようですし、それはその情感が帯びている精神年齢ともリンクしているようでもありますしね。

 これまでは、それでも大好きな上代歌謡だから、という最初の理由に何処かが縛られていた気がします。ですが、いつの間にか自然と使い分けている韻律がある以上、少なくともわたしにとってはそれぞれの歌体に見ているものが、ちゃんとあるはずなんです、ちゃんと。
 憧れだから。憧れていたことを自分がすると
「こんなことしちゃった」
 というような喜びがあって、それが愉しかったから。...そういうただはしゃげた時代は、もうとっくに過ぎ去ってしまっていました。では、どうするのか。

 ...嫌ならやめればいいだけです。そして、恐らくそれはとても簡単なことでしょうね。でも、やめたくないと思ってしまうのだから、わたしは、わたしの長歌も、わたしの仏足石歌も、わたしの片歌も、わたしの旋頭歌も、築いてゆくしかなくて。やれやれ、何とも厄介なことになってしまったものだ、と独りで笑ってしまいました。

|馬来田の嶺ろの笹葉の露霜の濡れて我来なば汝は恋ふばぞも
                        作者未詳「万葉集 巻14-3382」再引用


 この歌の「我来なば/わきなば」は引用の通りの表記ともう1つ、「別きなば」の2説があって、個人的には懸詞ではないか、と考えています。
「馬来田の嶺の笹の葉のように、わたしが露や霜にぐっしょり濡れて、涙で心まで濡れてあなたを置いて別れ来たならば、あなたはきっとわたしを恋しがることでしょう」

 もしわたしが、かつて志したものたちを置き、別れたとしならば、いにしえの歌体たちはわたしを恋しがってくれるでしょうか。
 ...いや、少なくともそれを志したわたし自身が、彼らを恋しがって離さないはずです。きっと必ず。

 馬来田の嶺ろに問へども問ふはなくあれ言挙げす
 海処であれど、陸処なれども            遼川るか
 (於:木更津市真里谷の集落)


        〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜


 上代文学に記述された東国。その故地を歩いていると、どうしても関連する人物が大体決まってきます。その筆頭格は、やはり東征をした倭建になるのですけれど、もう1人。これまでの足柄でも、甲斐でも、この先行く予定の常陸でも、そしてここ上総でも。必ず登場してくる歌人がいます。
 そう、高橋蟲麻呂ですね。

 高橋蟲麻呂。どうも今ひとつ実態がつかめない歌人なんですが、とにかく各地を旅して周っては、その土地、その土地の伝説などを題材に朗々たる長歌をたくさん詠んでいます。常陸国での歌は、もしかしたら藤原宇合の部下として、常陸に滞在していたからかも知れませんが、それ以外の土地に関しては何故、それほどまでに各地を歩き、謡っていたのかは、もはやさっぱり。
 また歌そのものも、独自の修辞がかなり多くて、枕詞も
「これは確実に、蟲麻呂の自作なんだろうなあ」
 と手繰れてしまうものが多数ありますね。当時に多かった宮廷歌人が、あくまでも宮中で歌を詠んでいたのに対し、彼は屋外に出て当時の歌の潮流には全くといっていいほど従わずに詠み続けました。
 それが高橋蟲麻呂です。

 そんな彼の万葉歌は、元々彼個人の私家集収録のものが、そのまま「万葉集」に採られた、というケースが殆どで、「万葉集」だけに採られている歌は意外にも2首しかありませんね。上総国に関連する歌も、やはり彼の私家集からの撰となります。
 
|題詞:上総の末の珠名娘子を詠む一首 短歌を并せたり
|しなが鳥 安房に継ぎたる
|梓弓 周淮の珠名は
|胸別けの 広き我妹
|腰細の すがる娘子の
|その顔の きらきらしきに
|花のごと 笑みて立てれば
|玉桙の 道行く人は
|おのが行く 道は行かずて
|呼ばなくに 門に至りぬ
|さし並ぶ 隣の君は
|あらかじめ 己妻離れて
|乞はなくに 鍵さへ奉る
|人皆の かく惑へれば
|たちしなひ 寄りてぞ妹は
|たはれてありける
             高橋蟲麻呂「万葉集 巻9-1738」 高橋連蟲麻呂歌集より撰
|題詞:上総の末の珠名娘子を詠む一首 反歌
|金門にし人の来立てば夜中にも身はたな知らず出でてぞ逢ひける
             高橋蟲麻呂「万葉集 巻9-1739」 高橋連蟲麻呂歌集より撰


 「しなが鳥」は安房に懸かる枕詞。

 「安房の国へと続く周淮郡の珠名娘子は、胸の豊かな美しい女。そして蜂のように細い腰の娘。その美貌で花のように微笑んでみせると、道行く男は自分の行先を放棄して、呼んでもいないのに娘の家へ行ってしまう。隣家の主人は妻と離縁して自ら家の鍵を渡してしまう。誰も彼もがこうも血迷ってしまうので、娘も媚を売っては男をなびかせて、男遊びに耽っていたんだとさ」
「戸口に男が立てば、娘は夜中であろうとも必ず出て、逢っていたんだとさ」

 ...土着の民謡であるのならば流せるのでしょうけれど、蟲麻呂がそれを謡い直してしまうと、どうにも戯れ歌としては、流せそうにないですね。娘の名前は珠名。この歌は伝承がどうこう、というよりも当時の美人観の参考になるという意味で、研究者の間では価値が高い、とされているようですが。
 地名として周淮、と明記されていますから珠名が暮らしていのは当時の周淮郡。現在の住所では君津市界隈となります。

 根拠は希薄かも知れませんけれど、どうもこの長歌と反歌はわたしの感覚だと蟲麻呂っぽくない、とずっと思っていたんですね。彼の場合、伝説歌人という異名の通り、元々その土地に伝わる逸話を材として歌を詠みますし、ではその逸話は、と言えばみな何らかの悲劇性を孕んでいる、といいますか。もっと踏み込んでしまえば、無常観のようなものを湛えている作が、とても多いと感じます。
 また、伝説を材にしていない歌の場合だととても朗らかで、開けっぴろげで、まるで
「世界の女性はみんな、何でこんなに美しいんだろう」
 というような女性賛美の精神が、何となく底流しているような印象だったんですけれど、この珠名の歌はそのまま娼婦の伝説、と。...正直、
「...どうかなあ」
 と、ぼやいてしまいそうです。

 ただ1つ思うのは、この当時の娼婦、すなわち「遊行女婦/うかれめ」という存在は、大抵に於いて神に仕える巫女だった、ということでして。つまり、神ではない者には一切応じず、けれども神の資格あるものには誰にでも応じる、ということですね。もっと言ってしまえば、そもそも神の教えを流布するために、遊行していたわけで。

 諸説ありますけれど、わたし個人としてはそういう巫女=うかれめ、としての珠名の伝説を蟲麻呂が詠んだのではないかな、と。そしてそう考えたならば、
「流石は蟲麻呂」
 そうも思えます。何故ならば、うかれめであることを自ら選んだ珠名の姿を、蟲麻呂は貶めることなく、卑屈さもなく、堂々としている様として詠みあげていますから。

 同時期の歌人で長歌を多く詠んだのは家持となりますし、それ以前ならば旅人でも、億良でも、構いません。ただ、彼らはやはり宮中で詠んでいた歌人です。宮中の価値観でもあった儒教の影響下にありましたから、同じ材であってもこうは詠まないでしょう。...それ以前に材にすらしないだろう、と感じます
 ですが宮廷歌人とは一線を画していた蟲麻呂は、儒教を前提に珠名伝説を受け止めなかったのではないでしょうか。

 JR内房線の青堀駅近くまで来ると、すでに16時を廻っていました。雨は一時よりは小降りになりましたけれど、それでも相変わらずぱらぱら、と。今日、訪ねるポイントのうち、先ず落とせない、という箇所の最後がこの界隈にあります。
 内裏塚古墳。千葉県内の古墳の中では最大、東日本でも第3位(1位は群馬の天神山古墳、2位は茨城の舟塚山古墳)という大きさで、これは実際に行ってみて納得するも何も...。こうも大きいと古墳という印象も却って希薄になってしまいます。時代は5世紀中〜末のもの、とのことですからかなり古い部類に入るのだと思います。
 ...第25代武烈天皇元年が499年ですけれど、まあこれくらいの年代は、日本書紀の信憑性もそう高くはないですから、どうなんでしょうね。


 ただこの地にも須恵国造が存在したので、この内裏塚古墳も須恵国造の奥つ城か、あるいは墳墓だったのではないか、と。出土品もかなりあったみたいですね。
 ですが、この界隈に残る言い伝えには、この内裏塚は珠名の墳墓である、というものがありまして。いやはや、流石にそれはないでしょう、とは思うものの珠名が神に仕える身であったとするならば、墳墓であったか、否かはさておき、須恵国造一族の関係者であった可能性も、想像できそうですね。
 古墳時代に於いては、仏教や儒教はおろか、天つ神も国つ神もありません。そういう思想は記紀の完成と共に、全国に伝わっていったと考えるのが自然で、では記紀のベースにあった伝承は、と言えば各地それぞれに土着していた伝説なり、先祖伝であったり。

 古墳時代に宗教のようなものがあったとしたならば、それは自然信仰か、さもなくは先祖崇拝です。飫富神社で、
「祭神の倉稻魂命は後から祀られるようになったもので、そもそもは意富氏の氏神から興ったものだろう」
 と書いたのもそういう理由です。また、ここ須恵国造と馬来田国造とが兄弟だったことも、先代旧事本紀に記載されていますよし。

|須恵国造
|志賀高穴穂朝の御世に茨城国造の祖・建許侶命の兒大布日意彌命を以て、国造に定賜ふ。
                          「先代旧事本紀 巻10 国造本紀」

|馬来田国造
志賀高穴穂朝の御世に茨城国造の祖・建許侶命の兒深河意彌命を以て、国造に定賜ふ。
                          「先代旧事本紀 巻10 国造本紀」


 そして、そんな先祖崇拝のための巫女として珠名が存在していたとするならば、神の資格を持つ者は誰隔てることなく受け入れる...。
 神の資格、それは先祖の血脈を引く者、ということでしょうね。またそういう存在であったならば、一族の奥つ城に埋葬されたなどという、俗説が語られるのもそうそう判らなくはないです。
 推測というよりは、もはや想像の範疇を出ませんけれど、それでも何となく納得することはさほど難しくない気がしてしまうのですが、いかがでしょうか。

 内裏塚古墳も登れるようになっているので、早速登ります。全長はそう違わなくても、高さが9mしかなかった二子塚古墳と比べると、なかなか登りではありました。当然ですけれど階段などは一切つくられていなくて、濡れた下草と常盤樹落葉でつるつる滑る坂は、暗かったし、恐かったし、虫がいっぱいで痒かったですし。
 余談ですけれど、二子塚古墳では
「いそうだなあ...」
 と感じたマムシ。この内裏塚古墳ではしっかり目撃しました。まあ、間違って踏んだりしなければ何もないですし、あちらはあちらの生活をしてくだされば、それでいいんですけれども。


 きっともっと早い時間で、お天気がよければ、隈なく探索したくなったと思います。ですが流石に疲労もピークに達していて、登り詰めた場所に建っていた2つの石碑を確かめるだけで精一杯でしたね。
 石碑の1つは大きく内裏塚、と彫られています。そしてもう一方の小さな石碑。これが珠名家碑です。以前は、ここに珠名姫神社もあったそうですが、今は近くの飯野神社に合祀されているのだ、といいます。...そちらは訪ねませんでしたけれどもね。


 珠名という伝説。ありがちな話なんですが、ターミナルとされる場所には、こういう都市伝説みたいなものは古今東西、生まれているわけで、では当時のターミナルはと言えば、間違いなく港です。
 倭建が東征するために通った古代東海道は、走水から渡海するのが一般的なルートでしたし、その着く先もそれなりに航路はあったのでしょうけれど、きっと海流次第で現在の富津あたりに着くこともあれば、君津や木更津に着くこともままあったように思います。そして木更津より北には海上潟が広がっていて。
 そういう意味では、この界隈もまた港町であったのでしょうし、西からの文化、つまりは大陸からの文化も案外、早く届く土地だったのかも知れません。これまでに何度も書いているように、西から来た人もいましたし、西へ向かった人もいました。

 須恵国造一族に珠名がいたのかも知れない、という想像は想像として、現実的にはそういう東西がぶつかり合う境界の土地に、自然と発生した都市伝説。わたしは珠名伝説をそんな風に受け止めたいと思います。
 そしてそれを謡った蟲麻呂もまた、西からやって来た人だったのだ、と。

 あがうちゆいでや出でむを問ふほどはけだし日の横さにしあるらむ  遼川るか
 (於:内裏塚古墳)



 内裏塚古墳を降りて、改めて周囲を眺めてみると、
「ああ、あれはきっと古墳だ...」
 と思える茂みが幾つもあります。また、反対側を振り返ると、市原市内ほどではないですが、それでもまだまだプラント群がぽつぽつ、と。万葉期の港町の面影は、やはりもうないわけで、残ったものと、なくなったものが交わっている現代のターミナル。それが青堀駅界隈なのかも知れません。
 そしてこの地から防人に発った青年の歌も、「万葉集」には残っています。

|大君の命畏み出で来れば我の取り付きて言ひし子なはも
                      種淮郡上丁物部龍「万葉集 巻20-4358」


 「天皇の仰せであるから、謹んでお受けして遠くやっては来たけれど。わたしが出発する時、わたしに取り縋って泣いていた妻は今どうしているだろうか」

 統治というものは、ある種の思想統制でもあるわけで、もっともっと律令が浸透していたら、ある意味で不敬とも言える歌を人々は詠まなくなるでしょう。また、編纂する側も採ることはないでしょうね。







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