飛鳥板蓋宮で重祚、つまりは再度皇位に就いた斉明天皇(1回目は皇極天皇)は、斉明元年(655年)の冬に宮が火事によって焼失してしまったので、飛鳥川原宮へ遷都。その後、唐・新羅連合軍に攻略された、百済を救済するため、大和朝廷は斉明7年(661年)に参戦。天皇本人も、現・福岡県にあった朝倉宮へ移りました。そして、同年に他界。
 一方、皇太子だった中大兄皇子はその翌々年に白村江(現・クム川)の河口にて大敗し、飛鳥へ帰参。その4年後の天智6年(667年)に近江大津宮へ遷都して、翌年に即位しました。近江への遷都に先駆け、越智岡へ斉明天皇を葬り、さらには飛鳥川原宮跡へ母親の供養の為に建てた、とされているのが川原寺(後年、天武天皇が建てた、という別説もあります)です。


 その後、川原寺は大官寺・飛鳥寺と並ぶ飛鳥3大寺の1つとして、お抱えの大伎楽団まで配備。新羅からの貴賓がある時は筑紫まで貸し出すほどでした。
 伎楽団。その名残であり、川原寺に寄せられた人々の思いでもあるものが、寺の仏堂裏にあったことを「万葉集」は語っています。

|生き死にの二つの海を厭はしみ潮干の山を偲ひつるかも
                         作者不詳「万葉集 巻16-3849」
|世間の繁き刈廬に住み住みて至らむ国のたづき知らずも
                         作者不詳「万葉集 巻16-3850」

|右の歌二首は、河原寺の仏堂の裏に、倭琴の面に在り。
                     「万葉集 巻16-3849、3850」左注による


 戦時に他界した母宮への追悼はもちろん、その後続いた壬申の乱での没者の供養と、生存者の傷痕平癒、そして怨敵退散。これらの祈りを込めていたのか、天武は在位中、「一切経」の写経を川原寺で行っています。また、民草たちも絶え間なく続いた権力抗争に、ようやく世の無常を覚え初めていたのかも知れません。
 仏堂裏にあったという倭琴。六絃琴だそうですが、その表面に書き残されていたのは、厭世の歌でした。

 世を厭ひ床のしづくを拭はむと祈せし琴音は風に消されぬ   遼川るか
 (於:川原寺跡)


 人は、時として自分の心を殺します。虚しさや、苦しみから一時的に自らを守るために、敢えて見ない。敢えて聞かない。現実逃避です。そして、そんな心の隙間を埋めるべく、歌舞音曲に興じ、温もりを求め、刹那の愉楽に溺れて...。個人的にも亡母の闘病中は、厭世観に塗れきっていた時期があります。
 それもまた、いいのかも知れません。誰にそれが咎められましょうか。でも、いつか必ず、現実と相対さなければならないことは、避けようのない事実。
 間に合わなかった。その為に払わなければならない代償の重みを、6回目となる、亡母の祥月命日を目前に控えた川原寺跡で、噛み締めていた私です。その代償のたった一部でも、贖う為に奈良を訪ねた私です。

 厭ひたる いまが世常
 たゞほりす 刹那の愉楽
 溺れては 蟄するもよし
 ほい違ふ そもまたよしや
 いづれ来る うつし避け得ぬ
 ものならば いまい寝さむ
 ことさらに 言問ひ封じ
 頼むあはれも

 心許無がりしことを日日並べてまた繰る薄紙一重二重と   遼川るか
 (於:川原寺跡)


 万葉の時代から既に1300年。時代も、社会も、何もかもが変わった現代で、それでも変わらずにいるものは、人々の心。弱さも醜さも、そして強さも清さも。全てをそのまま褪せることなく残してくれている歌を、また噛み締める私です。

            −・−・−・−・−・−・−・−・−

 「万葉巡り...。ならば、何はともあれやっぱり国見がしてみたいかな」
 彼女は、最初にそう言いました。

 国見。小高い場所から国の地勢や民草の生活状況などを見渡し、確認する行為、とでも言いましょうか。「古事記」にある神様がした国見はさておき、少なくとも人間が行った国見の最古は「日本書紀」にある神武天皇だと思います。

|天皇の御巡幸があった。腋上のホホ(*)間の丘に登られ、国のかたちを望
|見していわれるのに「なんと素晴らしい国を得たことだ。狭い国ではある
|けれど、蜻蛉がトナメ(交尾)しているように、山々が連なり囲んでいる国
|だな」と。これによって初めて秋津洲の名ができた。
                      「日本書紀 神武天皇31年 夏4月1日」
                           (*)「口兼」という字です。


 以降、仁徳天皇の国見も「日本書紀」には記述されていますね。因みに「秋津洲or蜻蛉島/あきづしま」、平安以降は「あきつしま」と濁音ではなくなりますが、ともあれこの「あきづしま」は大和を伴う枕詞です。因みに、大和を伴う枕詞は他にも「敷島の」「空に満つ」「日の本の」などがあります。
 また、国見とは違いますが、自国を称えるという意味で先ず絶対に落せない、あまりに有名な例もありますね。

|八雲立つ出雲八重垣妻籠みに八重垣作るその八重垣を
           須佐之男命「古事記 上巻 須佐之男命の大蛇退治3 須賀の宮」
|倭は国のまほろばたたなづく青垣山ごもれる倭しうるわし
                   倭建命「古事記 中巻 景行天皇7 望郷の歌」


 前者は、紛れもなく記述に残る最古の和歌。つまりは和歌の祖である1首で、素盞鳴尊が自らの宮を建てた時、その場から雲が立ち昇っていく様を詠んだもの。「八雲立つ」は出雲を伴う枕詞です。
 後者は、東征からの帰路、病が重くなった倭建命の望郷の歌で、同時に他3首と併せ、絶歌でもあります。
 そしてこの2首と同じく「古事記」にて国見をしているのが雄略天皇。そう「万葉集」の最初の歌の詠み手です。では、その次。「万葉集」の2番目の歌と言えば、天智・天武の父親である舒明天皇御製のそれです。

|大和には 群山あれど
|とりよろふ 天の香具山
|登り立ち 国見をすれば
|国原は 煙立ち立つ
|海原は 鴎立ち立つ
|うまし国ぞ 蜻蛉島
|大和の国は
                           舒明天皇「万葉集 巻1-2」


 舒明天皇が国見をした場所は天の香具山。国見には、ただ高台から国を眺めるだけではなく、言霊の力を借りてその年の農作の予祝をする、という大きな目的があります。なので、聖なる天の香具山で行わなければならなかったのです。
 余談になりますが、天の香具山が何故、聖なる山なのかと言えば、神様が天上から降りて来る場所であったからですし、同時に「伊豫風土記」によれば、山そのものも天から降ってきたのだ、といいます。だから、天の香具山を伴う枕詞が「天降りつく/あもりつく」となるのでしょう。

 奈良旅行4泊5日。訪ねた箇所、詠んだ歌、思い出した記述。それぞれが一体どれくらいあったか、既によく判っていません。特に拙歌は浮かんでは詠み、それを清書しているうちに別の歌を詠み、またそれを清書して...、ともうさっぱり。
 けれども、それら全てはたった1つの目的の為にあった、と言っても過言ではないと思います。私が奈良へ出向いた最大の目的。それは国見、です。

 ただ、本来なら古式ゆかしく天の香具山から、とするべきなのでしょうけれど個人的には、天の香具山・畝傍山・耳成山の大和三山がきちんと見渡せる場所で国見をしたい、と思っていました。
 それは、大和三山がそれぞれに歌枕であるからでもあり、倭建命の歌にある「山ごもれる」、つまりは山に囲まれている国であることを実感したかったからでもあり、ついでにもう1つ。

|香具山は 畝火雄々しと
|耳成と 相争ひき
|神代より かくにあるらし
|古も しかにあれこそ
|うつせみも 妻を争ふらしき           
                         中大兄皇子「万葉集 巻1-13」


 「かつて、天の香具山は畝傍山が素敵だ、と耳成山と争った。神代からそうなのだし、古来からそうであったのだから、今のこの時代でも妻を巡って、争うものなのですよ」
 このあまりに有名な大和三山の歌は、詠み手が詠み手だけに、色々と邪推の1つもしてしまいたくなりますが、それはそれ。また、大和三山個々の性別についても、諸説紛紛でよく判りません。...少なくとも中大兄皇子の歌からすると、天の香具山と耳成山が同じ性別で、畝傍山を巡って争ったことは間違いないとは思いますけれどね。個人的には「雄々し」に引っ掛かってしまいまして。

 ともあれ、かつて仲が悪かった大和三山。でも、今は静かに佇んでいる大和三山。譬えどんなに喧嘩をしても、どれほど瑕付け合っても...。それぞれに気持ちがあれば、仲直りはきっと叶うものだ、と。心の何処かで、そう願いたかったのだと思います。

 国見の場所は甘樫丘。自転車漕ぎの上に、高台まで登るというのも中々に覚悟が要りましたが、頂上まで続く階段を一歩々々進みます。丘の中腹辺りでしたか、歌碑が1つ立っていました。

|采女の袖吹きかへす明日香風都を遠みいたづらに吹く
                          志貴皇子「万葉集 巻1-51」


 藤原宮への遷都後、かつての都であった飛鳥の地を偲んでは、志貴皇子が詠んだ有名な歌です。
「女官達の華やかな袖を翻す飛鳥の風も、飛鳥の都から離れてしまった今となっては、ただ虚しく吹くばかり」
 故・犬養孝先生の御書による歌碑なのだそうですが、様々な関連文献で「明日香」という場所の、キャッチコピーのように引用されることが最も多い歌でもあります。
 明日香を伴う枕詞もまた、あります。「飛ぶ鳥の」です。でも、もし現代版枕詞を作ってみるのだったら、「采女袖」とか「袖吹く」といったあたりは、真っ先に浮かびそうな気がしてしまいますね。

 甘樫丘には允恭天皇の時代、姓氏の乱れを正す為に「盟神探湯/くがたち(神に誓いを立ててから、熱湯に手を差し入れ、傷を負うか否かで正邪を見極める行事)」が行われた、という甘樫坐神社があったといいます。とするならば、甘樫丘自体も神奈備である、ということになりますし、少なくとも数首の歌に関しては、とても納得がいってしまいます。

|……夕されば 見したまふらし
|明け来れば 問ひたまふらし
|神岳の 山の黄葉を
|今日もかも 問ひたまはまし
|明日もかも 見したまはまし
|その山を……
               天武大后「万葉集 巻1-159」より、再引用につき抜粋

|春されば 花咲ををり
|秋づけば 丹のほにもみつ
|味酒を 神奈備山の
|帯にせる 明日香の川の
|早き瀬に 生ふる玉藻の
|うち靡き 心は寄りて
|朝露の 消なば消ぬべく
|恋ひしくも しるくも逢へる
|隠り妻かも
                         作者不詳「万葉集 巻13-3266」

|清き瀬に千鳥妻呼び山の際に霞立つらむ神なびの里
                        柿本人麻呂「万葉集 巻7-1125」


 「味酒を」は神奈備山を、「朝露の」は消を、それぞれ伴う枕詞です。

 讃良の歌は飛鳥浄御原宮から詠んだものですから、現在の雷丘では朝夕に眺めるのは難しく、もう一方の長歌は、明日香川を帯のようにして纏うが如き立地、となりますから、やはり甘樫丘が妥当である、と「季寄せ」の編纂で有名な山本健吉氏は述べられています。
 一方、人麻呂の短歌に関しては、南の浄御原と北の藤原の中間。鎮めの山として雷丘と並び、甘樫丘が神奈備であったとすれば合点がゆく、というのは釈迢空こと、折口信夫氏の説。
 いずれにせよ、仮にもしそうなら、雷丘に纏わるあの勇壮な歌に覚える違和感も、同時に解消できてしまうようにも思えるのですが。

 それゆえなのかは判りませんが、蘇我蝦夷・入鹿親子が宮廷に対抗して、甘樫丘の上に邸宅を構えたのも判らない話ではなく...。真偽はさておき、これら全てが指し示しているのは、この丘がやはり特別な丘であった、ということ。恐らくそれは間違いないように思われます。
 あれこれと考えさせられることの多い甘樫丘ですが、そんなこんなを思っているとすぐに頂上に辿り着いてしまいます。10数分程度だったでしょうか。



 ...もちろん、360℃の全周囲展望という訳ではありません。ありませんけれども、北側の隣に雷丘、その向こうには天の香具山、三輪山、藤原宮跡、耳成山。東は飛鳥寺、飛鳥坐神社、石舞台も見えました。西では手前に畝傍山、奥には二上山も見えて。南側は樹木の陰になって見辛いですが、それでもきっと吉野の峰々が広がっているに違いない筈です。


 「万葉巡り...。ならば、何はともあれやっぱり国見がしてみたいかな。うるわしい、国の真秀ろば。うまし国蜻蛉島。煙は見えるかもね。鴎は無理だろうけど」
「うるわしい、国の真秀ろば、は『古事記』でしょう」
「いいじゃないの。同じこと言ってるんだからさ。...行ってみたいね。治らなくてもいいから、それくらいの体力は取り戻したいよ」
「何、言ってるの。まだ吉野も、山の辺の道も、泊瀬だってあるでしょう」
「そうだね。でも、やっぱり国見がしてみたいよ、私はさ...」

 かつてこへ 来まくほしきと
 言ひをりし 女はいま亡く
 残こりしは 郎女ひとり
 固めひとつ いづれ行かなむ
 憧がるゝ 歌主の跡
 訪ねては いにしへの風
 頬に受け あれゆ生まゆる
 歌詠まむ 歌詠み合はむ
 み吉野の 遠き峰々
 目凝らし 激つ河内や
 いめのわだ 象の小川を
 むね描き 二上山に
 高照らす 散りし日の皇子
 悼みつゝ みなもとの歌
 天降りつく 天の香具山
 海人小舟 泊瀬も先の
 青旗の 忍坂山
 眺め見む 秋に訪ふなら
 白雲の 竜田の山も
 色づくらむ 冬もまた佳き
 大口の 真神原に
 雪舞ふらむ 春、高座の
 御笠山 野に集ひゐる
 鹿になど ゆめさら/\に
 くまらずに 互ひれうりし
 破子籠など 交はすもうれし
 な聞きそね なはちぶきそや
 尊ばむ 余すことなく
 たゞ食まむ 夏、味酒の
 三輪の山 斎ふ杉とて
 滴りて けだし戀ひなど
 をなせらば うち/\触れる
 さがなしに よもやせざるて
 うち/\に 寿詞唱へむ
 石橋の かむなび山とも
 言はれゐる 雷、甘樫
 飛ぶ鳥の 明日香の丘ゆ
 夏麻引く 雲梯の杜も
 見えらるや 見えば言はむや
 柞葉の あもに伝へむ
 偽らず たゞに冥加を
 宣なひを ゆめ/\違へじ
 朝露の 命在るうち
 藤波の たゞ一目のみ
 さのみとて なさまくほしき
 固めなれど とりあはざれぬ
 移りしは 十歳ほどにて
 やうやくに 片設かゆるて
 眺め見る 大和まほろば
 うまし国 神代に争ひ
 諍ひし 大和三山
 これかれに をひたることゝ
 構へをり 寄り添ふことを
 あまゆるを 手弱さ晒すを
 遂げられず くぜち打頻きし
 日々ばかり いで岩崩の
 悔いゐるも をひたることゝ
 思ひたく 果たす固めに
 空向かひ 見せまくほしき
 ゑみがほと あもゆ受けたる
 八雲色とを
 
 片設きて果たす固めを支へたるどしに冥加を如何に伝へむ   遼川るか
 (於:甘樫丘)


 「海人小舟」は泊瀬を、「青旗の」は忍坂山を、「白雲の」は竜田を、「高座の」は御笠を、「味酒の」は三輪を、「夏麻引く」は雲梯を、「柞葉の」は母を、「朝露の」は命を、「藤波の」はただ一目のみを、「岩崩の」は悔を、それぞれ伴う枕詞です(前述している、枕詞とそれが伴う語句の組み合わせが全く同じものは全て省略)。

 不思議と泣きませんでした。藤原宮跡では静かに、吉野ではぐちゃぐちゃになるほど泣きました。
 ...でも、国見をしている間は特別泣くこともなく、ただ目に映る景色を眺めては、ゆっくりゆっくり浮かんでくる言葉を、紡ぐだけでした。

            −・−・−・−・−・−・−・−・−

 飛鳥には、讃良と天武が合葬されている陵墓があります。ですが、事前のリストから外していました、敢えて。
 ...天武・持統陵が発掘。いや、正確には盗掘された際の記録は「明月記」などに残っています。曰く、天武の遺骨は石室内にばらまかれ、讃良のものに至っては道端に捨てられていた、といいます。
 怖かったのかも知れません。自分の中の憧れを、何処か壊してしまうような気がした、というのか何というのか。でも、やはり最後の最後で行く事にしました。ほんの数秒迷いましたが、それでも観てみよう、と。

|燃ゆる火も取りて包みて袋には入ると言はずやも智男雲
                          持統天皇「万葉集 巻2-159」
|北山にたなびく雲の青雲の星離り行き月を離れて
                          持統天皇「万葉集 巻2-160」


 たった6首しかない「万葉集」収録の彼女の歌のうち、半分は天武への挽歌。長歌と反歌である短歌が2首。長歌はすでに引用しているので、反歌を引用しておきます。「智男雲」は万葉仮名が未だ判読不能な部分ですので、そのまま記載しておきます。

 讃良が眠る陵墓は、他の古墳とさして違わず静かで、少しだけひんやりとした空気がゆったり漂う、厳かな場所でした。...ほっとしました。

 四歳なる 生まれたる日に
 逢はれしは あらざる衣を
 纏ひゐし いにしへの媛
 女帝にて のちに知りたる
 讃良とふ かつての御名も
 きみ生きし 慟傷しび耐へて
 抗ひし 無果報あまた
 上世を 鮮やぐほどに
 駆け果てし ゆゝしげなるや
 御達にて たゞに憧がれ
 続けては やゝ参り来し
 みさゝぎの 去り難かるを
 如何にせむ たゞ返り見て
 返り見て また遠からず
 参るを誓はむ

 斧の柄の朽つる三十歳歌ひしはそが煌めきに焦がるればこそ   遼川るか
 (於:天武・持統陵) 


 行くことを躊躇したというのに、帰りはとにかく立ち去り難くて、何度も何度も振り返っては、ただ彼女の眠りを誰も妨げないように、と祈っていました。


             −・−・−・−・−・−・−・−・−

 道端に停めた自転車に乗り、近鉄飛鳥駅へと向かいます。立て続けに詠んでしまった長歌と、ずっと漕いでいた自転車と、何だか少し疲れていました。明日香村を去る前に、何故か俳句が出て来ました。...自分でも驚くほどすんなりと。

 約束をひとつ果たして花木槿    遼川るか
 (於:近鉄飛鳥駅へ向かう途上)









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