泊瀬川沿いを少し散策しているうちに、雨が止みました。比較的、朝が遅めなのかようやく、長谷寺の参道脇のお店も営業開始する処がちらほら。お饅頭などを蒸かしているらしく、仄かに甘い香り。何でも草餅が美味しい、という噂は聞いていたのですが、間食は厳禁と自分に言い聞かせました。...やはり、食べるより消費することを考えねば。
 そういう意味では、次の立ち寄り先は理想的です。

|また初瀬にまうづれば、初にこよなく物たのもし。處々にまうけなどして行きもや
|らず。山城國、柞の杜などに、紅葉いとをかしき程なり。初瀬川わたるに、初瀬川立
|ちかへりつつたづぬれば杉のしるしもこのたびや見むと思ふもいとたのもし。
                         菅原孝標女「更科日記 44段」

|「うち次ぎては、仏の御なかには、初瀬なむ、日の本のうちには、あらたなる験現し
|たまふと、唐土にだに聞こえあむなり。まして、わが国のうちにこそ、遠き国の境
|とても、年経たまへれば、若君をば、まして恵みたまひてむ」
| とて、出だしたてまつる。ことさらに徒歩よりと定めたり。ならはぬ心地に、い
|とわびしく苦しけれど、人の言ふままに、ものもおぼえで歩みたまふ。
                        紫式部「源氏物語 22帖 玉鬘」

|市は 辰の市。里の市。海石榴市、大和にあまたあるなかに、長谷寺にまうづる人
|のかならずそこに泊るは、観音のご縁あるにや、心異なり。
                       清少納言「枕草子 14段 “市は”」

|それよりたつほどに、雨風いみじく降りふぶく。三笠山をさしていくかひもなく、
|濡れまどふ人おほかり。からうしてまうでつきて御幣たてまつりて、初瀬ざまに
|おもむく。
                        藤原道綱母「蜻蛉日記 132段」


 突然、「万葉集」から一気に平安朝、王朝女流文学になってしまいますが、上述の通り、様々な女流文学者たちが、書き残しています。初瀬詣でについて。
 もちろん、女流に限ったことではありません。男性歌人の有名例なら「古今和歌集」から小倉百人一首に採られている

|人はいさ心もしらずふるさとは花ぞむかしの香ににほひける
                      紀貫之「古今和歌集 巻1 春上 42」

 は、初瀬詣での度に泊まっていた家で詠んだ、と詞書に明記されています。

|初瀬にまうづるごとに、宿りける人の家にひさしく宿らで、程へてのちにいたれり
|ければ、かの家のあるじ、
|「かくさだかになむやどりはある」
| と、言ひだして侍りければ、そこにたてりける梅の花を折りてよめる
                       「古今和歌集 巻1 春上 42」詞書


 初瀬詣で。平安期になっても、人々の奈良の寺社仏閣に対する信仰心は変わりませんでした。なので必要に応じて出掛けるわけですが、京都から春日大社などの奈良周辺へ向かうと、大体日帰りできてしまうんですね。そこで、お参りとちょっとした旅行をワンセットにすることが多くなります。
 そういった意味で平安期、最も人々が憧れたのがお伊勢参り。京都から奈良を経て、やがて三重へ抜ける、という行程です。

 しかし、お伊勢参りは女性の脚には少しハードだったようです。とは言え、日帰りではなく、やっぱりお泊りもしたいわけで...。そこで自然と人気を集めたのが、奈良と伊勢の中間に位置する初瀬へのお参りだった、ということです。
 そして初瀬詣での目的地は、長谷寺。ご本尊は十一面観音像です。


 泊瀬山の中腹に開かれた山門を潜り、本堂を目指す者の前にのびているのが有名な登廊、実に399段。前日、1日中自転車を漕いでは、緩やかな坂を上り下りしていた身には、これが何とも...。
 季節ごとに桜や牡丹、紫陽花、紅葉などが見物だとは知っていましたが、端境期なのか、せめてもの慰めになってくれる風景もなし。ただただ、黙々と登り続けてようやく本堂に。
 ...けれども、肝心のご本尊が修繕中でした。

 長谷寺の十一面観音は、何でもその御手で広く人々の願いを受け止める、といいます。また悩める者の処へは自ら駆けつけてくれる、という懐が深い上にフットワークも抜群のようで...。
 修繕中の観音様に、ちゃんと顔を覚えて戴いて、困った時にはその大きな体躯で神奈川まで駆けつけてもらえるように、しっかりアピール。そして最後に深々とお辞儀して、登廊を下ります。

 惑はゆるて裾をからげて急ぎ馳せ観世音いざ日横へ行かむ    遼川るか

 てのうちにお納め給ふやほか/\のたまごのしかく切なる願ひ  遼川るか
 (於:長谷寺)


 拙歌中の「馳せ」は、当然ですが長谷との懸詞になっています。

 薄日の射し始めた参道沿い。美味しそうな草餅を売るお店が、何件も何件も軒を連ねていました。

             −・−・−・−・−・−・−・−・−

 「万葉集」を離れてしまったからでしょうか。それとも万葉人たちが謳歌した恋に彩られた土地だからでしょうか。忍坂山へ向かいながら、何故か思い浮かんでいたのは、「古事記」に残る、悲恋の物語が1つ。といっても、こちらはちゃんと「万葉集」にも関連していますが。

 日本文学史上、道ならぬ恋というのは、凡そ枚挙に暇がありません。江戸期の西鶴、近松はもちろん、身分違いや伴侶がいる身、周囲の反対などなど。けれども、そういった倫理観の範疇で語られるものであるならば、それもまた甘美、とも言えるのでしょうが。
 寡聞にして無知な為、例えばギリシア悲劇のオイディプスのような、もはや倫理の外側の例は、あまり国文学では思いつきません。なので、個人的には迷わず挙げるであろう、禁忌の最高峰はこの2人のことになってしまいます。

|こもりくの 泊瀬の川の
|上つ瀬に 斎杭を打ち
|下つ瀬に 真杭を打ち
|斎杭には 鏡を懸け
|真杭には 真玉を懸け
|真玉なす 我が思ふ妹も
|鏡なす 我が思ふ妹も
|ありといはばこそ 国にも
|家にも行かめ 誰がゆゑか行かむ
                       木梨之軽太子「万葉集 巻13-3263」
|君が行き日長くなりぬ山たづの迎へを行かむ待つには待たじ
                           衣通王「万葉集 巻2-90」
|隠国 泊瀬の山の
|大峡には 幡張り立て 
|さ小峡には 幡張り立て
|大峡にし なかさだめる 
|思ひ妻 あはれ
|槻弓の 伏る伏りも
|梓弓 立てり立てりも
|後も取り見る 思ひ妻あはれ
            木梨之軽太子「古事記 下巻 允恭天皇3 軽王と軽大郎女」


 短歌の詠み手・衣通王は、「日本書紀」だと木梨之軽太子の母・忍坂大中姫の妹、となっていますが、「古事記」は軽大娘皇女と同一人物としています。「万葉集」では、前二者をあくまで「古事記」からの引用、として記載していますので、ここでは「古事記」の解釈で話を進めましょう。

 允恭天皇。第19代の天皇ですが、彼の第一皇子として立太子していたのが木梨之軽太子です。彼は見目麗しく、人望に厚い、とても出来た人でした。が、同母妹の軽大娘皇女と通じて失脚。伊予の道後へ流されます。如何な古代とは言え、両親共に同じ親を持つ子供同士の相姦は当然、禁忌中の禁忌でしたから。
 そんな兄であり恋人である軽太子を追いかけて、軽大娘皇女も伊予へ。そして揃って命を絶ったといいます。
 長歌2首は、言ってしまえば軽太子の辞世の歌です。一方の短歌は軽大娘皇女が伊予へ行く時の心中を述べているもの。

 因みに、「日本書紀」に拠れば、伊予に流されたのは軽大娘皇女の方で、軽太子は失脚したのち、弟の穴穂皇子を支持する群臣たちの中、孤立。最後は攻め入った穴穂皇子の軍勢に取り囲まれて自決、となっています。

 何れにせよ、元歌は全て「古事記」に収録されている歌謡なわけで、史実としてはどれほどの真実味があるのかは不明です。少なくとも多くの歌謡も収録している「日本書紀」には、見当たらない歌ですので。

 ただ、ここで気になるのは、こもりく。泊瀬の地が詠まれているという点です。万葉より100年以上昔、泊瀬はどのような土地だったのか。どのような幻想空間を人々に見せていたのでしょうか。
 お話は前後しますが、軽太子の兄弟はのちに2人が皇位についています。前述の穴穂皇子(第20代安康天皇)と、その後を継いだ雄略天皇です。
 その雄略天皇の宮跡が泊瀬にはあります。泊瀬朝朝倉宮跡です。そして、この泊瀬は、5〜7世紀に於ける、古代大和朝廷の中心であったわけで、この世を去ろうとしている軽太子にしてみれば、言わば故郷、ということになりそうです。

 

 葬旗が枕詞になっている忍坂山。山に匿われた土地ゆえにドラマチックな恋の舞台であった泊瀬。実際に、忍坂の地にある様々な陵墓へはこれから向かうのですから、葬送地というのもまた、頷けるのですが、同時にそこは古代王朝の中心地でもあり...。

 細い山道を徐行運転しながら、歴史というのは流れを追ってこそ、のものであって、けれどもその時代々々に暮らす人々にとっては、自ら生きる時代のみが重要で、過去はあまり関係がありません。少なくとも、古代や上代に於いては。
 そして、それぞれの時代に生きた人々の一瞬の感情を切り取った歌。過去も未来も関係ない、ただただその瞬間のみが凝縮された歌だからこそ、1300余年も、1500年もの時間を経ても、今なお鮮やかな光を宿しているのではないでしょうか。そこへ後世的史観を介在させて鑑賞しよう、というのが土台無理な話なのかも知れません。
 最初に読んだ一瞬の共感と、誤読であろうがなかろうが、そこから導かれた感慨と...。詠み手としてではない、読者としてのスタンスも、和歌に関わる人間としては、とても重要だと思いますし、私なりに思うのはどんなスタンスであれ、そこにはどの歌に接するにも、等しく変わらない一貫性がなければならないのではないか、と。
 そんなことを考えていました。

 私自身に照らし合わせても、42冊にもなる4歳からの歌日記は、もちろん全てを通して読み直せばこそ、時系列での意味も見えてきます。
 が、ランダムに選んだ数首を並べてしまえば、もはやその歌意云々よりも、奥に潜んでいる瞬間の情動が、ストレートに伝わってくる代物ばかりです。
 幾つかご紹介します。

*4歳・処女作
 おかあさん、おなかがすいた。おにぎりのなかみはなあに。はやくたべたい。 
7歳
 ごめんなさい。かけっこおそくて、すみません。るかはお家に帰っていいの?
*11歳
 地球には引力がある。できなくて当然なんだよ、逆上がりなんて。  
*12歳
 揚げ物の油が燃えて火傷して、だけどあなたは火事の心配。 
*13歳
 普通って、優秀って何? 人よりも優れて、早くて、高ければ良し。 
*14歳
 弱いこと、デキないことは罪ですか? デキるあなたは強いんですか? 
*14歳
 背伸びして常に脱げないトゥシューズ。もうすぐ踵は退化するはず。
*15歳
 スカスカは恐い、不安にさせられる。ギチギチが好き、何か安心。
*16歳
 もう降りたい。あなたという名の価値判断、あなたの望み、あなたの土俵。
*17歳
 革命の狼煙を上ぐる勇気さへ萎へさせて母、けふ上機嫌。
*18歳
 革命を果たして空の広々し。「戻つておいで、私の時間」
*23歳・母発病
 伏せられてまたも初めぬる隷属に解かるゝを乞ひ解かれじを祈す。
*24歳
 脊髄の中の骨髄、伽藍堂。どうしてあなたは立つてゐるのか。
*26歳
 あなたより出でてあなたに還り得ぬ血潮はけふも後ろめたがる。
*27歳
 木の洞のごとき空間、かつて此処ゆ生まれ出でつる己が巨大さ。
*28歳
 物乞ひはいづれの時も蔑まれ 罪を憎まむ人憎まざらむ
*28歳
 棲みゐるは物狂ひやも 息のたび肥えゆく惧れ肥えゆく不信
*29歳・母他界
 勝ち逃げは卑怯と思ふ 負かす為の努力の残骸総山崩れ
*30歳
 今更に悟る自ら 穿たれし塹壕のうへ虎落苗啼く
*32歳・夫他界
 彼の女に半ば、彼にはその半ば、捧げます もう欲しがらざるに 
*32歳
 澄み渡る冬空に似て哀しみは深くとほくに透けるひと色

 歌枕としての泊瀬の意味。謳歌する恋あり、逆に潰えるもあり。葬送地としての無常観あり、そして古代王朝という故郷あり。
 これらは全て、言霊。泊瀬という地名に個々人が被せているイメージで、それゆえに人はその引力に従うかのように詠んで、読んで。

 記者だった頃、言葉というものが恐くてたまりませんでした。人がどうとるか判らない、でもそれによって意思の疎通を図らなければならない、何とも厄介な「道具」だという思いは、今なお変わっていません。
 でも、その不確かさがあるからこそ、人はまた言葉によって喜びもし、悲しみもし、悩みもして...。

 言葉に頼っていながら、言葉を信じきれない、というアンビバレンツは、恐らく私の中で消えることはないと思います。そんなことを考えていました。

             −・−・−・−・−・−・−・−・−

 ここに、1首の長歌があります。歌枕の泊瀬や忍坂山を詠み、さらにはすでに引用している人麻呂の歌「隠口の泊瀬の山の〜」などと同じく、葬送地という幻想空間を、謡っているものです。

|隠口の 泊瀬の山
|青旗の 忍坂の山は
|走出の よろしき山の
|出立の くはしき山ぞ
|あたらしき 山の 荒れまく惜しも
                        作者不詳「万葉集 巻13-3331」


 「泊瀬の山、忍坂山は横に突き出て、高く聳えて、とても美しいのに、惜しいことだ。この葬地にはもう誰もお参りしてくれない。何て、惜しいことだ」
 という歌意でしょうか。

 あきづしま大和の国の真玉付くをちこちゆ吹く上世の風   遼川るか
 
 上世といま差し並ぶ隣り合ひ百夜も昨夜もたゞ夜としかも   遼川るか
 (於:桜井周辺の古墳群)


 「真玉付く」はをちこちを、「差し並ぶ」は隣を、伴う枕詞です。

 葬送地・忍坂山。ここで、静かに眠っている人が数人います。最初から、その目的を持って訪れない限り、人に気付かれないのではないだろうか、と思えるほどひっそりと、葬られている人々がいます。
 天智・天武の父親である、第34代舒明天皇、第29代欽明天皇の娘・大伴皇女、舒明天皇の母である田村皇女、と結構な大物揃いなんですが、もう1人。「万葉集」に足跡をしっかり残した女性がいます。
 鏡女王です。すでに額田王や、大原の里に関連して、彼女には触れていますが、もう少しだけ書きます。

 凡そ人の一生というものは判らない、というべきなのか。それとも結局、個々人が一生で舐める辛酸というものは、誰にも等しく用意されているのかも知れない、というべきなのか。鏡女王と額田を並べるとつい考えたくなります。
 前述の通り、額田はその華やかな前半の人生とは裏腹に、晩年は侘しく、しかも史実には極々僅かな記述しかありません。彼女が実際に生き、彼女が実際に暮らし、一体彼女は誰だったのか、が殆ど手繰れないといいますか...。

 その一方で、鏡女王は違います。妹に天智を奪われ、皇族以外に下賜され、歌の才だってかなりなものだと思われるのに、偶々額田がいた為に未だに扱いは地味だと思います。
 けれども、下賜された相手が鎌足だった為に、興福寺の縁起には彼の嫡室としてきちんと名前が明記され、さらには

|秋7月4日、天皇は鏡女王の家にお越しになり、病気を見舞われた。5日、鏡女王は薨
|じた。
                       「日本書紀 天武12年(683年)7月」


 と確実に日本史が、彼女のいたことを証明しているのです。因みに興福寺の前身・山階寺は鎌足が病んだ時、鏡女王本人が、その回復祈願で建立したものでもあります。
 一説には、優しくて穏やかな人柄だった、と言われている鏡女王。彼女が残した歌に薫る、少し抑え気味の情熱に、その裏打ちを覚えてしまうのは、思い入れのなせる技でしょうか。

|秋山の木の下隠り行く水の我れこそ益さめ御思ひよりは
                           鏡女王「万葉集 巻2-92」
|神なびの石瀬の社の呼子鳥いたくな鳴きそ我が恋まさる
                          鏡女王「万葉集 巻8-1419」


 「秋山の木陰を流れて行く水のように静かに、私の方こそあなたのことをもっともっと思っています」
「石瀬の社の呼子鳥よ、どうかそんなに激しく鳴かないください。私の恋心がますます募ってしまいますから」

 雲梯の杜に因んで少し書きましたが、もし私が「万葉集」で好きな歌を3首選べと言われたなら。上記2首と「思はぬを〜」で、3首。恐らくは不動であろう選択でしょう。

 呼子鳥。郭公とも、ひよどりとも言われていますが、個人的にはやはり郭公で行きたい処。また、岩瀬の杜の実在箇所については諸説ありますが、斑鳩にある車瀬の森、もしくは竜田にある、というのが多く耳にする説です。

 舒明天皇陵までは何とか車で行けました。取り敢えずは、讃良の御舅さんにご挨拶だけして、そこからは徒歩です。小川が流れる脇に設えられた山道をゆっくり、ゆっくり。やがて深閑とした森が突然拓け、緑濃い山の斜面に出ます。すっかり光を取り戻した太陽が眩しく照らし、奥の方にある畑では農家のお母さんが野良仕事をされていました。
「今日は」
 声を掛けて、さらに登るとこんもりした木陰があって。...鏡女王陵墓です。讃良と天武のものや、佐紀の古墳群とも異なるこじんまりした、何処か慎ましささえ感じさせる陵墓の脇に歌碑が1つ。「秋山の〜」の歌です。

 
 慟傷しびは いづれ連なる
 うれしびを またも生ふらむ
 煩ひは しかるあはひの
 もよひとも 流れ流され
 ひとは行き ひとの世の旅
 刹那にて 固め果せし
 いまなれば 抗はずして
 容れまくほし 天そ授くる
 奇ゆゑ こへそ来りぬ
 こゆ発ちゆかむ

 すべからくいまに導き すべからく行くすゑ指せる息の限りに   遼川るか
 (於:鏡女王墓)


 拙歌中「煩ひ」は患ひと、「ひとは行き」は人は逝きと、懸詞になっています。

 登山中、斑猫という虫を初めて見ました。別名は道教え、というと以前、人伝に教わっていましたが。そして下山中、またしても見ました。恐らく同じ個体だったのでしょう。
 道教え。なのに登りの先導をしてもくれず、下りの先導もしてくれず。ただその場からさほど離れない範囲の中をずっと跳ねていました。







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