つまり群島としてはもちろんのこと、上古より定められていた隠岐国という、1つの国で見たとしても、やはり主たる位置づけはここ、島後にあります。実際、隠岐国の国分寺は島後にありましたし、隠岐国の総社も島後に鎮座。国府はいまだ遺跡が発掘されていないようなので確たることは言えませんが、それでも有力説となっているのはやはり、島後の中心地・西郷界隈です。
 それにも関わらず島後、つまりは後ろとされて来たのは何故なのでしょうね。前ではなくて、です。

 ...ごめんなさい。哀しい、などと感じてしまうこと自体が思うに、ある種の驕りなのだ、とも理解しているつもりです。つまり、現代の電車路線の上り、下り、という表現にしても、越前・越中・越後や肥後・肥前、備前・備中・備後、豊前・豊後、筑前・筑後...、などの前中後にしても、そして上総・下総、上野・下野といった上下にしても。みな同じ法則のうえのものであって、ここ・隠岐の島前・島後も同様のもの。“都”に近い方が前、遠いほうが後ろ、ということです。
 これはやはりあくまでも往時の都であった、大和から見ての立地で、前と後にされたのはほぼ疑いようもないでしょうし、大和により近い3島を総称して島前、大和に遠い主島を島後、と。

 ですが、だからといってこのことの何が哀しいのでしょうか。前・後ろ、という言葉に内包されているプライオリティのようなものに、わたしが勝手に反応してしまっているだけでしょうか。
 日本海側=裏日本、というわたしが子どものころに一般的だった呼称が、その後あれこれと物議を醸したため、マスコミでは使用しなくなったことを記者時代に学びました。何処となくそれに近い感覚といいますか、きっと。つまり、後ろより前、下より上、小より大、低より高、寡より多...。こういう二者間比較が根底にある価値観、と断言できるでしょう。
 純然たる位置を表しているに過ぎない言葉に、後世の余計な価値観というバイアスを孕んだまま触れる。その結果の哀しさなど、現代人の思い上がった感傷にして、まさしく驕り。隠岐に上陸して最初に突きつけられたのは、このわたしの中に根付いている、動かしがたい価値観の存在でした。...そして、この価値観との対話は滞在中、ずっと止むことがありませんでした。

 お話を島前・島後に戻します。ともあれ、大和との位置関係から前、後ろと名づけられたと考えるならば「島/どう」とは島でありながら、同時に道だったように感じられます。つまりは海上をゆく道=航路、とでもいいますか。
 そして、これならば「どうご」という読み方もまた、納得がゆきそうです。

 車窓を開けてレンタカーを走らせます。走り始めてすぐに気づいたのは、信号機がない、ということ。西郷港の周辺にほんの少し、あったことはあったのですが、それ以降は国道にすら信号がありません。正直、これはとても厄介なことで、というのも信号機があれば、交差点の名前などから現在地を知ることができます。
 けれども、それがないとなると道に迷うことはほぼ必至。どうやら前途はあまり明るくなさそうです。そしてもう1つ気づきました。...島が静かだ、と。

                   

 レンタカーを返さなければならない、という時間的制約があり、しかも土地勘のなさから全体的な時間配分が全く予測できないので、とにかくどうしても立ち寄りたい所だけを押さえて、あとはまた機会があれば再訪すればいい...。それくらいの大らかな気持ちでいたのですが、現在地が判らなくなりそうな不安と、島の余りの静けさに、だんだん怖くなってきていました。
 予定では、主島の東半分を海岸線伝いに進み、島の北端まで行ったら今度は島の真ん中を縦走している国道485号で南下。国道沿いにある幾つかのポイントを訪ねられれば、それで上出来かな、と思っていました。本当は、島の西側にも立ち寄りたい場所は幾つかありましたけれど、時間的に少々難しく...。

 海岸沿いに伸びる県道48号を走っているのに、対向車も、後続車も、先行車も、見えません。聞こえてくるのは潮騒だけ。道路そのものも海岸線に合わせて蛇行するため、次第に方向感覚が麻痺してきているのでしょう。早くも自分が何処を進んでいるのか、さっぱり...。なおさら、怖くなりました。
 主島の海岸沿いには、龍ヶ滝や浄土が浦と呼ばれる景勝地も点在しています。ですが、すっかり精神的な余裕がなくなってしまったわたしは、それらに1つひとつ立ち寄ることも叶わず、ただ走りながらはっとさせられた風景を何枚か写真に撮るのが精一杯。
「...こんな感じは、あの時。あの熊野の時みたいだ」
 気づけばつい、言葉になって洩れていました。

 

 上代文学の舞台となった地へ出向くようになって、かれこれ5年弱が経過しようとしています。元々、世界各地を歩いていましたから比較的、旅慣れているという自負だってあります。ですが、それでも初めての土地を自力で探訪する際は、それなりに緊張もするわけで。過去の古歌紀行文でも何度か書いていますが、得てして自分のいる現在地を地図上で追えなくなった時と、携帯電話の電波圏外に入ってしまった時は、恐怖に襲われます。
 隠岐の主島に上陸してからまだ、わずかに1時間ほど。にも関わらずすでに、その両方の条件を満たしてしまっていたからか、スクランブルに陥ってしまいました。同時に、こんなに早くからこうなるのは、最初の古歌紀行だった熊野以来のはずです。...少しばかり過酷な旅、となることはもはや確定的、でした。

 岩盤を穿ったような隧道を幾つか過ぎ、走っている場所も海からずっと高い地点だったと思えば、ほんの数10m先に波が打ち寄せていたり、と主島は様々な表情でわたしの前に現れ続けます。途中、とにかくびっくりしたのは牡の雉が県道をのんびり横切っていたことで、車を停めてクラクションを軽く鳴らしましたけれど結局、彼は歩く速度を変えることなく視界から消えてゆきました。
 ...いや、これくらいは世界各国で歩いた未開地に比べれば、決して驚くようなことではないんですけれどね。ないんですけれど、それでも驚いてしまったのは、ここが日本だからでして。といって、その日本という定義そのものは、それなりに疑問視もしているくせに、です。

 隠岐。それは日本海、あるいは平和の海に浮かぶ群島ですが、同時に現代の竹島のことも含めて、どうしてもわたしにとっては境界線上の地、という印象が、最初から拭えませんでした。...先入観、なのかも知れません。
 上古の歴史が刻まれた土地であることは明白なのに、何故だかかつて訪ねた地とは、全く違った風と空と海と。わたしは何かに躊躇しているのでしょうか。あるいは迷い...。そうじゃなければ罪悪感、でしょうか。

 時々、思うんですね。人は相対する局面の両側に、同時に立つことができません。海から陸を見て、陸から海を見て、でもそれを同時に叶えることなど、決して出来るわけもなく。
 大陸側と倭国、という2つの歴史軸と史観があって、わたしはたまたまこの国に生まれたが故に倭国の側からしか、きっとこの隠岐という群島を感じられないでしょうし、大陸側からは決して感じることが出来るはずはない、と。

 それはヒトという矮小の身であれば当然のことであって、誰もが立場は違えど同じ不自由の中にいるはずです。...なのに。なのに、その現実が無性に重たく、半ば胸が痞えるような感覚を抱いたまま、この旅に身を委ねているから、でしょうか。見えるもの、聞こえるものがどれもどれも、いつもの旅よりやや深いきずを、わたしの中に刻んでゆきます。
 何だか、隠岐という大きな乗り物に酔ってしまったかのようです。

 途中、県道は国道485号と交わり、さらに北へと続いています。緯度で語るならば、わたしの地元・神奈川よりもわずかに北、ちょうど長野や群馬の中程と同じくらいになるでしょうか。上陸した時は綺麗に晴れていた空も、ゆっくりと曇り始めてかすかに寒さを感じだしていました。
 やがて見えてきた白島崎展望台、という案内板。ようやく最初の目的地・白島崎に着いたようです。国道から横道へ入り、ゆるゆる登ると拓けた駐車場がありました。ここから先は徒歩となります。

 白島崎。主島の最北端です。全体的にやや縦長の楕円形をした主島の、東西の真ん中辺り。そして北側の海に突き出すようにして延びた地形の先端に位置する岬は、眼前の海に浮かぶ数々の小島が一望できる、景勝地です。...こんな風に曇っていなければきっと遠くは朝鮮半島が見えたのではないか、と思います。
 白島という名前の由来は百に1つ足りない九十九もの島があるから、ということなんですが、そのものを詠んだ有名すぎる、あの名歌がありますね。

|詞書 隠岐の国に流されける時に舟にのりて出でたつとて、京なる人のもとにつか
|   はしける
|わたの原八十島かけて漕ぎいでぬと人にはつげよあまのつり舟
                    小野篁朝臣「古今和歌集 巻9 羈旅 407」


 上古のものではないですけれど、小倉百人一首で有名な歌です。白島崎展望台にある案内板にはこう書かれていました。

| 昔、隠岐の国に流された小野篁は、海岸に点在するたくさんの岩や島の姿に心を奪
|われ、この美しくも遙かな景色に、都のことがしのばれて
| わたのはら やそしまかけて
| こぎいでぬと 人にはつげよ
| あまのつり舟
|と詠みました。この歌は古今和歌集に残っていますが、実は、ここ白島見物の時に作
|られたものと伝えています。
                     隠岐島後民話・伝説案内板9より抜粋


                    

 「あきづしまやまとゆ」で書きましたが、藤原宮跡から天の香具山を眺めた時、初めて幼少期から馴染んでいた「春過ぎて〜」の讃良(持統天皇)の歌が立体的に立ち上がり、実感がわたしを覆うかのように降り注いできた感覚と体験。あれに近いものが、ここ白島で襲ってきていました。
 八十島。そう、まさしく数えるならば八十にも、百にも、なるかもしれない岩と島とそれらをすべて包んでいる海原と。...遠くへ、本当に遠くへ、わたし自身が来てしまいました。もちろん、すでに書いている通り、それは神奈川からの地理的な距離のことではありません。

 和歌。一体、初めて和歌というものに触れた4歳の誕生日に、いずれ自分がその歌だけを頼りに日本各地を歩き廻るようになる、などと誰が予測できたでしょうか。恐らくは、わたしに和歌というものの存在を教えた亡母ですら、考えもしなかったと思います。
 生きているものにとって、未来は答えではないでしょう。むしろ答えは過去という事実にしか存在しないように感じます。それが良いことであろうが、悪いことであろうが、人は過去からは逃れることなどできず、この瞬間は堆積した過去のほんの表層に過ぎません。そしてまた、この瞬間も過去となり、堆積は続いてゆきます。

 小野篁。隠岐へと出向く直前まで「さゝなみのしがゆ」を書いていました。あの近江の旅では彼ら小野氏の本拠地も訪ねていますが、海のない近江の国の琵琶湖西岸と日本海に浮かぶこの隠岐は主島の、そのまた北端が、わたしの中で1本の糸のようなもので繋がってゆきます。
 そしてその糸が、わたしの中に絶えず流れる地下水脈のようにも感じられて、気づいたら地面にぺったり座り込んでいました。何かが。わたしの中の何かが、喜び粟立ち、弾けて止まらないのです。

 どの旅も毎回、怖いと感じる瞬間があります。不安や心配は絶えません。ですが、まるで予定調和のように安全で、安心したままで巡る旅では、きっと新しい地平はわたしの前に現れてくれないでしょう。「だから」なのかもしれません。もしくは「それでも」なのかもしれません。いずれにせよ、わたしは恐怖と背中合わせの旅の中で、それ故の歓喜と遇ってきましたし、ここまで来ました。
 ...泣き虫はいまだに治りませんけれども。

  

 崖から突き出したベランダ状の展望台に立ちます。高い所は平気なのですが、如何にせん重度の空間恐怖症ですから、長時間いるのはどうにも...。それでも、眼前に広がる光景をもっと見ていたくて、思わず奥歯を食いしばりながら展望台の欄干にしがみついているわたしがいました。
 竹島はここから166kmほど北西にあるといいます。わたし自身は北方領土も含めて現代、展開されている領土問題については何も語る気がありません。...というよりもそれら以前に、そもそも国境という境界線の意味するものについてどうしても考え込んでしまって、何も語れない、というのが実情でしょうか。

 なので竹島がどうこう、ということではなくて純粋にここで1つの地面が果てる。...そういう意味での最果ての地である白島崎を全身で感じたい、と切望していました。だから歯を食いしばってでも、怖がっている自分に負けたくない、と。

 ゆきゆきてかゆきかくゆき
 なほしゆき
 地の絶ゆれば波のあり
 波の絶ゆれば地あるを
 見しはさぶしか
 なつかしか
 地あるゆゑにひとのあり
 海あるゆゑに地のあり
 天あるゆゑに海のあり
 ひとあらずとも天はあり
 ひと来ぬる世に国なりて
 天にもきはみあらましを
 地にもきはみありゐるを
 海にもきはみあるとふを
 知るはさぶしか
 なつかしか
 ひとなるあれはたれかれに
 問はむや
 問ふを欲りたきを
 あれに問ひをり
 問はらざるを
 なほし問はむや
 あれにそ問はむ

 絶ゆるとは初むるに違ふことなきものを
 初むるとて絶ゆることなむゆゑなる地を

 あれしらにしらまくほしきものこそ問はめ
 あれ欲るになほしゆかむやとほきもちかきも  遼川るか
 (於:白島崎展望台)


 相変わらず、島は。そして海は静かです。岩や島の断崖に寄せる波の音も、どこか長閑かで、穏やかで。だからでしょう。この旅へ出発する前に、予習として読んだ資料にあった歌を思い出していました。

|妻恋ひて主栖の浜に吾が居れば凪ぐ白島の波の音聞こゆ
                   柿本美豆良麿「穏座抜記聞書/金坂亮著」
           ※大西俊輝「柿本人麻呂とその子躬都良」よりの孫引きです。


 穏座抜記。実は隠岐には少々物議の元となっている文献が幾つかあり、現在それは存在し続けているのだか、散逸してしまっているのだったか。ともあれ穏座抜記は、天和2年(1682年)に隠岐は島後の五箇村の神主・藤田薩摩守清次が著した、とされている文献で、清次が隠岐・島後にある一ノ宮・水若酢神社の社伝・古記から抜粋して形にしたのだ、と。
 因みに元々のソースである水若酢神社の社伝・古記は、延徳年間に大宮司を務めた忌部神六なる人物がものしたのだといいます。

 ただ、この穏座抜記。上述しているように現存しているのか、についてはごめんなさい。
寡聞にしてわたしには手繰りきれませんでした。ただ、明治期の終わり頃に隠岐の郷土史を研究していた金坂亮氏が人から口述されたものを書き留めた、という聞書きのものが残っている、と聞き及んでいますが。
 ...が、こちらもその聞書きを見たわけもなく、あるのは別文献に引用されているもののみ。ですので、わたしには何とも...。

 ともあれ、そんな少々曰くつきの穏座抜記に記されている隠岐に伝わる逸話として、柿本人麻呂の子息である柿本美豆良麿(躬都良)の歌が数首、存在しているのは事実です。そして同時に、柿本美豆良麿がこの遠流の地・隠岐への流人第1号だった、という逸話も。

 正直、この説話に初めて触れた時に受けた衝撃は
「人麻呂に息子がいたのか」
 というものでした。...いえ、子どもがいたことは彼が残した万葉歌で知っていました。

| 題詞 柿本朝臣人麻呂、妻死りし後、泣血哀慟作歌二首[短歌も并たり]
|うつせみと 思ひし時に
|取り持ちて 我がふたり見し
|走出の 堤に立てる
|槻の木の こちごちの枝の
|春の葉の 茂きがごとく
|思へりし 妹にはあれど
|頼めりし 子らにはあれど
|世間を 背きしえねば
|かぎるひの 燃ゆる荒野に
|白栲の 天領巾隠り
|鳥じもの 朝立ちいまして
|入日なす 隠りにしかば
|我妹子が 形見に置ける
|みどり子の 乞ひ泣くごとに
|取り与ふ 物しなければ
|男じもの 脇ばさみ持ち
|我妹子と ふたり我が寝し
|枕付く 妻屋のうちに
|昼はも うらさび暮らし
|夜はも 息づき明かし
|嘆けども 為むすべ知らに
|恋ふれども 逢ふよしをなみ
|大鳥の 羽がひの山に
|我が恋ふる 妹はいますと
|人の言へば 岩根さくみて
|なづみ来し よけくもぞなき
|うつせみと 思ひし妹が
|玉かぎる ほのかにだにも
|見えなく思へば
                         柿本人麻呂「万葉集 巻2-0210」
| 題詞 柿本朝臣人麻呂、妻死りし後、泣血哀慟作歌二首[短歌も并たり]或本の歌曰く
|うつそみと 思ひし時に
|たづさはり 我がふたり見し
|出立の 百枝槻の木
|こちごちに 枝させるごと
|春の葉の 茂きがごとく
|思へりし 妹にはあれど
|頼めりし 妹にはあれど
|世間を 背きしえねば
|かぎるひの 燃ゆる荒野に
|白栲の 天領巾隠り
|鳥じもの 朝立ちい行きて
|入日なす 隠りにしかば
|我妹子が 形見に置ける
|みどり子の 乞ひ泣くごとに
|取り与ふ 物しなければ
|男じもの 脇ばさみ持ち
|我妹子と 二人我が寝し
|枕付く 妻屋のうちに
|昼は うらさび暮らし
|夜は 息づき明かし
|嘆けども 為むすべ知らに
|恋ふれども 逢ふよしをなみ
|大鳥の 羽がひの山に
|汝が恋ふる 妹はいますと
|人の言へば 岩根さくみて
|なづみ来し よけくもぞなき
|うつそみと 思ひし妹が
|灰にてませば
                          柿本人麻呂「万葉集 巻2-0213」


 彼自身がこうもはっきり、自身の血を引くものについて謡っているのですから、それ自体は何も疑問には思いません。けれども、わたしにとっての人麻呂の子どもは、この歌のまま乳飲み子で止まってしまっていて、成長した姿についてあれこれと思いを巡らせたことが、そういえば皆無だったと今回、初めて気づきました。
 しかもその子は男の子で、最後は流刑地で客死した、などというくっきりとした輪郭をもって出現してしまったのですから、しばし呆然としてしまいまして。まるで考えてもいなかったことを既成事実として突きつけられたような、何とも言葉にし難い感慨でした。








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