参拝のお作法ももう、どうしていたのか記憶がありません。とにかく雨なのか、自分の涙なのか、よく判らないものが次々頬を伝っていて、拝殿前ではぺしゃん、と座り込んでしまって。

 空蝉のひとの生れたる
 千早降る神尊の曰さくに
 天あり
 地あり
 きはみにそひとあればあり
 ひとなるは如何なるものか
 たれなほしえ知らず
 知るは叶はじて
 叶はざるものこそを神
 叶はゆるものこそをひと
 きはみ違へることなくば
 狂ひ狂ひて天近く
 狂ほし狂ほさゆるればまた土近くなむ
 欲りせるは
 きはみを越ゆる石橋や
 あれはひとゆゑ
 ひとなるを脱くも抜くをも貫くさへも
 渡らふ橋のあらずして
 え叶はざるよし
 歌欲りし
 歌欲る
 歌の欲るらむは
 天定めたる
 また地の定めたればや
 狂ほしと
 狂はまくほし
 あれこそ贄なめ

 いかへるはいづへであれどこであることの違はざり 
 あれはあれなる産土にあり             遼川るか
 (於:富津市吾妻神社境内)


 いつものことです。古歌紀行に出る度にいつも、同じことを噛み締めるだけでしかないというのに、そうだというのに、いつもその“同じこと”を前にして、魂も肉体も何もかも、持って行かれてしまうような感覚に襲われ、そして抗えずにいます。
「呼んでいる。呼ばれている」
 そう感じては各地へ出向いていますが、でもそれは現実的には呼ばれているわけでなど、決してありません。...にも関わらず必ず、古歌紀行の何処かしらで、完全なるトランスにも近い状態になってしまうのは、突き詰めればわたし自身が作り出している錯覚に他ならないでしょう。
 ですが、たとえ錯覚であったとしても、そこまでの内圧が掛かるには、やはり土地の力なくしては、と。それぞれの土地の空と風と水と土と。わたしがいつも覚える高揚は、人類が支配する人間社会から抜け出せて、世界の中のいち個体に戻れる瞬間が、見せてくれているものなのかも知れません。

 余談になりますが、日本書紀歌謡にあった「赤駒の〜」は、全く同じものが「万葉集」にも採られています。

|赤駒のい行きはばかる真葛原何の伝て言直にしよけむ
                           作者未詳「万葉集 巻12-3069」


 「万葉集」に於ける分類は寄物陳思歌。巻12ですから多くは相聞歌としても括れるでしょうか。特に伝誦性の強いものを編んでいる巻だ、とも思います。もしかしたら、天武に対する世間の戯れ歌が定着し、いつからともなく恋歌として謡われるようになったのかも知れません。
 文字による固着がなされていなかった時代、生き物であった歌謡がここにも垣間見られる気がします。


 おあずま様では、しばしぼんやりと座り込んでしまったらしく、寒気で我にかえるとすでに17時半を廻っていました。どうやらフェリーの最終便には確実に間に合いそうですが、このままだと最後のポイントが薄暗くて写真が撮れるか、どうか...。
 少し離れがたかったのですが、おあずま様を後にします。

        〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 随分とぎゅうぎゅうに予定を詰め込んでしまった所為で、仕方なくパスしてしまったポイントも幾つかありましたけれど、ようやく本日ラストとなる土地へ。
 国造の領土で語るならば、菊麻・上海上・馬来田・須恵。律令下の郡で語るならば、市原・上海上・望陀・種淮と南下した最後は、天羽郡を訪ねます。

 天羽郡。あまはぐん、と読みますが現在の住所では富津市の南部が、ほぼ該当すると思います。そしてこちらの郡からも、防人として筑紫へ発った青年がいました。

|道の辺の茨のうれに延ほ豆のからまる君をはかれか行かむ
                       天羽郡上丁丈部鳥「万葉集 巻20-4352」


 「道の端に生えている茨に絡まる豆のように、わたしにしがみつくあなたを置いて、どうして発つことなどできよう」

 「延ほ豆の」は絡まるに懸かる枕詞。

 こちらもこれまでと同様、夫婦が別れることへの哀しみを謡ったものなのですが、個人的には今回の古歌紀行の中で飲用させて戴いた防人歌の中では、最も恋歌らしい恋歌、と感じられます。もう国府であった市原からも遠く離れ、天羽郡界隈は本当に長閑な農村だったのだろうとも考えられますから。そういう意味では、農業以外は家族のことだけ。そんな生活が成り立っていたからこそ、の殊更ストレートな恋歌になるのかな、などと邪推もしてみたくなりますが。
 どうしても、色々と社会生活が付随するほど、ややこしいことを人は考えてしまいがちですからね。

 あまり先人のお作をどうこう言いたくないのですが、この鳥の詠んだ歌は
「巧いなぁ...」
 としみじみ思ってしまいます。上3句が序詞にして3句目は枕詞。...まぁ、実際のところ知る限りの用例では「延ほ豆の」が登場する歌はこれ1首しかありませんから、枕詞とするのはどうか、と思われる方もいらっしゃるのでしょうけれども。
 「延ほ豆」。これは東国訛で、4段活用の連体形の語尾母音が u → o となるものですね。つまり、標準語でならば「延ふ豆の」、と。
 ...蛇足ですが、東国訛ではなくなった状態でも、他にこの枕詞の用例をわたしは知りません。

 鳥は自身を茨の木として、しがみつく妻を延ほ豆として。...茨の木は真っ直ぐで棘もあって、一方の豆は恐らく蔓草なのでしょうね。そして、そんな道の端。こういう比喩が即座に詠めるということは、よほど見慣れているものたちなのでしょう、茨も豆も。もう少し南下すれば、そこはもう安房国です。南房総の暖かな気候で、こういった草々は田圃の畦などに普通に生えていたからこそ、の歌なのかも知れません。
 文献によれば恐らくこの豆、藪豆のこととされているようです。もっとも藪豆と聞いても、なかなかピンと来ることができないわたしではありますが。

 お天気がよければ、少しくらいは藪を探索してもいいかな、と思っていたんですね。この地に古くから生えていたらしき、藪豆を探すのも面白いんじゃないか、と。ですが生憎の雨に加えて、時刻も時刻ですからそれらは断念。
 代わりに、行ってみたのが不入斗の地です。

 「不入斗/いりやまず」。この地名は案外、あちこちに残っています。難読地名として全国的にそこそこ知られているのは、おそらく神奈川県横須賀市の不入斗だとは思いますが、東京の大森界隈にもありますし、静岡の袋井市にもです。そして千葉の内房地域では、市原とここ富津にありますね。
 そもそも不入斗という地名の由来は何なのか、と言えば、どうも諸説があるようなのですが、恐らくは、神領や神田として認められていたり、別の理由からであったりして、納税を免れた土地をそう呼んでいたらしい、とのこと。
 なるほど、斗は尺貫法の単位ですから、それが入れない、という字面ということなのかも知れませんね。因みに尺貫法は大宝律令で定められてはいます。

 ですが、各地について詳細を調べることは適いませんけれど、少なくとも天羽の不入斗の地に神領、あるいは神田とされたような、大社や古社があったようには思えませんね。あるのは、不入斗ではない天神山という地区に、第12代景行天皇が詣でた、という言い伝えがある天神山天神くらいですが、これも今ひとつ...。
 余談ですが景行天皇の行幸とは、おそらく倭建伝説と同根でしょう。


 色々考えはしたものの結局、何処もピンとは来なくて不入斗地区にある六所神社さんを詣でました。このお社の周辺には、今では残っていない天羽という地名を冠する施設が幾つかあるらしいことと、そもそも不入斗には当時、厩が設けられていたらしき旨を読んだことがあったので、きっと交通の要衝であったのだろう、と。...とするならば、鳥が防人に発つ際に関わったのではないか、と。
 もはや、半ばこじつけたかのようではありますが、何処もゆかないよりは、ずっとずっとマシです。

 JR内房線の上総湊駅界隈から、国道465号を湊川に沿って進みます。このままずっと内陸へ向かい続ければ、いずれは養老渓谷へと辿り着くのでしょうか。
 おあずま様周辺はさみどりの迷路のようでしたが、ここ天羽はまるで水牢です。湊川は元々かなり大きな川なのに、それが雨によって増水し、で水音も絶えず周囲に響くほど。雨はどんどん強くなり、そんな水たちが湛える色に、世界も同化してゆきます。
 橋の数が少なく、なかなか渡れない川に、
「きっとあの辺のはずなんだけどな」
 と思いながらもどんどん離れてゆくしかない自身。流石にここでは迷いましたね。

 どうにも大幅に迂回した形で湊川を渡る時、思い出していたのが吉野です。大和国の吉野、それも菜摘界隈の風情と、天羽の景色がわたしには重なって見えてしまって、思わず急ブレーキをかけました。
 おあずま様周辺の田園地帯とのカップリングが見せた一瞬の錯覚。でも、やはり似ています。...もちろん、わたしが似ていると感じた吉野も、わたしがはっとしてしまった天羽も、いずれも21世紀の景色が、ということであって、当時も似ていたのかは全く判りません。
 第一、河川は頻繁に州域の形を変えますから、先ずないでしょうね。

 ですが、大和と上総。古代東海道の果てにして、走水海を渡った先の地と、あきづしまやまとは、やはり繋がっている、と。理屈ではなく実感してしまった瞬間でした。
 倭建が東征し、成務が国造を設け、大化の改新によって郡が据えられて。記紀の影響からこの地にあった自然信仰や先祖崇拝も天つ神と合祀。その後には仏教が伝播します。

 世界規模でならば、まさにシルクロードなどがこういう概念で語られる最右翼となるでしょうか。つまりは道は道でありながら交差でもあり、そしてそれぞれの先の街とも繋がっている多次元空間です。
 わたしが続けてきた古歌紀行は、これまでずっと点だった気がしていました。訪問地1つひとつを歌と歴史でずっと見ていて、けれどもその土地が何処から来て、何処へ行くのかまで見ていたのか、と問われたならば答えは否、です。
 訪問地を点としてだけではなく、線として、そして遠く離れた土地との距離的空間も含めて立体的に見ることなど、これまでのわたしの力量では到底、適わなかったように感じます。歴史という縦糸に、道という横糸で織り上げられてゆく何か、です。
 また1つ、「万葉集」が。そして記紀がわたしに見せてくれた歌枕という幻想空間は、けれども幻想だけではない現実のこの21世紀とも、ようやく行き来ができる往還になれたのかも知れません。

 六所神社は今回、訪ねた箇所の中で1番、廃れていたように感じました。海上八幡宮同様、蜘蛛の巣をかなり掃います。境内には、様々な草が生い茂っていて、丹念に探せば藪豆も見つかったのかも知れませんね。


 奈良、そして平安時代、この地におかれた厩で、人々は馬を乗り換えては先へ向かいました。行先は安房の国だったのか、外房側の上総を経てその先に広がる常陸国だったのか。潮の流れ次第ではこの界隈から、市原方面へ北上しなければならなかった旅人もいたことでしょう。また、それぞれの逆ルートからこの地の厩までやって来て、馬を降りた者もまたいたのだ、と思います。
 上総に限らず、東国に限らず、あきづしまやまとに限らず、道は何処までも続いていって、道はまた道へと繋がってゆきます。時間と同じです。ならば何処にいても、いつでも、独りだけれど同時に独りではないのかも知れない。
 そうも思っていました。

 延ほ豆のからまる糸の緯に経に織る弥日異に道ゆけばゆけ  遼川るか
 (於:六所神社)


 敷地のお隣にはコミュニティ・センターがあって、展示物もありそうだったのですが、こちらは時間切れだったらしく、すでに閉まっていました。
 贅沢な1日を過ごせたのだと思います。身体は確かに疲れ果てていますが、随分とたくさんの目を開かせてもらえたようで、とても嬉しくて、そしてかすかに切なくて。1つの旅は終わりますが、それでも旅はまだまだ続きます。
 そうやって糸を績んで、織りあげてゆく古歌紀行は、わたしだけの望陀布なのでしょう。


        〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 金谷のフェリー港には18時半少し前に戻れました。最終フェリーの2便前に乗って、さねさしさがむへ発ちます。
 乗った時はまだまだそれでも光が差し込んでいたはずなのに、甲板に出るともう世界はすっかり宵闇に包まれ始めていました。潮風を受けながら、見据えていたのは神奈川側の方角。行き交う船の灯りしか見えなかったはずなのに、気づけば遠く街の灯が揺れています。


 当初、予定していた古歌紀行は常陸でした。ですが、もし上総を訪ねずに常陸へ行ってしまっていたら。上総で開くことができた目で常陸を見られなかったならば。
 それを考えると少々ぐったりしてしまうのも、本音のお話。何故ならば、常陸は上総のように無血帰順した可能性が、ほぼないからです。...というよりも、常陸風土記には明確に戦いの記述も寓話化されて収められています。...そう、何故なら常陸はもう、東北と接している土地だったのですから。
 さして抵抗をしなかったであろう上総ですら、十二分に感じられた土地の哀調があります。そして常陸は、恐らくその比ではないでしょう。

 呼んでくれたのは走水海でした。でも、本当に呼んでいたのは、その先に広がる常陸だったのかも知れません。
「常陸に来たいのならば、その目を開いてからおいで」
 そう言ってくれていたように思えてしまいます。だから上総が先になってしまったのではないか、と。
 そしてまた、何か見えない川を渡ってしまったらしき自身がいます。

 玉鉾の道をしゆけば
 ひとありて
 ひとあればそにきはみあり
 いましのむたに
 あれのむた
 在らまくほしくも
 あれ違ふいましのありて
 またいまし違ふあれこそこにしあれ
 なにしかひとえとゞまらず
 なにしか世はえとゞまるを知らに
 天つ日、月ゆくか
 山に綿津見なほし在るや
 遙遙にゆく道なれば
 いづへにすゑの在るらむや
 いもどるとふの叶はざる
 峡あればまた八重波は
 あれのまへにし
 間なくあれど
 間なく見えざる
 間なく越え
 間なくゆくらむ
 ゆきたればなほし来るらむ
 あれそたれ
 たれのあれなむ
 問ふほどに
 いかへるとふの叶はざる
 やその巷のあがまへに
 見えざれど在るうつそみと
 知りゐればこそ
 こに来ぬれ
 上総国
 夏麻引く海上潟に
 いまし来む夏

 嬉しびて哀しぶことの孤悲と知るゆゑ謡ひゆく 
 天児屋命が贄なむ

 賜ひたる玉としあれの魂を寄らせば響むらむ 
 謡へばしこそがあが瓊響なれ           遼川るか
 (於:東京湾カーフェリー・久里浜港)



 行くことは嬉しく、けれども行くことは何処か切なく。こういう思いを、この先も繰り返し、繰り返しできたら、それがわたしの悦びです。何処から来ても、何処へ行っても、何処に帰っても、そして何処に居ても。
 それでもその瞬間々々にいる場所は、いつだって“ここ”。ここ、という産土です。

 行き先を定めず着けばそれが答へと  遼川るか
 (初出:@nifty 旧FBUNGAKU MES07)


 随分と懐かしい拙歌を思い出していました。本当に、何処などと定めなくとも、きっと土地がわたしを呼び、そして導いてくれます。きっと、必ず。

 夜の雨がわずかに降り続けるなか、江ノ島灯台の燈はなおも廻り続けます。








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