ささやきの径をお散歩気分で進んでいくと、春日大社に近づくほどに出迎えの鹿たちが少しずつ増えていきます。そして、続いていた馬酔木の木々がまばらになり、幅の広い参道が見えてきました。
「...これが、例の参道なんだ」
 自然と独り言が洩れました。

 春日大社自体を訪ねるのは、初めてではありません。が、奇しくも奈良市内では、平城から平安への歴史を辿るようになってしまったこの日。既に時間的に元興寺は周り切れない、と自覚し始めていましたから、そういう意味での訪問先のラストが春日大社、というのも何とも歴史を象徴しているようで、流石に感慨のひとつも湧いてしまいます。

 歴史というものは、光を当てる方向によって見えてくるものが全くの別物になってしまう。これは既に、明日香でも大津縁の訪問先でも、しみじみ実感したことです。そして、どうしても個人的には藤原氏にあまり好意的な立場を採れない、採りたくない、と思っている私には中々に複雑でした。
 春日大社。それは藤原氏の氏神。南・北・京・式家、と藤原4家に分かれたのち、やがて北家が他家を制圧。王朝文化華やかなりし平安の世を我が物とした北家藤原一門がまるで、我先にと言わんばかりに京都から牛車で春日詣へ通っては、二の鳥居近くの車舎で下車。もちろんその中には

|此の世をば我が世とぞ思ふ望月の虧たる事も無しと思へば
              藤原道長 「小右記 寛仁2年10月16日/藤原実資に記載」


 と言ってのけた道長もいます。そして彼らが下車ののち本殿まで歩いたという、ある意味での歴史街道とも言えるものでしょう、春日大社の表参道は。
 春日大社そのものの歴史は、同時に歌枕としての春日野のそれと対比させると、とても判り易くなります。「万葉集」には春日野を詠んだ歌が22首、春日山や春日の里まで含めるとざっと数えただけで69首ありました。
 春日山。厳密に言うと、かつて春日大社の祭神であった山は御蓋山(三笠山)であって、その背後に聳えるのが春日山。因みに春日大社の鳥居側から見た場合、その春日山の左手が若草山で、右手が高円山、となります。
 御蓋山は正式な歴史からだと中々手繰り辛いのですが、それでも古くから信仰の対象となっていたようです、地主神として。

|ちはやぶる神の社しなかりせば春日の野辺に粟蒔かましを
                             娘子「万葉集 巻3-404」
|春日野に粟蒔けりせば鹿待ちに継ぎて行かましを社し恨めし
                          佐伯赤麻呂「万葉集 巻3-405」
|我が祭る神にはあらず大夫に憑きたる神ぞよく祭るべし
                             娘子「万葉集 巻3-406」


 「畏れ多い神のお社(つまりは、お上さん=奥さん)がなければ、春日野でデートしてもいいですけどね」
「春日野に粟を蒔いたら、それを食べに来る鹿を待ち伏せるように、あなたに待つだろうに神の社が邪魔していけない」
「私がお祀りしている神(つまりは想い人)はあなたではありませんよ。どうぞご自身に憑いている神を大切にしてくださいね」

 恐らくは、春日に関連する万葉歌でもかなり古い部類に属するのではないかと個人的には考えていますが、この贈答歌にあるように、春日の神というのは広く威厳あるもの、とされていたように思います。...それをこんな風に比喩してしまうのも、中々に大胆ではありますが。
 引用歌中の「粟蒔く」は「逢はまく」と懸かっていますので、恐らくは宴席で年嵩の、既に結婚もしている赤麻呂(詳細不明)から声を掛けられた若い独身の娘子が、それを軽く受け流すのに詠んだ戯れ歌の贈答でしょう。
 ただ、同じく詠み込まれている社に関しては、実際の建物として完成したのは比較的後で、早くは必要に応じて「神離/ひもろぎ」を建てては祀りごとをしていたようです。

 その御蓋山へ特に強く祈りを捧げたのは遣唐使でしょう。天平勝宝3年(751年)2月1日、第10次の遣唐使出発に際し、

|大船に真楫しじ貫きこの我子を唐国へ遣る斎へ神たち
                    藤原大后(光明皇后)「万葉集 巻19-4240」
|春日野に斎く三諸の梅の花栄えてあり待て帰りくるまで
                         藤原清河「万葉集 巻19-4241」


 大使である藤原清河とその叔母にあたる光明皇后との贈答歌です。余談ですが、この清河は願い虚しく帰国の船が遭難したために唐へ戻り、当時は玄宗皇帝の愛妃・楊貴妃とその出身一門に纏わって勃発した安禄山の乱による政情不安からついに帰国叶わず、異国の土と帰しました。一方、副使だった大伴古麻呂は無事に帰国。この時に同行していたのが、鑑真です。

 このように、恒久的な社もなく、あくまでも地主神であった御蓋山が、以後藤原氏の氏神と成り代わってしまったのは、藤原不比等の手により茨城の鹿島神宮や、千葉の香取神宮、そして大阪の枚岡神社から、現在の春日4座の神を招き祀ったことからで、その後は神護景雲2年(768年)に時の左大臣・藤原永手らによってお社建立。御蓋山の神が、春日の神に取って変わられてしまうんですね。

 ほどなく都は平安京へ移ってしまいますが、皇室と藤原氏の春日信仰はむしろ、平安期に盛んになっていき、藤原氏の氏長者はもちろん殊、天皇や上皇の行幸としては一条天皇から後醍醐天皇まで、10世紀から14世紀までもの間、続いたというまさに歴史の大路、表参道です。

 ただ、少し気になるのは、元々存在していた地主神である御蓋山はどうなってしまったのか、という点でこれについては一旦、南大和の阿倍山に神格が移されたようですが、のちに春日大社内へ戻され、現在は境内の南回廊に祀られている榎本社が、それだと言います。
 民間の説話にこんなものがある、と聞いたことがあります。曰く
『春日4座の神のうち第1殿に祀られている武甕槌命は最初、大和へ招かれたものの、安部山に仮住まいでした。なので武甕槌命は、御蓋山の神に
「山を三尺借りたい」
 と頼みます。けれども御蓋山の神は耳が悪く、三尺という以外は頼まれた内容が、よく聞き取れません。でも三尺ぐらいなら、と応じた処これが何と「地面から地下三尺」のこと。つまりは山全体を乗っ取られてしまった』
 というもの。殆ど詐欺といいますか...。

 こういう説話が民間に残っている以上、少なくとも当時の民草にとって春日4座という新しい、それも政治的権力争いを繰り広げ続ける藤原氏が自身たちの為に祀った神に対して、あまり良い印象を持っていなかったのかも、知れませんね。

 いずれにせよ、歌枕としての春日野は、もちろん藤原氏などそもそもは関係なく、前述している高円山と同様、万葉人たちにとっての行楽の場。特に遊猟や野遊びが盛んだったようで、この野遊びというのは当時の民間風習です。
 早春の野へ出て若菜を摘み、男女で求愛の歌を掛け合ったりする、というもの。...そう、覚えていらっしゃるでしょうか。「万葉集」の最初、歌番号0001の雄略天皇の歌。プロポーズの歌であったあの中にも「〜この岡に菜摘ます子〜」と出てきますね。
 そんな行楽地然としての春日野がよく表れているのが、やはり前述の高円山で引用した

|ま葛延ふ 春日の山は
|うち靡く 春さりゆくと
|山の上に 霞たなびく
|高円に 鴬鳴きぬ ・・・・・・
                  作者不詳「万葉集 巻6-948」再引用につき抜粋


 であったり、以下3首などでしょう。

|春日野に煙立つ見ゆ娘子らし春野のうはぎ摘みて煮らしも
                         作者不詳「万葉集 巻10-1879」
|春日野の浅茅が上に思ふどち遊ぶ今日の日忘らえめやも
                         作者不詳「万葉集 巻10-1880」
|春霞立つ春日野を行き返り我れは相見むいや年のはに
                         作者不詳「万葉集 巻10-1881」


 「春日野に煙が立っている。乙女達が萌えた嫁菜を摘んで煮ているのだろう」
「春日野の浅茅が原に集って遊ぶ今日という日を忘れない」
「春霞の立つ春日野を行ったり来たりしてまた逢おう。来年もその翌年も」


 春日野。和歌の世界には、本当に日本各地に数多の歌枕が存在しています。万葉に限定せず平安期に好まれた土地まで含めるのなら、一体その数はどれほどになるのか、すぐには見当もつきません。ですが、そんな数知れない歌枕の中でも一説には、その記念すべき第1号。それが春日野とも言われていますし、日頃暮らす土地からやや離れたまだ見ぬ場所であったり、すでに離れてしまった思い出の場所、としてではなく日常生活圏内に存在した歌枕だけあって、それだけ親しみも、惹かれるものもあった、特別な土地だった何よりのも証だと思います。
 ...そう考えれば、現代でも日々観光客が絶えないことすらも、納得できてしまえそうですね。

 人集ひ人憧れし歌枕の地
 宗と古き春日、御蓋の山おはす神    遼川るか
 (於:御蓋山を臨む春日大社表参道)


 けれども、少し時代が下ると様子が変わって来ます。

|ここにありて春日やいづち雨障み出でて行かねば恋ひつつぞ居る
                          藤原八束「万葉集 巻8-1570」
|春日野に時雨降る見ゆ明日よりは黄葉かざさむ高円の山
                       藤原八束「万葉集 巻8-1571」再引用


 「ここから見て春日はどの辺だろう。雨に祟られて外に出られないので、ただ恋しく思っている」
「春日野に時雨が降り続いている。明日からは早々と紅葉をかざすだろう、高円の山は」

 藤原八束は天平の政変の続く中、謹慎を言い渡されたことがあります。この2首はその時に詠まれたものですが、肝心なのは詠み込まれている「明日」です。前述の通り、八束は藤原北家の一員。平安期に最も栄えた系譜は彼から始まっています。また、特に北家は皇室の藩屏として活躍した家でもあります。仲麻呂(南家)や、広嗣(式家)といった謀反人も私が知る範囲内では、北家からは出ていません。
 その彼が謹慎の憂き目に遭いながら、明日を詠む。ここに彼の強く、深い覚悟が垣間見えます。藤原の氏族として、皇室守護者としての忠勤の誓い、とでも言えばいいでしょうか。...そして、歴史はそのように廻っていきました。

 かつて地主神のお膝元で大宮人たちが菜を摘み、野遊びに興じた歌枕・春日野が、場所を同じくする春日大社同様に繁りゆく藤の大樹の木陰に覆われ始めた、その時期をよく表している2首なのかもしれません。

 ほどなくに宮移るらむつぎぬふや山城繋ぐ
 藤の通ひ路 歴史の大路           遼川るか
 (於:春日大社)


 「万葉集」からは離れますが、続く平安期。春日野はやはり数多くの歌に詠まれました。特徴的なものを幾つか古今からご紹介します。

|春日野のとぶひの野守いでて見よ今いくかありて若菜つみてむ
                       作者不詳「古今和歌集 巻1 春上 18」
|天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも
             安部仲麻呂「古今和歌集 巻9 羇旅 406」「小倉百人一首 7」
|春日野に若菜つみつつ万代を祝ふ心は神ぞ知るらむ
                       素性法師「古今和歌集 巻7 賀歌 357」
|峰高き春日の山にいづる日は曇る時なく照らすべらなり
                       藤原因香「古今和歌集 巻7 賀歌 364」


 1首目は古来よりある、春日での野遊びに対する期待や高揚が詠まれていますね。2首目はご存知、阿倍仲麻呂の望郷歌。ここまでは本来あるべき歌枕、としての春日でしょう。
 一方、3・4首目はともに藤原氏や皇室に対する言祝ぎ歌。その中のおめでたさ、尊さの象徴として登場する春日もまた、ちゃんと踏襲されているのです。

 広い、本当に広い春日大社の中をぽっくらぽっくら歩いていました。夜行で奈良入りしてからすでに5日。何故だか、奈良に着いたばかりの朝を思い出していました。現代から1300年もの過去へ自ら飛び込み、招き入れられ、今は亡き人の面影だけを抱き、奈良というひとつの巨大幻想空間の中を漂っていた、そんな気すらしていました。
 でも...。ひとつだけ判ったこと。それは万葉歌は譬え何首あろうとも。私の中で春日野こそは万葉の舞台であっても、春日大社はすでにそうではなく、その春日大社に辿り着いた今、私の万葉巡りは終わったのだ、...と。

 参拝した本殿では、巫女装束に大きな藤の簪を髪に挿した「御巫/みかんこ」さんたちが晩夏の午後の陽射しの中、やけに眩く感じられました。
 藤の紋章入りがいやに多かった釣灯篭。噂に名高い瑠璃灯篭は当然この日、見ることは叶いませんでしたが、それもまたいつか。今度は万葉ではなく、あくまでも王朝文学の流れで、万灯篭の日に訪ねたい。...そんな風に思っていました。


 再び表参道を二の鳥居まで戻ります。そしてさらに、来た時は歩いていない、二の鳥居へと続く一の鳥居からの参道に進みます。神苑。全国に万葉植物園は沢山ありますが、その中でも最も古くに作られた、春日大社境内の神苑へ。奈良旅行の本当に最後の最後に当たる訪問先へ、歩いていきます。

 二の鳥居を潜った時、ふと「法句経」の一説を思い出しました。といって私自身は仏教典は諳んじられるほど読んだ事もないですし、興味とてそこまであるわけでもなく、ただ、例の道長の「この世をば〜」と並べ立てると面白いな、と高校生の頃に感じ、何となくそのまま覚えてしまった一説です。
 「法句経」自体は写経用経典として、日本に渡来した時期は数多な経典の中でも最古の部類だと聞いたことがあります。もしかしたら道長は逆に、「法句経」を知った上で、それを逆手に取って例の歌を詠んだのかも知れません。

 ただ真相がどちらであったとしても、私が道長より1000年以上のちの世に生まれている以上、そんなことなど一向に構いません。その後の歴史の事実を知ってしまっているのですから。

|この世をば 泡沫のごとく見 この世をば 陽炎の如く見るべし
|かくの如く 世間を観る人は 死王も これをとらうる能はず
                               「法句経 第170番」


 とことはに 継がゆるものゝ
 あらざらむ 人の世の旅
 しがゆゑ いまのかぎりを
 糸惜しみ 慈しみ、愛で
 まくほしと いまはいまにて
 かつて、さき いづれともとて
 違ふをし さてもいづれに
 あさがほの なほ咲かせたき
 花あれば いまをおかずに
 いついづく なにをかもちて
 労はむ なほ春花の
 栄えては 時なる人も
 廃れゆき おほき望月
 うたがたも 欠くるゝほかは
 なきがよし ものすべからく
 あり初めて 成り出でゆるて
 暗しなる ほども重ねて
 なほあよむ たゞに頼みて
 頼みたき ほかなきものこそ
 胸むだけ 倒ふるもあらゆ
 こほさゆる 際も刹那の
 勢ひに 心違へて
 わざくれと なりしもあれど
 しがのちは 物覚ゆるに
 また還る 盛りゐればや
 あらたしき ものなど生はゆは
 能はらじ べちの人の世
 時じくも 手弱きものが
 孕みたる ほとほり、願ひ
 祈り、梦 厚くいらなく
 あればこそ 戸は開かゆれ
 満ちる月あれ

 常ならぬ命なればや抱きゐる密心がゝぎり頼まむ   遼川るか
 (於:春日大社)


 「あさがほの」は咲く、「春花の」は栄ゆ、を伴う枕詞です。

            −・−・−・−・−・−・−・−・−


 方向感覚には、かなり自信があります。事実、この手の旅先で迷ったことは皆無。譬え道を間違えても、何となく自分の中に違和感があるので、後から直ぐその地点まで戻れるものです。
 が、春日大社という大きな神社の境内の中。たったそれだけの範囲で初めて迷いました。神苑が見つけられないのです。時計は既に15時を廻った処。そろそろ出始めていた旅の疲れが足を重たくしていました。

 辻々で人に訊き、それでも何とか神苑に到着。...が、ここでひと安心出来るような場所ではなかったことを、直ぐに実感してしまいました。神苑の総面積は約3ヘクタール(9000坪)。藤原氏縁、ということで約20種もの藤が揃う「藤の園」あり、万葉の人里植物(食物になったり、染料の素になったり生活に活かせる植物)を中心に纏められた「五穀の里」あり、植えられている1本、1本の植物に万葉歌碑が添えてある「万葉歌園」あり。...正直、とてもではないですが、じっくり見ていては丸1日でも足りないだろうと思います。

 仕方がないので、特に「万葉歌園」を中心に、更には季節的にあまり見頃ではない植物は足早に通り過ぎ、植物よりも歌碑をさっとチェックするだけに留めました。...時期的には、あまり花も咲いていませんでしたしね。
 ただ、とても嬉しかったのは入苑の際に頂ける資料で、各植物の現在名と万葉名が一覧になっています。

 有名な、あさがほ=桔梗、同じくあさがほ=槿、などは流石に知っていましたし、こういう取り違えが起こっていない、純粋に古語としての植物名はそれなりに追いかけられるのですが、あしび=木瓜というのは知りませんでした。

 詠まれてはさに取り合はず咲く花のさても凛々しく しても美しくに 遼川るか
 (於:神苑・万葉歌園)


 また個人的に好きな花になってしまいますが「射干(著莪/しゃが)」。これも難解でしたね。「射干」という漢字表記だと、ぬばたま=緋扇、となり更には、はながつみ=姫射干。しゃが=著莪。こうなるのでしょうか。...ちょっと自信がありませんが。


 今回の旅とは無関係に詠んだのですが、著莪に纏わる拙歌があったのをふと、思い出しました。私にしては数少ない、植物に寄せた作ですので、僭越ながらご紹介させて下さい。

 忍びてはひそかに抱く抗ひを俯くまでに漂はす花    遼川るか

 射干玉の闇をすくふは自らに匿ぶる鍵ゆゑ手折る一輪   遼川るか

 厚かるも朝夕のみが華のとき結べぬ実あり根延ふほいあり   遼川るか
 (初出:第438回トビケリ歌句会お題「花」)


 2首目の「すくふ」は救うと巣食うの懸詞です。







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