引用している通り、あくまでも景行の妃や子どもたちを列挙している部分に、かすかにかする程度、です。なので一概には言えないのかもしれませんが、少なくとも日本書紀の記述に習うならば、この伝説は倭建の各地平定よりも10年近くも前の話。...この意味、お判りになりますでしょうか。
 既に八坂入彦命に関連して明記していますけれど、改めて綴ります。即ち、倭建の各地平定以前に、美濃国は大和王朝の支配下にあった、ということです。

 以前、「なまよみのかひゆ」でも、少し書きましたが倭建が平定したとされているのは熊襲、出雲(紀には記述なし)、そして東国、と。但し、ここで言う東国とは何処を指しているのか、と言えば纏向から見て東側に在する数々の地の中でも、恐らくは駿河、相模、上総、下総、筑波あたりでしょう。記紀の記述を信じるならばそうなります。であるならば、逆にそれら以外の土地。それも倭建一行の往復の行程で通過した地や、上記引用しているように彼の平定以前に恭順している記述がある地は、景行期よりも前に大和王朝に合流しているわけで。
 実際の地名を挙げるならば伊勢、美濃、甲斐、となりますか。地図上で追うと、これがまたとても綺麗に描けてしまいますね。...はい、崇神天皇紀に登場する四道将軍の派遣のうち、東海を受け持った武渟川別の行軍の結果、でしょう。

| 十年の秋七月の丙戌の朔己酉に、群卿に詔して曰はく、
|「民を導く本は、教化くるに在り。今、既に神祇を礼ひて、災害皆耗きぬ。然れども遠
|荒の人等、猶正朔を受けず。是未だ王化に習はざればか。其れ郡卿を選びて、四方に
|遣して、朕が憲を知らしめよ」
| とのたまふ。
| 九月の丙戌の朔甲午に、大彦命を以て北陸に遣す。武渟川別をもて東海に遣す。吉
|備津彦をもて西道に遣す。丹波道主命をもて丹波に遣す。因りて詔して曰はく、
|「若し教を受けざる者あらば、乃ち兵を挙げて伐て」
| とのたまふ。既にして共に印綬を授ひて将軍とす。
         「日本書紀 巻5 崇神天皇 崇神10年(紀元前88年)7月1日〜9月1日」


 単純に元号から西暦換算すると、紀元前のことになってしまいますけれど、考古学的には実質、3世紀から4世紀のこと、とされているようですね。そして、その当時の東海(うみつみち)とは、古代東海道を指すのか、あるいは美濃や信濃界隈にも勢力が及んでいたことからして、東山道も一部含まれているのか、寡聞にしてわたしは判りません。ただ、恐らくは各地の海岸線は現代よりもずっとずっと内陸部まで入り込んでいたであろうことは、容易に想像できますから、そのあたりも無関係ではないのかも知れない、と愚考します。
 余談になりますが、この四道将軍の派遣に関しては、4世紀の前方後円墳の伝播地とほぼ変わらない、ということを何かで読みましたけれども4世紀に於ける前方後円墳の分布図がどうにも見つけられずわたし自身、確認はできていません。残念ながら。

 ただ、八坂入彦が崇神の皇子だったのですから、四道将軍が各地を平定し、先々に離宮のようなものを設えては、天皇の皇子・皇女たちを赴かせ、その地を治めさせたのであろうことは、考えるまでもなし。尾張の大海氏の娘を娶った崇神。すなわち、もうその時点で大和王朝と合流していた、となりますし、そんな尾張を足掛かりに、四道将軍の1人・武渟川別が美濃を平定、あるいは入植なり、開拓。そして生まれた皇子を、その地の統治者として配置する...。まさしく黄金パターン。なんとも綺麗な展開です。
 同じく「なまよみのかひゆ」で書いた御火焼翁ではないですけれど、こうやって天皇氏がこの国を支配していった過程の断片は、確実に見受けられますし、記紀に残るわずか1行にも満たない個々の系譜。その意味と重みを、しっかりと受信したいものです。

 また、そうやって平定した各地へ定期的に天皇が行幸して周り、そして土地で美しいと評判の娘を召し上げる、というのは本当に古今東西、為政者のなしてきたことのお約束。これ以上ないほどの黄金パターンですから、なるほど、なるほど。いずれにせよ、泳宮伝説はそういうバックグラウンドの上に成立している伝承、ということなのでしょう。

|是に、天皇、弟媛を至らしめむと権りて、泳宮に居します。泳宮、此をば区玖利能弥揶
|と云ふ。鯉魚を池に浮ちて、朝夕に臨視して戯遊びたまふ。時に弟媛、其の鯉魚の遊ぶ
|を見むと欲して、密に来でて池を臨す。天皇、則ち留めて通しつ。爰に弟媛以爲るに、
|夫婦の道は、古も今も逹へる則なり。然るに吾にして不便ず。則ち天皇に請して曰さ
|く
|「妾、性交接の道を欲はず。今皇命の威きに勝へずして、暫く帷幕の中に納されたり。
|然るに意に快びざる所なり。亦形姿穢陋し。久しく掖庭に陪へまつるに堪へじ。唯妾
|が姉有り。名を八坂入媛と曰す。容姿麗美。志亦貞潔し。後宮に納れたま」
| とまうす。天皇聴したまふ。仍りて八坂入媛を喚して妃とす。七の男と六の女とを
|生めり。第一を稚足彦天皇と曰す。第二を五百城入彦皇子と曰す。第三を忍之別皇子
|と曰す。第四を稚倭根子皇子と曰す。第五を大酢別皇子と曰す。第六を渟熨斗皇女と
|曰す。第七を渟名城皇女と曰す。第八を五百城入姫皇女と曰す。第九を依姫皇女と
|曰す。第十を五十狹城入彦皇子と曰す。第十一を吉備兄彦皇子と曰す。第十二を高城
|入姫皇女と曰す。第十三を弟姫皇女と曰す。
                「日本書紀 巻7 景行天皇 景行4年(74年)2月1日」

 一方、景行に乞われた弟媛です。このあたりが伝承をどう読むのか、なかなか悩ましいところですが、喜んで入内とはなりませんでした。それどころか逃げて隠れてしまったんですね。仕方がないので景行は自身の宮の池へ鯉を放ち、育てました。すると、こっそりその鯉を見ようとしてやってきたのが、...はい。弟媛です。ようやく、彼女と直接会えた景行は、改めて弟媛に求婚します。すると彼女はこう答えました。
 つまり、自分の性質は男女の関わりに向かないし、請われても嬉しくない。しかも容姿が麗しくなくて入内しても長くは愛されそうもないので、入内することを望んでいません。ですが姉は容姿も人柄もすばらしいので、彼女をお召しください、ということなんですが。
 ...意外に思われるかもしれませんが、高貴な人物に乞われた娘が逃げ隠れてしまう、というこの流れ。実は上代文学に散見される類型説話です。幾つか引いてみます。

| また天皇、丸邇の佐都紀臣の娘、袁杼比売を婚ひに、春日に幸行しし時、媛女道に
|逢ひき。すなはち幸行を見て、岡辺に逃げ隠りき。
                      「古事記 下巻 雄略天皇 6 天語歌」

| 宇賀の郷。郡家の正北一十七里二十五歩。天の下所造らしし大神命、神魂命の御子、
|綾門日女命に誂へ坐しき。尓の時、女神、肯はずて、逃げ隠りし時に、大神伺ひ求め給
|ひし所、此則ち是の郷なり。故、宇加と云ふ。
                         「出雲国風土記 出雲郡 2 郷」


 しかし、やはり1番有名なのは、播磨国風土記に登場するこちらでしょう。

| 昔、大帯日子命、印南別嬢を誂ひたまひき。御佩刀の八咫剣の上結に八咫勾玉、下
|結に麻布都鏡を繋けたまふ。時に、賀毛郡の山直等が始祖、息長命(一名は伊志治な
|り)を媒としたまふ。而して、誂ひ下り行でます時に、摂津国高瀬の済に到りて、此の
|河を度らむと請欲ひたまふ。度子、紀伊国の人小玉、申して曰はく、
|「我、天皇の贄人とありや否や」
| といふ。爾時に、勅して云ひたまはく、
|「朕公、然あれども猶し度せ」
| といひたまふ。度子対へて曰はく、
|「遂に度らまく欲りせば、度の賃を賜ふべし」
| といふ。是に、即ち道行の儲としたまへる弟縵を取りて、舟の中に投げ入れたまへ
|ば、縵の光明、惟然きて舟に満つ。度子、賃を得て、乃ち度しまつりき。故、朕君済と云
|ふ。遂に赤石郡廝御井に到りて、御食を供進りき。故、廝御井と曰ふ。爾時に、印南別
|嬢、聞きて驚き畏まりき。即ち南毘都麻島に遁げ度る。是に、天皇、乃ち賀古松原に到
|りて、覓ぎ訪ひたまふ。是に、白き犬、海に向きて長く吠ゆ。天皇問ひて云ひたまはく、
|「是は誰が犬ぞ」
| といひたまふ。須受武良首対へて曰はく、
|「是は別嬢が養へる犬ぞ」
| といふ。天皇勅して云ひたまひしく、
|「好くぞ告げつる」
| といひたまひき。故、告首と号く。乃ち、天皇此の少島に在すことを知りたまひて、
|即ち度らまく欲りたまふ。阿閉津に到りて、御食を供進りき。故、阿閉村と号く。又、
|江の魚を捕らへて、御坏物としき。故、御坏江と号く。又、舟に乗りたまふ処に、
|以てを作りき。故に津と号く。遂に度りて相遇ひたまふ。勅して云ひたましく、
|「此の島に隠びたる愛し妻」
| といひたまひき。仍りて南毘都麻と号く。是に、御舟と別嬢の舟とを編同ひ度り
|き。筴杪れる伊志治、爾して大中伊志治し号けたまふ。印南の六継村に還り到りて、
|始めて、密事を成したまひき。
                          「播磨国風土記 賀古郡」

 所謂、南毘都麻(なびつま)伝説ですが、景行紀の弟媛の例も含めて、これら南毘都麻型説話のベースにあるのは、古代の婚礼習慣による、とする節をよく目にします。何でも遁走婚というものらしいのですけれど、婚礼の途中に妻が逃げてしまうわけで、恐らくは結婚することは女性として大人になったこととイコールであり、同時に神にも嫁げる身となったことも意味しているのでしょうね、きっと。なので、一旦は夫から逃げて神のものとなる、というような概念が底流しているのではないか、と。
 余談になりますが、個人的にこれとよく似た概念のうえに成立しているように感じられてならないのが、景行の皇子・倭建と美夜受比売です。

 かなり本筋から脱線していますので、あえて原文は引きませんが、大筋だけ書きます。曰く、東国征伐へと出向く途中、尾張国で倭建は美夜受比売を召し、結婚しようとします。ですがまた平定したら帰ってくるのだから、結婚はその時にすることにして、結ばれないまま出発。各地を転戦したのち、再び尾張に戻った彼は、改めて美夜受比売と結婚しようとしたところ、彼女の裳に月の障りが出ていた、と。そして結婚し、そんな彼女の枕元に神剣・草薙剣を置いて息吹山へ向かった、というあらすじです。
 月の障り、というのは月経のこと。要するに美夜受比売が初潮を迎えて、神の巫女にも、人間の妻にもなれるようになった、という意味でしょう。そして、彼女は尾張国造の祖。のちに熱田神宮を興した巫女にも等しい存在だった、と熱田太神宮縁起にあります。...もちろん、草薙剣も祀りましたし、それはこの21世紀の現代にも受け継がれています。

| 日本武尊奄忽仙化之後 宮酢媛不違平日之約 獨守御床安置~劔 光彩亞日 靈験
|着聞 若有祷請之人 則感應同於影響 於是宮酢媛會集親舊 相議曰 我身衰耄 昏暁
|難期 事須未瞑之前占社奉遷~劔 衆議感之 定其社之地 有楓樹一株 自然炎燒 倒
|水田中 光焔不銷 水田尚熱 仍號熱田社
                             「熱田太神宮縁起」




 殆ど...、もとい。ほぼ完全なる私見になりますが、前記引用している雄略記は別としても、この手の南毘都麻型伝説が何故、景行や倭建に集中しているのか、はそれも含めて土地を支配するということに関係しているのではないか、と考えています。例えば、日本に限らず特に欧米で言うならば後発のキリスト教が、各地に広まり浸透・定着したことと似ているのではないでしょうか。すなわち、各地の土着信仰を否定せずに取り込んで、信者を増やしていったように、です。
 大和王朝が各地を平定という名で討伐・支配する...。当然、その土地の有力者を討つのですが、それとは別にその土地の民は何らかの形で取り込まなければなりません。ただ、殺戮や陵辱、強奪だけでは恭順してはもらえはずもなし。だからこそ、それぞれの地の有力者の娘を召し上げる形で血縁も結びますし、既にその地にある有力者の威光も取り込んで、民たちの前にも立ちます。さらには土着信仰も、有力者の娘=土着神の巫女を一旦、神に触れさせた上で娶れば、こちらも丸く納まる、ということですね。...討伐後の生殺与奪権。その最も穏当にして有効な活用法、です。

 論拠は全くありませんが、わたしはずっとそう感じていましたし、南毘都麻型伝説の残る記述が寄りによって雄略という、各豪族を粛清し続けた古代の大王だけに、こちらもあり得るのではないか、と。...すべては各地平定という時代の中で行われ、営まれた事々の逸話にして説話。そう思っています。
 いずれにしても、記紀や風土記にも矛盾した記述の残る時代のお話。前述しているように倭建という存在は先ず、実在していなかったでしょうし、それは景行の後を継いだ成務や、その後を継いだ仲哀、そしてその皇后たる神功皇后も同様。

 さらに余談となってしまいますが、倭建は、景行と親子ではない、別の天皇。そういう説もあります。その根拠としてよく引かれるのが、こちら。

| この倭建命、伊玖米天皇の女、布多遅能伊理毘売命を娶して生みましし御子、帯中
|津日子命。一柱。またその海に入りたまひし弟橘比売命を娶して生みましし御子、若
|建王。一柱。また、近淡海の安国造の祖、意富多牟和気の女、布多遅比売を娶して生み
|ましし御子、稲依別王。一柱。また、吉備臣建日子の妹、大吉備建比売を娶して生みま
|しし御子、建貝児王。一柱。また、山代の玖々麻毛理比売を娶して生みましし御子、足
|鏡別王。一柱。また、一妻の子、息長田別王。凡そこの倭建命の御子等、并せて六柱な
|り。
| 故、帯中津日子は天の下治らしめしき。次に、稲依別王は、犬上君・建部君等の祖。
|次に建貝児王は、讃岐の綾君・伊勢之別・登袁之別・麻佐首・宮首之別等の祖。足鏡別
|王は鎌倉之別・小津石代之別・漁田之別の祖なり。次に、息長田別王の子、杙俣長日子
|王。この王の子、飯野真黒比売命、次に息長真若中比売、次に弟比売。三柱。故、上に云
|ひし若建王、飯野真黒比売を娶して生みましし子、須売伊呂大中日子王。この王、淡
|海の柴野入杵の女、柴野比売を娶して生みましし子、迦具漏比売命。故、大帯日子天
|皇、この迦具漏比売命を娶して生みましし子、大江王。一柱。この王、庶妹銀王を娶
|して生みましし子、大名方王。次に大中比売命。二柱。故、この大中比売命は、香坂王・
|忍熊王の御祖なり。
| この大帯日子天皇の御年、壱佰参拾漆歳。御陵在山辺の道の上なり。
                   「古事記 中巻 景行天皇 9 倭建命の子孫」

 ややこしいので、簡潔に書きます。景行の子は倭建。その子の息長田別王(景行の孫)の子は杙俣長日子(景行の孫の曾孫)。その子である飯野真黒比売命(景行の玄孫)の子・須売伊呂大中日子王(景行の5代後)の子である迦具漏比売命(景行の6代後)を娶ったのが、何と景行その人で、しかも大江王という子どもまで生まれています。そしてこの大江王の孫に当たるのが神功皇后・武内宿禰と戦った香坂王と忍熊王、というのですから、いやはや、いやはや。いくら当時の出産が若年で行われ、しかも景行が137歳まで生きたとしても、まあ成立しないでしょうねえ...。なので、倭建とはそもそもが親子ではないのでは、となるんですね。
 また、先に引いた南毘都麻伝説にしても、同じ播磨国風土記に、こうも記載されています。

|志我高穴穂宮御宇天皇の御世に、丸部臣等が始祖、比古汝茅を遣して、国の堺を定め
|したまひき。爾時に、吉備比古と吉備比売と二人参迎ふ。是に、比古汝茅、吉備比売を
|娶りて、生みし児は印南別嬢なり。此の女の端正しきこと、当時に秀れたり。爾時に、
|大帯日古天皇、此の女に娶はまく欲りして、下り幸行す。別嬢聞きて、即ち件の島に
|遁げて隠び居りき。故、南毘都麻と曰ふ。
                           「播磨国風土記 印南郡」


 志我高穴穂宮御宇天皇の御世、とは景行の後を継いだ成務天皇の時代のことなんですが。...はい、まったく辻褄が合わないんですね。いや、播磨国風土記の中に限定するならば、矛盾はないのかもしれません。先に引用させて頂いている賀古郡の記述にも、少なくともいつの時代か、という限定は書かれていません。なので、両者とも成務の時代の記述とするならば。
 ですが、そもそも成務は景行が崩御したからこそ、即位しているんですけれどね。何故なら景行期の皇太子が成務。仮に景行が譲位した天皇、すなわち太上天皇として各地を行幸したとするならば。...まあ、可能性としてはないとは言いきれませんけれど、それこそ風土記を編纂した天平期の考えが先にあるからこそ、の記述となりますか。わが国史上最初の太上天皇は讃良だったはずです。また、太上天皇ではなくとも、生前に譲位したのならば皇極。つまり、大化の改新直前ですね。いずれにしても生前の譲位自体がそれくらいの時代以降の概念とも断言できてしまいますよし。

   

 どうも本筋である泳宮伝説から、これでもかというほどに逸脱してしまっていますが、わたしが言いたいのは、大和王朝が各地を平定し、支配していった過程。それは幾度にも、何段階にも渡ったものだったのだろう、ということです。...武力によるものもあれば、宗教によるものもあり、課税など制度によるものもあって。そしてそれらの仕上げとして
「この国はそうやって築き上げたものなんですよ」
 という後世に対する証拠であり、同時代の存在たちに対するある種の御印を作り掲げてしまう、ということ。即ち思想による支配。...はい、これこそが記紀や各国風土記そのものの為した最大の役割ではないか、と。

 是にあるをいかにかひとの明かすべし是にあるをなほ
 言挙のせむ 言幸くせむ                  遼川るか
 (於:可児市久々利界隈・泳宮史蹟への途上)


 上代文学を追いかけると、必ず突き当たる問い。
「史実が先にあったのか。あるいは創られた歴史が先にあったのか」
 ...これは21世紀を生きる誰にも、きっと答えられるはずもないものですし、恐らくは史実と、創られた歴史とが、判別不能なほど入り乱れてしまっている、というのが真相なのだと思います。ただ、それらをそう編纂した、という事実から当時の思惑は何となく、手繰れるもの、ともわたしは思ってやみません。だから、記紀や風土記を史料としては読まず、あくまでも文学作品として詠んでいるのですけれども。

 ともあれ、ならば景行紀(記)が古事記、日本書紀それぞれに果たしている役割はどういうものなのでしょうか。そして、その差異から垣間見えるものは何なのでしょう。
 景行の時代の記述である古事記と日本書紀の差異。その最たるものは倭建の扱い、でしょうか。古事記だと兄である大碓を殺してしまった小碓(倭建)を景行が疎んで、危険な各地の平定に彼を繰り返し送り出します。倭建はそんな我が身を嘆きつつも平定をなし、その帰路に伊吹山の神の怒りを買って客死。有名な国思歌は、彼が謡っています。

|倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし
              倭建「古事記 中巻 景行天皇 7 国思歌と倭建命の死」
|命の 全けむ人は たたみこも
|平群の山の くま白檮が葉を うずに挿せ その子
              倭建「古事記 中巻 景行天皇 7 国思歌と倭建命の死」
|愛しけやし 我家の方よ 雲居立ち来も
              倭建「古事記 中巻 景行天皇 7 国思歌と倭建命の死」
|嬢子の 床の辺に 我が置きし 剣の大刀 その大刀はや
              倭建「古事記 中巻 景行天皇 7 国思歌と倭建命の死」


 一方の日本書紀。こちらでは当初、熊襲などを討伐していたのは景行その人で、けれども繰り返し、繰り返し謀反を起こす熊襲に対し、ついに倭建が派遣されます。もちろん、彼が疎まれていたとか、それを気に病んでいたというような記述はありません。また、その後はさほど大きな違いがありませんが、彼の東国平定に通ったルートが異なっています。
 これは常陸まで平定したもののまだ信濃と越が平定できていないことから、武蔵・上野を通過してより内陸部まで踏み込んだことによりますね。「さねさしさがむゆ〜足柄峠」で綴った足柄の地は、日本書紀に書かれたルートだと通過しないんですね。それともう1点。...はい、あの有名な望郷歌は、日本書紀だと彼ではなく、彼の出陣以前に各地を平定して廻っていた父親の景行が、平定の途上で謡ったことになっています。

|愛しきよし 我家の方ゆ 雲居立ち来も
           景行天皇「日本書紀 巻7 景行天皇 景行17年(87年)3月1日」
|倭は 国のまほらま 畳なづく 青垣 山籠れる 倭し麗し
           景行天皇「日本書紀 巻7 景行天皇 景行17年(87年)3月1日」
|命の 全けむ人は 畳薦 平群の山の 白檮が枝を 髻華に挿せ 此の子
           景行天皇「日本書紀 巻7 景行天皇 景行17年(87年)3月1日」


 いや、そんな詳細よりも以前に、何にもまして大きな違いは景行記と景行紀では、もう主役が違っている、というのが正しいのかもしれません。すなわち、古事記では倭建が主役なのに対し、日本書紀ではあくまでも天皇である景行。...そういうことです。そして、ここに古事記と日本書紀の成立の前提の違いが浮き彫りになる、とわたし自身は考えています。
 繰り返します。言ってしまえば倭建という人物は先ず間違いなく実在していません。いや、あるいは景行とは別の、親子ではない天皇だったのかもしれませんが、仮にそうだとしたならば彼は記紀から抹殺された天皇となってしまいますから、少なくとも“景行の皇子にして各地を平定して周った倭建”は、やはり実在しなかったことになります。

 最も有力とされている説は、天皇氏が各地を武力によって制圧していく過程を象徴している存在として、記紀共に登場している、というもので、言い換えるなら倭建とは天皇氏の軍隊そのものでしょう。なので実在していない、とも言えますし、逆にたくさんたくさん実在していました、とも言えるのかもしれませんし。...蛇足ながら、わたし自身もこちらの説を採らせて頂いています。
 前述しているとおり、崇神期の四道将軍の派遣にしても、記紀の記述と考古学的に裏打ちされた年代は大きく異なります。その差は実に、500年にも及ぼうかという隔たりですが、これに関しては驚くのも不毛でしょう。

           

 記紀が成立した天平期と、現代とではそもそもの時間の概念が異なります。科学を手にした現代人とは違い、彼らにとっての時間ないしは時代とは、自身の前後4代くらいずつしか実質的には認識できなかったことでしょう。また、異なる土地と土地との間に横たわる時間の壁もまた、現代とでは想像も難しいほどの隔たりがあったはず。
 人は認識できる範囲でしか、ものを想像も空想もできません。現代のわたしたちが宇宙の果てや原初のビックバンや、気の遠くなるほどの塩基の配列による遺伝子などをベースに、様々な想像をし、仮説や小説やエンターテインメントを生み出せるのは、そういう情報をすでに持っているからです。だから、それをベースにディテールを空想なり想像で補完することもできます。







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