もゝきねみのゆ〜泳宮

 生きるということは、永遠の綱引き。引く時もあれば、引かれてしまう時もまた、あります。大切なのは引き続けることではなくて、引かれてしまっていてもなお、引きたいと思い続けること。それと、またやってくる波を待つこと。...あるいは、待てるだけのものであり続けけたいと願うこと、なのかもしれません。難しいですが。
「きっと来るよ、きっと来る。だから今はこれでいい」
 そう何度も自身に言い聞かせながら、早朝の可児郷土歴史館でゆっくりと歪み、滲んでゆく視界を殊更、見開き続けていました。

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 上代歌謡と上代文学を主題に、日本各地を歩き始めてすでに6年。途中、思ってもないアクシデントに見舞われて長期中断してしまった古歌紀行文もあれば、実質的にほぼ丸1年、何も書かなかったこともあります。そもそもが好きでやっていることなので、誰に憚ることなく望んだように、書きたい時に、書きたいままを書いてきました。そして、それに疑いもまた、抱いたことなどなし。
 ですが、生きている以上はただそれだけ、とはゆかないわけで逆を言えば、この6年間が随分と平穏だったのだな、と今ならば判ります。

 昨年11月に始まった世界規模での大不況は、わたしのような小市民の生活にも、それなりの影響を及ぼしていて、結果として馬車馬のように働き始めてしまったのは、熱くなりやすいわたしの性質故。当然、気持ちに余裕はなくなりますし、体力的にもなかなか厳しくなってくるわけで、気づけば詠む歌は薄っぺらでのっぺらぼう、古歌紀行文に至っては仕事で遠出しても、そのついでに何処かを訪ねよう、とすらも思えない有様。そんな自身にようやく気づいてぎょっとしたのは、すでに桜の季節でした。
 だからこそ、何処でもいいから訪ねたかったんですね。...こういう考え方は、ある意味で本末転倒。手段と目的が逆転してしまっていることも承知していますが、それでももう慌ててしまって、何処でもいいから...、と。

 そんな矢先に出張することになったのが、岐阜県は可児市。但し、週末に行われるイベントへの参加、という内容でしたからまともに考えれば日が出ている時間帯に故地や史蹟を訪ねることは到底難しく...。第一、そもそも可児市周辺に上代文学縁の地はあったかしら、などということを考えてしまうくらい、内容よりもとにかく古歌紀行をすることそのもの、を最大の目的としていました。...してしまっていたんです。
 運良く候補地はすぐに定まり、同時に訪問地と仕事で出向く場所との距離が、大して離れていなかったこともあって、ならばと強行することにしたのが、早朝の訪問。そしてそののちに仕事を、という流れですね。

 正直、仕事の途中や仕事の後、というシチュエーションは経験があったのですが仕事の前に古歌紀行を実行する、などという強引なものは、当たり前ですけれど過去にありません。そんな状態で果たして、まともに現地での即詠なんてできるのかも不安でした。...が、それでもわたしはゆきたかったんです。いや、違いますね。正しくは抗いたかった、なのでしょう。
 時代が廻す大きな車輪の勢いに、自分でもそれと気づけないうちに振り落とされてしまいそうな、自身の中ものたち。それらを掴んでいる自身の両手の力を確かめたかったし、それがいかな時代なりご時世なりが相手であろうとも、わたしはわたし。これは、自らに対するテーゼなのだから、と。暑っ苦しくも、そんな風に思ってすらいました。

 一緒に出張する同僚に頼んで、予定よりも2時間早く神奈川を出発。せめてものお詫びとして往路はすべてわたしが運転することにして、とにかく彼には
「眠っていていいから」
 とだけ伝え、まだまだ日付が変わったばかりの高速をゆきます。豊田のジャンクションで東名から伊勢湾岸道路に乗り換え、その直後には東海環状道路へ。目指すは可児御嵩のI.C.です。
 次第に明けてゆく空をフロントガラス越に見つめながら、何かが悔しくて、そして何かを諦めている自分がいることに、わたしは気づいていました。

 春さりて
 あがうらに雪いたく降り
 なほし降り降る
 稲筵川ゆくごとく
 日に月に年経りなほし年の経る
 古りゆくものの古り古りて
 なほ古りしかば
 いづへにぞあれゆくものか
 いついつにあれゆきなほし
 あれのゐるらむ

 みなひとは且つも流るる且つもゆき今夜も朝もみなひといづへ  遼川るか
 (於:可児御嵩I.C.へ向かう東海環状道路上)


 今回、訪問しようと決めたのは可児市内にある泳宮史蹟と、それに関連する八坂入彦命の御陵です。...こういうケースは初めてなんですね。例えば、もちろんその周辺地域へ出向く直接のきっかけが仕事であっても、今までならば
「...ならばずっと訪ねたかったどこそこへ行こう」
 と必ず訪問候補地が頭に浮かびましたし、それに付随して現地での滞在時間が長くとれるようであれば、その周辺にある故地を調べてピックアップしていました。ですが、今回は違います。可児と聞いても特別、何処かの故地が思い浮かんだのではなく、ならば訪問をパスして仕事に専念するのか、と言えばそうでもなく。泳宮を訪ねると決めてはいたものの、心のどこかが訪問地そのものに対して奇妙に冷めていました。

 歌枕。そう、歌枕が可児市周辺に限定するならば、少なくともわたしにとっては存在していなかった、ということになるのでしょう。また、以前から興味を持っていたわけではないので、多少は冷めていても仕方ないのかもしれませんが、それでもこれは大前提として大好きな古歌紀行のはずなのに、です。
 高速を降りた時には、すでに周囲は薄明るくなっていました。眠っていた同僚も、ごそごそを起きだしたので、ぽつりぽつりと途切れがちな会話をしつつも、現地へ。残念ながら営業車に搭載されているナビでは、泳宮史蹟は拾うことができず、当該住所周辺を徐行しつつ流します。どうやら人造湖なのか、ダムなのか、溜池らしきものの周囲をぐるりと半周した辺りで、ようやく宮内庁管轄にある御陵特有の立看板を発見。路肩に車を停めて、いまだ肌寒いなか、御陵へと歩きます。...同僚も多少は興味があるらしく、車から降りてきました。八坂入彦命の御陵です

 

 八坂入彦命。第10代崇神天皇の皇子になります。

| 元年の春正月の壬午の朔甲午に、皇太子、即天皇位す。皇后を尊びて皇太后と曰す。
| 二月の辛亥の朔丙寅に、御間城姫を立てて皇后とす。是り先に、后、活目入彦五十
|狭茅天皇・彦五十狭茅命・国方姫命・千千衝倭姫命・倭彦命・五十日鶴彦命を生れます。
|又妃紀伊国の荒河戸畔の女、遠津年魚眼眼妙媛、豊城入彦命・豊鍬入姫命を生む。次
|妃尾張大海媛、八坂入彦命・渟名城入姫命・十市瓊入姫命を生む。是年、太歳甲申。
         「日本書紀 巻5 崇神天皇 崇神元年(紀元前97年)1月1日〜2月1日」


 あくまでも日本書紀の記述に習うのであるならば、第10代崇神天皇の世は、始まりであり変革の時代でした。神代が終わり、神武から始まったひとの世。けれどもそれは、初代天皇の神武こそ記述も多くありますが、そこから続く第2代〜第9代までは所謂、欠史8代。日本書紀や古事記にはそういう時代があった、とのみ書かれているもののそれ以外は何もなく。そして登場する第10代崇神が成したことは、大物主を三輪山に祀り、同時に八百万の神も祀ってそれぞれの社も定めたのが1点。
 そして四道将軍を派遣し、各地を支配し始めたのがもう1点。言うなれば、神武の世がこの国に天皇氏が入植するまでを表したのだとすれば、崇神はいち豪族に過ぎなかった天皇氏が、この国に君臨する先駆となるまでを表していることになりますし、更にはそれをある程度、達成するところまで持っていったのが第12代景行天皇の世。...あくまでも記紀の記述のままを噛み砕くのであるならば、ですが。

 もちろん、過去の古歌紀行文で再三に渡って書いてきていますが、わたし個人は葛城王朝説を採っていますので、必ずしも先述のようにだけ、とは思っていません。けれど、それでも大筋はそうそう違うこともなし。かつて訪ねた甲斐、上総も同様でしたが、畿内の外、それも東へ向かうほど、上代文学縁の地として挙がってくるのは、第10代崇神から第12代景行の時代か、あとは大きく時代を下って天平期の防人関連に限られてきます。...逆を言えばそれくらい、上古の時代の東国が記録にも残らないほどの辺境だった、とも言えるのでしょうね。
 ともあれ、そういう時代の皇子として生まれた八坂入彦命の御陵が、畿内を遠く離れた美濃国にある。...すなわちこれこそが、すでに美濃が大和朝廷に恭順していたことを表していますし、八坂入彦はこの地を治めていたのかも知れません。

 同時に注目したいのが彼の生母の名前です。尾張大海媛、と。「さゝなみのしがゆ」でも書きましたが、大海とは、まさしくあの大海人皇子の大海ですね。のちに天武天皇となった彼は、伊勢湾一帯に勢力を持っていた海人族の大海氏のバックアップを受けていたからこそ、のその皇子名があるわけですが、こちら八坂入彦の生母も、時代は違えど恐らくは同じ系譜の出身者でしょう。
 つまり八坂入彦は、生母の縁故によって、この地を治めていた、ということになるのでしょうか。のちで言うところの地方豪族の走りのような存在だったのかもしれません。

                     

 訪ねたのが、たまたま春の早朝だったからなのかもしれませんが、八坂入彦命の御陵は随分と端正な印象のする、方墳だったか、円墳だったか...。ごめんなさい、ちょっと記憶が曖昧なので断定的には書けないのですが、この手の道路沿いにあるタイプの御陵としてはややすっきりし過ぎていて、確か方墳らしきように感じていました。そして、朝露にしっとりと湿った空気、春の芽吹いてゆく緑の淡い匂いと相まって各地の御陵にありがちな遺物然とした風情はとても希薄に思えていました。替わって前面に出ていたのは新鮮さ、です。周囲の史蹟看板なども比較的、新しかったですしね。
 お恥ずかしながらわたしは、今日ここへ来るまで八坂入彦という皇子に注目したことは皆無でした、厳密に言うならばこうして御陵までやってきているにも関わらず果たして本当に関心を抱いているのか、と問われたならば即答できないであろう、とも思っています。

  

 と言いますのも、彼が日本書紀に登場するのはほんの3つの記述に於いてだけ。しかも、そのうちの2つは彼ではなく彼の娘に纏わるものだからなんですが。列挙します。

 1) すでに引用させて頂いている崇神天皇の系譜についての記述

 2) 彼の娘が第12代景行天皇に乞われて入内するまでの記述。

 3) 彼の娘が景行との間に設けた子どもがのちに第13代成務天皇として即位。その系譜
   にいての記述。

| 稚足彦天皇は、大足彦忍代別天皇の第四子なり。母の皇后をば八坂入姫命と曰す。
|八坂入彦皇子の女なり。
                     「日本書紀 巻7 成務天皇 即位前記」


 はい、要するに彼自身に因んだ記述は日本書紀にはなく、けれども娘が入内しことによって彼は天皇の祖父となり、のちに宮内庁管轄の御陵まで設えてもらった存在、ということなんですね。そして、では肝心な彼の娘が入内する件と言うのが、俗に泳宮伝説と言われるもの。そして今日、わたしが訪問しようとしているポイントもまた、泳宮伝承地、となりますが。

 少し個人的な雑感を書きますけれど、存在とは何なのでしょうか。元々が獣ですから、群れるのは当然で、それゆえの集団欲という本能があるのはもちろん、同時に種の保存という大命題を前により強い子孫を残そうとする求愛という自己アピールの原点は、人間すべてに備わっているもの、とわたし自身納得しています。ただ、それらはあくまでも生きている間のもの。死してなお自らの存在を発信し続けたい、と願う人間という生命体の欲の形を、各地で訪ねる度に判らなくなります。
「何故」
 と。

 「さゝなみのしがゆ」で少し書きましたが、恐らくその根底にある願いは
「わたしを忘れないで」
 というものなのでしょうけれども、それは自身と同時代を生きた人々に向けた望みであって、古墳や御陵を造る必要性までは、どうして、と。自分が会いもしない後の世代にまで、自身を覚えていて欲しい、などと人は望まないような気がしてならないんですね。...もっとも高貴な方はその限りではないのかも知れませんが。

 現代の葬儀なども同じですが、結局はすべて残されたものたちにとって必要だから成立している儀式なり、風習なり、造営物なり、となるわけで、では何故必要なのかと言えば人は依代と言いますか、形を求めてしまうからです。
 過去の古歌紀行文の中でも複数回、書いてきていますけれど何もない、という状態あるいは状況に対して人間は安心が出来ません。今から1300年以上昔にあったことをなぞりたくて各地を歩けど、
「こここそが往時の、まさにその場所だ」
 と特定なり確定なり出来るケースは稀、あるいは奇異でしょう。いや、むしろ奇異でなければならないはずです。何故なら、そののちの1300年という時間の堆積を無視することと同義になってしまいますから。

 にも関わらず、人は形を求めますし、それはそのものの正当性よりも優先されているのが人の世の習いでしょう。逆を言えば、それほどに形がないものは人という生き物にとって受け入れがたい、とも言えるでしょうか。
 そうやって考えるならば、何故ひとによって古事記が、日本書紀が、風土記が、編纂されたのかも自ずと手繰れます。もちろん天平期、大和王朝が自らの権威と正統性を主張したからなのですが、そのもうひとつ手前に、ならば何故それを主張するのにああいう方法を採ったのか。何故、形として残したのか、という部分への解です。

 ならば逆に、八坂入彦皇子のような残り方は当人にとって、どうなのだろうか、と。決して自身のことではない、あくまでも間接的なものとして残ってしまった名前と、その残った部分とて政治的に利用ないしは活用されたに過ぎない現実。そして、気の遠くなるほどの後世にもはや張りぼてとして造られた御陵。...果たして彼は何を思うのでしょうね。
 ...とうの昔に果てた人。その人がどう思うかなんて、考えるだけ無駄、なのかも知れません。あるいは、こういう考え方こそが“残された側”の論理とも言えるのでしょうけれども。

 たれぞたれ
 息の緒にいき後に果つ
 果つれば消ぬるものばかり
 絶ゆれば失するものばかり
 ありしを問はばいかにせむ
 ゐしを知らまくほしければ
 いかにせむかはたれぞたれ
 みなひと知らに
 もろひとのたれぞたれとて知らざれば
 いまあるもののいかにせむ
 いまゐるものの何を何を
 せむと欲りさばなに得るや
 しても知らまくほしきものの
 消ぬは忌べきものなるか
 失するは悔しきものなるか
 残るはかなしも
 在り継ぐのなほしかなしも
 たれぞたれ知るか知らぬか知るてふをほるかほらずか
 あれ知らず
 たれ知らざれど
 なべて果て果つ

 在るてふは幸きはふものぞ祝きたきものぞ
 消ぬてふも祝くべきものぞいで言祝がむ  遼川るか
 (於:八坂入彦命墓)


 形なきものがそれでも負わされてしまうもの。そしてそれにのみ依拠できる人の営み。在るということ、無いということ。...無くなるということ。
 かすかに息が苦しくなってしまっていました。

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 八坂入彦命墓を後にして、再びダムの傍を進みます。わたし自身は反応しないまでも、この界隈は戦国武将・明智光秀に縁が深く、同僚は専らそちらが気になる様子。わたしは車なしでもよいから別行動しようか、と訊いてみましたがそこまでの興味はないから、とのこと。...遠慮させてしまったのでしょうか。
 いかにせん、ナビにないポイントですし、しかも旧地番。こうなってしまうとある程度まで近づいたら足で探した方が間違いなく早いわけで、けれどもここから歩こう、と決めていた交差点を、ぼんやりしていて通り越してしまい...。見るに見かねたのか、同僚が運転を替わってくれました。だから探すことに専念して、とのことでいやはや面目なし。そのまま彼にハンドルを預け、目的の交差点まで戻れど、周囲を見渡しても、それらしきものも、場所を訊けそうな通行人もまったくの皆無でして。

 半ば愚痴めいてしまいますが、古歌紀行に伴うちょっとした苦労の1つにこういうのがあります。つまり、そもそもが故地などというものはそうそう街中には存在しないわけで、当然ですが機動性を考えると車で動かざるを得ないんですね。ですが、ポイント近くまで来ると逆に車が足枷になります。車1台も通れないような路地や、悪路の先に在る古跡などなど、どこで車を降りるか、というのが結構悩ましいところで、何とか駐車スペースを見つけたけれど、ポイントまでは実に2kmなんてことも、ままあったりします。
 今回もこれが結構な難題で、というのもどうやら泳宮史蹟は、一部それ向けに整備した歴史舗道のような1画の先にあるらしく...。古い佇まいの民家が並び、そこを走る路地の辻々には歴史の道、というような石碑なり看板なりが設けられていますし、しかも花壇に花が咲いている事態。...流石に、こんな中へは車で入れませんから。

                        

 結局、同僚が車は何とかするから歩きで探してきなよ、と言ってくれたのでわたしは、その歴史舗道を徒歩でゆきます。途中々々で看板類や碑にも目を通してゆくに、どうも地元では泳宮史蹟を、なかなか盛り上げていらっしゃるご様子。...大概、戦国時代の旧跡とバッティングする土地では、先ず上代の史蹟よりも戦国武将縁の旧跡の方が持ち上げられているのが一般的なんですが。珍しいことに、ここはちょっと違うみたいですね。
 そしてその思いをさらに増したのが、ようやく行き会えた道ゆくおかあさんに、泳宮史蹟の場所をお訊きした時です。
「すみません、泳宮史蹟を探しているんですが」
「...何処」
「泳宮史蹟です」
「ああ、昔々のお媛さんの場所」
「はい、そこだと思います」
「それなら、ほら。この先を行って左に曲がった場所だよ」

 “昔々のお媛さんの場所”。ここだけを抽出してしまうと、何だ地元の人に知られていないじゃない、と思われてしまいそうですが、とんでもない。それで村興しをしていたり、十二分に観光地であるならばいざ知らず、上代の、それも有名とは言い難い説話に因む場所を、地元の人が知っていることの方が正直、稀有です。...少なくともわたしの経験則ではそうなります。
 どうやら路地の整備も含めて、可児市ではそれなりに力を入れて泳宮史蹟を宣伝したのでしょうし、してきたのでしょう。...個人的なスタンスとはかなりの隔たりがあるのは仕方ないのですが、それでもこうやって整備していただいているからこそ訪ねられているのもまた事実。なので、無粋なことはあれこれ言わずに、教わったとおりに道を急ぎます。

 泳宮。くくりのみや、と読みますが先述しているように上代文学に登場するのは日本書紀の景行紀です。

| 四年の春二月の甲寅の朔甲子に、天皇、美濃に幸す。左右奏して言さく
|「茲の国に佳人有り。弟媛と曰す。容姿端正し。八坂入彦皇子の女なり」
| とまうす。天皇、得て妃とせむと欲して、弟媛が家に幸す。弟媛、乗輿車駕すと聞きて、
|則ち竹林に隠る。
                「日本書紀 巻7 景行天皇 景行4年(74年)2月1日」


 こちらが関連する記述の前半部になりますけれど、先ずここで確実に読み取りたいのが美濃国という土地についてです。景行4年、即ち彼の即位から大した時間も経っていないこの時期に、景行は美濃に行幸しています。しかも伝説の舞台となった泳宮は、言ってしまえば現地での景行の宿。離宮とまではゆかなくとも、頓宮あるいは行在所なり、仮宮程度ではあったのではないか、と。...これはなかなか、唸ってしまう記述となりそうです。
 そもそも、古事記と日本書紀とでは倭建による各地平定に纏わる記述には色々と差異があります。また、古事記にはこの泳宮伝説は登場しません。

| 大帯日子淤斯呂和気命、纏向の日代宮に坐して天下治らしめしき。この天皇、吉備
|臣等の祖若建吉備津日子の女、名は針間之伊那毘能大郎女を娶して生みましし御子、
|櫛角別王、次に大碓命、次に小碓命、亦の名は倭男具那命、次に倭根子命、次に神櫛王。
|また八尺入日子命の女、八坂之入日売命を娶して生みましし御子、若帯日子命、次に
|五百木之入日子命、次に押別命、次に五百木之入日売命。
                     「古事記 中巻 景行天皇 1后妃と御子」







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