明日香村から宿へ戻り、何はともあれテープ起こしを始めました。私は基本的に歌は全て即詠です。まして、それが万葉調となると、あれこれ弄くることの方がむしろ、何か違うように思えてしまいます。
 なので旅先、それも周囲に気を遣わなくていい独り旅では、記者時代に使っていたテレコを荷物に詰めて、ワイヤレスの小型マイク、ワイヤレスのリモコンを胸元や内ポケットに留めておきます。そして浮かんだ端から録音してしまうんですね。その後、宿へ戻ればそれをデータ入力してしまう、と。
 ただ、明日香を周った日は、夕方からモバイルがマシントラブルを起こして、一切の入力不能になりました。キー・コントロールが利かなくなってしまったんです。

 仕方がないので、メモ帳に手書きで起こし始めた時、ふと矢も楯も堪らずに行きたくなってしまった場所が1つ。既にあたりは薄暗いし、行き先はどう考えても賑やかな場所ではありません。でも...。少し考えて、タクシーで行くことにしました。少なくとも、運転手さんは居てくれますから。
 目的地は、同じ橿原市内の東竹田。その昔、周辺一体は大伴家の竹田荘園だったと言います。この東竹田の竹田神社と、竹田大橋を目指します。

 大伴。そう「万葉集」を語るとき、避けられない歌人である大伴家持や、大伴旅人などを輩出した名門・大伴家。そこにもう1人、やはり「万葉集」に欠かせない歌人がいます。大伴坂上郎女です。
 彼女は旅人の異母妹、家持の叔母、そして後に姑になります。「万葉集」に収められた歌は短歌77首、長歌6首、旋頭歌1首の計84首。これは、家持・人麻呂に次ぐ多さで、「万葉集」第3位。女流歌人としては、もちろん最多。額田王以来の万葉期最大の女流歌人、と評されています。
 讃良の人生も同じ女ながら憧れます。けれど、坂上郎女の生き方も、また違った意味での強く賢い女性、という印象で憧れやみません。というのも名門・大伴一門を一時期、執り仕切っていたのが他でもない彼女だったからですし、同時に3回の結婚生活とその相手の面々たるや...。

 親、兄弟がことごとく「万葉集」に歌を採られている、という環境で育った彼女は13、4歳で最初の結婚をします。相手は穂積皇子。詳細は後述しますが、天武の息子になります。ただ、坂上が嫁いだ時には穂積はどう見積もっても40歳過ぎ。親子ほども年の離れた相手でしたけれど、それでも幸せだったようです。...が、穂積はたった2年足らずで他界してしまいます。
 しばらくしてから2度目の結婚。20歳の頃です。相手は藤原麻呂。そう、あの鎌足を祖父、不比等を父に持つ藤原4兄弟の末弟でした。けれどもこれも、僅か2年足らずで破局。一時的な恋だったのでしょう。
 しかし、彼女は麻呂との離別後、殆ど間をおかずに3度目の結婚。相手は同門、異母兄の大伴宿奈麻呂でした。因みに、この相手もひと回り以上年上です。そして、宿奈麻呂との間に娘を2人もうけました。大伴坂上大嬢と二嬢で、大嬢はのちに家持の正妻となります。
 詳しい史実は残っていませんが、宿奈麻呂も2人目の娘が生まれて間もなく他界してしまったようで、坂上郎女は20代半ばから、女手ひとつで娘たちを2人とも立派に育て上げています。

 一方の大伴一門ですが、この当時の宗主は中納言・旅人。彼は筑紫の大宰師に任ぜられていた為、事実上不在。しかも旅人の妻・大伴郎女は旅人の任地到着と前後するように他界してしまい、名門・大伴氏は軸を失いかけていました。
 このことを案じた旅人は、坂上に一門の要、つまりは家刀自として全てを執り仕切るよう指名します。何せ本人は既に65歳過ぎ、肝心の跡取り・家持はまだ10歳にも満たない、という状況でしたので。

 そう、大伴家持の母親代わりとして、また和歌の先達として、彼を育て上げたのもまた、坂上なのです。引用することは控えますが、家持が16歳の時に坂上と交わした相聞がありますけれど、どうやら裏側には家持と坂上の娘・坂上大嬢との恋があったらしく、坂上は代作、つまりは坂上大嬢に成り代わって、相聞歌を詠んでいるんですね。

 言うまでもなくこれは、坂上の誘導です。大伴氏を磐石の体制にする為にも大嬢と家持の関係は歓迎すべきもの。なので、こういうある種の相聞ごっこを通して、家持の真意を聞き出したのでしょう。...すごいものです。
 坂上の努力実って2人はのちに結婚。さらには下の娘である二嬢に関しても、坂上は代作した歌を大伴駿河蘇呂に贈り、こちらも無事ゴールイン。若くして寡婦になってしまった坂上は、それでも2人の娘の縁を取り持った、というところでしょうか。

 余談ですが、大歌人と言われる女性ほど、「代作」というキーワードが登場して来る偶然と、ゆえにやはり坂上もまた言霊に選ばれた人だったんだ、と思っています。女性としては、額田のような華やかさもなく、讃良のような男性を押さえつけるが如き、激しさもない。けれども、常に地に足のついた冷静さで、何事も着実にこなしていく強さの持ち主だった、と感じます。

 そんな坂上の足跡を何故、急に観たくなったのか。それは、彼女と娘・大嬢が残した母娘間のやり取りに、私がずっと憧れていたからです。

|常世にと 我が行かなくに
|小金門に もの悲しらに
|思へりし 我が子の刀自を
|ぬばたまの 夜昼といはず
|思ふにし 我が身は痩せぬ
|嘆くにし 袖さへ濡れぬ
|かくばかり もとなし恋ひば
|故郷に この月ごろも
|有りかつましじ
                        大伴坂上郎女「万葉集 巻4-723」
|朝髪の思ひ乱れてかくばかり汝姉が恋ふれぞ夢に見えける
                        大伴坂上郎女「万葉集 巻4-724」
|うち渡す武田の原に鳴く鶴の間なく時なし我が恋ふらくは
                        大伴坂上郎女「万葉集 巻4-760」
|早川の瀬に居る鳥のよしをなみ思ひてありし我が子はもあはれ
                        大伴坂上郎女「万葉集 巻4-761」


 全て坂上が大嬢へ贈った歌です。家刀自であった以上、大伴の各荘園を視察に行くことも、しなければならなかった坂上は、旅先から娘へ詠みます。
「出掛ける時、戸口で不安げに悲しそうにしていた大嬢、あなたのことを思うと嘆きのあまり痩せてしまいました。袖も濡れてしまいました。〜(後略)」
「朝の髪がこんなに乱れてしまいました。きっと娘が私を恋しがっているから夢に現れてこうなってしまったのですね」
「遠く見渡せる竹田に鳴く鶴のように、絶え間なくあなたを思っていますよ」
「早瀬の中に立つ鳥のように頼りなげだった我が子が愛おしい」

 もはや立派な恋歌です。さらには娘から母へ、母から娘へという長歌(反歌を伴う)の相聞もあります。

|霍公鳥 来鳴く五月に
|咲きにほふ 花橘の
|かぐはしき 親の御言
|朝夕に 聞かぬ日まねく
|天離る 鄙にし居れば
|あしひきの 山のたをりに
|立つ雲を よそのみ見つつ
|嘆くそら 安けなくに
|思ふそら 苦しきものを
|奈呉の海人の 潜き取るといふ
|白玉の 見が欲し御面
|直向ひ 見む時までは
|松柏の 栄えいまさね
|貴き我が君
                         坂上大嬢「万葉集 巻19-4169」
|白玉の見が欲し君を見ず久に鄙にし居れば生けるともなし
                         坂上大嬢「万葉集 巻19-4170」

|海神の 神の命の
|み櫛笥に 貯ひ置きて
|斎くとふ 玉にまさりて
|思へりし 我が子にはあれど
|うつせみの 世の理と
|大夫の 引きのまにまに
|しなざかる 越道をさして
|延ふ蔦の 別れにしより
|沖つ波 とをむ眉引き
|大船の ゆくらゆくらに
|面影に もとな見えつつ
|かく恋ひば 老いづく我が身
|けだし堪へむかも
                       大伴坂上郎女「万葉集 巻19-4220」
|かくばかり恋しくしあらばまそ鏡見ぬ日時なくあらましものを
                       大伴坂上郎女「万葉集 巻19-4221」


 「不如帰が鳴く五月に咲きにおう花橘のように芳しき母上のお言葉を朝夕に聞かない日が多く、遠い田舎にいて山の峰に立つ雲を眺めては、嘆き安心できず、奈呉の海人がとる真珠のように、見たくて堪らないあなたのお顔を直接見るまでは、どうか常緑樹のように栄えていてくださいね、お母様」
「真珠のように見たい、想い続けているお母様とお会いできずに田舎にいるので、生きた心地がしません」

 「海の神が玉手箱の中に仕舞って置く真珠にも勝って想っていた我が子だけど、人の世の習いとして夫君(家持)に連れられて越の国を目指して行ってしまってから、あなたの三日月のような眉が、面影がちらついて、こんなに愛しがっていては、果たしてこの年老いた身に耐えられるでしょうか」
「これほどに愛しいのなら、顔を見ない日も時もなく、いつも一緒にいるのだった...」

 「朝髪の」は思い乱るを、「天離る」は鄙を、「松柏の」は栄ゆを、「しな離る」は越を、「延ふ蔦の」は別れを、「沖つ波」はとをむを、「大船の」はゆくらゆくらを、「まそ鏡」は見るを、それぞれ伴う枕詞です。

 すっかり暮れてしまった神社にタクシーを横付けしてもらい、運転手さんに
「10分だけ待っていてください」
 と頼んで神社の境内へ。「うち渡す〜」の歌碑がありました。赤い社殿と祠が2つ。あとは薄暗いし、怖いしで、よく観ていません。すぐ近くの竹田大橋が架かっているのは寺川、という川だったようですがよく判りませんでした。

 なほ/\に なるを得ざりし
 をなありき おいらかざりし
 あもゝあり うしはうしづれ
 あり/\て いましかこたむ
 ゐまくほしきと

 知りゐるやをなを産みたる御身 そのかみと
 いまあれは齢等しき三十に四歳と        遼川るか
 (於:竹田神社)


 小雨が少し降り始めていました。

            −・−・−・−・−・−・−・−・−

 目が覚めたのは7時過ぎでしたか。夜中に復旧したパソコンで、慌ててあれこれ作業しているうちに眠ってしまっていたようで、久しぶりに熟睡した気がします。お天気は生憎の曇り空。
 前夜、大伴坂上郎女について、少し考えていた時。ふと思いついたことがありました。穂積皇子、但馬皇女、猪養の岡、吉隠...。奈良旅行4日目は奇しくも泊瀬と山の辺の道方面へ出向く予定でした。ならば、すぐ近くなのだし、行かない手はありません。当初の予定を少し変更して、最初に吉隠へ向かいます。



 平城宮跡の狭野茅上娘子に関連して、自分が知る限り「万葉集」で狭野茅上娘子ほどの激情に、身を任せた女性は他に但馬皇女くらいしか知らない。私はこう書きました。...本当にそうだと思います。

 当時の価値観で考えたら、凡そ考えられない、禁忌とかタブーというより、そういう発想すらも、もしかすると出て来ないことを、恋しさの余りやってのけたのが、但馬皇女という女性です。そして、そのお相手は穂積皇子。但馬の異母兄であり、同時に彼女の夫・高市皇子の弟でした。3人とも父親は天武です。

 高市は、天武の数多い皇子の中では最も年嵩です。壬申の乱でも軍事を一手に引き受け、しかもそれを成し遂げた功労者。穂積と但馬が恋情に身を灼いていたのは丁度、讃良が皇位についている時期で、高市は既に太政大臣。立太子こそしていませんが、宮中きっての有力皇族でした。

 一方の穂積は、詳細こそ不明ですが生まれたのは恐らくはその壬申の乱平定後。つまりは、所謂、戦争を知らない世代です。そして、それは但馬も然り。
 ようやく訪れた平穏な時代。その立役者たる長兄のもとに嫁いでいた年若い妃が、同じく若年の弟へ思慕を募らせる...。当然、宮中では非難の対象となりますし、禁じられたがゆえに一層、但馬のボルテージは昂ぶっていきます。

 ...いつの時代も同じですが、こういう風に女が捨て身になると、世の男性陣は、先ず腰が引けてしまうものでしょう。実際に、穂積もそうでした。いや、こういう書き方をすると彼に対して失礼かもしれません。何故なら、彼は個人的な感情以前に、宮中での立場がありました。
 だからなのでしょう。但馬に関わる、この時期の穂積の歌は全く残っていません。残してはならない、残せるはずなどなかったのだ、と思います。

 その点、但馬は違います。 「万葉集」に但馬の歌は4首採られていますが、うち3首までが穂積を慕ったもの。そこには、彼女の物狂おしいまでの激しさが満ちています。

|秋の田の穂向きの寄れる片寄りに君に寄りなな言痛くありとも
                          但馬皇女「万葉集 巻2-114」
|後れ居て恋ひつつあらずは追ひ及かむ道の隈廻に標結へ我が背
                          但馬皇女「万葉集 巻2-115」
|人言を繁み言痛み己が世に未だ渡らぬ朝川渡る 
                          但馬皇女「万葉集 巻2-116」


 「秋の田の穂が、ひと方向へ靡いている。私もあなたの傍に寄り添っていたい。譬え噂が喧しくても、構わない」
「あなたが去った後に残っていて、こんなに恋しがっていても仕方がない。追いかけていきます。だから、どうか道の辻ごとに目印を結んでおいてください」
「人の噂があまりに煩わしいから、まだ渡ったこともない朝の川を渡ってしまいました」

 朝川渡る。比喩表現ですが、つまりは人が絶対にやらないことを私はやってしまった、という意味になります。
 当時の婚姻は全て通い婚です。夫が妻の元へ通うことが、当たり前であり、当然であり、その反対の状態など余程のことがない限り、考え付きもしないことだったのではないか、と思います。...が、但馬はそれを実行に移した。移せてしまった、ということです。

 その後の2人の詳細は判りません。ただ、大伴坂上郎女に関連して書いたように、少なくとも穂積は宮中で失脚することもなく、最終的には知太政官事の位まで上っています。

 スキャンダルから約10年、但馬は他界。吉隠の猪養の岡へ葬られました。そして、ようやく穂積が重たい口を開いています。

|降る雪はあはにな降りそ吉隠の猪養の岡の寒からまくに 
                          穂積皇子「万葉集 巻2-203」


 「雪よ、どうかそんなに酷く降らないでやってくれ。猪養の岡に眠るあの人が寒がるだろうから」


 小雨がぱらついていました。遠くの山々には霧とも霞ともつかない靄が掛かっていました。猪養の岡。未だに場所が何処なのかは、特定されていません。なので、車を停めるのに適当な場所を選んで、少しだけ歩いてはみましたが...。

 降る雨はあはになきゆゑ朝川を渡りしうちかた鎮むるがごと   遼川るか

 やゝ詠ひし歌は十歳を貫くも白玉聞き得じ もはや逝きたり   遼川るか
 (於:吉隠地区)


 白玉or白珠。古典和歌の代表的比喩表現で、意味は「想い人」。

 余談になりますが、「万葉集」4516首のうち、この猪養の岡が詠み込まれている歌がもう1首だけあります。...詠み手は、穂積晩年の妻・坂上です。

|吉隠の猪養の山に伏す鹿の妻呼ぶ声を聞くが羨しさ
                       大伴坂上郎女「万葉集 巻8-1561」


 坂上がこの歌を詠んだのは既に彼女が大伴の家刀自として、各荘園を周っている時。当然、穂積は随分前に他界していますし、彼女もその後に2度の結婚を経ていますが...。
 羨しい。ともしい、と読みます。意味は、飽きない・羨ましい・恋しい・可愛い・珍しい、などです。既に寡婦になっていた坂上には、猪養の岡にじっと留まり、妻を呼ぶように鳴く牡鹿の声がどんな風に聞こえたのか。
 しっかり者の家刀自も、時に寂しさに襲われていたのかも知れません。

            −・−・−・−・−・−・−・−・−

 吉野に関連して書きましたが、大和時代、泊瀬はひとつの小地域としてクニと呼ばれていました。これが、泊瀬小国です。そして、泊瀬を伴う枕詞が「隠口の/こもりくの」。
 なので、隠口の泊瀬小国。万葉時代の泊瀬の呼び名です。隠口とは、隠り国。つまりは山に囲まれ、奥まった処に隠れているようなクニという意味になります。

 一方の泊瀬ですが、この名前の由来は船が泊まる瀬。泊瀬川は流れ下っていく途中で大和川となり、最後は大阪湾へ抜けます。かつて、大陸からの貴賓はこの水路によって泊瀬に降り立ち、飛鳥を目指しました。
 また、日本最古の交易市と言われている海石榴市も、この水運による貨物の集積所だったから拓けた、ともされています。

 山に囲まれ、匿われた土地。船が停泊する場所。だからなのでしょうか。泊瀬の地は平野部に暮らす男性たちからすると、ドラマチックでスリリングな恋の舞台だったようです。
 当時の結婚は通い婚ですから、こっそり通って来ては日頃は会えぬ相手への想いを、人々は泊瀬の地で解き放ったのかも知れません。

|隠口の 泊瀬小国に
|よばひせす 我が天皇よ
|奥床に 母は寐ねたり
|外床に 父は寐ねたり
|起き立たば 母知りぬべし
|出でて行かば 父知りぬべし
|ぬばたまの 夜は明けゆきぬ
|ここだくも 思ふごとならぬ
|隠り妻かも
                         作者不詳「万葉集 巻13-3312」


 いにしえの人々は詠います。泊瀬小国に寄せて、自らの思いの丈を。

|泊瀬川流るる水沫の絶えばこそ我が思ふ心遂げじと思はめ
                          作者不詳「万葉集 巻7-1382」
|泊瀬川早み早瀬をむすび上げて飽かずや妹と問ひし君はも
                         作者不詳「万葉集 巻11-2706」


 もちろん、中には成就しないもの、時間の流れの中で消え薄れていくものもあるでしょう。それらは当時、流れが激しかった泊瀬川に寄せて、恋の無常観を掻き立てたのかもしれません。

 世を忍び訪ふ隠口の泊瀬川みなは弾けてさゝとし果てぬ   遼川るか

 弾けても残るあはれは泡沫のいめなればこそゝこひゆ覚むれ   遼川るか
 (於:泊瀬川)


 けれども泊瀬にはもう1つの顔がありました。恋とはまるで正反対のもの。それは、死。泊瀬山や、周囲の巻向山、天神山などの一帯は、葬送の地でもあったようです。

|こもりくの初瀬の山の山の際にいさよふ雲は妹にかもあらむ
                         柿本人麻呂「万葉集 巻3-428」
|事しあらば小泊瀬山の石城にも隠らばともにな思ひそ我が背
                         作者不詳「万葉集 巻16-3806」


 泊瀬は国道165号沿い一帯なのですが、山1つ向こうには国道166号が走っています。この2本の国道に挟まれている山は忍坂山。甘樫丘で少し触れましたけれど、この忍坂山を伴う枕詞は「青旗の」で当時、青旗は葬旗でした。また、そういう歌も残っていますし、陵墓もあります。...これらは追々、後述していきますが。

 こゝろえばすでに幾歳 雲といさよひ
 後問ひてあもを送らむ泊瀬の山にそ    遼川るか
 (於:泊瀬山)







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