「万葉集」の歌番号に倣うのなら、さきに引用した歌の直後にはもう1首。家持による天皇讃美の歌があります。この歌を詠んだ彼の心の底には、もちろん亡き聖武がいたのは言うまでもありません。

|時の花いやめづらしもかくしこそ見し明らめめ秋立つごとに
                         大伴家持「万葉集 巻20-4485」


 そして、これら2首に続いて現れるのが、橘奈良麻呂の変のその勝者、と言いますか制圧に成功した側の歌です。

|天地を照らす日月の極みなくあるべきものを何をか思はむ
              皇太子(大炊王、のちの淳仁天皇)「万葉集 巻20-4486」
|いざ子どもたはわざなせそ天地の堅めし国ぞ大和島根は
                      内相藤原仲麻呂「万葉集 巻20-4487」


 「天地を照らす太陽や月のように皇位は天地無窮であるというのに、何を物思いなどしようか」
「おい、皆のものども。ふざけたことをするではないぞ。天地の神々がお造りになられた国土なのだから、この大和の島は」

 家持はどんな気持ちだったのでしょうね。咲く花は必ず散る、とした歌と今亡き天皇をなおも讃美する歌のあとに...。草壁や大津に関連して少し書きましたが、「万葉集」を頭から順々に読んで行くと、時々こういう偶然なのか、編纂者の故意なのか、とつい疑いたくなってしまう並びが現れます。
 ただ、少なくとも上記2首に関しては、故意というよりも編纂者としての家持の公平であろう、とする姿勢が感じられる、と私は思っています。何故なら、もっと有効な手段が彼にはありましたから。そう、彼等の歌を採らないという。

 極めて個人的な発想ですが、巻16までは別としても、家持の歌日記へと変質していた当時の「万葉集」に於いて、彼にはすでに歌集を編むというだけでなく、歴史の語り部としての意識があったのではないでしょうか。
 彼が赤心を捧げた聖武という偉大なる天皇の御代と、それがゆくゆくどう変転、混乱、そして荒廃していくのか。これらを偽らざる歴史の流れとしてつぶさに残し、同時にそれによって一層、聖武の御代、光眩き天平時代は際立つ。もしかしたなら、そんな風に思ったのではないか...。
 根拠はないのですが、私にはそう思えてしまいます。

 橘奈良麻呂の乱の翌年。天平宝字2年(758年)、2月の初旬に家持とその歌仲間たちが宴を催しました。宴席の主は式部大輔中臣清麻呂邸。余談になりますが、彼はこの当時こそ地位はさほど高くはなかったのですが、やがて来る光仁天皇の時代には右大臣にまで上り詰めました。...家持の仲間たちの中では、稀有な例です。
 当日、清麻呂邸に集ったのは、甘南備伊香・市原王・大原今城・三形王、そして家持。 宴は最初こそ定石通り、主である清麻呂を称える歌が次々に披露されていったようですが、やがてかつて輝やかしかった聖武朝を。聖武の離宮があった高円の地をそれぞれに追慕する競作が、形作られていきます。
 高円。それは、この宴より5年ほど前の秋の日。家持が清麻呂と故・大伴池主と連れ立っては山へ登り、携えていた酒壷を差しつ差されつしながら歌を詠み合った地でもありました。


|高円の尾花吹き越す秋風に紐解き開けな直ならずとも
                         大伴池主「万葉集 巻20-4295」
|天雲に雁ぞ鳴くなる高円の萩の下葉はもみちあへむかも
                        中臣清麻呂「万葉集 巻20-4296」
|をみなへし秋萩しのぎさを鹿の露別け鳴かむ高圓の野ぞ
                         大伴家持「万葉集 巻20-4297」


 5年前。大仏開眼の翌年、例の「栄花物語」に件がある年です。その時には聖武はもちろん、諸兄も、池主も、確かにみんな、まだ居たのです。けれどもたった5年後には、人は逝き、時代も変わりました。変わってしまいました。
 それだからこそ、彼等はかつての日々を追慕せずにはいられなかったのではないでしょうか。

|高圓の野の上の宮は荒れにけり立たしし君の御代遠そけば
                         大伴家持「万葉集 巻20-4506」
|高圓の峰の上の宮は荒れぬとも立たしし君の御名忘れめや
                         大原今城「万葉集 巻20-4507」
|高圓の野辺延ふ葛の末つひに千代に忘れむ我が大君かも
                        中臣清麻呂「万葉集 巻20-4508」
|延ふ葛の絶えず偲はむ大君の見しし野辺には標結ふべしも
                         大伴家持「万葉集 巻20-4509」
|大君の継ぎて見すらし高圓の野辺見るごとに音のみし泣かゆ
                        甘南備伊香「万葉集 巻20-4510」


 「万葉集」。巻20、歌数4516首にものぼる、その壮大なる歌集には数多の宴で詠まれた歌が収められています。そして、この宴での歌番号末尾は4510。
 これが、この高円での宴席こそが、「万葉集」の掉尾を飾る華やかなものであり、同時に和歌の歴史に於ける上古時代の最後を彩ったものであり、そして日本古代史の中の頂点を極めては終わりゆく、天平期の残照のようでもあり...。
 私はそう思っています。

 奈良で、それまでずっと憧れ続けて来た歌枕の地を幾つも訪ねました。吉野、大和三山、記憶という幻想を見せてくれた明日香川、亡母への挽歌を詠んだ葬送地・泊瀬、奇跡を授けてくれた三輪山...。
 何処も、いずれも、それまで勝手に思い抱いていた虚構を打ち崩し、そして同時にまた新たなカタチの「幻想」という虚構を私に与えてくれたと思っています。そして、高円。高円で私が得た幻想は、歌。...和歌という、その時々の偽らざる思いである実を宿した幻想。その刹那にしか存在し得ない人の思いを、虚実綯い交ぜにしてカタチ成すもの。それを改めて私に提示してくれたのが、高円の地だった。...そう感じています。


            −・−・−・−・−・−・−・−・−

 その後の家持の人生を簡単に綴っておきます。高円の宴からほんの数十日後、孝謙は民間の宴会を取り締まる詔を発布。「同悪の者が集まって天皇の政治を謗り、酔っては節度を失う」ことが理由です。高円の宴での家持の歌の1つは、確かに現世批判ともとれなくありませんし、恐らくは件の宴が詔の原因の1つであったことでしょう。これにより酒宴が禁じられ、前述の高円の宴ほどの宴席は、終ぞ残った「万葉集」の歌には現れないのです。
 また、その処罰とも思える人事が同年に下達。家持は因幡守に左遷されてしまいます。彼が発った後の平城では、同年に孝謙天皇譲位。皇太子・大炊王が即位しました。第47代淳仁天皇です。そして藤原仲麻呂は右大臣に就任し、恵美押勝の名を与えらています。
 翌年天平宝字3年(759年)元旦、平城では淳仁天皇が朝賀を受け、所違えて因幡では、家持が因幡の国郡司たちを率いて朝廷を遥拝し、朝賀を受けます。こののち、部下たちを饗応する宴を張った彼は、歌を1首詠みました。

|新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事
                         大伴家持「万葉集 巻20-4516」


 「新しい年が始まった初春の今日、降りしきるこの雪のように天皇を言祝ぐおめでたい詞が、次々と重なりますことを」

 雄略天皇による、天皇の偉大さをまるで宣言するかの如き歌に始まった「万葉集」ですが、その締め括りは和歌本来の、その時、その人の在りのままを詠み上げたものではなく、いち個人の感情など全く介在しない、いち臣下による天皇讃美の歌。ここに、ますらをぶりを表した「万葉集」は終わったのです。

 あきづしま やまとゆ出でゝ
 いまもなほ 絶ゆることなく
 息づける 大和言の葉
 八雲色 数多の歌主
 折節に 抱く思ひを
 放たむと 戯れ歌もあり
 当座あり 相聞あれば
 腰折れの 歌をし愛しく
 謡ひたり しが歌口に
 これかれの 霊も宿りて
 きはめての もとゆありゐる
 歌の巻 よろづ言の葉
 譬へては 戴きたる御名
 萬葉集 「籠よ み籠持ち」
 より初めて 「いやしけ吉事」に
 をはりゐる 讃良と逢ひて
 あも示す 五七の調べ
 たゞ紡ぎ けふもまた詠ふ
 倭歌 辿る旅路の
 あをによし 奈良の栄華の
 跡もはや 半ば失せゐる
 ものとても なほ呻きゐる
 けふの世の 歌主ひとり
 ありをりて いまだしくをる
 言霊の 八十の歌主
 遍くほどにそ

 高圓の野にて詠ひたる郎子のほど遠そくも歌はのこりぬ   遼川るか
 (於:高円山)


 天平宝字6年(762年)の春、家持は帰京。翌年、藤原宿奈麻呂を首謀者とする恵美押勝暗殺未遂事件に連座しています。それにより京外追放の沙汰を受け、その解消と同時の翌天平宝字8年(764年)、薩摩守として鹿児島へ赴任。左遷です。
 余談ですが、彼の任務期間中、のちに桜島となる海底火山の噴火が起こり、その様子は「続日本紀」に記されています。
 この年の9月には恵美押勝の乱勃発。10月には淳仁天皇廃位。孝謙上皇が重祚して称徳天皇即位。
 天平神護元年(765)、薩摩守解任。翌々年(神護景雲元年)には、大宰少弐として40年ぶりに大宰府へ。4年後の天平宝亀元年(770年)、8年ぶりの帰京。同年には称徳崩御、道鏡失脚となります。そして、白壁王即位。のちの光仁天皇です。
 その後、家持は聖武以来の旧臣として再び取り上げられ、遂に宝亀11年(780年)には参議に就任。今で言う入閣に相当すると思います。

 光仁朝になってから、政局は全体的に安定していましたが、相も変らぬ皇位争いは続いていて、宝亀3年(772年)に皇后の井上と皇太子の他戸が廃后・廃太子。翌年には山部親王の立太子。のちの桓武天皇です。さらに翌年、井上内親王・他戸親王母子は幽閉先で同時に変死を遂げています。一説には毒殺とのことですが。
 この頃から天変地異が頻発し、時の政局を牽引していた藤原良継や藤原百川が、相次いで病死。人々は井上の祟りと畏れました。これを受けて延暦19年(800年)には改めて追后・追太子。
 少し年号は前後してしまいますが、天応元年(781年)、光仁天皇譲位。桓武朝が幕を開け、家持も彼の人生で最も高位の従三位まで上り詰めています。

 桓武即位の翌年、延暦元年(782年)には天武の血を引く氷上川継が謀反、との密告があり家持も連座。現職解任・京外追放。ですがすぐに解消されて、今度は陸奥へ赴任。この当時の陸奥は蝦夷の反乱が相次ぎ、殆ど律令国家vs蝦夷の全面戦争といった様相であったことは「続日本紀」に見て取れます。
 とはいえ、彼の赴任中には実際の戦闘があった記録はなく、小康状態だったのでしょうか。そして、最終的に家持は持節征東将軍に任命されます。対蝦夷戦線の、最高司令官となったのです。
 この時期、平城では遷都計画が急速に進行。遷都予定地・長岡へ桓武が移ったのが延暦3年(784年)。この遷都は同時に聖武の御代と決別するかの如きものであり殊、大伴氏は反駁心を募らせます。しかもまたしても皇位問題に絡んで、藤原氏と大伴氏は対立構造を成してしまいます。当然ですが、大伴氏の中心であった家持もまた、この渦に巻き込まれてしまうのです。

 征東将軍に任じられた翌年。延暦4年(785年)8月28日。家持は他界します。享年68歳。「万葉集」に採られた歌は479首、続く21代集には「拾遺集/3首」「新古今集/12首」「新勅撰集/4首」「続後撰集/3首」「続古今集/8首」「玉葉集/6首」「続千載集/3首」「続後拾遺集/4首」「風雅集/5首」「新千載集/3首」「新拾遺集/7首」「新後拾遺集/1首」「新続古今集/4首」と実に13集63首。万葉歌人では、人麻呂・赤人と並んで36歌仙の1人である、偉大なる歌人の最期です。
 「万葉集」以外の彼の歌から幾つか。

|ゆかむ人こむひとしのべ春がすみたつ田の山のはつ桜花
                     中納言家持「新古今和歌集 巻1 春上 85」
|かささぎのわたせる橋におくしものしろきをみれば夜ぞふけにける
            中納言家持「新古今和歌集 巻6 冬 620」「小倉百人一首 6番」
|旅人のよこほりふせる山こえて月にもいくよわかれしつらん
                      中納言家持「新拾遺集 巻9 羈旅 791」
|あじろへとさしてきつれど河霧の立つとまよひに道もゆかれず
                 大伴家持「三十六集 巻1収録内・家持集 秋歌193」


 宥まらば 言ひ做しまくほし
 冥加をば 八雲の大路
 切通し 枝栞示せしか
 天津星 糠星にさへ
 望月の 足らず短き
 うへにして たゞ歌屑を
 打ち呻く 気色なれども
 あよまむを 差し続けむを
 神掛けてとて

 水無川 星の林の諸の端なれど繋がり繋がれるみを   遼川るか
 (於:高円山)


 「望月の」は足るを伴う枕詞。

 けれども、これより1ヶ月も経たないうちに、長岡京の造営を陣頭指揮していた藤原種継が、何者かが射った矢により他界する、という事件発生。首謀者として捕縛されたのは大伴継人、佐伯高成ら。そして彼らは事件の首魁として、家持の名前を挙げます。
 ...すでに他界していた彼は、それでも生前の罪として除名処分、息子・永主らは連座して隠岐に流罪。死してなお、陰謀に巻き込まれてしまったのです。

 翌大同元年(806年)、ようやく事件の関係者は免罪され、家持も復位。因みに桓武はこれを最後の詔に崩御。この時にはもはや長岡宮さえも離れ都は京、平安宮へ遷都されていました。
 個人的には、家持が種継暗殺計画に関与していたとは、とても思えませんが、いずれにせよ歌人として、官人としての家持の人生を辿るということは、同時に平城から平安へ、万葉から古今へ、そしてあきづしまやまとゆ、つぎぬふやゝやましろへ、という時代の趨勢を辿ることに等しい、そう思っています。

 「万葉集」という最古の歌集。それをきちんと紐解くには、続く古今を始めとする21代集をも辿り、歌というものがどう変転していったのか、その裏側にあった時代はどんなものだったのか、といった事柄を簡単にでも頭に入れておかないと、その果たした役割もまた、薄らぼけてしまうのではないでしょうか。
 なので敢えて。かなりの分量を割いてでも、この経緯をきちんと書きたい、と思っては、ようやく書き上げられた私です。

 能登川を渡り、高円を後にします。夏休み最後の日曜日。それでも、観光客の数はごった返す、というほどではありませんでした。...が、これから向かった先は、正に奈良観光のメッカ。修学旅行の常套コースにある奈良公園界隈です。
 奈良旅行の最後。本当の最後で、ようやくここが国内屈指の名所であったことを実感し始めていました。辻を曲がる度に、人が増えていくのですから。

            −・−・−・−・−・−・−・−・−


 新薬師寺の駐車場から、車を高畑へ移動させます。そして再び徒歩にて、向かう先は春日大社です。ですが、表参道からではなく、敢えて通って行きたい径がありました。通称・ささやきの径。丁度、春日大社の二の鳥居近くへ抜けられるちょっとした林道です。周囲の木々は馬酔木ばかりなんですが、何でも有毒なので鹿が食べないから、という話を聞いたことがあります。
 正直、ほっとしました。とにもかくにも暑かったですし、正に観光地だけあって駐車場は少ない上に、目的地まで遠く、あまり汗をかかない私でも、流石にハンカチ片手にこの日は歩いていましたから。そして、どんどん多くなる団体観光客の列に立ち往生しそうになったりもしていましたから。
 木漏れ日が差し込むささやきの径は静かで、涼しく、新薬師寺界隈で延々考え続けてしまった平城末期の歴史や、理由も判らずけれどもずっと胸に留まっている感傷を、少しだけ忘れてゆったり、ぼんやり歩けそうな気がしていました。

 ささやきの径は特段迷うこともない1本道で時折、群れから離れた鹿がやや遠くからじっとこちらを窺っていました。
 春日大社では、本殿はもちろんですが神苑、という万葉植物園も訪ねる予定です。だからなのでしょうか。ふと、再び亡母のことを思い出しました。

 同じように歌を詠んでいる母娘とは言え、彼女と私の志向はことごとく違っていました。亡母はとにかく植物が好きで、風景が好きで、詠む歌と言えば凡そ叙景的なものばかり。しかも現代短歌でした。一方の私は、どうも最初の
「思っていることを言ってごらん」
 という一言が刷り込みになっていたのか、それともそもそもがそういう方面を好む向きがあったのか。いずれにせよ、ずっと叙情的な歌を詠んで来ました。そして、お遊び半分で現代短歌の真似事は長いこと続けていましたが、真剣に取り組み始めるにあたって擬古典和歌へ、鞍替えしています。

 なので、それぞれの歌について、あれこれと感想を言い合う段になると、決まって最後は口喧嘩。
「るかの歌は何だか暑っ苦しい。第一、判り辛い。もっと素直に詠めないかねえ」
「...母さんのみたいに、呆気ないのよりいいと思う。いつも思うよ、だから何って。風景なんて誰にでも詠める。でも、心情は私にしか詠めないでしょう」
「そもそも、人様に判ってもらえなくちゃ意味ないじゃない」
「判ってもらいたくて詠んでいるんじゃないよ。自分の為だよ。判ってもらう為なんて、誰かが読む前提で、お綺麗なこと書いている日記みたいで嘘っぽいよ」
 ...大体、ここから先は平行線でした。

 でも、何となくもうそんなことはどうでもいい。そんな風に思えていましたし、林立する馬酔木を眺めていたら、叙景もまたいいのかもな。そうとさえ、不思議と感じられていました。

 ご存知の通り「万葉集」には植物も沢山詠まれています。ふと、馬酔木に関連する歌をどれくらい覚えていたかしら、と考えてしまい頭の中で挙げてみました。真っ先に挙がったのは、既に引用している大伯の歌と、石上神宮に纏わる相聞歌の片方。それから件の家持や清麻呂たちによる、宴席での歌。...あの宴席は1次が宴の主である清麻呂を称え、2次で例の高円追慕となり、そして3次で清麻呂邸の庭を称えたという順に流れ、歌が詠まれました。恐らく、清麻呂邸には馬酔木が植わっていたのでしょう。

 

|鴛鴦の住む君がこの山斎今日見れば馬酔木の花も咲きにけるかも
                          三形王「万葉集 巻20-4511」
|池水に影さへ見えて咲きにほふ馬酔木の花を袖に扱入れな
                         大伴家持「万葉集 巻20-4512」
|礒影の見ゆる池水照るまでに咲ける馬酔木の散らまく惜しも
                         甘南備伊香「万葉集 巻20-4513」


 神奈川に戻って調べたら、あと長歌が2首、短歌が3首ありました。...流石に完全なる叙景は厳しいですが、馬酔木に関連した拙歌を。

 馬酔木なす栄えしいにしへ訪ひゐる旅も
 ほと/\に終はりゆくらむ 果てゝ初むらむ   遼川るか


 願はずも 譲りたるもの
 譲られし そのことはりも
 重ねては おのづ譲られ
 たるものと 思ひ起こせば
 思ほゆる かそけき痛み
 わらゝかに ならゆればこそ
 愛しけれ しろらかなれど
 さゝの毒 宿し宿せる
 馬酔木の花とも

 源を手繰ればなべて辿りゆくあもよあれこそしがをなゝれや  遼川るか
 (於:ささやきの小径)


 「馬酔木なす」は栄ゆを伴う枕詞です。







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