通りを叩く激しい雨音に、何回か目を覚ましたような気がしました。微かに心配をした記憶も、朧げながらあります。
「最終日が雨なんてな...」
 でも、携帯のアラームで起きた時、空はすっかり晴れ上がっていました。最終日にしてようやく戻って来た夏日に、「奈良盆地の暑さ」が実感できそうなお天気。...早くも、幾許かの感傷すら襲ってきていました。

 宿の撤収を済ませ、4日間お世話になった宿の方々と少しお話させて戴いて、遂に出発。フロントの方から
「奈良再訪の折には、またいらしてください」
 と声を掛けて戴きました。...古くて、設備も充実してはいなかったけど、でも何となく居心地のいい宿だったので、言われなくともそうするつもりです。

 昔からよく思うのですが、1つ新たな「知る」を得ると、必ずその向こうに新たな10の「知らない」が見えてきます。なので、その10の「知らない」に取り組むと、今度はまたそれぞれの向こうに10ずつの「知らない」が控えている。
 何かを知る度に、自分が如何に無知であり、未知であるかを思い知らされ、そしてそれと格闘して、また無知だと思い知り、また格闘して...。
 歌に限らず、「万葉集」に限らず、大和地方に限らず。すべからくこの連続の中、私は自分の好奇心を満たしてきました。...が、今回の旅行ほど
「ああ、私は本当に何も知らないんだな」
 と痛感させられたこともまた、少なかった気がします。沢山の「知る」と、数え切れないほどの「知らない」を授けてくれた万葉の地を再び訪ねる日も、きっと遠くないでしょう。...少なくとも、山部赤人や山上憶良、高市黒人、高橋虫麻呂、笠金村、車持千年らの足跡は、全くと言っていいほど辿っていませんしね。
 時間とお金にゆとりがあれば、紀伊で有間の足跡を。筑紫で往時の筑紫歌壇の様子を。難波で、近江で、伊勢で...。「万葉集」に溢れている魅力は、中々私を解放してはくれないようです。

 奈良旅行最終日。前日の大神神社と並ぶ、もう1つの日本最古の神社へ向けて。そして、地元「さねさしさがむ」へ向けて、出発します。

           −・−・−・−・−・−・−・−・−

 相聞歌。「万葉集」には本当に沢山の相聞歌があり、恋歌があります。その1つひとつに込められた想いもまた様々で、読んでいて羨ましかった、ぐったりしたり、思わず貰い泣きしてしまったり、なのですが、心底憧れているやり取りが1つ。詠み手は男性も女性も不詳。ただ歌の内容から汲み取れることは女性が、ちゃきちゃきした今で言う処のキャリアガール風。一方の男性は、それなりに年嵩の貫禄ある紳士、とでもいいますか。

|春山の馬酔木の花の悪しからぬ君にはしゑや寄さゆともよし
                        女、作者不詳「万葉集 巻10-1926」
|石上布留の神杉神びにしわれやさらさら恋に逢ひにける
                        男、作者不詳「万葉集 巻10-1927」


 「春山の馬酔木のように好ましくて、立派なお方だもの。えい、人から噂を立てられても構うものですか」
「石上神宮の神杉のように、年老いた身なのに、新しい恋をしてしまったよ」
 現代風に言うなら年の差カップルでしょうか。双方共に立場があるようですが、それでも満更ではないらしく殊更、構えることもせず、きちんと地に足の着いた余裕が感じられて、とても気に入っている相聞です。

 このやり取りの男性側。歌の上2句「石上布留の神杉」は神びにし、を導く序詞なのですが(「石上の」は布留を伴う枕詞でもあります)、この大元となっているのが石上神宮です。

 話は少し逸れますが、序詞。こちらも古典では多く登場する手法です。引用している女性側の歌にも「春山の馬酔木の花の」と悪しからぬ、を導く形で序詞が登場していますね。
 手法としては、ある語句を導き出すために、その前へ据える修辞的語句であり、歌意そのものとは、さほど関係がありません。そういう意味では、枕詞と同様の修飾機能を持っている、ということになります。
 けれども、枕詞が「原則として五音以内」、「被修飾語との関係が固定的」であるのに対し、序詞は長さの制限もなければ、内容的にも自由に創造できる、という点が大きく違います。
 元々は古代。それこそ記紀に収められている歌謡も含め、実際に目に見える風景や、その時々の世相についてなどから謡い起こし、やがて本質的な主題へ転換していく、という古代歌謡の発想形式から定着した、と言われています。
 「万葉集」にもあらゆる序詞が登場し、中には短歌でありながら上4句までが序詞、というものまであります。また、この序詞の修辞には当然ですが、往時の固定観念や一般的感覚がよく現れているわけで、個人的には「万葉集」を読み解く愉しみの1つ、とも思っています。

 前日、訪ねた箸墓を通り過ぎ、レンタカーを真っ直ぐ北上させます。夜には奈良を発つのですから、奈良市内方面へどんどん近づいていくわけです。
 そして着いたのは天理市。宿のあった橿原市と奈良市の丁度中間くらいでしょうか。日本最古の神社の1つ、とされている石上神宮は、比較的市街地近くにありながら、木々が鬱蒼と茂っていて空気も何処となく厳かで。

 石上神宮。古くは布留の社、と呼ばれていたそうですが、これはこの地が元々石上布留、と呼ばれていたことに由来しているとか。
 神宮が祀っているのは「布都御魂大神/ふつのみたまのおおかみ」。神代に武甕雷神がおびていた、と言われている霊剣で、別名は「平国之剣/くにむけのたち」とのこと。この霊剣が、神武天皇の東征の折、熊野で遭難している処へ降臨。危難を救ったのだといいます。

 


 そして後に第10代崇神天皇が現在の場所に霊剣を祀ったことで、石上神宮と呼ばれるようになったそうです。因みに、奈良朝以前に神宮の名がつけられたのは石上と伊勢の神宮だけだったと思います。
 また、このお社には本殿がなく、代わりに布留の瑞籬という石垣に囲まれた禁足地があり、この布留の瑞籬こそが、霊剣が祀られている場所なんですね。

 主神が霊剣だから、なのでしょうか。それとも石上、つまりは古代、朝廷の武器庫管理を生業としていた、物部氏(石上は物部氏の後の姓)に縁濃い神社だから、なのでしょうか。
 石上神宮には、記紀や日本史に登場する霊剣、宝剣、聖なる武器の類が多く奉納されている、といいます。
 素盞鳴尊が八岐大蛇を退治した天羽斬剣/あめのはばきりのつるぎ、有名な国宝「七支刀/ななつさやのたち」などなど、凡そ日本の霊剣という霊剣は、熱田神宮に祀られている三種の神器の1つ・草薙剣以外なら、全て納められているのだそうです。

 石上神宮を実際に訪ねるまでは、このある意味に於いて神格化された武器庫、という印象と、引用した歌やその他の「万葉集」の歌との印象が、どうしても私の中で合致させることができませんでした。けれども、境内を漫ろ歩いているうちに、何となく判ってきたように思えました。

 車で乗り付けて、最初に目に飛び込んでくるのは1本目の神杉と、鏡池。鏡池には、後醍醐天皇が吉野に逃れるとき、馬が嘶いて敵に見つかるのを怖れて、泣く泣く首を切り落とし...。それが魚になった、という伝説がある天然記念物・ワタカが棲んでいる、とのことでしたが覗き込むも、終ぞ観られず。

 続いて、玉砂利を踏み締めつつ、参道を進んでいると、放し飼いにされている東天紅という神鶏(チャボ)が出迎えてくれます。また、それをさり気無く眺めている呑気な猫もいて、時間の流れが極端に緩やかに思えてなりませんでした。
 そして再び現れる、注連縄の張られたどっしりした老杉。2本目の神杉です。大神神社の巳の神杉とはまた違い、神び、つまりは「古びている」と多く詠まれたのも納得させられてしまう風格といいますか、貫禄といいますか...。
 苔むした老杉は、天へ天へと真っ直ぐに伸び、数多の霊剣をまるで覆い隠すかのごとく枝を繁らせます。けれどもまた、その堂々たる様は、石上神宮へ立ち寄った人々をも優しく包みこみ、静かで穏やかなひと時を授けてくれて。

  

 神格化された武器庫であると共に、万葉の時代から変わらず、束の間の安堵を齎してきた神杉は、きっと人々には畏れ多くも、同時に何処か身近な存在だったように思います。
 境内にも万葉歌碑が立っていました。

|娘子らが袖布留山の瑞垣の久しき時ゆ思ひき我れは
                          柿本人麻呂「万葉集 巻4-501」


 布留。「万葉集」には、布留の地名を詠み込んだ歌が13首ほどありますが、その殆どが甘美な恋歌です。

|石上布留の早稲田の穂には出でず心のうちに恋ふるこのころ
                          抜氣大首「万葉集 巻9-1768」
|うつせみの 世の人なれば
|大君の 命畏み
|敷島の 大和の国の
|石上 布留の里に
|紐解かず 丸寝をすれば
|我が着たる 衣はなれぬ
|見るごとに 恋はまされど
|色に出でば 人知りぬべみ
|冬の夜の 明かしもえぬを
|寐も寝ずに 我れはぞ恋ふる
|妹が直香に
                  作者不詳「万葉集 巻9-1787 笠金村歌集より選」
|布留山ゆ直に見わたす都にぞ寐も寝ず恋ふる遠くあらなくに
                 作者不詳「万葉集 巻9-1788 笠金村歌集より選」
|との曇り雨布留川のさざれ波間なくも君は思ほゆるかも
                          作者不詳「万葉集 巻12-3012」
|我妹子や我を忘らすな石上袖布留川の絶えむと思へや
                         作者不詳「万葉集 巻12-3013」


 元々は布留=御霊振り、から来ていて揺り動かすことで霊を招き入れる、という意味だったそうなのですが、いつの間にか布留=袖を振る、に懸けて1種の、恋歌の歌枕・石上布留が定着していったのでしょう。
 そして、その裏側には畏れ多い禁忌でありながら、身近な存在である神杉。この存在もきっと寄与していたのだと思います。第一、杉は過ぎ、と懸けられて殊「万葉集」では恋愛感情の昂ぶりを表現する素材、として、元々がよく登場しているのですから、なおさらでしょう。

 御剣を いざ玉匣
 覆はむや 布留の社に
 しみゝたる 老ゆる叢雲の
 杉木立 むねともとより
 構へたる 神さぶりしを
 譬へてか 牝鶏晨す
 汝妹にそ 言ひ渡らるゝ
 ねびゞとは 思ひ初むるを
 独りごつ さきとはいたし
 いみじげな いづれときめか
 まくほし かくに

 絶え間来てさをなぞとせむものげなき、
          によしあつきとよ いで負かざらむ  遼川るか
 (於:石上神宮)


 「玉匣」は覆うを、「叢雲の」は杉を、それぞれ伴う枕詞です。

 余談になりますが、石上神宮のある石上布留一帯を治めていた物部氏。蘇我氏などの臣姓を名乗る、有力豪族は大和政権を構成していたのに対し、物部氏は連姓を名乗っていた為に、蘇我氏より身分は低くありました。というのも連は、古くからある血筋ゆえに皇祖神に仕えた神々の末裔を称していたわけで、言ってしまえば現代社会の官僚のような存在です。
 実際の政治にも関与する新興政治家と、由緒正しき官僚の争い。この一因に、仏教の受け入れが関わっていたのは疑うべくもないですが、近年の研究では物部氏とて、何も神道一辺倒ではなかった、と判明しつつあるようです。

 この2大勢力が遂に衝突したのは、用命2年(587年)。時の今上天皇が他界したことに端を発します。皇室と外戚関係ではなかった物部氏は、蘇我馬子と反りが合わなかった用命天皇の弟・穴穂部皇子を擁立しようとするものの、馬子の策略により皇子暗殺。戦端が開かれた結果、馬子が物部守屋を打破。
 これに参戦した1人が厩戸皇子で、戦いに先立つ1コマに

|「もしかするとこの戦いは負けるかもしれない。願をかけないと叶わな
|いだろう」といわれた。そこで白膠木を切りとって、急いで四天王の像を
|造り、束髪にのせ、誓いを立てていわれるのに、「今もし自分を敵に勝た
|せて下さったら必ず護世四王の寺塔を建てましょう」といわれた。
                         「日本書紀 用命2年(587年)7月」


 という説話が残っています。また、この厩戸皇子の誓いに続き、馬子も同様に誓いを立て、その結果建立されたのが飛鳥寺、となります。

 物部氏が滅亡した後、馬子は傀儡政権の崇峻天皇を擁立。続いて日本最初の女帝・推古天皇を立てて、彼女の摂政に就いたのが厩戸皇子です。
 やがて、時は流れて蘇我氏が厩戸皇子の直系子孫を絶やし、その蘇我氏は大化の改新によって滅び、けれどもその血脈は天平期まで時の政権を維持し続けた。
 が、その皇室とて勢力を蓄えていった藤原氏にいずれ取り込まれて行きます。歴史の流れは、人の足跡。いつの時代も、どこの土地でも等しく繰り返されるものは覇権抗争であって...。ほんの一握りの人々と、それに連なる数多の民草。その息遣いさえも伝えてくれる「万葉集」を、何となくぎゅっと抱き締めたくなってしまった、そんな石上神宮でのひと時でした。

 さきはひを 望めばこそに
 ほりしゝか おだやむことを
 祈るゆゑ 求めしものは
 あらたしき まがごとをまた
 醸すらむ けだし人の子
 その胸の 程合ひ弁へ
 参り来さば 違ひゐしやも
 ときの川 これかれ違ふ
 目界には 重ね難かる
 いめの國 さてもされども
 またうつし うつし在りゐる
 ひとの数だけ

 いにしへにならへばこそになほ謡へ あれのちさきを歯痒きと得る   遼川るか
 (於:石上神宮)


          −・−・−・−・−・−・−・−・−

 車窓を通り過ぎる景色が、次第々々に変わっていっていました。長閑な田圃は既に見られず、色取りどりの看板と娯楽施設と。やがて、フロントガラスには興福寺の五重塔。遂に奈良市内へ戻ってきました。

 初日がかつての平城京の西側ならば、最終日は東側。高円・奈良町周辺を見て周ります。先ずは讃良・天武の「白鳳の愛の寺」とも言われていた薬師寺に対し、「天平の愛の寺」と言われている新薬師寺へ。けれども新薬師寺のお隣に小さな祠が1つ。


 立ち止まってみると、立て札には比売神社、とあり祭神は、...十市でした。正直、彼女を祀る場所があったとは、考えてもいませんでした。いや、正確に言うのなら、1箇所は知っていました。いましたが、どう考えても伝承自体が信用し難い為に、個人的にはそれと認めていないお社は、千葉県の大多喜町にあります。
 ご参考までにご説明します。

 曰く広く一般的に知られている壬申の乱に関する説では、天武元年(672年)、当時の山前という地で大友皇子は自害。十市は父親・天武の元へ戻ったことになっています。
 が、大友皇子は自害などせずに、蘇我赤兄や蘇我大飯らとともに千葉県まで逃げ延びたというもの。一旦難波へ出て、海路から上総国へ。そしてそこで小川宮を造営。けれども、このことは天武の知る処となり、出兵。大友側は対戦できる備えもなく、上総の国にて自害したとのこと。
 同時に、大友の妃であった十市も上総に逃れたものの、妊娠中であった為に難産が元で他界。後に村人が十市を弔うために建てた、と伝えられているのが問題の筒森神社なのだ、といいます。

 記者時代、千葉県庁に関連する原稿もそこそ扱っていた関係で、この筒森神社には立ち寄ったことがありますが、神社そのものの佇まいはともかく、また大友が生き延びられたか否かもともかく、この伝承では少なくとも日本書紀の十市に関する記述と大きく食い違っているので、私自身は全くと言っていいほど信じてはいません。

|夏4月1日、斎宮においでになろうとして、占いをされたところ、7日がよ
|いということになった。よって平旦の刻に、先払いが出発、百寮が列をな
|し、御輿には蓋を召して出られようとする時、十市皇女が急病になられ
|宮中で薨じられた。このため天皇の行列は停止して行幸はできなかった。
                         「日本書紀 天武7年(678年)7月」


 ただ、正直な処、泊瀬倉梯宮の斎王に、寡婦にして子供までいた、十市が指名された違和感は払拭してくれる説ではありますが...。

 ともあれ、予想もしていなかった巡り合せに、もちろん喜び勇んでお参りします。恐らくは、十市の埋葬地とされている赤穂と関わっているであろう、赤穂神社が近くにあるので、こちらの祠は信憑性もかなりの高さ、といえるのではないでしょうか。

|14日十市皇女を赤穂に葬った。天皇は葬儀に臨まれ、心のこもった言葉
|を賜り声を出して泣かれた。
                         「日本書紀 天武7年(678年)7月」


 祠の脇には、歌碑が1つ。既に引用している吹黄刀自のものでした。ですが、ここではまだ引用していない高市の歌を2首ご紹介しておきます。

|みもろの神の神杉已具耳矣自得見監乍共寝ねぬ夜ぞ多き
                           高市皇子「万葉集 巻2-156」
|三輪山の山辺真麻木綿短か木綿かくのみからに長くと思ひき
                           高市皇子「万葉集 巻2-157」


 前者の一部は、未だ万葉仮名が解読されていません。有力説によると

A:去年のみを我と見えつつ
B:夢にのみ見えつつもとな
C:夢にだに見むとすれども

 などが挙げられますが、これらを前提として歌意を解いて見ます。
「禁忌を犯し、道ならぬ恋におちてしまった罰として、彼女を奪われ一緒に寝ることができなくなった夜が多いことよ」
「三輪山の山辺に掛けた木綿や麻の幣帛のように、これほど短い命であったとは。私は長いものだと思っていたのに」

 十市について考える時、いつも思い至るのが天武の育児に対する主義、といいますか...。当時、曲がりなりにも皇族に生まれた子供は、それぞれ乳母や養育係のような他人の手によって育てられるのか普通でした。が、天武は自らの子供の殆どを実母に育てさせています。
 果たしてこれが十市にとって吉だったのか、凶だったのか...。ただ少なくとも十市が、最も身近な存在である母・額田に憧れ、目標とし、それなりの努力は積んだのではないかな、と常々思ってしまいますが。

 また、もう1つ彼女の不運、と思えてしまうのが、後の世で展開された謀略論です。古代史最大の戦乱であった壬申の乱。けれども、僅か開戦1ヶ月にしてその勝敗はほぼ決しています。なので、まことしやかに囁かれたのが密偵なり、間諜なりの存在で、当然のように夫と父親、という双方に通じた彼女に、「水鏡」や「愚管抄」など、後世の文献で非難が集中しています。少なくとも「日本書紀」にはそんな記述はないというのに...。
 更には「宇治拾遺物語」では

|此大友皇子の妻にては、春宮の御女ましましければ、父の殺され給は
|ん事をかなしみ給ひて、
|「いかで此事告げ申さん」
| とおぼしけれど、すべきやう無かりけるに、思ひわび給ひて、鮒のつ
|つみやきの有りける腹に、ちひさくふみをかきて、おし入れて奉り給
|へり。
                 「宇治拾遺物語 清見原天皇与大友皇子合戦ノ事」

 と吉野の天武の元へ密書を鮒のお腹に潜ませて送った、などとあり、挙句これを受けてか江戸時代、伴信友は「長等の山風」で十市を不実の妻として厳しく弾劾している始末。



 幸薄い彼女の短い一生だったからこそ、せめて安らかに眠れたならどんなに良かったでしょうに。

 いろはとふ 光眩く
 降り降りて ゆゑに翳ろふ
 清女や 汝姉に現世
 霜風も 空に届かぬ
 ものがゆゑ 鎮めまくほし
 祈ぎゐるは いろはと交はす
 ものゝあらむを

 いさゝなる祠詣づるしが一樹の陰と頼まゝくほし   遼川るか
 (於:比売神社)


 後日談になりますが、ボード掲載時には上記引用の高市の歌の解読について私が調べた範囲では未解読、となっていました。が、今年(2003年)に入ってすぐに、知人から頂いた資料に解読済みの記述をようやく発見。その旨と改めて高市の歌を引用しなおします。

|みもろの神の神杉夢のみに見えつつ共に寝ねぬ夜ぞ多き
                    高市皇子「万葉集 巻2-156」加筆後再引用







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