わたのそこおきゆ

 朝の松江は、まるでそれが当たり前であるかのように、わたしの前に広がっていました。前日、出雲での私用を済ませ、これから海を渡ろうとしているわたしの前の、松江の街。地元・神奈川から遠く離れ、そしてこれまでの古歌紀行でも1番遠くに来ているにも関わらず、ただ淡々と朝は来て、1日が始まろうとしています。
 ..いや、それは松江の街が、ということではないのでしょう。それだけ、旅そのものにわたしが馴染んできている、ということなのであって、そこが遠くであろうとも、近くであろうとも、旅をしている最中の自分自身。それが例えば会社にいるときの自分自身や、家事をしている時の自分自身のように、すでに1つの人格、あるいは側面として育ってきているからなのかしら、と。
 歩行者用信号機が奏でる電子音楽を聞きながら、ふと思い至ってしまいました。そして
「遠く、本当に遠く来てしまったな...」
 そんなひと言も自然と洩れました。もちろん、地理的なことではなく、です。

 島根県松江市。そのターミナルとなる松江駅前のバス・ステーションの、わたしが並んだのは9番のバス停です。岡山、大阪、京都、神戸、名古屋、東京、松江空港など、長距離移動を前提としている乗客に向けた路線群のバス停は、大きな荷物を持った人々で案外、混み合っていました。
 けれども、それら行き先とは別に遠来の者には見慣れない、こんな行き先も併記されています。
「七類港」

 七類。最初にこの地名を見た時、しちるいと読むであろうことは何となく判りましたが、場所が全く想像できませんでした。島根県の地名そのものに疎いですし、それ以上に複雑な地形の何処が、どの街なのか、という地理的結びつきがほぼお手上げ状態でして。
 出雲国風土記で国引きをして繋ぎ合わせた、とされている島根半島。殊、この半島部の地理はさっぱり判らず、けれどもこれからわたしが向かおうとしている土地から考えるならば、七類は必ず島根半島の、それも外海に面した場所でなければなりません。...それが鳥取に近い東側であろうと、逆に西側であろうとも、です。

 朝のターミナルは、曳きも切らさずやって来るバスたちでごったがえしています。予定では終点の七類港まで約1時間の乗車とのこと。そして、バスを降りればそこからは船、フェリーです。わたしが向かおうとしている土地。それは島根県沖60kmの処に浮かぶ隠岐群島。フェリーで数時間かかるという離島です。
 ロータリーへと次々入ってくるバスたち。何台かの行き先を眺めては見送り、また何台かを眺めて見送り...。そして目にしたのは「七類港行き」と書かれた1台でした。

 隠岐。正直に言ってしまうならば、この地について特別な思いを抱いたことは、殆どありません。...いや、全く興味がなかったと言ってしまうのもまた、事実とはかなりの隔たりがあると率直に感じるのですが、それでもやはり特別な思いは抱いたことがなく...。理由は、わたしの中の優先順位にあるのでしょう。

 記紀万葉風土記といった上代文学に於いて、隠岐という土地はさほど際立った存在ではありません。わたしが即座に思い出せたのはやはり、往時はもちろんそれ以降の中古・中世に於ける流刑地だったことで、実際に続日本紀にはそういった記述の中に、隠岐という2文字は残っています。また実際に流罪になった、と伝えられている人物のなかには上代文学、それも「万葉集」と遠からぬ関わりがある存在も、複数いますね。
 そのうえ隠岐は上古の時代、出雲国や伯耆国の一部ではなく、あくまでも隠岐国として成立していたことも、同じく続日本紀と、そして日本書紀が立証しています。ですが、そこはやはり歴史という側面より、あくまでも文学として上代と関わりたいわたしです。万葉歌に隠岐に因んだものはないのか。あるいは古事記や風土記の説話の舞台として、隠岐は登場していないのか。
 こういったことの方に、ダイナミズムを感じてしまうわけでして。

 ...いや、違いますね。そういうダイナミズムが希薄だから、隠岐に対して特別な思いを抱いていなかった、というよりはむしろ逆。つまり、それくらい探究心の範疇から逸れているにも関わらず、興味をそれなりにでも抱いて来られてはいた、ということですし、その直接的なきっかけは、やはりあの件があるからこそ、でしょう。
 古事記、日本書紀共に語られる天地開闢とこの島国の誕生。...そう、伊弉諾・伊弉冉による国生みの場面です。

|ここに二柱の神議りて云はく「今吾が生みし子良からず。なほ天つ神の御所に白す
|べし」
| といひて、即ち共に参上りて天つ神の命もちて、ふとまにに卜相ひて詔りたまは
|く
|「女先に言ひしによりて良からず。また還り降りて改め言へ」
| とのりたまひき。かれ、ここに返り降りて、更にその天の御柱を往き廻ること先の
|如し。伊邪那岐先に、
|「あなにやし、えをとめを」
| と言ひ、後に妹伊邪那美
|「あなにやしえをとこを」
| と言ひき。
| かく言ひ竟へて、御合して生みし子は、淡路之穂之狹別島。次に伊豫之二名島を生
|みき。この島は身一つにして面四つあり。面毎に名あり。かれ、伊豫国を愛比売と謂
|ひ、讃岐国を飯依比古と謂ひ、粟国を大宜都比売と謂ひ、土左国を建依別と謂ふ。次
|に隠伎之三子島を生みき。亦の名は天之忍許呂別。次に筑紫島を生みき。この島も身
|一つにして面四つあり。面毎に名あり。かれ、筑紫国を白日別と謂ひ、豊国を豊日別
|と謂ひ、肥国を建日向日豊久士比泥別と謂ひ、熊曾国を建日別と謂ふ。次に伊岐島を
|生みき。亦の名を天比登都柱と謂ふ。次に津島を生みき。亦の名は天之狹手依比売と
|謂ふ。次に佐度島を生みき。次に大倭豊秋津島を生みき。亦の名は天御虚空豊秋津根
|別と謂ふ。かれ、この八島を先に生みしによりて大八島国と謂ふ。
            「古事記 上巻 伊邪那岐命と伊邪那美命 2 二神の国生み」

|産む時に至るに及びて、先づ淡路洲を以て胞とす。意に快びざる所なり。故、名け淡
|路洲と曰ふ。廼ち大日本<日本、此をば耶麻騰と云ふ。下皆此に効へ>。豊秋津洲てを
|生む。次に伊予二名洲を生む。次に筑紫洲を生む。次に億岐洲と佐度洲とを双生む。
|世人、或いは双生むこと有るは、此に象りてなり。次に越洲を生む。次に大洲を生む。
|次に吉備子洲を生む。是に由りて、始めて大八洲国の号起れり。即ち対馬嶋、壱岐嶋、
|及び処処の小嶋は皆是潮の沫の凝りて成れるものなり。亦は、水の沫の凝りて成れ
|るとも曰ふ。
                        「日本書紀 巻1 神代上 第4段」


 記紀だけではなく、先代旧事本紀からも引きましょう。

|先淡路州を産生まして胞と為し意に快らざる所なり。故淡道州と曰ふ。即ち、吾恥
|と謂ふなり。
| 次に伊豫二名州を生たまふ。或本は州を皆な洲と為す。
| 次に筑紫州を生たまふ。
| 次に壱岐州を生たまふ。
| 次に対馬州を生たまふ。
| 次に隠岐州を生たまふ。
| 次に佐渡州を生たまふ。
| 次に大日本豊秋津州を生たまふ。
| 因て先に生所を以て大八州と謂ふ。
                    「先代旧事本紀 巻1 神代・陰陽本紀」


 古事記に習うならば、本州と四国、九州、壱岐、対馬、佐渡、淡路島、そして隠岐。これが所謂、大八島国を構成している、この国の島たち、ということになります。...もちろん、これは上代当時の認識によるものですから、北海道や沖縄は組み込まれていませんが、ともあれわたしたちが生を受けて暮らしている日本、と呼ばれる国のごくごく初期の形がここにあります。

 この国生みの場面をわたしが1番最初に読んだのは6歳。ジュニア版古事記によります。その後ももちろん、何度となく読んで来ていますし、そういう意味ではずっと
「そういうものなのだ」
 と思ってばかりで、新鮮な衝撃を受けることのない場面でもありました。...いや、もちろん1番最初の時は別です。神話上では神ですが、幼かったわたしの認識では、物語主人公であった伊弉諾・伊弉冉は自分とそう違うものではありませんでしたから。そんな人間に近い存在が島を産むのです。地面を産むのです。それは、それは、衝撃的でしたし驚いたのは言うまでもなし。
 ですが、その後で語るのならばさほど...、と。

 それが、まるで春雷のような衝撃として、わたしのもとへ降りてきたのはジュニア版から数えて30年近く後のことだったはずです。そう、その息を呑むほどの驚きと、そしてそれによる大きすぎる謎は、いまでもわたしの中で絶えず蠢いています。
 すなわち、
「一体、この国の人々はいつからここが島だと知っていたのだろうか」
 と。

 例えば、わたしたちが地球という天体の姿を見ようとしたならば、地球の外へ出なければ叶いません。有名なガガーリンの
「地球は青かった」
 ではないですが、本当に青い水の星であることを視覚的に認識するには、地球にいて、地上しか知らない者には不可能でしかなく...。

 それと同じことです。この、古事記という現存する日本最古の文献の冒頭に、いきなり当時の日本の国としての形。それがもう、語られてしまっているのです。これはすなわち、当時の人々が日本の外に出たことがあった、という最上級の証で、しかも気になるのが島、と明記されていること。
 何故、島なのでしょうね。島と言い切っている以上は、島ではない陸地も知っていた、ということなのでしょうか。21世紀の現在、島の定義とはオーストラリア大陸よりも小さい陸地、となりますが、流石に上古の定義とイコールではないでしょう。では、当時で言う島とは何を指していたのか。わたしが知る範囲で陸処と書いてくぬが、と読む上代語は存在しています。つまり、単なる陸地と島とでは、何らかの語義の違いがあった、ということになります。では、上古に於ける島とは何だったのか...。現代のように大陸に対しての島、だったのでしょうか。

 もちろん、歴史的には記紀の編纂よりずっと以前に、遣隋使も遣唐使も実施されています。また魏志倭人伝に記された倭国という存在があった以上、少なくとも大陸側がここに比較的、狭い陸地の群れがあることを知っていて、そしてそれを島の中へ伝えた可能性はとても高いでしょうし、現実的でもあります。
 ですが、個人的にはもっと壮大に考えたいのかも知れません。何せ“神代”のことですからね。ロマン優先でも時にはいいのではないか、と。

 約1時間のバス移動。思いの他、車内は混み合っていてほぼ満席。しかも乗客の多くはわたしも含めて明らかに観光客です。...まだオフシーズンなんですけれども。
 逆に、隠岐にお住まいなのだろうな、と感じられる方は拍子抜けするほど少ないようで、隠岐という地がやはり、出雲国でも伯耆国でもなく、あくまでも隠岐国であったことを、改めて思いました。群島内だけでの生活で充分なのでしょう。60kmも離れた本土へは、余程の用事がないと出向かないのでしょうし、出向く必要もないのではないでしょうか。

 初めて、というシチュエーションはやはり何かと軽く緊張します。このバスを降りたら、その先はすべて未知の大地。バスを降りる停留所も、隠岐へと渡るフェリーのターミナルも、そして隠岐群島そのものも。
 まだ見ぬ地へ旅に出ようとする思い。あるいはその寄る辺なさを謡った歌。そういえばこんなものが万葉集に採られているのをぼんやり思い出していました。

|越の海の 角鹿の浜ゆ
|大船に 真楫貫き下ろし
|鯨魚取り 海道に出でて
|喘きつつ 我が漕ぎ行けば
|ますらをの 手結が浦に
|海女娘子 塩焼く煙
|草枕 旅にしあれば
|ひとりして 見る験なみ
|海神の 手に巻かしたる
|玉たすき 懸けて偲ひつ
|大和島根を
                          笠金村「万葉集 巻3-0366」
|草枕旅に物思ひ我が聞けば夕かたまけて鳴くかはづかも
                          作者未詳「万葉集 巻10-2163」


 「越の敦賀の浜から大船に櫓を取り付けて海路に出て、息を切らせながら漕いでいると手結が浦で海人の少女が塩を作っているのが見える。旅の身なので独りでそれを眺めるのも張り合いがなく、海神が手に巻いているという玉だすき。それを掛けるという言葉のように故郷のことを心に掛けて偲んだことだ。大和島根を」
「旅にあって物思いしながら聞いている。夕方になって鳴く蛙を」

 どちらの歌も、歌そのものが詠まれた土地や、状況は異なっていますし、今のわたしの状況とも合致しません。にも関わらず底流している“何か”は等しく...。それだけ“旅”というものが人々の胸の奥底を、震わせてしまうものということでしょう。
 過去の古歌紀行。そのどれもがわたしにとっては旅です。けれども、恐らく今回の隠岐行きは、まさに“旅らしい旅”になるのではないだろうか。...そんな予感を覚えていたのかもしれません。

  

 バスを降りると目の前にかなり立派なフェリー・ターミナル。各地でフェリーも乗っていますが、ふと思い出していたのは海外は澳門のターミナルでした。...理由なんて思い当たらないんですけれどね。島への行き来、というある種の行き止まり感と言いますか、最果てのような感慨が似ていたのかもしれません。
 そして、ターミナルの大きな、大きな窓の向こうに隠岐汽船のフェリーが、白い船体を横たえています。チケットを購入し、乗船が始まるまでのわずかな間、眺めてしまったのは日本海でした。

 日本海。現在、この呼称自体が物議を醸していますし、これから渡る隠岐群島には竹島(独島)も含まれます。なので、どうしてもそういう部分についても、素通りする気にはなれないのですが、それでもこの日本海、あるいは“平和の海”を挟んだ向こうに半島と大陸があります。
 記紀それぞれが語る、上代の倭国の形。でもそれは明らかに半島、あるいは大陸側に近い視点によるものであることは、疑うべくもないでしょう。

 ...もちろん、当時の造船・航海術では太平洋側について認識することは難しかったのでしょうが、それでも例えば伊豆大島とは流石に言わないまでも、屋久島、種子島あたりが記紀の国生みに登場してこないことが、何を物語っているのか、は敢えて明記する必要がないでしょう。
 ...それだけ、当時この海が担っていたものは大きかった、ということでもあるのかも知れません。

                     

 断続的に伝わる小刻みな振動。波によって揺れているのではなく、あくまでもフェリーのエンジンが駆動しているからこそ、のもの。乗客たちが銘々に寛ぎ、雑魚寝している船室で、どうしても吸い寄せられるかように眺めてしまうのは、丸い窓に切り取られた海原です。
 隠岐。それは日本海の中ほどに浮かぶ、言ってしまえば絶海の孤島群。そんな件を事前の下調べで目にしていました。なのに、船窓からの視界には、不思議と陸地の影が見えては消え、消えては見えてきています。...地図にも載らないほど小さな、小さな島たちがこの海にはたくさん浮かんでいる、ということなのでしょうか。
 元々、太古は海ではなく湖だった、とされている日本海です。間氷河期は海でも氷河期は湖だった海。大陸棚もかなり広がっているようですし、こういった細かな島影が見えているのは、むしろ当然のことなのかも知れませんね。そして、それらの先には隠岐群島がある...。

 大小併せて180もの島からなる隠岐群島の主な島は4つ。島前の西ノ島、中ノ島、知夫里島と島後の主島です。そう、4島なんですね。“隠伎之三子島”と上古の時代には呼ばれていた群島。けれども有人4島からなるのが実際です。
 こうして隠岐へ向かう前から、ずっと疑問に感じていたことです。何故、古事記は四子ではなく、三子と記しているのか、と。また、それでは4島をどう組みあわて三子、と見立てたのか、と。
 それだけじゃありません。もう1つ不思議と違和感が募るのは島前・島後という呼称です。はい、これらは「とうぜん・とうご」とは読みません。「どうぜん・どうご」なんですね。島前がどうぜん、島後がどうご、と。

 フェリーは一路、島後の西郷港へ進み続けます。出航時はまだそれほど高く昇ってはいなかった太陽が、すでに南中近くまで来ていて、その光を受ける海が視界一面に乱反射しています。旅にいて、自分が遠く来ていることを1番最初に知らしめてくれるのは、わたしの場合いつだって風でした。
 ですが、船室という風のない場所にいて初めて光に。そう、陽射しにそれを感じている自分がいます。...3月下旬という季節柄なのでしょうか。

   

 やがて船内に流れ始める地元の民謡とアナウンス。雑魚寝していた人々は、一斉に起き上がってレンタル毛布を畳み、荷物を持ち始めました。もちろん、遅れないようにわたしもいそいそと毛布を畳み、リュックを背負って。
 これまでにない横揺れを刻みながら、フェリーは接岸されてゆきます。そして開いた気密扉。タラップによってフェリーと結ばれた、隠岐群島の島後の地が、陽射しと風の中に在りました。人波に押されるようにそのまま下船。いや、下船ではないですね。上陸、です。
 本土から遠く離れること約60km。隠岐群島に、いま上陸します。

 わたのそこ沖にも陸処ありあれば
 道あればゆき
 海ゆかば海ゆく果てに
 いにしへの祖が御うらの
 いにしへの神が御うらの
 思ひ欲りしまにまにあれあり
 あれありてあれあれと欲る
 けふに来つ
 あしたに去るを知りゐつも
 来たればこそに
 去らゆれと
 あれ知るゆゑに
 あれ知りてゐるがゆゑよし
 五百重波
 八重波越えつ
 弥遠に
 あれあるけふゆ
 地広ごらむ

 知りゐれど知らにあるもの天地に国にあれとふ空蝉のひと  遼川るか
 (於:隠岐西郷港)

 
 旅先でよく思うことです。旅立つ前、まだ見ぬ土地の写真を雑誌やインターネットで眺め、あれこれ思い、そして脳内でのみ像を結んでゆく知らない場所。それは仮想や空想にありがちな何処かがデフォルメされていて、みな同様に美々しくて。まるでこの世でありながら、この世ではないかのように希薄なリアリティの、ほのかに眩い二次元の旅先。それだからこそ、焦がれます。そして、それだからこそ、いつも決まって軽く落胆もします。...何故なら、現地に着くとそこは呆気ないほど普通の土地だからです。
 街並みも、道路も、電信柱も。全体像としての景色は初めて見るものなのに、それを構成している事物、パーツの1つひとつは、わたしの日常世界にあるものと何ら変わりなく、その変わらないリアリティが、自分勝手に築いた二次元の旅先を凌駕する一瞬。この淡い淡い酸っぱさが、いつだってわたしの旅の第1歩を彩ります。

 今回も感じてしまいました。事前に思い描いていた隠岐は、遠流の地というイメージを背負った、とても厳格で、鋭角な雰囲気だったのです。...が、上陸してしまえばここは、ただ純然たる地方の街。
 フェリー・ターミナルの階段を降り、道路を渡ってすぐの営業所で、予約していた車を借ります。エンジンをかけ、ウィンカーを出して...。隠岐群島の有人4島。その最初となる島後は春先特有の柔かな陽射しの中で、静かに揺れていました。

 あがうらの見しはいづへかこはこにてあが地にと継ぐ空のはらから  遼川るか
 (於:隠岐西郷港)


        −・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−

 島後。すでに前述していますが、隠岐群島を語る時に欠かせない島前と島後という言葉は、どうぜん・どうごと読みます。ですが、島を“とう”ではなく“どう”と濁音で読む地名というのは、寡聞にしてわたしは他に知りません。...何故なんでしょうね。これもまた、ここへ来る前から覚えていた違和感の1つでした。
 さらにもう1つ。こちらは疑問や違和感ではなく、純粋にほの哀しく感じられてしまったのが、前と後の配置についです。







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