井上が33歳の時、聖武が阿倍内親王に譲位。これにより長きに渡って続いた藤原系との、望まぬ皇位継承争いも終わり、彼女は天智の孫にして、志貴皇子の子供である白壁王と結婚します。
 前述している通り、当時は皇統は天武系と決まっていたので、白壁王自体の登極の可能性は、ほぼ皆無。これでようやく安息の日々を送れるに違いない。きっと、井上はそう考えていたと思いますし、事実、数年間は静かでした。

 大仏開眼供養から2年後、井上は38歳にして初めて出産。酒人内親王です。余談ですが、彼女もまた、第21代伊勢斎宮に卜定・退下後は天皇妃になっています。
 白壁王には、井上より以前に娶った妃・高野新笠がいました。そして、白壁・高野の間には、既に山部、早良という親王も2人生まれています。けれども、帰化人であった高野に比べ、聖武の血を引く井上の子供の方が圧倒的に有利なわけで、再び皇位継承問題と言う暗雲が立ち込め初めてしまうのです。

 酒人誕生の2年後、聖武が他界。これを契機に浮上したのは孝謙女帝の皇太子問題で、けれども孝謙は結果から言ってしまえば、子供を産むことはなく...。またしても歯車が狂い始めた中、天平宝宇元年(757年)には橘奈良麻呂の変が起き、この際に井上の妹・不破の夫であった塩焼が臣籍に降ります。

 続く翌年、孝謙は淳仁天皇に譲位。上皇となった孝謙と蜜月を長年、続けていた藤原仲麻呂の関係が悪化。この背後では、怪僧・弓削道鏡と孝謙上皇が急接近していたのは言うまでもありません。
 仲麻呂と上皇の主導権争いは次第に激化していきます。そして、仲麻呂により遂に恵美押勝(仲麻呂の美称)の乱勃発。この乱の最中に仲麻呂が擁立した天皇が塩焼で、最後は2人とも誅殺されています。
 押勝の乱後、淳仁天皇は廃位。孝謙が重祚して称徳女帝になりました。

 そんな中、井上は45歳で遂に男子出産。他戸親王です。白壁王には既に男子がいたことは前述しています。山部親王も早良親王も。けれども繰り返しになりますが、母親の血筋で言えば、井上の子供である他戸の方が圧倒的に尊貴です。また、押勝の乱に於いても、白壁は称徳サイドにあり、むしろ天武系有力皇族の粛清が続く中、逆に安泰すら、している立場だったのです。
 そして、気付いた時には、主だった天武系皇族たちは殆どいなくなっていて、称徳も子供はなし。井上夫妻は事実上、皇族の頂点に立たされていて、皇位継承はもはや白壁・井上の一族しかあり得ない状況でした。

 井上54歳。遂に称徳天皇他界。皇位は白壁が継承。のちの光仁天皇で、白壁62歳の時です。続いて井上は立后、他戸も立太子。...長かった不遇の日々、常に恐怖に脅かされ続けた生活。けれども晩年になって、よもや、とも言える幸運に見舞われたのだ、と井上はきっと感じていたことでしょう。
 けれども、彼女はまだ気付いていませんでした。既に白壁自体が藤原氏に取り込まれていて、夫の背後には藤原百川(4兄弟の3男・藤原宇合の子供、藤原広嗣の弟)の影が常に見え隠れしていた現実に。

 長屋王の時と同じです。突然の嫌疑。曰く皇太子・他戸を早く皇位につかせる為、井上が夫・光仁を呪詛したのだと...。そして、井上は廃后、他戸も廃太子。つまりは、血筋に於いて有力な手駒の無かった藤原氏からしてみれば、常に反藤原の姿勢を崩さなかった井上が継ぐ、天武系血筋よりも、早い段階から手を組んでいた山部親王の擁立を望んだ、ということですし、それには井上と他戸が邪魔だった、ということです。
 井上・他戸が廃されて4ヵ月後、酒人が19歳で伊勢斎王に卜定。続いて山部親王立太子(のちの桓武天皇)。やがて数ヶ月のちに、井上・他戸親子は幽閉されます。

 酒人の潔斎・伊勢への群行ののち、遂に井上最期の時が来ました。遺言はあるか、と問われて彼女は答えます。かつて長期に渡り伊勢斎宮であったからでしょうか。清澄に響いた声。言霊を帯びているとも思える、揺ぎ無い一言に、居合わせた人々は畏れを隠せなかった、と言います。
「己の良心に慚じよ/おのれのこころにはじよ」

 余談ですが、酒人はやがて、斎宮退下後、桓武に嫁ぎます。そして、その娘・朝原内親王も第23代伊勢斎宮に。史上他に例の無い、親子3代に渡った斎宮でした。
 また酒人は、皇后にならなかったことと、桓武が余りにも自らの罪深さに懊悩を繰り返していた為、夫を恨むこともなく、のちに桓武朝の宮中で1番自由に生きた人、と称されたそうです。

 井上縁の土地は、奈良市内よりはむしろ五條市に多くあります。特に井上の祟りを1番恐れた桓武は、長岡宮から平安宮への遷都と同時に、彼女と他戸を追后・追太子。五條市の宇智に御陵も造っています。
 ですが、既に奈良市に戻っていた私は、五條へは行けませんから、近くにある御霊神社を遠目に眺めるだけに留めました。


 奈良市新薬師寺町の中心、とも言える場所にあるこの神社は、井上内親王と恵比寿様など、8人を祀っています。また、その中には、鏡神社に祀られていた藤原広嗣もいます。

 残念ながら、井上や関連する人々の歌は「万葉集」には採られていません。この最大の理由は当時、既に「万葉集」はほぼ現在の形にまで編纂されていたからであることは、先ず間違いないでしょう。「万葉集」4516首の最後に収められている歌が詠まれたのは、天平宝宇3年(759年)、恵美押勝の乱も、称徳重祚も、そして井上の最期も、全てこれよりさらに後のお話。
 とは言え、続く古今にも井上の名前はなく...。なので安積を悼んだ家持の挽歌6首のうち、残り3首も引いておきます。

|かけまくも あやに畏し
|言はまくも ゆゆしきかも
|我が大君 皇子の命
|万代に 見したまはまし
|大日本 久迩の都は
|うち靡く 春さりぬれば
|山辺には 花咲きををり
|川瀬には 鮎子さ走り
|いや日異に 栄ゆる時に
|およづれの たはこととかも
|白栲に 舎人よそひて
|和束山 御輿立たして
|ひさかたの 天知らしぬれ
|臥いまろび ひづち泣けども
|為むすべもなし
                          大伴家持「万葉集 巻3-475」
|我が大君天知らさむと思はねばおほにぞ見ける和束杣山
                          大伴家持「万葉集 巻3-476」
|あしひきの山さへ光り咲く花の散りぬるごとき我が大君かも
                          大伴家持「万葉集 巻3-477」


 「心にかけて思うことも畏れ多く、口に出すのも憚られるが、わが大君・安積皇子様が万代までお治めになられる筈だったこの大日本久迩の都は春は、山のほとりに花が咲き乱れ、川には鮎が泳ぎ、いよいよ日増しに繁栄していくゆく、という時だと言うのに。人を惑わす偽り事ではないのだろうか、皇子がお亡くなりになったとは。人々は白装束で皇子は、和束山から天へお昇りになったという。転げまわって泥に塗れて泣くも、もはや何ともし難いことだ」
 「皇子がご昇天されるなど考えてもいなかったので、墓所となった和束杣山を気にも留めずに眺め続けてきてしまった」
「山まで輝くほどに咲いている花が散っていくように、儚く散ってしまった我が安積皇子よ」

 「うち靡く」は春を伴う枕詞です。

 「万葉集」にはとにかく挽歌も多く、特に皇族に対するそれは、ある一定の法則というか、詠み方にしきたりのようなものがある向きが感じられます。詠み起こしに「やすみししわご大君」や「かまけくもゆゆしきかも」などが配されるのは、既に定石とも言えるでしょう。
 なので、同じ歌を読み鑑賞するのでも、挽歌はちょっぴり退屈、...といってしまっては難ですが、万葉調ならではの奔放さが若干、希薄に感じられます。

 個人的な好みでは、やはり人麻呂が高市に贈ったあの長編と、この家持の長歌の反歌「あしひきの山さへ〜」が読んでいて目頭が熱くなります。...が、その理由は全く逆。人麻呂のものは正に万葉、音読するとその圧倒的なうねりのある韻律にぞくぞくしますし、家持の反歌はどちらかと言うと静かに、そして真っ直ぐに伝わる悲しみが、やや抑え目に表現されている気がします。
 こういう差異にも和歌の流れが、ますらをぶりの万葉から、次第にたをやめぶりの古今へと移行し始めていることを示しているのではないか、と個人的には感じているのですが...。それでも、まだまだストレートですけどね。

 井上本人自身が詠んだ歌もなく、そして葬送当時は反逆者であったが為に、挽歌など贈られていない井上やその息子・他戸へ。僭越ながら私なりの挽歌を。

 うつそみと 思ふは難き
 上世に 冴え冴えしくも
 潔き 貴き御霊や
 神風の 伊勢の神籬
 斎社 月下の華の
 ひとしづく 宿すくちびる
 紡ぎける 凛と鳴り満つ
 妙音は 俗世の雨に
 打たゆるも たゞ貫きし
 明かしさを 勢ひほりす
 荒妙の 藤の大樹は
 繁りゆき その木暗の
 深ければ 愛向かふ乙
 咲き得じて 玉章のいも
 早枯れぬ 若草の背は
 その蔓に 囚はれゐたる
 和郎のむた 木下闇の
 奥深く 封じられたる
 清女も なさか負はされ
 疎まれて 蔑まられしも
 乱れ得ぬ 濁るを知らぬ
 言霊の 八十の世人を
 縛りては 贖はせしむ
 声ひとつ 「己が霊にそ
 いざ恥ぢむ」 畏れられいま
 みさゝぎに 眠りつゝなほ
 遠くとほく 空ゆやまとを
 まぼりゐるらむ

 訪はれてはなほさんざめく青丹よし奈良
 如何ほどにひと知りゐるや汝姉が息の間

 月草の花色は冴ゆ 漏れ入る影に
 艶めきて抗ふほどに闇へ薫らゆ      遼川るか
 (於:新薬師寺駐車場)


 「荒妙の」は藤、「玉章の」はいも、「若草の」は背、「言霊の」は八十、「月草の」は花色、をそれぞれ伴う枕詞です。

           −・−・−・−・−・−・−・−・−・−

 長屋王や井上の歌もそうですが、逆に時代を欲しいままに操っていった藤原氏。当然ですが、彼らの歌もまた「万葉集」には多く収められていますね。
 特に多いのが宇合の7首、麻呂が3首。しかも、とても巧みだと感じます。ただ、麻呂に関しては採られているのが総て坂上へ贈った歌なので、採られる要素は歌の巧拙以外にもあったと思いますが...。

|言とはぬ木にもありとも我が背子が手馴れの御琴地に置かめやも
                           藤原房前「万葉集 巻5-810」
|玉藻刈る沖へは漕がじ敷栲の枕のあたり忘れかねつも
                            藤原宇合「万葉集 巻1-72」
|我が背子をいつぞ今かと待つなへに面やは見えむ秋の風吹く
                          藤原宇合「万葉集 巻8-1535」
|暁の夢に見えつつ梶島の礒越す波のしきてし思ほゆ
                          藤原宇合「万葉集 巻9-1729」
|よく渡る人は年にもありといふをいつの間にぞも我が恋ひにける
                            藤原麻呂「万葉集 巻4-523」
|むし衾なごやが下に伏せれども妹とし寝ねば肌し寒しも
                           藤原麻呂「万葉集 巻4-524」
|紀の国の雑賀の浦に出で見れば海人の燈火波の間ゆ見ゆ
                 藤原卿(4兄弟のうちの誰か)「万葉集 巻7-1194」
|麻衣着ればなつかし紀の国の妹背の山に麻蒔く我妹
                 藤原卿(4兄弟のうちの誰か)「万葉集 巻7-1195」
|黒牛の海紅にほふももしきの大宮人しあさりすらしも
                 藤原卿(4兄弟のうちの誰か)「万葉集 巻7-1196」
|若の浦に白波立ちて沖つ風寒き夕は大和し思ほゆ
                 藤原卿(4兄弟のうちの誰か)「万葉集 巻7-1219」


 「敷栲の」は枕を伴う枕詞です。

 藤原卿は、現在は4兄弟の誰か、と特定されてはいませんが、1番有力視されているのは房前です。また、他に名前が登場した藤原氏では、仲麻呂がやはり数首、「万葉集」に採られています。

 麻呂の3首に対して坂上が返しているのは4首。こちらも、「万葉集」には収められています。...たった数年で破局してしまった2人ですが、交わした歌はとても切々としていて、個人的にはかなり好きな相聞の1つになっています。

 余談になりますが、恐らくは房前が詠んだであろう、とされている歌群。引用は4首に留めましたが、実際は7首です。全て紀伊の国で詠まれたもので、差し詰め「あさもよしきいゆ@房前」といった処でしょうか。

 半年前の2月、「古事記」をテーマにほんの5箇所だけ、たった1日だけ、ではありましたけど和歌山にも出向きました(「神の故里〜熊野詣」)。でも、今度はまた違って「万葉集」をテーマに周ってみたいな、と思っている今日この頃。...歌枕が多いですしね。

 麻裳よし紀伊の浜へと寄する白波
 和歌の浦な変はりそねあれゆくそらも   遼川るか
 (於:本日さねさしさがむゆ)


 一方の俳句、という意味では、季語にある「峰入り/春:熊野側から吉野へ入ること」、「逆の峰入り:秋:奈良側から吉野へ入ること」があり、奇しくも春と秋の旅行で採ったコースが、これに沿っていたことが、偶然とは言えとても嬉しかったです。
 ...実際にはコースをかすった程度なんですけれどね。

 山鳴れば逆の峰入り海めざす   遼川るか
 (於:本日さねさしさがむゆ)


 万葉4期。それは古代国家・日本が眩いほどに繁栄した時期。けれどもその足元には、藤原氏による粛清の嵐と、天変地異や飢饉、伝染病の蔓延、などといった暗く深い影が、次第々々に大きく広がっていった時期。

 可笑しな感傷でした。1200年も過去のことだと言うのに。もう遥か彼方昔に経てきた歴史だと言うのに。なのに新薬師寺界隈で、奈良入り以来初めての噎せ返るほどの真夏日のもと。
 どんどん哀しくなっていっている自分がいました。遷都の度にかつての宮を偲んだ歌人たちと同じように、寂しくて、寂しくて、堪らなくなっていました。
「...この国の歴史が、万葉の地から少しずつ、少しずつ、離れて行ってしまう。八雲の本流が、たをやめぶりに変わっていってしまう。あきづしまやまとゆ、つぎねふやゝましろへ...」
 と。

 ...全てはいにしえ、昔むかしの歌たちなのですから、虚構を追いかける旅ではまた、時間軸も自由に旋回させられます。ひとつの旅が終わり、終わろうとしています。でも、終わってしまったのなら、また始めればいい。万葉の地はいつだって、変わらずに其処にあるのだから。

 草枕結ぶ道行き長ければやう/\得らゆる
 尽くしのあだて 草結ぶ術          遼川るか
 (於:本日さねさしさがむゆ)


 「麻裳よし」は紀を、「つぎねふや」は山城を、「草枕」は結ぶを、「さねさし」は相模を、それぞれ伴う枕詞です。

           −・−・−・−・−・−・−・−・−・−

 寄り道はお終い。万葉巡りへ戻ります。天平の愛の寺・新薬師寺。建立したのは聖武天皇妃・光明皇后。きっかけは聖武の眼病平癒の為だったとか。讃良の白鳳の愛の寺・薬師寺に対し、天平の愛の寺・新薬師寺。
 但し、新薬師寺の「新」は新たらしい、という意味ではなくて、霊験があらたか、という意味です。

|我が背子とふたり見ませばいくばくかこの降る雪の嬉しくあらまし
                           藤皇后「万葉集 巻8-1658」


 ...どうしても、薬師寺のあのスケールと比較してしまうと、少々こじんまりし過ぎていて、呆気ない印象は払拭し難いものはありますが、それでも気持ちのいい木陰があちこちにあって、住宅地の中でありながら静かで、ゆったり和める雰囲気です。でも本堂が何かの修繕中だったようで、見学という意味ではあまり、きちんとはできなかった、と思います。
 そう言えば、ご本尊を拝まなかったのは、ここと唐招提寺、飛鳥寺くらいだったでしょうか。ふと、法華寺のご本尊が、光明皇后をモデルにして作られた観音様だったのを思い出しました。

 藤原光明子。のちに史上初めて臣下の出身でありながら立后した。女性です。父親は藤原不比等、夫は聖武天皇。歴史上、彼女は頻繁にこう呼ばれます。「慈善の人」と。

 日本初めての病院とも言われる施薬院を建立。また、老人・孤児を養う悲田院、病人の世話をするための療病院、などを次々に建立・無料開放しました。
 貧しい人たちを入浴させ、素手で彼らの背中を流してもいたそうです。そしてそんな彼女に纏わる説話が1つ。
 ある時、特別に汚れた老人がやって来きて、光明皇后に言います。
「背中を流してくれ」
 他の入浴者が、逃げ出してしまわずには居られないほどの、汚れと匂いでしたが、それでも彼女は嫌な顔1つせず、心を込めて背中を流し続けた、といいます。すると老人の体の中から眩い光が零れだし、やがて阿弥陀様になっていたとか。
 また多少ディテールが違う伝説では、1000人もの病人を素手で洗い続けた光明皇后の目の前に、最後の1000人目。観るに堪えないほどの病状の癩者が現れ、そのたっての願いで、患部の膿をくちびる添えて吸った処、大光明を放って消えてしまい、実は如来様の化身だった、と。

 どうなんでしょうね。説話自体は、かなりありがちなお話ですし、光明皇后については、どうしても彼女をより強く賛美していた向きも多く見られます。もちろん、全ては当時も、そして後も、栄華を欲しいままにしていた藤原氏のが流布していたのではないかな、という邪推すら禁じ得ませんが...。

 実際、彼女に関しては慈善の人、という側面とは別にもう1つ。少々眉をひそめたくなる説話も幾つか残っています。
 鏡神社に関連しても少し書きましたが、僧・玄ぼうとの不義密通、という過ちも行っています。さらには彼女の娘・阿部内親王(のちの孝謙・称徳天皇)が寵愛していた藤原仲麻呂との関係も、怪しまれています。
 余談ですが、阿倍もまた仲麻呂と道鏡とのスキャンダルを残していますし、どうも親子揃って、...かなり発展家でお忙しい方々だったのような気がしています、きっと。

 癒さむと祈りし御達 いま遅けれど
 四百四病いざ失せ給へあもは亡くとも   遼川るか
 (於:新薬師寺)


 それにつけても、酷く蒸し暑くなっていました。残る見学先は寺社仏閣が2箇所、歌枕関連が2箇所、枕詞関連が1箇所。植物園が1箇所、古道が1箇所。時間に余裕があれば、お寺をもう1箇所。
 既に太陽は南中していて、すっかりお昼になっていました。







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