後記

 「ずっと眠っていた」
 そんな風に思っています。5年前に母を看取って以来ずっと、ずうっと、恐らく私は無意識のうちに自らの一部を眠らせてしまっていたのでしょう。

 亡母の生前、私は歌こそおざなりに詠んではいましたが、何よりも力を入れていたのは小説でした。当時の生業も著述でした。雑誌に、新聞に、各自治体発行の機関誌に。ゴーストとして単行本の原稿も随分書きました。すでに絶版になってしまっていますが一応、自著も3冊ほどあります。
 ですが、小説はだめでした。常に2次、年に1回は確実に最終選考にも残っていました。...が、入賞は一度も叶いませんでした。

 記憶する限りでは、最初に亡母とぶつかったのは7歳だった、と思います。以来29歳で彼女を亡くすまで20年強、ずっと、ずうっと反目し、恨み、そして焦がれていました。彼女に認められたい、と。ただそれだけを。
 その為の手段としての著述でした。生業でした。夢であり目標でした。私が彼女に勝っていた唯一無二のものでしたから。

 彼女を見送って49日が明ける頃、小説を1本書こうと思いました。いつものようにプロットを切りました。いつものようにキーボードに向かました。いつものように煙草を咥えて、火を点けて...。
 ですが、書けませんでした。何も、何ひとつも書けず、たった1行を埋めるのに3日掛かりました。それでも強引に、無理矢理に書き、1ヶ月掛かって何とか122枚に纏めました。その翌日、投稿も済ませました。

 2ヶ月後、1次と2次の通過作品が誌上発表されました。
「今回は酷かったから、最終は無理だな。2次通過していれば御の字」
 そんな風に甘く考えていました。そして書店で目的の文芸誌を手に取り、目指すページを手繰り...。愕然としました。2次通過はおろか、1次通過作品の中にすら拙作タイトルはなく、当時使っていた筆名もありませんでした。
 生まれて初めての1次落ちでした。

 以来、小説を書こうという気は起きず、それでも仕事としての著述は続けていました。ですが、以前のような書きたくて、書きたくて、堪らない。抑えても、抑えても、次から次へと自らの内側から溢れていた流れは、すでに絶えてしまっていました。

 小説への情熱が萎えると同時に、何となく心惹かれたのが歌です。正直なところ、嫌っていました。母親から半強制的に学ばされ、どんなに自分では中々のできと思っても、その直後には必ず同じ題材を扱った、でも拙歌とは全く違う何かを切り取ってはさらりと、そして圧倒的に詠み上げられる彼女の歌に打ちのめされました。
 それなのに何故か。どうしてだかは判りませんが、日々の歌日記以外に、ある日。私のもとへ降って来た歌がありました。

 行き交はす知らぬ母子がゑみがほに幼き日々を重ねてもみつ   遼川るか

 初めての経験でした。小説を書いていた時、自動書記状態に陥ることは何度も経験していましたが、歌が無意識に口を衝いて出たのは、これが最初でした。同じ日、彼女の他界後初めて、彼女を亡くしたことで声を上げて泣きました。
 以来、まるで何かに引き寄せられるかのように、ひたすら歌を詠み続けてきました。巧拙なんて関係ありませんでした。ただ、あの無意識のうちに言葉が紡げてしまう瞬間に。何も考えない真っ白な頭と、裸になった心が洩らす、自らを手繰りたくて。そのためだけに続けてきました。

 今年8月下旬、奈良で万葉の舞台を幾つも幾つも訪ね、現地で得た私の答えの1つに、
「自らを解放してくれるもの、それが歌」
 というものがあります。そしてそれは、何も今更語るまでもなく、きっと最初から。少なくとも天から降って来てくれた、あの歌以降はそうだったのだ、と今ならば認められる気がします。

 著述の方は2年前の春に捨てました。歌への傾倒と反比例するように確実に萎えていく何かがあり、それ以外にも色々と思うこともあって、仕事としていた著述を廃業しました。以来、何となく私信とボード発言以外は何も書きたくなくなっていました。
 そして1つだけ漠然と感じていたのは、
「もし、もう一度何かを書くことがあるとすれば、それは亡母とのことになるだろう。きちんと亡母の記憶と向き合うことができないうちは、きっと私は書けないだろう」
 ということです。

 奈良での3日目。藤原宮跡でふと、「あきづしまやまとゆ」の序文冒頭が降って来ました。甘樫丘と天武・持統陵を訪ねた直後にはこの、後記の冒頭が降って来ました。
 何年振りだったでしょうか。
「...書きたい、書かなくちゃ」
 そんな風に思えたのは。

 奈良から戻り、現地では足りなかったものを埋めるように1ヶ月掛かって最低限度の調べ物と、現地での拙歌の整理を終え、書くことに取り掛かったのは10月近くなっていたと思います。
 書き始めて感じたのは、この5年間で如何にあらゆる能力が衰えてしまったか、という点で、そういうジレンマとの格闘は最後まで続きました。
 様々な理由から全面改稿も2回しました。うち1回分はすでにエンドマークまで辿り着いていました。

 わざわざお断りするまでもなく、1つの作品とした場合この連載の完成度はあまりにも低いものです。何せ書き始めた当初は7発言くらいで終わらせる、本当に簡単な紀行文に近い体裁にしようと考えていましから。
 それが狂い始めたのは、やはり奈良滞在3日目を書いている途中でした。本文中にも書きましたが、あの旅自体も、初日から3日目までと、4日目・最終日では全く別のものになってしまっていましたし、それを書く段になればなおさら別物にもなります。3日目までは、ただ約束を果たすことだけしか考えておらず、約束を果たしてしまった後は、新たなものの模索が始まりました。
 さらに最終日の行程を書いている途中、単に個人的な思いとはまた別に、万葉の時代がどう終焉を迎え、そして次なる時代へと繋がっていった流れなのか、と言う点をちゃんと書き、また知って貰いたい。そんな風に考え始めてしまいました。

 序文からこの後記まで(補遺除く)、原稿用紙換算ソフトによれば400字詰めのそれで600枚強。けれども、この600枚は事実上大きく3部に分かれています。つまりは、眠っていた私、目覚めて何をするべきか模索している私、そして自らがしたいことを見つけてはっきりと目覚めた私、という形に。
 そういう意味では、お目汚しも甚だしく、稚拙な代物ではあります。が、敢えてこの3人の私のままを。偽らざるままを、ご高覧戴けたのであるならば、とても...、本当に嬉しく思います。
 また、決して私自身の中では相容れないと思っていた、歌と著述という2つの要素をこういう形で統合できた自分自身を、何よりも喜びたい。今は、そんな風に感じてもいます。

 なお、多くの万葉ファンの方々に対し、お詫び申し上げたいことがあります。私は拙作中、万葉歌人や歴史上の人物のご芳名を例えば「讃良」とか「坂上」「穂積」などなど、正式名では記載していません。
 これは、亡母と私が日々の会話の中で語っていた呼称であり、同時に彼ら、彼女らに対する愛情と親しみゆえのものです。そして、本作を表すに当たり当時の呼称を敢えて、そのまま全て使わせて戴きました。
 ご気分を害された方も、きっといらっしゃったことと思います。その点については謹んで深謝致します。

 途中、ご感想やご質問、ご意見をお寄せくださったみなさま、@nifty旧文学フォーラムへの掲載時に様々なご協力やご示唆を頂戴したみなさま、本当に有り難う御座居ました。また、件の奈良滞在中に色々とお世話になった方々にも、この場を借りて心より、御礼申し上げます。
 そして誰よりも、何よりも。私に歌を与えてくれた亡母に。様々な答えを授けてくれた万葉の舞台・奈良の地に。「万葉集」に採られた全ての歌の詠み手たちに。言葉になどできようはずもないほどの感謝を、心より捧げたく思います。

 万葉巡り。亡母との約束は果たしました。本作を完成させるという約束も果たせました。でも今、新たなる約束が私の中にあります。
 ゆかりの色を宿した万葉歌たち。それらに纏わる土地を勝手気侭に訪ねる私の旅は、まだ終わらない。...そう思っています。

 「能登川の後の流れが果て」である、21世紀の今も詩歌を愛されている全ての方々が、いつもいつまもでご健勝あられることを。そして健詠とご健吟を。深く深く祈りつつ、筆を擱かせて戴こうと思います。

 ありがとうございました。








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