「万葉歌園」を後にして向かった先は、神苑の中心である「鏡池」です。この池の中には島が設けられていて、その島からは浮舞台が張り出していました。毎年春と秋に雅楽の演奏会なども催されているようですが、この池の辺で、少し休憩。
 直ぐ側には大きな楝の木が立っていました。

 長閑やかに水を湛へて鏡池 浪なき面のなに映してや   遼川るか
 (於:神苑)


 「すでにここは万葉の舞台ではない」
 そう思っていたからでしょうか。ふと思い出したのは枕草子の一説です。

|木のさま憎げなれど、楝の花、いとをかし。枯れ枯れに、さま異に咲きて、
|かならず五月五日にあふも、をかし。
                     清少納言「枕草子 35段 “木の花は”」

|紫の紙に楝の花、青き紙に菖蒲の花の葉細く巻きて結ひ、また、白き紙を
|根してひき結ひたるも、をかし。いと長き根を文の中に入れなどしたる
|を見るここちども、いと艶なり。
                       清少納言「枕草子 37段 “節は”」


 楝。現代ではオウチというのが正しい名前だったでしょうか。花の色は紫。一般には栴檀と呼ばれているようですけれど、香木の栴檀、つまりは白檀ではありません。栴檀は白檀の別名でもあるんですね。

 ...紫。とても好きな色です。色彩としてはもちろんですが、古名でゆかりの色とも言い、すなわちそれは情愛の色。
 額田の有名な「あかねさす紫野ゆき標野ゆき〜」にも詠まれた紫は植物の名前です。薬草ですが、その根を乾燥させて粉にし、椿の枝を燃やした灰から作る灰汁を媒介として染め上げます。そう、海石榴市に関連して引用した

|紫は灰さすものぞ海石榴市の八十の街に逢へる子や誰れ
                     作者不詳「万葉集 巻12-3101」再引用


 も、この紫根染めの労苦を詠みこんでいるんですね。

 万葉時代が始まった頃、推古11年(602年)に聖徳太子が作り上げた冠位12階の制色でも最高位は紫でした。
 古典文学の世界で「紫の」と言えば、匂う。つまりは美しく輝く、ということを伴う枕詞です。

 ただ、紫根染めはあまりに高価で、結果として代用的に藍で下染めしたものの上に蘇芳などで重ね染めすることも多く、そちらは本来の本紫に対して、似紫と呼ばれました。
 平安期。藤原氏の威光の下、その象徴とも言える色であった紫はやはり最高位の色でした。「濃色/こきいろ」、「薄色/うすいろ」という色を表す言葉もありますが、これもまた紫の色の濃さをそのまま色名にしていて、別の色の濃淡を言っているのではありません。因みに中くらいの紫は「半色/はしたいろ」と言います。
 時代を一気に下れば江戸時代。江戸紫と京紫という言葉も生まれました。青味が強ければ、江戸。赤味が強ければ、京。それぞれに別名もあって、江戸紫は今紫、京紫は古代紫...。正に京都、古代、藤原。すなわちそれが最高位、ということでしょうか。
 藤原氏の系譜については前述していますが、近衛文麿も確か房前から44代のちに当たっていた筈です。
 ...何となく、再び枕草子の「めでたきもの」の段を思い出していました。

|すべて、なにもなにも紫なるものは、めでたくこそあり、花も、糸も、
|紙も。
                  清少納言「枕草子 86段 “めでたきもの”」


 藤原。1300年の時を越えて今なお、この日本という国に連綿と続くもの。何も藤原氏に好意的になれないからと言って、現実を否定したいのではありません。今、私たちが愉しみ味わうことができる多くの古典文学は、藤原氏やその縁ある人々なしには有り得なかったのですから。
 でも...。それでも私は、そんな藤原という大きな波に呑み込まれる前の、奔放なままの万葉が。人の心のままを宿す「ゆかりの色」をした歌たちが、やはり好きです。
 坂上はもちろん、家持たち大伴一族は、何も男女間の愛情に限定せず、同性間でも、親族間でも、まるで恋歌のように相手を思う切なる気持ちを載せた歌を多く詠み、そして「万葉集」に残しました。前述の楝が登場するこんな贈答歌があります。

|玉に貫く楝を家に植ゑたらば山霍公鳥離れず来むかも
                         大伴書持「万葉集 巻17-3910」
|霍公鳥楝の枝に行きて居ば花は散らむな玉と見るまで
                         大伴家持「万葉集 巻17-3913」


 「楝を佐保の家に植えたら霍公鳥は訪れて、離れていかずにいてくれるでしょうか」
「霍公鳥よ、お前が佐保の家の楝の枝まで飛んでいき、留まったならば、花も散らないだろう」

 書持は家持のたった1人の弟。のちに夭折してしまっています。この贈答歌の当時、家持は恭仁京で暮らしていました。...霍公鳥。家持の好きだった鳥だと言います。お互いを大切に思い合う、兄弟間の心を載せた贈答歌ですが、こちらもそのまま相聞歌とも読めてしまいますね。

 人が人を思う気持ちは、あはれ。縁は、ゆかり。
 万葉巡り。亡母のとゆかりを、あはれを、遡り、手繰った旅でした。甘樫丘で、彼女との記憶に1つの区切りをつけたのち。早くも同じ日の夕方から、当初組んでいた行程は、変更に次ぐ変更。...多分、判らなくなっていたのだと思います。
 何かを選ぶ、ということは同時に捨てること。何かを終える、ということは同時に始めること。...では一体、何を。何を自分は始めるのか。始めるべきなのか。いや、べきではなく、心底から自分が始めたいものは、何なのか。

 その答えは今、私の胸の中にちゃんとあります。...その答えのひとつこそが、この「あきづしまやまとゆ」でもあります。

 紫の 匂ふがほどに
 胸に咲く 控へ難かる
 あはれなら なぜほりするや
 授かるを 賜るものゆ
 捧げては あそがさきはふ
 そがかぎり 祈り願はゞ
 しがのみに 満たらゆる胸
 色ならぬ あはれこそをし
 もちたけれ 思ひ撓みし
 ほどのたび なほ覚ゆるは
 断ち切れぬ うつしばかりの
 あれのうら あもとの固め
 果たしては いま果たしゆく
 なほもある べちなる固め
 結びたる 宗と高しき
 日方へと 贈り捧げむ
 偽らず あがいらへなる
 この倭歌

 授かるを願ふならばやたゞひとつおのれに負け得ぬなほ深きものを  遼川るか
 (於:本日さねさしさがむゆ)


            −・−・−・−・−・−・−・−・−

 神苑から再び二の鳥居まで戻り、そこからささやきの径を抜けて駐車場に向かいます。...流石にもう、夏も終わりです。西日の翳り方が、確実に真夏のそれとは違っていました。
 結局、時間的に元興寺は拝観できず、さりとて時間が中途半端に空いてしまっていたので、先ずは井上縁の御霊神社の前を通り、続いて拝観時間に制限がない平城宮跡を再び訪ねました。

 風に揺れる夏草、次第に暮れていく空、替わってライトアップされ始めた朱雀門。目を閉じれば、遥か彼方昔の平城宮が自然と思い描けそうでした。
 でも、そんな幻想に浸ろうとする思いを切り裂くように、自動車の排気音が絶え間なく響き、目を開けば林立するビルが視界に否が応でも映ってしまってもいました。

 もう少し、もう少し...。立ち去り難くてぎりぎりまでぼんやりしていたのですが、すっかり暗くなった空に、ようやく立ち上がりました。...立ち上がれました。
「帰ろう。レンタカーを返して、ご飯食べて、夜行に乗って帰ろう。帰ったら最初に母さんのお墓参りに行こう。沢山、報告しなくちゃ...」

 まさなほに してもゆるゝと
 やはらかき むねにもあらず
 もれいでゝ あふるゝゆゑを
 かへりみむ みかへるひゞを
 かさねては なほかさねては
 たぐりつゝ いとほしむごと
 たし/゙\に さてもまばゆき
 まばゆくも めもあやなりし
 たびのそら ときさかのぼり
 かへらゆる よとせのおもひ
 いろもこく やくもよみては
 わたりたる みそなるほども
 あざやぎて うつろ、うつしも
 ありゐては かはりたるもの
 かはりえぬ ものもありをり
 すべからく さづけたまひし
 あきづしま やまとのくにゆ
 いまたゝむ いつにいづれに
 なほもなほ とはまくほしく
 おもふらむ しがほどむねへ
 わたるなら いかへりまいらむ
 このくにゝ うけひいだけば
 あたゝかき さてもいかでか
 とまりえず なほもあふれて
 ながれあゆ あがほゝぬらす
 しづくらよ こみあがりくる
 空知不雨

 なみたかはめらのそこひゆみろ/\とわき
 こらへてはかなふことなき名残の涙     遼川るか
 (於:平城宮跡)



= 了 =







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