新薬師寺を目の前にして、すっかり寄り道し始めてしまいました。比売神社にて十市のことを、ついあれこれ考えてしまった所為なのか、もう1箇所、全く予定外の寄り道です。
 新薬師寺の南門。それを両サイドから挟むようにして、一方が比売神社の祠。反対側の一方には、地味で目立たない古社。案内には鏡神社、とありました。どうやら比売神社は、この鏡神社の摂社のようです。

 鏡神社。この前には憶えがありました。藤原...。全くのノーマークではあったのですが、万葉巡り最終日。このタイミングに、続く平安、「古今和歌集」へと繋がる重要ファクターである、藤原氏縁の場所へ立ち寄る、というのもまた、何かの縁だったのかも知れません。
 藤原氏に関しては、大原の里で少し触れました。つまり中臣鎌足、のちの藤原鎌足に始まり、2代目を継いだのは息子の不比等。その不比等の息子たちが有名な藤原4兄弟の武智麻呂(南家)・房前(北家)・宇合(式家)・麻呂(京家)です。

 藤原氏の系譜については、丹念に辿り始めると、何代目の誰それが、○○天皇の皇妃になって、その子供がのちの○○天皇で...、ともはや収拾のつかない事態になってしまいますので、敢えて語りませんが、それでも日本史や日本文学史に名を残す大物だけでも列挙するなら、

 藤原道長(房前より8代のち)、紫式部(房前より9代のち)、奥州藤原3代・清衡・基衡・秀衡(房前より11・12・13代のち)、源頼朝(武智麻呂より13代のち・但し外戚)、西行法師(房前より13代のち)、藤原定家(房前より14代のち)、小督局(武智麻呂より14代のち)、日野俊基(房前より20代のち)、日野富子(房前より27代のち)、住友吉左衛門(房前より39代のち)、武者小路実篤(房前より40代のち)など。
 他にも、熱田神宮司の血脈や、伊達氏、今川氏、上杉氏、斉藤氏、加藤氏、工藤氏、二階堂氏、などの始祖もいますし、足利氏に嫁いだ女子もいますから、もしかすると戦国武将の名前も飛び出すかも知れません。...かなり頑張って追いかけたのですが、これ以上は限界でした。
 いずれにせよ、殆どの系譜の末端は男爵・子爵・伯爵などの華族に行き当たりますし、女子の多くは天皇家へ嫁いでいます。明治・大正の実母も末端に名前があったはずです。
 改めて考えると、すごいものです。しみじみ感じ入ってしまいますね。

 ともあれ、上述のような連綿たる血筋の源近くは、藤原4兄弟となりますし、天平期にその権勢を振るっていたのもまた、彼らです。そして鏡神社が祀っているのは、この4兄弟のうち宇合の長子・広嗣。当然、さぞや名門の誉れ高い...、と思いきや、歴史上では謀反人、となっています。

 藤原広嗣は天平10年(738年)大宰少弐に任じられます。丁度この頃、朝廷では聖武天皇の側近として、僧・玄ぼう(*)、吉備真備の2人が厚遇のもと、非行を重ねていました。世間では続発する地震や旱魃、さらには凶作、飢饉、天然痘の流行などで喘いでいたにも関わらず...。
 余談になりますが、玄ぼうの非行というのは、聖武天皇妃・光明皇后(不比等の3女)との不義密通、とされています。                *正しくは玄「日方」の2文字です

 遠く九州の地より、このことを憂いた広嗣は2人の排除を朝廷に申し立てました。天平12年(740年)のことです。
 が、上表から7日後、思いもよらぬことに、彼は官軍の攻撃を受けます。陣営を構えたのは遠賀郡、更には筑後板櫃河にて対峙、のち肥前長野村で虜囚となります。やがて自害。
 ...本意とは全く正反対の逆賊の汚名を着せられたままの、非業の最期。一説には自ら刀で首を落とした、というのですから壮絶です。しかも、その落とした首はいきなり空へ舞い上がり、赤い色をした鏡になった、とも言われています。何でも、この鏡を見ると命が絶たれてしまうそうですが...。

 広嗣の乱から5年、彼が憂慮した通り、非行を重ね続けていた玄ぼうは、勅命により筑紫の観世音寺の落成式典へ出向きます。しかし、式典の直前に原因不明の急死。その遺体は、奈良まで飛散して興福寺境内に落ち、首は頭塔山に、腕は肘塚町に、眉と眼とは大豆山町に飛来したらしく。...人々は広嗣の祟りだ、と恐れたそうです。
 更には、吉備真備もまた、孝謙天皇の時代、肥前に左遷させられています。祟りを恐れた真備は、広嗣を祀った鏡尊廟を建てた、とのこと。
 余程、実直で正義感の強い人だった、ということなのでしょうか、広嗣は。

 ただ、「万葉集」にたった1首採られている彼の歌は、そんな憂国の徒、という印象とはあまりにかけ離れているといいますか...。いや、むしろ似合いすぎている、と言うべきなのかも知れません。相聞歌です。

|この花の一枝のうちに百種の言そ隠れるおほろかにすな
                          藤原広嗣「万葉集 巻8-1456」


 「この花の一枝には数え切れないほどの想いが込められているのだから、疎かにしないでくれ」
 歌そのものは素直で、「万葉集」でも優作、とされていますが、歌意自体は何ともナイーブといいましょうか、殆ど懇願に近い風情。質実剛健の士も、恋する相手の前では、もはや形無しです。けれども、この歌への返しがまた、痛烈にしてご無体極まりなく...。

|この花の一枝のうちは百種の言持ちかねて折らえけれずや
                            娘子「万葉集 巻8-1457」

 「何を勿体ぶっているのですか。この花の一枝はそれほどの想いなど抱え切れずに折れてしまっているじゃないですか」
 ...恐らく、名家の嫡男であったがゆえに、広嗣は明後日の方でも向いて、少々高圧的な態度で歌を詠み、桜を一枝渡そうとしたのでしょう。だから娘子の反感を買ってしまったのではないか、と。

 どの花の一枝折れしか兇徒とて妹に及ばす いざあはればむ   遼川るか
 (於:鏡神社)


 鏡神社の境内は、拍子抜けするほど手狭で、正に近所の神社という印象でした。それにつけても、十市にしても、広嗣にしても、この鏡神社というお社は随分と、意外な人を祀っているものです。

 夕月夜 かゆきかくゆき
 人生きて かよりかくより
 また離れぬ なれどひとゝき
 諸心 交はすもあれば
 小百合花 行き違ひたる
 思ひさへ なればなにをか
 臆するや いゆきもとほる
 褻衣を ときとふ河の
 奇なるを 頼まゝほしや
 祈らまほしや

 いまはたゞいまのみにして先にあらず いま続きゐるべちのいまにそ  遼川るか
 (於:鏡神社)


 「夕月夜」はかゆきかくゆきを、「小百合花」はあとを、「褻衣を」はときを、をそれぞれ伴う枕詞です。

           −・−・−・−・−・−・−・−・−


 寄り道ついで、といいますか折角、藤原4兄弟について触れたのですから、少々長めの余談です。

 前述の通り、藤原氏は流れゆく時代の中で、その権勢を不動のものにしていきました。平安期になると生まれた女子の殆どは後宮へ上がり、国母になったり、皇妃になったり。そして藤原氏は天皇家の外戚として、朝廷の実権を握っていきます。そう、皇室は事実上、藤原氏に取り込まれていってしまうんですね。
 この兆しは天平期にはすでに見え始めていて、不比等の娘が2人も皇妃(文武天皇妃・宮子、聖武天皇妃・光明子)になり、その子供である首皇子(のちの聖武天皇)や、1人娘・阿倍内親王が即位(孝謙天皇)したことで、ほぼ決定的になります。

 ですがこういったマヌーバとかネゴシエーションではなく、もっと直截的な実力行使や権謀術数によって、藤原4兄弟やその子孫達は自分達に不都合な皇族を廃していったのも、また事実。...というより、もはや粛清の嵐だと思います。
 中でも特に大きな事件が2つ。関連する「万葉集」の歌が胸へ響くのでご紹介します。藤原氏によって非業の最期を遂げた人。それは長屋王と井上内親王です。

 先ずは長屋王から。前述していますが、長屋王は高市の長子。つまりは当時の皇位継承に於ける絶対条件だった「天武系」という点はクリアしています。
 ただ、同時にこの頃は持統・文武・元明・元正、と讃良ファミリーが次々と皇位を継いで行っていましたし、長屋王自体も、皇孫(天武、天智両方の孫。長屋王の母親は天智の娘・御名部皇女)ではあっても、天皇の親王(天皇の子供や兄弟姉妹)でもありませんから、皇位継承権は文武の子供の方が当然、高位になります。
 けれども、時の天皇・文武に中々子供が生まれません。なので、長子の長子であった彼は最悪、立太子の可能性もあったんですね。
 こういう皇族なのに、皇位継承から外れた系列は、得てして皇族の血縁を残す臣下としての叙位、というのが普通ですし、叙位は大体、当人が21歳くらいまでに行われます。が、彼は29歳まで叙位には至っていません。
 この裏側には、彼の叙位3年前にようやく、文武に首皇子(のちの聖武)が誕生したことがある、と考えられます。...遅い叙位ではありましたが、同時に通常より3位も高い位から、長屋王は臣下・官人としての道を歩み始めます。

 ただ、話がややこしいのは、長屋王自体には皇位継承の可能性が無くなったものの、彼の息子・膳夫王にその可能性が出て来てしまった、という点。何故なら、長屋王の妃は吉備内親王(草壁と元明女帝の末子、文武・元正天皇の妹)で、天武系血筋としてはとても濃厚だったんですね。

 つまり、文武の妻・宮子は藤原不比等の2女。その子供である首皇子は半分は臣下の血筋ですし、その首皇子、すなわち聖武の、妻・光明子も不比等の3女。当然、聖武・光明子の間に生まれた子供も半分は臣下の血筋、とどんどん血筋は薄くなります。...が、逆を言えば宮子・光明子の兄弟であった藤原4兄弟からすれば、ここで皇位継承が繰り返されれば、藤原氏の安泰、朝廷の実権、皇室への発言力などなどがほぼ不動のもの、となります。
 臣下の血筋ではあれど、皇室への外戚関係から伸上がりゆく藤原4兄弟。皇族の血筋であれど臣下に下り、けれども皇位継承順位からすると常にナンバー2の立場にあった長屋王一族。しかもその当主・長屋王本人は養老4年(720年)の藤原不比等の他界により、不比等の後を継いで翌年には右大臣昇任。遂に名実共に政権トップに躍り出ます。

 何度か書いていますが、この当時の権力層にとって母方の血筋というのはとても重要でした。まして、皇后となると天皇他界後には女帝として即位の可能性も孕んでいます。なので、大宝令には、
「皇后は内親王(天皇の娘)でなければならない」
 と明文化されていた次第。単なる妃と皇后とでは意味が違うわけです。

 聖武天皇の妃であった藤原氏出身の光明子。当然ですが、彼女には皇后になる資格はありません。また、仮にその子供に譬え皇子が生まれようと、臣下との間の子供である天皇と、臣下である光明子との間の子供、という2代に渡って親王同士間ではない、血筋となってしまう親王に対し、臣下に下りはしたものの親王や皇孫同士の間に生まれた膳夫王とでは、やがて政権争いが起こる可能性は否定できません。
 そして、そうなってしまっては絶対に困るのが藤原4兄弟。事件は、この皇族ではない光明子を史上初めて皇后へ就かせる裏工作の一部として起こります。

 天平元年(729年)2月10日夜。宮廷の軍隊が長屋王邸を囲みます。兵の指揮は藤原4兄弟の3男宇合と、各部隊の指揮官。
 翌日、藤原4兄弟の長男・武智麻呂や舎人親王、新田部親王などが罪状審議の為に長屋王邸に入りました。嫌疑の名目は、呪詛によって聖武を呪い、国家転覆を図った、とのもの。何でも3人もの人間から前日に密告があった、といいます。
 そして翌12日、長屋王は自邸にて自害。「日本霊異記」曰く、長屋王は妻・吉備内親王と、膳夫王を始めとする子供達、側室とその子供の全員に毒を飲ませ自分で絞殺した後、自らも毒をあおり...。
 「日本霊異記」と「続日本紀」の両方から引用します。

|2月10日 左京の住人である従七位下の漆部造君足と無位の中臣宮処連東人らが
|「左大臣・正2位の長屋王は密かに左道を学び国家を倒そうとしています」
| と密告した。
|   (中略)
|2月11日 巳の時に、一品の舎人親王と新田部親王、大納言従2位の多治比真人池守、中
|納言正3位の藤原朝臣武智麻呂、右中弁・正5位下の小野朝臣牛養、少納言・外従5位下の
|巨勢朝臣宿奈麻呂らを長屋王の邸に遣わし、その罪を追求し訊問させた。
|2月12日 長屋王を自殺させた。その妻で二品の吉備内親王、息子で従4位下の膳夫王・
|無位の桑田王・葛木王・鉤取王らも長屋王と同じく首をくくって死んだ。
                      「続日本紀 巻10 聖武天皇 天平元年」

|〜嫉妬みする人有りて、天皇に讒ぢて奏さく、
|「長屋、社稷を傾けむことを謀り、国位を奪らむとす」
| とまうす。爰に天心に瞋怒りたまひ、軍兵を遣はして陳ふ。親王自ら念へらく
|「罪无くして囚執はる。此れ決定して死ぬるならむ。他の為に刑ち殺されむよりは、自
|ら死なむには如かじ」
| とおもへり。即ち、其の子孫に毒薬を服せしめ、絞り死し畢りて後に、親王、薬を服し
|て自害したまふ。
 「日本霊異記 中巻 己が高徳を恃み、賤形の沙弥を刑ちて、以て現に悪死を得し縁 第1」


 こうして長屋王一族は一瞬のうちに滅亡。当時、高市から相続した莫大な財産に支えられた暮し向きは、御田から毎日米が、御園から連日、新鮮な野菜類、それらを使った漬物が送り込まれていた、と言われています。舞の専属名手を抱えていて、宮廷に貸し出していたとか、いないとか。屋敷内に鶴を飼い、それにまで米を与え...。専用の氷室を所有し、夏は毎日馬で搬入。お酒に入れロックを愛飲。
 そして何よりも、有名な長屋王の文芸サロン。佐保の私邸へ多くの文人を集めては、漢詩会を開催。このメンバーの1人に大伴旅人がいますし、長屋王自身も「懐風藻」に漢詩3編、「万葉集」には短歌が5首採られています。

|あをによし奈良の山なる黒木もち造れる室は座せど飽かぬかも
                         聖武天皇「万葉集 巻8-1638」

|右は、聞くに「左大臣長屋王が佐保の宅にて御在して肆宴したときの御製」と。
                         「万葉集 巻8-1638」 左注による


 天皇さえ私邸を訪ねる栄華も、藤原4兄弟の策略の前では抵抗する術はなく。

|佐保過ぎて奈良の手向けに置く幣は妹を目離れず相見しめとぞ
                            長屋王「万葉集 巻3-300」
|岩が根のこごしき山を越えかねて音には泣くとも色に出でめやも
                            長屋王「万葉集 巻3-301」
|味酒三輪のはふりの山照らす秋の黄葉の散らまく惜しも
                           長屋王「万葉集 巻8-1517」


 長屋王邸のあった場所は、平城宮跡に程近い現・奈良そごう(既に閉鎖)が建っている辺り。開店の為の建設中に大量の木簡が見つかった、と話題になりましたし、旅行初日に車で横を通り過ぎながら
「...ここか」
 とも思いました。が、私の目に映ったのは史跡を蹂躙した狂乱物価・バブル期の残骸でした。

 

 「続日本紀」によると長屋王夫妻は13日に生駒山へ葬られたとあります。が、歴史上はあくまでも大罪人の墓地ですから、本当のお墓が何処にあるかは判っていません。後年造られた御陵は、確かに生駒の近くにはありますけれども...。
 でも、「万葉集」は違います。如何に歴史上では犯罪人であろうとも、長屋王一族を悼んだ人々の挽歌が、きちんと収められています。

|大君の命畏み大殯の時にはあらねど雲隠ります
                         倉橋部女王「万葉集 巻3-441」


 「天皇のお言葉の畏れ多いことに、長屋王はまだ亡くなるような年齢ではないのにお隠れになってしまったことだ」
 作者・倉橋部女王は未伝承で誰だか判っていません。一説には長屋王の側室の1人ともされていますが。

|世間は空しきものとあらむとぞこの照る月は満ち欠けしける
                          作者不詳「万葉集 巻3-442」


 「世の中は虚しいもの、とばかりに照る月は満ちたり欠けたりすることだ」
 詞書には「悲傷膳部王歌一首」つまりは膳夫王を悲しんだ歌1首、とあります。作者不詳であるのは、長屋王一族との関係を伏せる為でしょう。...何せ、謀反人なのですから。

 欠けるなど無きと後世のひと詠みき 月は満ちれどなほ欠くるもの   遼川るか

 佐保近き 奈良の手向けに孝うずる幣を
 これかれが頼みの狭間 雲に梯子と   遼川るか
 (於:新薬師寺駐車場)


           −・−・−・−・−・−・−・−・−


 井上内親王。彼女は聖武の第1皇女にして、第17代伊勢斎宮でした。時代は、古代国家繁栄の頂点にあった天平。国庫は富み、唐を通じて世界的な文化がぞくぞくと渡来した時代です。...けれども同時に、人々の欲望が渦巻いていた醜怪な時代。
 彼女もまた、皇族という血によって有為転変の宿命が避けられませんでした。

 聖武には妃が2人いました。藤原4兄弟と同じく不比等の娘であった光明子と、県犬養広刀自です。井上は藤原系ではない県犬養の娘。けれども1番年嵩だったので第1皇女、となります。一方の光明子には、井上より1歳年下の阿倍内親王がいました。のちの孝謙女帝(重祚後は称徳天皇)です。
 藤原系の光明子やその娘・阿倍は常に脚光を浴びていましたが、井上やその妹の不破は、存在自体の影が薄く、けれども男子が生まれていない聖武朝に於いては本来、立太子するのは井上となります。が、当然の如くそうは行かず...。井上は5歳にして斎宮に卜定。6年間の潔斎ののち、伊勢へ下ります。
 全ては阿倍を立太子させたい藤原氏の策略でした。他にもっと年回りが相応しい皇女は複数いたのに、です。

 井上が伊勢についてから程なく、県犬養に男子誕生。安積親王です。ですが、ほぼ時を同じくして光明子にも男子誕生。名前は基王。しかし、基王は生後間もなく他界。そう、聖武の皇子は安積だけになってしまったわけですし、これを藤原氏が見逃す筈もありませんでした。
 安積親王は若干17歳にして病死します。けれども、この背後には阿倍内親王の寵愛を受けていた藤原仲麻呂(4兄弟長子・武智麻呂の2男。4兄弟はこの数年前に大流行した天然痘により全員他界)の影があり、事実上の暗殺でした。
 これ以前にも男子である安積を黙殺したまま阿倍を立太子させているのですから、全て予定のうちだったのでしょう。長屋王事件然り、安積の暗殺の2年前には不破の夫・塩焼王も失脚。伊豆へ流罪になっています。塩焼王は天武と不比等の妹・五百重娘の間に生まれた新田部親王の子供、つまり皇孫でしたから。

 安積の死後、井上は28歳で斎宮を退下。奈良へ戻ります。そこで彼女が知ったのは生前、安積の近侍であった大伴家持という青年と、彼が安積の為に詠んだ挽歌です。

|かけまくも あやに畏し
|我が大君 皇子の命の
|もののふの 八十伴の男を
|召し集へ 率ひたまひ
|朝狩に 鹿猪踏み起し
|夕狩に 鶉雉踏み立て
|大御馬の 口抑へとめ
|御心を 見し明らめし
|活道山 木立の茂に
|咲く花も うつろひにけり
|世間は かくのみならし
|ますらをの 心振り起し
|剣太刀 腰に取り佩き
|梓弓 靫取り負ひて
|天地と いや遠長に
|万代に かくしもがもと
|頼めりし 皇子の御門の
|五月蝿なす 騒く舎人は
|白栲に 衣取り着て
|常なりし 笑ひ振舞ひ
|いや日異に 変らふ見れば
|悲しきろかも
                          大伴家持「万葉集 巻3-478」
|はしきかも皇子の命のあり通ひ見しし活道の道は荒れにけり
                          大伴家持「万葉集 巻3-479」
|大伴の名に負ふ靫帯びて万代に頼みし心いづくか寄せむ
                          大伴家持「万葉集 巻3-480」


 「もののふの」は八十伴の男を、「五月蝿なす」は騒ぐを、伴う枕詞です。







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