なつそびくうなかみがたゆ拾遺

 数日前は、東京湾を挟んだ向こう側から、もう見えなくなってしまった海を眺めていました。海の彼方にあったはずのここも、見ていたつもりは確かにあったのですけれども。
 そして今、数日前のわたしがいた海の向こうを、ここからわたしは見ていて。もちろん、島影はおろか海すら見えません。見えませんけれど、見えないという形で見えているのですから、それでいい。
 そう思っていました。

 社用車でこっそりやって来た古墳は、あの壮大な上総の古墳たちと比べてしまうのは、あまりにも忍びないほどささやかです。けれどもそれは元々の陵が小さい、というのではなくて、あっちもこっちも侵食されてしまったから。きっと、ここに来るまでの坂道の、1番下からがかつての御陵だったのだ、と思います。そうであるならば、ここを御陵としている人物にも相応しい、大きさにもなり得ます。
 ...いや、それは違うのかも知れません。何故ならここは、伝承によれば古墳ですけれども、墳墓ではないのですから。遺品を埋めただけの古墳なのですから。
 そういう意味では、そもそも最初から相応しい、相応しくないというような発想自体を慎むべきなのでしょうね。


 神奈川県川崎市高津区。最寄駅だとJR南武線の武蔵新城になるでしょうか。ここに弟橘の御陵とされる古墳があります。子母口富士見台古墳。もちろん、真偽のほどは定かではありません。
 ...恐らくは、後世に語られるようになった俗説に違いないでしょう。漂着した遺品の存在はもちろん、ここが彼女の御陵である可能性は、きっと相当低いように思われます。

 神奈川県の横浜市や川崎市は、現代でこそ神奈川県ではありますが、律令下では東京・埼玉と併せて武蔵国でした。そして、当時の武蔵国にあった郡はかなりの数に上っていましたが、そのうちの1つが橘樹郡。はい、たちばなぐんと読みます。
 橘樹郡。この土地がこう名づけられた由来は、あれこれと調べてはみたものの、どうにもすっきりしません。ですが、一般的に語られているのは、ここに弟橘の遺品が流れ着いたことから、彼女と倭建を祀った橘樹神社を建て、彼女の御陵を造ったからなのだ、と。

 それでは大化の改新の時点で、すでに創建されていたお社が、この地にあったということになってしまうのですが、肝心の橘樹神社自体は元禄期以降、何度も建て替えられているうえに、創建年代も不明、とのこと。もはやお手上げです。
 ただ恐らくはこの周辺に橘樹郡の郡衙があったのであろう、とされていますから、橘樹神社が該当するか、否かはさておき、古社があっても不思議ではない立地だった、とは推測できそうです。

 ここへ来る途中は、それはそれは不安になりました。どう考えても、どう見渡しても、古墳のようなこんもりした茂みが存在していないわけで、でも事前の下調べでは確かに古墳、と。仕方なく近所のコンビニエンス・ストアに入って訊いてみるも、かなり年配の店員さん曰く
「聞いたことがない」
 とのこと。この界隈に長く暮らしていらっしゃるのではないか、と思える方ですら知らないとなると、余程見つけ辛い立地なのか、あるいは街中に埋没してしまっているのか。

 ともあれ宅地地図をお借りして、住所から割り出すには、コンビニエンス・ストア脇の急勾配を登りきった頂上辺りだろう、と見当はつけられました。案外、近くみたいです。
 外へ出ると、まだ何とか雨にならずに持ちこたえている曇り空と、熱帯諸国のそれとよく似た、抱きしめられるような湿った熱風。これを不快と感じる人はきっと相当いらっしゃるでしょうね。わたしはあったかくてかなり好きなんですけれども。

 坂道はそこそこ急な勾配で、にも関わらずその勾配に逆らうかのようにして、宅地がびっしりと建ち並んでいます
「自転車とか、色々と暮らし辛いだろうな」
 などと悠長に眺めていたのですが、今にして思えば、あの勾配こそが元は古墳として築かれた丘陵であった、何よりもの証なんでしょうね。
 そのまま登り詰めると、頂上の部分だけが宅地になっていなくて、ささやかな公園のような空間が1つ。...車を降りて、立て札を読むまではとても信じられませんでしたね。これが古墳なのか、と。ちょっとした児童公園にある丘の方が立派に感じられるくらいの大きさですが、確かに、子母口富士見台古墳です。


 立て札にも書いてありましたが、綺麗な円墳のようで取り敢えず登ってみました。登る、というような高さではないですし、わたし自身も仕事を抜け出してきているので、ハイヒールだったんですけれども。
 どうやら、それでも近所の子どもたちが登って遊べるように幾つもの結び目をつくったロープが頂上から裾野に渡されています。30秒もかからずに現存3.7mという高さに上がってみるとそれでも東の方角の遠くには、川崎のビル群。その更に遠くには、かすかに京浜工業地帯の煙突もぼんやり、と。
 こんな住宅地に侵食されてしまった古墳だというのに、土自体はそこそこ元気なのか、太ったミミズさんたちがたくさん地表に這い出していました。

 横さらふ五百重波にて近つ国、遠つ国とて あれの会ふあれ  遼川るか
 (於:子母口富士見台古墳頂上)



 古墳から降りると、再び車で勾配を下ります。来た方向に下るのではなく、ちょうど古墳を乗り越えるようにして進んだ先にはお社が。ここが川崎は高津区の橘樹神社です。何でこんな書き方をするのか、と言えば吾妻神社同様に橘樹神社もまた、複数の土地にあるらしいんですね。
 そのすべてが弟橘と関連しているのかは寡聞にして知りませんが、突き詰めてしまえば吾妻神社と同じことなのでしょう。皇統の正当性の裏打ちとして語られ、いつの間にか定着してしまった祀=政、です。

 橘樹神社は住宅地の中にあって、流石は手入れもきちんとされているようです。境内には倭建・弟橘関連の石碑は建っていましたが、走水神社にあったような万葉歌碑はありませんでした。

|家ろには葦火焚けども住みよけを筑紫に至りて恋しけ思はも
                      橘樹郡上丁物部真根「万葉集 巻20-4419」
|草枕旅の丸寝の紐絶えば我が手と付けろこれの針持し
                       椋椅部弟女「万葉集 巻20-4420」再引用


 「家では、葦に火を焚くしかないような貧しさだったけれども、それでも筑紫では家が恋しく思われるだろうなあ/橘樹郡、上丁・物部真根」
「道中、着衣のまま寝ているうちに着物の紐が切れてしまったならば、わたしの手だと思って、この針を使ってください/橘樹郡、上丁・物部真根の妻」

 ここまで見てくると、真根の奥方は随分としっかり者のようですね。泣いて取り縋るような情熱ではない、けれどもきちんと暖かい思いが伝わって来ます。恐らくは暮らし向きもかなり貧しい雰囲気なのに、悲壮感はあまり滲んではいないようですが。...貧しくともあたたかくて愉しい暮らしだったのかも知れませんし、もしかしたらこの夫妻、それなりに長く連れ添っている年齢なのかも知れないですね。

 当時の橘樹郡についてはこれ、といった資料もなくて、殆ど判りません。時代をずっと下った江戸時代の文化・文政期に新編武蔵風土記稿という全226巻にも及ぶ地誌が編まれていますが、これよりももっと古い時代。それこそ上古の時代のものとなると、ちょっと思い当たりそうにありません。
 ともあれ、新編武蔵風土記稿にある橘樹群の記述です。橘樹群は巻58〜巻72までを使って記載されているようです。

| 橘樹郡は、國の中央より南の方にて、多磨郡よりは東南に續けり。郡名の起りは其正し
|きことを聞す【古事記】及【景行紀】等に載たる倭建命東征の時、相武國より船を浮べ
|給ひしに、海中にして船の進まざりしかば、后の弟橘媛海中に入給ひしにより、命の船忽
|進むことを得し條を證として、當郡にかの弟橘媛の墓ある故に橘をもて地名とせしなら
|んと云説あり。今按に郡中子母口村立花の神社は、弟橘媛を祭れるなりと云ときは、橘媛
|の墓といへるもの、
もし是なりといはんか。今彼社傳を尋ぬるに更に證とすべきことも
|あらざれば、是等のことは今より知べからず。
| 其正しく橘花の地名の正史にあらはれしは【安閑紀】を始とすべし。安閑天皇元年十
|二月壬午の條に、武藏國造笠原直使主が、國家の爲に當國の内横渟、橘花、多永、倉樔の四
|所に屯倉を置し事あり、此橘花といふもの即この郡ならん。
| 又【萬葉集】に天平勝寳七歳二月二十日、武藏國部領防人使椽正六位上安曇宿禰三國
|が進歌二十首の内に、橘樹郡上丁物部直根及妻椋椅部弟女が詠ぜし所の歌を載す。橘樹
|の郡名爰に初て見ゆ。
| 又【續日本紀】稱徳天皇神護景雲二年六月癸巳、武藏國橘樹郡人飛鳥部吉志五百國
|が、久良郡にて白雉を獲て獻ぜしことを記せり。以上の文によれば文字も古は橘花とか
|きしを。
| 【元明紀】和銅六年五月の條に載せし、郡郷の名には好字を著すべきの詔ありし時な
|どより、橘樹の二字を用ゆるならん、されど唱は古きによりてかはらざりしなり。
| 【類聚國史】貞觀十四年當郡節婦のことを載たる條にも、橘樹郡としるせり。
| 【和名鈔】郡名の部に、橘樹の二字の訓を太知波奈と註せり。後世或は立花としるせ
|るものは誤なり。
                      「新編武蔵風土記稿 巻之58 橘樹郡之1」


 ...どうやら、「万葉集」だけではなくて、日本書紀と続日本紀にも橘樹郡についての記述があるみたいです。ですが、そちらについては、また別の機会に。多摩川周辺の武蔵国はいずれきちんと歩いてみたいので、今回は見送ろうと思います。

|夏麻引く宇奈比をさして飛ぶ鳥の至らむとぞよ我が下延へし
                        作者未詳「万葉集 巻14-3381」再引用


 ただ、今回の古歌紀行本編でも触れたこの万葉歌については、少しだけ。「夏麻引く」という枕詞に関連して引用させて戴きましたが、この万葉歌も実は武蔵国のものです。
 ここに詠まれている宇奈比というのは、現在の東京都は世田谷区宇奈根界隈のことなのだ、とされていますから、そちらの方角へと飛んでゆく鳥。一体、どの方角から詠まれた歌なのでしょうね。「万葉集」に採られている並び順からすれば、恐らくは現在の埼玉県側から、と推測できますけれども。

 天地にすゑあらざらむ 渡らひてなほし見ゆるは空遙遙に  遼川るか
 (於:橘樹神社)


 簡単に参拝を済ませて、また仕事へトンボ帰りします。幾らなんでも、あまり長い時間は抜けていられませんから。
 橘樹神社の境内をぐるっと1周して、車へ戻ろうとしていると近くの竹林を抜けてきた風にああ、と思いました。わたしにとっては真夏の熱風よりも、ふと吹き込む涼風の方が夏の象徴としてあるわけで。梅雨はまだまだ明けませんが、やはりもう夏です。

* 「夏は来ぬ」
*
* 作詞:佐々木 信綱
*
* 1 卯の花の匂う垣根に
*  時鳥早も来鳴きて
*  忍音もらす夏は来ぬ
*
* 2 さみだれの注ぐ山田に
*  早乙女が裳裾ぬらして
*  玉苗植うる夏は来ぬ
*
* 3 橘の薫るのきばの
*  窓近く蛍飛びかい
*  おこたり諌むる夏は来ぬ
*
* 4 楝ちる川べの宿の
*  門遠く水鶏声して
*  夕月すずしき夏は来ぬ
*
* 5 五月やみ蛍飛びかい
*  水鶏鳴き卯の花咲きて
*  早苗植えわたす夏は来ぬ

 何となく口ずさんでいたのは、佐々木信綱作詞の夏は来ぬでした。今まで気づいていなかったんですが575775、という仏足石歌の破調とも言える韻律だったんですね。これには驚きました。
 ...前述しているように、わたしの中ではまだまだ巧くシンクロできない、仏足石歌の韻律があります。先人に習おうにも記述に残る仏足石歌は、極端に少なく、ならばとひたすら実作を繰り返しているものの、行き詰まっても来ていて。
 ですが、ほんの少し視点を変えるだけで、もっともっと広がってゆく韻律なのかも知れない、と。難しく考えすぎなのかも知れない。そう、繰り返し口ずさみながら、感じていました。


 わたしは、謡います。そして、ゆきます。恐らく次は常陸国か、あるいは多摩川周辺の武蔵国を巡るものになるのか。案外、また関西の故地を訪ねるチャンスが巡ってくるかもしれません。でも、大倭豊秋津島という大きすぎる歌枕があって。そして謡い続けているわたしがいれば。
 謡うほど、歌が判らなくなります。判らなくなるほど、歌が遠く感じます。でも、その遠さすらもやはり、何処かやわらかな切なさとなって、わたしを捕らえてしまうわけで...。

 歌恋ひばけだし転寝をするごとし
 寄れども寄れば離るればこそ え離らざるよし  遼川るか
 (於:橘樹神社)


 あとひと月もすれば、真夏がやって来ます。



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 本稿を書くにあたり、参考にさせて戴いた文献を以下に記します。

・万葉集関連
 「万葉集検索データベース・ソフト」 (山口大学)
 「萬葉集」(1)〜(4) 高木市之助ほか 校注 (岩波日本古典文学大系)
 「新編国歌大観準拠 万葉集」上・下 伊藤博 校注 (角川文庫)
 「新訓 万葉集」上・下 佐々木信綱 編 (岩波書店)
 「万葉集」上・中・下 桜井満 訳注 (旺文社文庫)
 「万葉集ハンドブック」 多田一臣 編 (三省堂)
 「万葉ことば辞典」 青木生子 橋本達雄 監修 (大和書房)
 「万葉集地名歌総覧」 樋口和也 (近代文芸社)
 「万葉集辞典」 中西進 著 (講談社)
 「初期万葉歌の史的背景」 菅野雅雄 著 (和泉書院)
 「古代和歌と祝祭」 森朝男 著 (有精堂出版)
 「万葉集の民俗学」 桜井満 監修 (桜楓社)
 「万葉集のある暮らし」 澤柳友子 (明石書店)
 「万葉の植物 カラーブックス」 松田修(保育社)

・古事記
 「古事記/上代歌謡」 (小学館日本古典文学全集)
 「新訂 古事記」 武田祐吉 訳注 (角川文庫)

・日本書紀
 「日本書紀」上・下 坂本太郎ほか 校注(岩波日本古典文学大系)
 「日本書紀」上・下 宇治谷孟 校註 (講談社学術文庫)
 「日本書紀」(1)〜(5) 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋 校注(岩波文庫)

・続日本紀
 「続日本紀 蓬左文庫本」(1)〜(5) (八木書店)
 「続日本紀」青木和夫ほか 校注 (岩波新日本古典文学体系)
 「続日本紀」上・中・下 宇治谷孟 校註 (講談社学術文庫)
 「続日本紀」(1)〜(4) 直木孝次郎 他 訳注 平凡社(東洋文庫)

・国造本紀
 「先代旧事本紀 訓註」 大野七三 編著(批評社)
 「先代旧事本紀の研究 校本の部」 鎌田 純一(吉川弘文館)

・古代歌謡
 「記紀歌謡集」 武田祐吉 校註 (岩波文庫)
 「古代歌謡」 土橋寛・小西甚一 校注(岩波日本文学大系)
 「上代歌謡」 高木市之助 校註 (朝日新聞日本古典選)
 「日本の歌謡」 真鍋昌弘・宮岡薫・永池健二・小野恭靖 編(双文社出版)

・上代語
 「古代の声 うた・踊り・ことば・神話」 西郷信綱(朝日選書)

・和歌全般
 「新編国歌大観 CD-ROM」 監修 新編国歌大観編集委員会(角川学芸出版)

・21代集
 「二十一代集〔正保版本〕CD-ROM」 (岩波書店 国文学研究資料館データベース)

・拾遺和歌集
 「拾遺和歌集」 小町谷 照彦 校注(岩波書店新日本古典文学大系)

・夫木和歌抄
 「夫木和歌抄」 宮内庁書陵部(図書寮叢刊)

・万代和歌集
 「万代和歌集」 安田徳子・久保田淳 監修(明治書院和歌文学大系)

・草根集
 「草根集」 ノートルダム清心女子大学古典叢書刊行会
              (ノートルダム清心女子大学古典叢書刊行会)
・養老令など律令関連
 「註解養老令」 会田範治 著(有信堂)
 「律令制と古代社会」 竹内理三先生喜寿記念論文集刊行会(東京堂出版)

・上総国全般
 「房総の万葉」 池田重 編著(新典社)
 「房総の古社」 菱沼勇・梅田義彦 著(有峰書店)
 「古代房総文化の謎」 石井則孝 著(新人物往来社)
 「千葉県の歴史」 小笠原長和・川村優 著(山川出版社)

・新編武蔵風土記稿
 「新編武蔵風土記稿」(横浜・川崎編) 徳川幕府

   ※掲載している写真の一部は「ガルダのへぼ素材」さまよりお借りしています。

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 2006,06,20     走水、上総国訪問
 2006,06,25     上総国訪問
 2006,07,06     武蔵国橘樹郡訪問
 2006,07,13〜16、23 執筆
 2006,07,24      遼川るか公式サイト瓊音にて掲載


                                   遼川るか 拝










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