...ですが、仮にそれがなかったとしたならば。何故、世界各地の人々が古代に描いた世界観がみな、そう大差ないのか。世界の果てには大きな滝があって海がそこで終わっていたり、大地が象や大亀に支えられていたりしたのか。
 答えは簡単です。それが当時の人々の認識の限界だったからに過ぎません。なので逆を言えば、現代のわたしたちが思い描いている拡散する宇宙や、種の進化や、原子や分子などの万物構造の元素も。...ずっと後世の存在が見たら、現代のわたしたちが古代の人々の空想を見て感じる、何とも言えない可愛らしさや、かすかな優越感や、豊かなファンタジーを惹起してしまう可能性は、とても大きいことでしょう。

 だからこそ、天平期の人々が思い描いた“彼らから見た古代”が、実際と何世紀、異なっていようが何も不思議などなし。そんなことよりも、そこでわたしたちがきちんと受け止めるべきことはそれくらい昔から、この国には天皇氏が万世一系で治めていたんだよ、と語りたい彼らの意図。これに尽きます。
 現代人ですら、擬人化は日常的に行っています。殊、エンターテインメントの世界では、王道中の王道なわけで、それ以外でもオカルト領域など、要するに裏打ち不可能な部分には、古今東西、人間が擬人化というメソッドをとりたがるのは明々白々。だから軍隊も人物に置き換わりますし、逆に人物が鳥にも獣にも神にもなります。

 また、それゆえに言えることは、当たり前ですけれど天平期の人々にしても大和王朝がどういう過程で成立し、各地を支配していったのかなんて、知らなかった、という現実です。いや、厳密に言うならば知る由もなかった、とすべきでしょう。ただ、あったものは
「いま、ここに大和王朝が各地を支配しているという事実」
 と
「長い年月の中で千変万化にも彩られてしまった伝承・伝説の数々」
 しかもそれらはすべて口承による、という曖昧さです。

 ...人間は。いや、恐らく霊長類ホモサピエンスは古今東西の別なく、自らの出自に思いを馳せたがるものなのでしょう。自身が何処から来たのか、自身は誰なのか。何故、ここにいるのか。これらの問いに対する答えは、科学がどれほど進歩しようとも突き詰めれば、
「きっとこうなんだ」
 と自身で固定する以外にありません。そう、どれほどの記述や伝承、果ては物的証拠があろうとも、最後の最後では自分でそれ、と決める以外には叶いません。だからこそ、天平期、天皇氏はそれを実行したのだと、個人的には思っています。もちろん、数多の政敵に対して自らの正統性を主張し、あまつさえそれを固定・不動のものとするために形を成したのは言わずもがなですが、それとは別にそういう欲求はいつの時代の、誰であろうと持っていて然るべきものではないか、と。

 だからこそ、古事記も、その前提となった帝紀や本辞も、それから日本書紀も。文字という保存媒体に残して一本化しなければならなかったのでしょう。同時に、各地のものも風土記という形で保存しなければならなかった、天平人たちの意図は、記紀や風土記を読むほど、深く濃く伝わって来ます。
 もちろん、伝承がある以上、すべてがすべて捏造ではないのでしょう。「わたのそこおきゆ」でも書きましたが、それを記した書物が偽書なり、何らかの意図によって歪曲されていたとしても、そこに書かれていることのすべてを偽、としてしまうのもまた、あまりにも乱暴です。だからこそ、現代にも伝わり残された伝承や伝説が、何をベースとした寓話なのか。それを読み取りたいですし、同時に
「そういう想像ができた彼ら」
 の認識の範囲を辿りたい。ひいてはそれが、歌というものを紐解く鍵ともなるだろう。...そうわたしは思っています。

 お話を戻します。ともあれ、実際が何世紀に起こったことなのかは別として、天皇氏は数度にわたり、軍隊を派遣しては各地を支配下に治めていきました。そして、それぞれの地に氏族のものを駐留させ、それがまた中央から離れることと世代を重ねることで始祖を忘れた別の発展を遂げた頃には再度、中央から派遣された武力によって征圧もされて。
 そういう連綿たる繰り返しの中の1つとして、後に倭建という英雄譚に昇華された行軍。それをよりドラマチックに描いたのが古事記でしょうし、より政治的活用の色合いが濃いのが日本書紀であることは言わずもがな。ただ、やはりわたし個人の感覚論では、荒唐無稽さはあれど古事記の方が違和感が少ないんですね。どうしても日本書紀は、まるで天平期には誰もが知っていて当たり前の伝承となっていた寓話を、無理やり天皇、その人自身の功績にしてしまった印象が強い、といいますか。

 多分に、伝承そのものも多岐に渡り過ぎていたのでしょうし、もはや倭建なのか景行なのか、判別不能のものも多かったと想像します。ただ、基本的に人はロマンを好みますから、政治色云々という色気のないものに、伝承はそうそう傾くはずはないとも感じます。それをやや力技で政治色が帯びる側へ傾倒させた、というカンジでしょうか。...そう、人はロマンをことのほか好みますし、夢を見たがります。
 景行なのか、倭建なのか。いずれにせよ、各地で語り継がれていた天皇軍の転戦の物語は、それを語った名もなき多くの民草たちによって、よりドラマチックに、より悲劇的に、より感動的な物語に、織り上げられてしまったのでしょう。そこにはもはや、行軍の主役が実際の天皇であろうが、その皇子であろうが、親子ではない別人同士であろうが、異なる時代のもの同士であろうが。

 極端な言い方をするならば、恐らくはあまり重要ではなかったのではないでしょうか。大事なことは天皇の軍隊が各地を平定した、という骨子だけで残る部分は、すべてがドラマにしてロマンです。
 ですが、古事記ならばそれで良しとできても、日本書紀ではそうも言っていられません。やはり天皇その人でなければ...、ということですね。もちろん、伝承そのものまで作り直したとは思いませんが、景行が主役になっている伝承を、意図的に選んで織り上げ直した可能性は高いでしょうし、その際に重要となるのは天皇本人が出陣したことや、各地の人々が喜んで恭順している様、さらには天皇の器量などなどか、と。

 ...いいんでしょうかねえ。上代文学をライフワークとしている者が、ここまで上代文学そのものに対して懐疑的で。大真面目に、ほんのちょっぴりはそう思います。ですが、「あきづしまやまとゆ・弐」で人麻呂に関して書きましたけれど、好きでずっと追いかけているからこそ、何よりもの至高の答えが
「判らない」
 以外にはない、と辿り着けるように、好きだからこそまた、疑える。そうとも言えるとわたしは信じます。愛し方は人それぞれ。...シュレディンガーの猫は猫として、それが生きているという前提で愛すのも、死んでいるという前提で愛すのも、愛はやっぱり愛です。

 しかし、改めて実感するのは言霊、というものの存在でしょうか。前述したとおり、
「そうなのである」
 と言葉にし、なおかつ文字として保存する。これによって天平期から見た歴史は確かに“実現”しました。幾通りにも語られ、如何様にもなお語られ続けるはずだったものが、ここで“実現、あるいは顕在化”してしまったのです。...もはや、魔法です。それこそが、当時の人々が信奉していた言霊なのかもしれません。同時に、もう1つ。やはりこちらも前述していますが、

|自身が何処から来たのか、自身は誰なのか。何故、ここにいるのか。これらの問いに
|対する答えは、科学がどれほど進歩しようとも突き詰めれば、
|「きっとこうなんだ」
| と自身で固定する以外にないことでしょう。そう、どれほどの記述や伝承、果ては
|物的証拠があろうとも、最後の最後では自分でそれ、と決める以外には叶いません。
                      遼川るか「ももきねみのゆ 〜泳宮」


 これです。これこそが、少なくとも今日現在のわたしに考えうる言霊の正体。つまり、わたしたちは様々なものに固着されて生きていますし、だからこそ安心でもある、と言えるでしょう。例えば戸籍、例えば暦。例えば地図と地番。例えば科学という論理。わたしは誰なのか。あるいは何なのか。ここは何処なのか。今はいつなのか。
 ...この手の固定は、21世紀に於いて外界がそれを成してくれています。いや、違いますね。先人が辿り追認したものや、敷いたルールの庇護下に、生まれながらにしてあることができている、ということになりますか。

 ですが、これらの1つひとつが存在しなかったならば。さて、わたしは一体、誰なのでしょう。わたしは何なのでしょう。今日は、ここは....。すべての概念が途端、あやふやになってしまいます。
 判り易い例ならば、5W1Hのうち現代のわたしたちでもその答えに至っていないものを挙げましょう。
「何故」
 と。何故わたしは、あなたは、生まれてきたのですか。

 さて、これに答えようとするならば、みなさんは一体どうされますか。先人の残した哲学書に倣いますか。何を答えたっていいのです。そこに正誤の境界はなく、ただ自分でそう思うものを挙げるしかありませんし、逆にここで能弁になれたらそれはそれでかなり胡乱な印象もうけそうですが。
 そう、答えなんてないのです。だから自分で、
「こうだから生まれてきた」
 と考え、選び、信じて、そしてそれを固着させるために言うなり、書くなり。

 誰かに、何かに、裏打ちされることに慣れきってしまった現代人には、だから言霊が発動しないのかもしれませんね。要するに古代、誰にも、何にも裏打ちされず、固着されることがなかった、あるいはできなかった人々にとって、唯一無二の依代はただ言葉のみ。自分で選び、自分で決めたことを言葉として発することで。言挙げすることで。“それをそれ”とできていたのでしょう。そうすることでしか“それがそれ”となることはできなかったのです。だから誰もが信じた言霊。
 ならば果たして、胡蝶の夢ではないですけれどわたしたちが言葉を発し、世界を固着してきたのでしょうか。それとも世界を固着する力を持つ言葉によって、わたしたちは成立・固着しているのでしょうか。...そんなことまで、ふいに考えてしまいます。

  

 2年前の初夏と初冬。やはり仕事で立ち寄ったことから熱田界隈を駆け足で訪ねた時のことを思い出してしまいます。5月末、すでに半袖姿で参拝した熱田神宮。あるいは11月の初頭に訪ねた、熱田神宮からすぐ傍の断夫山古墳と、倭建4番目の陵墓とされている白鳥陵。そしてその足で往時の年魚市潟や鳴海潟の痕跡を探そうと、海岸線を目指して進み続けたら、名古屋港に出てしまったこと。断夫山古墳はいまでこそ尾張草香の陵墓説が有力ですが、それでも美夜受比売の御陵、という説もまた、完全には否定されていません。
 それどころか、尾張草香の陵墓説が有力となるまでは、断夫山古墳は確かに美夜受比売の御陵として存在していたのです。ですが、これとてよく判ります。記紀や先代旧事本紀に、ただ継体天皇の妃の父親としてしか登場しない、尾張草香という人物ではイメージすらも湧きづらく、一方の美夜受比売は倭建との関わりから、それはそれはくきやかな、イメージがすでに固着も定着もしています。そして後世、そこにただ巨大陵墓があったがために、人々が惹起したもの、し易かったもの。



 もちろん、それのすべてがすべて言葉によるものではなかったのでしょうが、それでも記紀や熱田太神宮縁起が果たした役割は、大きすぎます。何故ならもし、記紀や熱田太神宮縁起に美夜受比売に関連する記述がなかったならば...。実際に熱田神宮を興し、神剣・草薙剣を奉ったにも関わらず彼女という存在を、後世の人間が誰1人知ることができなかったならば。...断夫山古墳は誰の御陵となっていたでしょうか。記紀や風土記、各種の縁起などに名前が残る人々がいる一方で、存在していたにも関わらずいたことにはなっていない人々は一体、どれほどの数になるのでしょうか。
 科学による固着と文字による固着。これが考古学と文学の境界だとしたならば。...科学だって言葉という魔法ですし、言葉だって科学とも言えてしまうのかも知れません。但し、言葉はずっと在るにもかかわらず、いまだ解明されていない科学にも等しい、と。そんな極論すらも思い描いてみてしまいます。

 ...可笑しいですね、確かにわたしは景行縁の地を訪ねているはずなのに。それなのに、やはり倭建についてあれこれ考えてばかり。それでも人は、どこまでいってもロマンを求めてしまうのですから。
 教わった通りに路地を左に曲がると、そこにはややゆったりした公園、...と違いますね。むしろわたしたちの世代が子どものころによく遊んだ、近所の広場。そういう印象の一画が目に飛び込んできました。ちょうどその背景も農耕地らしく緑はあれど、建物がありませんから余計に抜けのいい光景に感じられていたんですが。石造りの柵がぐるり、を囲み右手前には
「泳宮古蹟」
 と彫られた石柱。...泳宮伝承地、なのでしょう。

 

 泳宮伝承地として保全されているらしき広場は、左手奥に建物が1つ。ですが、建物よりももっと地味に、けれども明らかに、何かを企図したらしき場所が右手の奥に横たわっていて。こちらも石造りで囲まれていることと、その囲まれた中に歌碑らしきものがあること、そしてその碑には花や供物が添えられていることから、恐らくその柵内に礎石か何かがあるのかな、とも思ったのですけれどもね。...近づいてみたら、そうではありませんでした。ただ、この界隈と同様に史蹟として整備・保全した時にそういう一画を、ある種のランドマークとして設けた、ということでしょう。「あしがちるなにはゆ」で訪ねた、茅渟宮址もこうやって成立している史蹟でした、そういえば。
 ですが、きっとさほど上代に興味のない人には...。たとえば先ほど道を教えてくださったお母さんや、この近所にお住まいの方にしてもそうですが、ただこの史蹟を、純然たる史蹟として捉えてしまう善意ある人々には、柵で囲まれた一角こそが“それ”となってしまうのでしょう、きっと。かつて景行の頓宮なり、離宮なりであった泳宮の、それも件の説話のメイン舞台でもある
「鯉を放った池は、あの柵で囲んだ辺りにあったのよ」
 と。

                 

 また、それを信じる人々が増えて、逆にそこにある史蹟の史蹟たるがゆえの暗部。これを悟れる人がいなくなってしまったら...。その時、ここへ真の泳宮址が出現することになります。...出現、してしまうんですね。それが歴史というものですし、既にわたしもそれと知らずに
「ここが、その場所なのか」
 と信じ込んでいる史蹟は、きっと思っている以上に存在しているはずです。古事記や、日本書紀と同じくもはやそれを正統とも、正当とも、することに多くの人が疑問など覚えなくなってしまえば...。

 追認と証明、固着と定義、真実は真実。捏造もまた真実。かつて甲斐国でも、わたしは確かにこの目で見ました。塩山市、という地番表記のプレートを何枚も、何枚も。実は虚を産みますが、同時にも虚もまた実を産みます。そして、それは決して悪いことではなく、ただ時々判らなくなるのは、歴史とは過去の堆積によるものなのか。あるいは未来へと解き放つものなのか。...ここが、どうしうようもなく混乱します。
 歴史と呼ばれる輪廻。時間という絶対軸は、本当にただひと方向にのみ進む絶対軸では、ないのかもしれませんね。いえいえ、生命体に対しては紛うことなき絶対軸です。それは間違いないのですが、例えば死後も世界を構築し続けるキリストや仏陀、マホメッドの教えなどは実体を伴わない復活、とも言えるのでしょうし、あるいは相対性理論ではないですけれど、その絶対軸たる時間ですらも、凌駕するロジックに、すでに我々人類は到達もしてしまっているわけで。

 やや曇りがちな天気もあるでしょう。また、大きく張り出した木々の梢の所為でもあるでしょう。それでも、まだまだ薄暗い春の早朝。泳宮古蹟ですべての境界がふよふよと融け崩れてしまうような不思議な感覚に襲われていました。いつで、どこで、だれで、なにで。そういったすべて外界からの定義が一瞬で風化してしまうような、奇妙な恐怖と不思議な安堵がありました。
 泳宮古蹟。そもそも泳宮、とは放った鯉の泳ぐ様からそう呼ばれた行在所だったのか、仮宮だったのか...。何でもこれがこの国の養殖第1号、なんて説もあるようですね。事前に少し調べた範囲では、干上がった池の跡が史蹟内に見られる...、というような文章も見かけましたけれど、現地を見回した限りは発見できず。ただ、敷地の先には八坂入彦墓近くにあったダムへと続く川が、流れているようではありましたが。それと、件の柵で囲まれた一画の中央に設えられている歌碑は、万葉歌碑でした。。

  

|ももきね 美濃の国の
|高北の くくりの宮に
|日向ひに 行靡闕矣
|ありと聞きて 我が行く道の
|奥十山 美濃の山
|靡けと 人は踏めども
|かく寄れと 人は突けども
|心なき山の 奥十山
|美濃の山
                        作者未詳「万葉集 巻13-3242」
                           ※ 行靡闕矣は未解読部


 「美濃の国の高北の泳宮に、日に向かって欠けることなく□□□があると聞きたからわたしがゆく奥十山、美濃の山よ。靡き低くなれと人々は踏むけれど、もっと近く寄れと人は突くけれど、(低くもならず、寄ってもくれない)心ない奥十山、美濃の山よ」

 なかなか、難解な歌だと感じます。何しろ肝心な“行靡闕矣”の部分が未解読なままですし、説も色々あります。そして、恐らくは未解読というだけではなく、欠落もあるだろう、というのが多い意見。なのでわたしには、この歌をきちんと鑑賞することも叶いません。ただ万葉期、あるいはそれ以前に、美濃国にやってきた宮人が詠んだものではないか、と個人的には感じてしまいます。相当、険しい山道であったことが、何となく伝わってきますので地元の人々が謡ったことで始まる民謡とは到底、思えず。しかも、何某かがあるから、それを訪ねてわざわざやって来るとなれば、それなりの官職にないと厳しいでしょう。農民ではこうはゆかないではないか、と。
 あるいは、仮に地元発祥の民謡であるならば、それこそ景行の泳宮伝説を題材にしたもの、とも考えられそうですね。
「美人と評判の弟媛を訪ねてやって来たのだけれど、なんて険しい山道なんだ」
 と往時の景行の心境を戯れ歌にしたものであるならば。...それはそれで、魅力ある解だと感じます。少なくとも万葉歌に泳宮と詠みこまれている以上、泳宮伝説はそれなりに当時の人々に知られていたものに違いありませんから。

 「ももきね」。原文は百岐年、となっています。美濃、に掛かる枕詞ですが、意味は未詳。また、上代に限らずその後の近世に至るまで、可能な範囲で調べた結果「ももきね」を詠み込んでいる歌は全くのゼロ、です。
 ただ、そもそもの美濃という地名が「満つ/たくさんになる・広がる」の語幹の「み」を冠しているのでそれと、何らかの関連があるのは疑うまでもなし。雰囲気で想像するに、永い永い年に渡り、その厳しい山道によって人々を拒み続ける美濃の国へ、それでも通うというような意味ではないか、とする説は見ています。すなわち「百来通す」、と。

 それから、直接的な関係はありませんが、こんな例も万葉集には採られていますよし。

|百小竹の 三野の王
|西の馬屋に 立てて飼ふ駒
|東の馬屋に 立てて飼ふ駒
|草こそば 取りて飼ふと言へ
|水こそば 汲みて飼ふと言へ
|何しかも 葦毛の馬の
|いなき立てつる
                        作者未詳「万葉集 巻13-3327」


 しのがたくさん生えていて、よく見えない美濃じゃないけれど、美濃王(三野王)が〜、となる歌ですが、この「百小竹の」も枕詞として様々な辞書に分類されていますね。

 ももきねみのに行く道心ある山
 あるとせばありあがうらにあるとせばあり

 目にありて手にあれどなほうらになきもの
 目にぞなく手にあらざれどうらにあるもの

 天向くる手こそ象れ忌甕のごと
 天向かひ言挙げそせむ護言とて

 くすばしきあやにくすしきものそ言霊
 なきことをなすもなさぬもあるをなさずも

 あれ問はむあれは欲りさむあれあることを
 あれ欲りす赦さまくほしあれあることを

 然かあれど赦すは天にあらずあらざる
 故由は赦すはあれと天はし給ふ

 なれば天に祈ひ祷ままくほしくすしき剣
 いざよひを撃ちてし止まむ撃ちてし止まむ

 ゆき止まず思ふを止まず謡ふを止まず
 時時のうらがまにまに息み安もひ

 安らけしものに息まばなほし欲さる
 ゆくなへにあれ祈ひ祷みしふたつなきもの

 言霊よあれ言挙げすあしたにゆふに
 あれあるをあれは赦さむなほし赦さむ      遼川るか
 (於:泳宮古蹟)







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