万葉巡り。吉野も、明日香も、泊瀬も、行きました。なので、次は山の辺の道方面へ向かいます。大和を囲む、たたなづく青垣。それを形成する山々のうち、東側の山々の裾野に沿って走る古道が山の辺の道。記紀に登場する、日本最古の道です。
 万葉期、南北を結ぶ主要交通路としては、山の辺の道より西の平野部に、3本。東側から上つ道、中つ道、下つ道があって、大和時代の都は、これらに沿うように、明日香・藤原・平城、と北上した、とも聞いています。
 ...が、それらから外れた山の辺の道は、万葉人から見て古代、つまりはそれこそ記紀の時代から続いている、歴史街道だったということになります。
 スタートからして、予定外の吉隠へ寄ったりと、この日はかなり時間がおせおせになっていたので、車で一気に北上。そして徐々に南下することに。では、この日、一番北に位置する目的地は、と言えば箸墓古墳となります。

 箸墓。「日本書紀」に、「倭迹迹日百襲姫命/やまとととびももそひめのみこと」と大物主命の説話がありますが、箸墓はこの倭迹迹日百襲姫命の陵墓、とされている古墳。日本最大であり、その大きさからも卑弥呼の陵墓ではないか、という物議まで醸している、そんな場所です。先ずは簡単な箸墓説話を。

 『倭迹迹日百襲姫は、大物主神の妻となったが、神は夜しか訪れず、姿をはっきりと見ることができない。そこで姫は朝までいて姿を見せて欲しいと懇願すると、神は「明日の朝、櫛箱の中にいるようにする。自分の姿を見ても決して驚くな」と言った。翌朝、櫛箱の中には、下紐ほどの小さくて美しい蛇。姫は驚いて声を上げてしまい...。大物主神は、恥じて人の姿に戻り、「おまえにも恥をかかせてやる」といって、空へ上って三輪山へ帰ってしまった。姫は後悔してどすん、と座り込んだ処、箸が陰部に突き刺さって死んでしまった。そのためその墓は「箸墓」と呼ばれ、この墓は昼は人が、夜は神が造ったという』

 頼まゆるもあはれ頼めず暴かゆるなさけとふものさてもはかなし  遼川るか

 見ゆるもの さのみを頼む
 をこにして 萎草の女は
 さかしてふ さいふいへども
 のちに悔ゆ 悔い贖ふも
 さかしなむ そを知るあれも
 萎草と いたづかはしき
 さもしと思ふも

 殿原の心し高きものなれば女ろおのづからうつしに生くる   遼川るか
 (於:箸墓古墳)


 正直言って、箸墓古墳と「万葉集」には、知る限りに於いて関連性はありません。扱われているのは、あくまで記紀であり、しかも「日本書紀」と「古事記」では、どうも説話が全く違いまして。
 「古事記」では、倭迹迹日百襲姫は夜麻登々母々曾毘売、と記載され、また、倭迹迹日百襲姫命が大物主命の妻であったからこそ成立する箸墓説話(「日本書紀」)は、けれども「古事記」だと、活玉依毘売が妻となっているからでしょうか。説話自体が登場していなかったように記憶しています。
 ...代わりに、活玉依毘売に纏わる、へその紡麻と丹土の説話がありますが。

 『活玉依毘売のもとへ、正体不明の麗しい男が夜ごとに訪れ、やがて活玉依毘売は懐妊する。怪しんだ両親は「赤い土を床に散らし、へそ(麻の糸巻)の紡麻(つむいだ麻の糸)を男の衣の裾に刺しなさい」と教える。夜が明けてみると、糸は戸の鍵穴を通って三輪山の社の所で終わっていて。活玉依毘売はそこで初めて、男が大物主神であることを知った。その時、戸の内には麻糸が3巻残っていたので、その付近一帯の土地を「三輪」と呼ぶようになった』

 なので、その大きさや立派さとは裏腹に、個人的には何処となく存在感が希薄といいますか、今ひとつ思い入れや、様々な感慨が掻き立てられる、ということのない、不安定な印象の古墳。
 箸墓古墳については、そんな風に漠然と思い続けていた、というのが本音のお話。けれども、やはり百聞は一見にしかず、でした。あれこれ考える必要など皆無、後世の人間の狭量な感覚など、一切無視して強引に力で捻じ伏せるパワー。それが、そこには満ち満ちていました。

 国道169号沿いから箸墓古墳を眺めます。手前に大きな池があって、向こうに普通の古墳より大き目の繁みがあって、そして...。
 繁みの、もうさらに向こうに鎮座ましましていたのは、三輪山。
「似ている、同じだ...」
 思わず独り言が洩れるほどでした。ほぼ相似だったのです。箸墓古墳の稜線と、三輪山の稜線が。

 ご紹介した双方の説話にしてもそうですが、如何に説話の内容が異なろうと、何であろうと、要は何れも三輪山説話であるわけで、ひいては三輪山信仰に繋がります。そして大和時代に於ける三輪山は、すなわち神奈備。雲梯の杜も、飛鳥坐神社や、その元々の場所と見なされている雷丘や甘樫丘も、その首座たる神奈備である三輪山信仰から派生したもの、と言ってしまっても、過言はないように思います。

 知っていると、判っている、は違います。どれほど頭で三輪山信仰というものが、古代日本の原点であり、これこれしかじかで...。などと聞きっかじりの薀蓄を傾けた処で、手前と奥と二重に走る平行線を観るまでは、きっと判らなかったのではないかと思います。改めて三輪山という存在そのものが、歴史の中で日本人の心に確固たる地位を占めて来たことを、実感として気付かされました。

 並びては 違ふことなき
 瑞山の 裾にをぬれの
 山の端の 山面、山辺
 翠微さへ 空に描かゆる
 やまつみの 御座さることを
 おのづから 謳はでありえじ
 その常陰 その背面ゆゑ
 畳なはる 青菅山の
 標の内なも

 山際に知る千早振る神のみこゝろ
 知らゆるはうつし諭せる倭のこゝろ   遼川るか
 (於:箸墓古墳)


 「畳なはる」は青菅山を、「千早振る」は神を、それぞれ伴う枕詞です。

 箸墓古墳を後にして向かう先は、もちろん神奈備・三輪山を祀る大神神社。これまでの神奈備では観られなかった、神樹といよいよ対面します。

           −・−・−・−・−・−・−・−・−

 ...もし、自らの掌を砂時計代わりに、一握の砂をさらさら零し続けたとしたならば。もし、この世界の風という風の全てが、望めば鎮まっていてくれるのだとしたならば。もし、掌と地面との距離が高からず、低からず、程よい位置であったとしたならば...。
 やがて生まれる砂山。それは等しく360℃に裾が広がり、どこを、どの場所をとっても歪さなどない、なだらかで、真っ直ぐで、全ての裾は頂きという一点を目掛ける。カタチの名前は錐。...円錐。
 もしも、こんなカタチが人為的でなくできたのだとしたら、自然は神意に司られていることを、私は一も二もなく納得するかも知れません。もしも、こんなカタチが人為的に造れるのだとしたら、人間は異端。何処かで、何かを、間違えてしまった種族なのかも知れません。

 ただただ呆然と、そんなことを思いつつ眺めていたのは三輪山。古代大和の象徴である、神が御座す山、神奈備。噂に違わず余りに美しく整った稜線を描く三輪山と、山そのものをご神体として、ゆえに本殿のないお社、そう大神神社です。
 高い、高い鳥居は真っ直ぐに空へのび、眺めた先には参道よりもお社よりも、その後ろに控えている山が...。なるほど、鳥居は神社ではなく、山に架かっているのでしょう、きっと。


|味酒 三輪の山
|あをによし 奈良の山の
|山の際に い隠るまで
|道の隈 い積もるまでに
|つばらにも 見つつ行かむを
|しばしばも 見放けむ山を
|心なく 雲の 隠さふべしや
                           額田王「万葉集 巻1-17」
|三輪山をしかも隠すか雲だにも心あらなも隠さふべしや
                           額田王「万葉集 巻1-18」


 大化の改新後、飛鳥から近江に遷都。その際、平城山の峠を超える一行の中にいた額田は詠いました。
「三輪山よ、奈良山の山の端に隠れてしまうまで、道の曲がり角が幾つも重なるまで、しっかりと見ながら行きたいのに。何度も何度も眺め見たい山なのに、それを無情にも雲が隠してしまっていいのでしょうか」
「三輪山をそのように隠してしまうのですか。せめて雲だけでも思いやりがあって欲しいのに。三輪山を隠していいものでしょうか」

 去りゆく大和の国魂を鎮める儀礼として、宮廷歌人であった彼女が、一説には中大兄皇子の代作として、詠んだとされているあまりに有名なこの長歌と反歌。けれども額田本人の三輪山に対する信仰心と、親しみと、大和への心情に溢れていて、万葉人にとっての三輪山がどんな存在であったのかを、どの万葉歌よりも雄弁に訴えているように感じます。
 ...これが、これこそが三輪山なのでしょう。

 同時に、特に古典和歌を嗜好する者にとって、ここ三輪山に匹敵する歌枕など、数える程もないのではないでしょうか。それくらい、ある意味に於いては神聖視されている、と言っても大袈裟ではありません。
 まして、それがご神体の山という括りではなく、大神神社全体として語るのならば、敷地内に存在する別の歌枕が...。「万葉集」に「三輪の桧原」と謳われた桧原神社や、別名の「穴師川」と並んで同じく万葉の歌枕たる巻向川。

|いにしへにありけむ人も我がごとか三輪の桧原にかざし折りけむ
              作者不詳「万葉集 巻7-1118 柿本人麻呂歌集より選」
|巻向の穴師の川ゆ行く水の絶ゆることなくまたかへり見む
               作者不詳「万葉集 巻7-1100 柿本人麻呂歌集より選」


 21代集に多く詠まれた標杉。

|三輪の山しるしの杉はありなからをしへし人はなくていくよそ
                       元輔「拾遺和歌集 巻8 雑上 486」
|見渡せはそことしるしの杉もなし霞のうちや三輪の山もと
                    兵衛督隆房「千載和歌集 巻1 春歌上 11」
|うき事は色もかはらす祈こししるしやいつら三輪の神杉
              後三条前内大臣「新続古今和歌集 巻20 神祇歌 2121」


 謡曲「三輪」や「古今和歌集」に登場する衣掛杉。

|ワキ 「不思議やなこれなる杉の二本を見れば。ありつる女人に与へつ
|  る衣の懸かりたるぞや。
|詞 「寄りて見れば衣の褄に金色の文字すわれり。読みて見れば歌なり。
|  三つの輪は清く浄きぞ唐衣。くると思ふな。取ると思はじ。
                                 謡曲「三輪」
|我が庵は三輪の山もと恋しくはとぶらひきませ杉たてる門
          詠人知らず(一説に三輪明神)「古今和歌集 巻18 雑歌下 982」


 他にも「古事記」のおだまき杉や、とにもかくにも、1つひとつ引用していたら切りがありません。

 日本最古の神社、今なお禁足の地・三輪山。ここもまた、万葉巡りに於いては絶対に落せない、落としてはならない場所です。高揚のあまりぞくぞくする、というのはああいう感覚なのでしょう。古歌詠みにとっての、あらゆる幻想と記憶と憧憬と、幾多の虚構。それらを1つに束ねて目の前にぽん、と据えられても、もはや立ち尽くす以外にどうしろ、というのでしょうか。



 取り敢えず、摂社や複数ある神樹のうち、それでも拘りの薄いものから観て周ります。大直禰子神社、檜原神社、巻向川も遠目ではありましたけど、ちゃんと眺められました。
 おだまき杉、衣掛の杉、しるしの杉...。神奈備の神奈備たる由縁たちはどれも既に切り株になってしまっていて、観られた喜びよりも、むしろそんな姿になってまで祀られ続けている現実に、そもそもの神聖さが穢されているようでもあり、一層崇められているようでもあり...。
 さらに奥へ進もうと、見据えた先にあったのは拝殿。そして、そそり立つごとく真っ直ぐにのびた巳の神杉...。「万葉集」に斎ふ杉と、数多詠まれた神樹に。亡母とのやりとりの中で
「奈良へ行く時、もしユウが恋なんてしていたら、悪戯に触れてやろうかしらね」
「...そんなことしないで、こっそり成就を祈ってよね」
 と1、2度登場した神聖なる杉の木に、ようやく御目文字が叶いました。


|御幣取り三輪の祝が斎ふ杉原
|薪伐りほとほとしくに手斧取らえぬ
                        作者不詳「万葉集 巻7-1403」


 巳の神杉。つまりは、大神神社のご神体・三輪山=大物主命は、箸墓説話でもわかるように蛇の化身とされています。少し蛇足的になりますが、そもそも古代の人々は鬱蒼たる三輪山に、ある種の不気味さを覚えていたのでしょうし、そこから流れ出す川、という水によって農耕を支えていたはずです。また、三輪山にかかる雲や霞を見ては、神のみ心を感じることも、あったでしょう。
 畏れと感謝、というそれらの畏怖がやがて、山に棲む蛇と結びついても奇怪しくはないわけで、三輪山の蛇神は同時に水神にも、雷神にも思えたのだ、と感じます。水を司るということは農作物の豊凶を司ることですし、五穀豊穣への祈りはやがて、国家の繁栄へも繋がります。
 これが三輪山の蛇神。そして、いつの時代からか、その蛇神が根元に棲んでいる、とのことから祀られるようになった神樹・巳の神杉は、常に蛇神様へのお供え物として、好物だという卵とお神酒が捧げられています。
 余談ですが、三輪、を導く枕詞は「味酒or旨酒の(を)」ですが、それもこういう流れから定着したものだ、と思います。

 古来より、聖なるものは最も身近で禁忌多きものに喩えられます。これは、何も大神神社の神杉にかぎった事でなく、最終日に訪ねた石上神宮の神杉も同様で、では最も身近で禁忌多きものとは、と言えば恋。ゆえに神杉に、触れると成就できないと...。「万葉集」にも、その前提で詠まれた歌や、恋の成就を神杉に祈ったものが幾つかあります。

|味酒を三輪の祝がいはふ杉手触れし罪か君に逢ひかたき
                      丹波大女娘子歌「万葉集 巻4-712」
|葦原の 瑞穂の国に
|手向けすと 天降りましけむ
|五百万 千万神の
|神代より 言ひ継ぎ来る
|神なびの みもろの山は
|春されば 春霞立つ
|秋行けば 紅にほふ
|神なびの みもろの神の
|帯ばせる 明日香の川の
|水脈早み 生しためかたき
|石枕 苔生すまでに
|新夜の 幸く通はむ
|事計り 夢に見せこそ
|剣太刀 斎ひ祭れる
|神にしませば
                       作者不詳「万葉集 巻13-3227」
|神なびの三諸の山に斎ふ杉思ひ過ぎめや苔生すまでに
                       作者不詳「万葉集 巻13-3228」
|斎串立てみわ据ゑ奉る祝部がうずの玉かげ見ればともしも
                       作者不詳「万葉集 巻13-3229」


 「新夜の」は幸くを、「剣太刀」は斎ふを、それぞれ伴う枕詞です。

 大伴坂上郎女と娘・大嬢のやりとりにあったように、母恋歌というものは、私の中では既に立派な恋歌です。また、甘樫丘で詠んだ長歌にまで自然と出て来てしまった亡母との、僅かに残る愉しい会話の記憶もあり...。
 だからなのでしょうか。自然と出て来た歌は恋歌でした。

 母恋歌。彼女の他界から随分、沢山詠んで来ています。でも、心の何処かで冷ややかに構えている自分がいました。自嘲という名前の...。初めてだったように思います。何の外連味も衒いもなく、ただただ、もう居ない彼女が恋しい、と。
 そして、そんな私を依代としたのでしょうか。後で宿に戻り、テープを起こしている時、気付きました。そこに明らかに存在していた、私へ向けられた、もう1つの視線。もはや母親的見地とも言える視点から紡がれた言葉。イヤフォンから流れていたのは、私自身の声だというのに...。

 味酒の 三輪の斎ひの
 杉になど 触れしことなど
 あらざれど なほもしむだく
 慟傷しびは しすらも知らず
 打ち捨つる あれとふものや
 事成すは もはやほりせじ
 たゞしにそ いま受けらるゝ
 まに/\を 授け給へや
 いめの國 もはや崩ゆるは
 避け得ざるゆゑ

 慟傷しびを募りて宿すあもの胸とほくまぼらむしのゆくかたを  遼川るか
 (於:大神神社・巳の神杉)


 歌、それは絆だと。彼女が私を産んだ年齢と同じ歳になったというのに、未だに成長できず、子供のままで残ってしまっている私の1部。切れていく臍の緒に必死に取り縋り、握り締めて離せないでいる、という歪に成長してしまった私の最後の砦だと。ずっと思っていました。でも、それは違ったのかも知れません。
 古典和歌最大の歌枕・三輪山。万葉の首座たる神奈備が、私に授けてくれた奇跡。その答え。それは、...解放。

 拝殿を越えて、さらに進むと現れる三ツ鳥居。明神型の鳥居が3つ組み合わされた独特の鳥居を前に、謡曲「三輪」の粗筋をふと思い出しました。

 『大和国の三輪の山陰に庵を結ぶ玄賓僧都のもとへ、樒と閼伽の水を持って、どこからともなく、1人の女が現れた。女は夜寒をしのぐ衣を一重、上人に乞う。上人が快く衣を与え、名を尋ねると女は
「わが庵は三輪の山もと恋しくは訪ひ来ませ杉立てる門」
 の古歌を引き、不審ならば杉木立の門を目印に来るように言って、姿を消す。 やがて三輪明神に日参している男から、神前のご神木の杉の枝に僧都の物らしき衣が掛かっているのを見つけた、との知らせ。三輪明神の社に来てみると、たしかに二本の杉に与えた衣が掛かっており、しかもその褄に
「三つの輪は清く清きぞ唐衣来るなと思ふな取ると思はじ」
 の一首が記されているのに驚き、茫然としていたそのとき、神杉の中から三輪明神が巫女姿で現れる。妄執の罪に苛まれる明神は、その罪から解き放たれることを願い日々、女の姿で僧都の許に通っていたのであった。その明神に対して、僧都は「罪科は人間に生ずるもの。明神は人間の心情を感知しようとした余り、ほんのちょっと迷いが生じたのであって、それはすべて衆生済度の方便である」
 と慰め、姿を見せてくれるよう懇願する。
 やがて裳に烏帽子、狩衣の姿で現れた明神は「神代の物語はすべて末世に生きる衆生に益するものである」と言い、和歌の徳を讃え、三輪山の神話を語り、天の岩戸の神楽の様を演じる。いつしか夜も明け、僧都は夢からさめる』

 魂幸 神代訪ぶらひ
 賜はゆる あれ解くあだて
 八雲とふ 来るなと思はず
 いらふるを 思ほゆるゆゑ
 すゑの世に 生くらばこそに
 なほもしまた詠へ

 あれ、あれを解くも放つも叶ふるはまたあれのみとあれのかぎりと 遼川るか
 (於:大神神社・三ツ鳥居)


 「魂幸」は神を伴う枕詞です。

 謡曲「三輪」の舞台となった玄賓庵は、桧原神社のすぐ側で、流石に戻るのは断念。大神神社を後にしました。

           −・−・−・−・−・−・−・−・−

 海石榴市。泊瀬に関連して既に書いていますが、日本最古の市です。そして、もう1つ、忘れてはならないのが、歌垣の舞台となった場所、ということです。
 歌垣、というのは春や秋、その場に居合わせた男女が即興で恋歌を詠み合うことですが、得てして市が立てば自然と人が集まり、人が集まればまた、自然と恋の鞘当てもあって然るべし、ということでしょうか。「万葉集」に収められている、海石榴市の歌垣で詠まれた歌は、余りにも有名ですが...。

|紫は灰さすものぞ海石榴市の八十の街に逢へる子や誰れ
                        作者不詳「万葉集 巻12-3101」
|たらちねの母が呼ぶ名を申さめど道行く人を誰れと知りてか
                        作者不詳「万葉集 巻12-3102」


 さらに有名なのは「日本書紀」に登場する武烈天皇と影媛、平群鮪の歌垣の舞台もまた、海石榴市だったということ。

|あをによし 乃楽の峡間に
|鹿じもの 水漬く辺隠り 
|水灌ぐ 鮪の若子ごを
|漁り出づな 猪ゐの子
            「日本書紀 仁賢11年(498年) 8月 影媛の歌謡として収録」


 だけに、どれほど華やいでいるのかしら、と思いきや現在では小さな観音堂が残るのみ。万葉期、山の辺の道、泊瀬道、飛鳥へと続く磐余道と山田道、そして難波へと抜ける横大路などの、幹線が交差した八十の巷の面影すらなく...。


 大神神社の余韻覚めやらず、その勢いで本来、歌が最も歌たる状態で人々に詠まれていた、まさに歌そのものの足跡を、ここ海石榴市跡で実感したかったのですが、流石にそれは叶いませんでした。
 歴史は流れで追いかけてこそ、のものではあれど、実際に暮らす者には今だけが全て。泊瀬で考えていたことを、ふと思い出しました。個々の歌や歌人の足跡を辿るのはいいです。でも、歌そのものの足跡を辿った処で、私にとっての歌というものが、変わるわけでもまたなく...。ただ1つ、感じるのは古代の人はみな言霊と親しかったのだな、と。それが、どうにも羨ましくて仕方がありません。

 歌垣の かつての華やぎ
 いまはなき 八十の巷に
 逢ひたるは あめのしたには
 もはやゐぬ 郎子もあり
 片絲の 縒るも千切れし
 縁あり さても自づと
 麗しび いまけだしくも
 あれたれと 辿らゆるなば
 あへしらはむ さしいらはむや
 かんがまず あふさきるさず
 たゞ歌の 生るがまに/\
 いまたのまむを

 歌口は空のまに/\生まゆるに言葉の花があれ還らしむ   遼川るか
 (於:海石榴市跡)


 「片糸の」は縒るを伴う枕詞です。








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