8ヶ月。昨年8月の訪問から8ヶ月振りに佇んだ、早朝の近鉄奈良駅構内は、そろそろ初夏だというのに、何だかとても肌寒く感じられていました。レンタカーの営業所が開くまでの時間は前回同様、身支度をしたりしていたのですが、ふと気づいたのは、夏にはなかったスターバックスが駅構内に出来ている、ということ。荷物の重さと、肌寒さにやや閉口気味でしたから、すぐに避難します。
 1杯のコーヒーでひと心地つき、これから始まる4泊5日の行程について、ぼんやり考えていました。

 出発前は、とにかく慌しい1週間で、暮らしているアパートの契約更新だの、統一地方選だの、実家からの呼び出しだの。加えてそれまでの商品開発室勤務から、急遽下った辞令によって生産技術指導へ異動になって、ほんの2週間。生活の変化に未だ順応できず、身体もあちこちが痛むまま、というかなりな無理をおしての旅。...それでも、そうしてでもわたしはまた、この地へ戻って来たかったのだから仕方ありません。
 さねさしさがむと、あきづしまやまと。この2つの土地に纏わる望郷歌は「万葉集」にも収められています。

|足柄の箱根飛び越え行く鶴の羨しき見れば大和し思ほゆ
                            作者不詳「万葉集 巻7-1175」


 来経る年十歳となりし誓ひありき
 来経れば三十歳ともなりし思ひありゐて
 弥立てゝ弥増す増すに増さりゆく思ひ恋ひゐる
 あきづしまやまとまほろばうまし國
 八千代、萬代うつろへど
 片設き訪ひし日は間なく耀ふてゐし
 うつゝともなき草枕旅なれば
 いたもかたひてあさにけに
 いろはの歌々云ひ告げしことごとなほし偲びては
 自づ思ほゆ思ほゆるあがみをかつも産土や
 なほし坐し坐す言霊のやその歌々むだきゐる
 土もかつも日も風もみづも天つみ空も愛しうまし
 とほきいにしへ
 ひたにあがゝはへに帯ばしむ
 いめかつもうつしなる國あきづしまやまと
 あが血の激越きては絶ゆるはけだしえあらじや
 あが霊なほし絶ゆるとふ
 ことを知らざるあが霊の祖

 天満つ大和なればし道往けば倭に往きて倭ゆ来るらむ  遼川るか
 (初出:第470回トビケリ歌句会お題「忘れ得ぬ場所」、のち再詠)


 永かった、と...。この8ヶ月、特に秋以降は出張で近くへ寄った事もあれど、万葉巡りは叶わず、遅々として好転しない採血のデータ数値を眺めては、ただただ自らを宥め続ける日々でした。
 でも今、確かに自分は大和の地に戻ってきていて、これから出向く数々の場所はみな、1度は実際に訪ねてみたかった万葉の舞台ばかり...。
 そろそろレンタカーの営業所の開店時刻。ゆっくり階段を登って朝日の中の奈良の街を眺めます。
「...還ってきた」
 肩からずり落ちかけていた荷物を持ち直し、新たなる万葉巡りの第一歩です。

            −・−・−・−・−・−・−・−・−・−

 今回の万葉巡りの行程は、すでに秋の時点で青写真が完成していました。とはいえ、前作「あきづしまやまとゆ」は当時まだ脱稿もしておらず、そのタイミングで次々湧く新たな興味や、昔から抱えている好奇心などに添い、リストアップしていた場所は、行程の中の2〜4日に殆どを集中させていました。
 というのも、今回の訪問先の多くは、奈良市内から距離がある場所ばかりだったからです。なので、初日と最終日は必然的に前回の宿題を、移動しつつ訪ね・消化するために充てていました。
 レンタカーのエンジンを掛け、最初に向うのは高円山の裾野を東へ下った田原の里。春日宮天皇田原西陵への墓参です。

 春日宮天皇、もしくは田原天皇。こう書いても殆どの方はピンと来られないでしょう。日本の歴史上には、当然ですけれどこういう贈り名の天皇はいません。では、誰か。
 前作でも少し触れましたが、例えば草壁。彼は実際に天皇即位はしていないものの、その後に彼の子や孫が次々と皇統を継いでいったため岡宮天皇、と追尊されました。
 それと同様に、この春日宮天皇も実際には即位はしませんでしたが、彼の子どもから始まって今上天皇に至るまで、その連綿たる血脈は一体何人、何十人の天皇を生み出したのでしょうか。彼はその数え切れないほどの天皇たちの始祖、とも言える存在に当たります。なので、追尊されているのですが。

 壬申の乱以降、
「皇統は絶対に天武系」
 そんな暗黙の了解は凡そ100年続き、けれどもその血脈が断たれ、1世紀ぶりに天智系血筋に戻ったきっかけは、前作でも書きましたが光仁天皇。井上内親王の夫であり、大和時代最後の天皇であり、そして万葉屈指の歌人・志貴皇子の息子でもあり。...そう、春日宮天皇(田原天皇)とは、志貴のことです。

 そもそも天智に皇子が何人いたのかは寡聞にして知りませんが、一説には4人とあり、その一方で志貴は第7皇子という説もあるようです。ただ歴史上、名前が登場するのは大友皇子、川嶋皇子、志貴皇子、の3人となります。そして、3人ともに母親は身分があまり高くありませんでした。
 壬申の乱で絶命した大友はさておき、川嶋と志貴は天武8年(680年)5月、吉野への天武の行幸に付き添い、そして吉野の盟約、別名・6皇子の盟約に参加しています。これは、この時点で成人していた天智・天武両系の皇子が全員集まった形で序列は草壁、大津、高市、川嶋、忍壁、志貴となっていました。

| 5月5日、吉野宮に行幸された。6日、天皇は皇后および草壁皇子・大津皇子・高市皇
|子・河嶋皇子・忍壁皇子・芝基皇子に詔して、
|「自分は、今日、お前たちと共に朝廷で盟約し、千年の後まで、継承の争いを起こすこ
|とのないように図りたいと思うがどうか」
| といわれた。皇子たちは共に答えて、
|「ごもっともでございます」
| といった。草壁皇子尊がまず進み出て誓って、
|「天地の神々および天皇よ、はっきりとお聞きください。われら兄弟長幼合せて十余
|人は、それぞれ母を異にしておりますが、同母であろうとなかろうと、天皇のお言葉
|に従って、助け合って争いは致しますまい。もし今後この盟いに背いたならば、命は
|亡び子孫も絶えるでしょう。これを忘れずあやまちを犯しますまい」
| と申された。5人の皇子は後をついで順次さきのように誓われた。そうしたのち、
|天皇は、
|「わが子どもたちよ。それぞれ母を異にしているが、みんな同じ母から生まれたも同
|様に思われいとしい」
| といわれた。そして衣の襟を開いて、その6人の皇子を抱かれた。そして盟いのこ
|とばを述べられ、
|「もし自分がこの盟いに背いたら、たちまちわが身を亡ぼすであろう」
| といわれた。皇后もまた天皇と同じように、盟いのことば|を述べられた。
                          「日本書紀 天武8年(680年)5月」


 ...もちろん、歴史はこの誓い通りには進みませんでした。というよりむしろ、この盟約が7年後の大津謀反・自害の伏線になった、ともいえるわけで言葉は悪いですが、ある種の茶番のような印象も正直、漂っている気がします。

 ただ、この盟約に参加はしたものの天智系の2人に関しては、皇位継承権が廻ってくる可能性など皆無。逆に、この盟約があるからこそ、1つ嫌疑を持たれたらそれは即ち死、を意味することになります。
 だからでしょうか。川嶋は、親しかった大津の謀反を密告した人物、とされているのですが、これとて見方によっては、大勢側への擦り寄りによる保身術、とも言えてしまいそうです。
 そして一方の志貴。前作でも書きましたが志貴の歌が未だに、様々な角度から「裏側の意味」を探る為の研究が続けられているのも、こういった複雑で微妙な立場だったからでこそでしょうし、日本書紀や「万葉集」に採られている歌から垣間見える彼の印象は、案外に複雑です。

 きっと早い段階で皇位への執着など諦めてしまっていたのでしょう。いや、最初からそんなものは持っていなかったのでしょう。そして、あとはただただ周囲に逆らうことなく、流されることもなく...。
 物事の捉えかた1つで、居心地は良くも悪くもなります。逆に皇位継承争いから逃れられていることを
「気楽で安全。下手に野心など抱かず、大きなミスさえ犯さなければ命の心配はむしろない」
 そう彼が受け止められていたならば、志貴の宮中での立場は現代社会のわたしたちが勝手に想像するような、窮屈なものではなかったのかもしれません。最低限度の警戒心と自律の気構えだけに神経を集中してさえいれば...。
 
 続日本紀に残る記録を眺めていると、志貴が行った政治的役割のうち、幾つか大きなものが登場します。先ず、讃良崩御の際。彼女は天皇としては始めて火葬され荼毘に付された人なのですが、その為の火葬設備の造営指揮を執ったのが、志貴です。
 讃良の孫・文武崩御でも中々の働きだったようで、地味ながらも時の主流派に貢献し続ける、という姿勢は一貫して見受けられます。

 故・犬養孝先生の志貴の歌評に
「完璧で隙のない歌」
 というものがあったように記憶しています。...完璧で隙がない。無頓着で無関心な人では、確かに彼のような瑞々しいけれども緻密で、抑圧と解放のコントラストが際立つ歌は、あまり詠めないように思えてなりません。きっと、それなりに言いたい事もあったのでしょうし、しかしそれを口にすることなく、さりとてその状態に鬱屈としてしまうのでもなく、ただ淡々と冷静に...。
 政治には一切、興味を持たず風雅のみに親しんだ、という人物像よりは、繊細で感じやすく、それなりの警戒心もちゃんと持ち合わせていて。...といってそれは抵抗心や、反駁心では決してなく、あくまで一歩引いた地点から静かに世界を見つめている、という自制的で、自らを殺した警戒心なのですが。
 いずれにせよ、わたしの中の志貴は、元々がそういう印象でもあったのですが、昨夏に白亳寺を訪ねて以降、どんどんこのイメージで固まってきています。

 高円山の裾野を東へ東へ、白亳寺から約5kmほど下って行くと、途端にあちこちに茶畑が点在するようになります。4月半ば。あとひと月もしないうちに茶摘が始まるのでしょうか。やがて、一際大きな茶畑を過ぎると、御陵らしき門構えが見えてきました。
 車を降り、近くで見てみるとやはり、春日宮田原西陵と宮内庁看板にあります。志貴のお墓です。


 わたしは御陵の類はそれほど沢山の数を見たことがありません。また、御陵に行っても歌を詠むこととお墓参りにばかりに感けて、御陵そのものへの関心は実はかなり薄く、古墳の知識といったらごく僅か。古墳を前に、ここは円墳、あっちは方墳、などと古墳の全体像を掴めたことなどほんの数回なのですが、そんなわたしでもこの志貴の御陵の不思議な造りは、感じ取れました。

 先ず普通の御陵なら宮内庁看板が立っている場所。そこからほど遠くない場所に御陵の正面があります。しかし、志貴の御陵は、看板のある場所から脇に細い道が拓けていました。両側は木々が茂っていて、特に右側は御陵のようにも思えたのですが...。道が真っ直ぐなので、方墳かしら、とも思いました。
 少し行くと、道の両脇の茂みが突然開けます。視界に映るのはただ、ただ、茶畑と、道の奥にある茂みのみ。茶畑と茶畑の真ん中、一段高い畦道のような恰好で、道はなおも続きます。そして道の末にあるのが、再び大きな茂みと門。多くの御陵にどれも等しく立っている白い石かコンクリートで造られた門です。
 どうやら、ここが本当の志貴の御陵らしく、釈然としない思いはさておき、先ずは墓参。黙祷を終えてから、改めてさっき車を降りた場所にあった宮内庁看板と御陵の門構えは何だったのだろうか、と。...感覚的には前方後円墳なのかな、とも思いましたが未だに曖昧としたまま、胸に残っています。手前の茂みが御陵の一部でなく、道の奥にあった場所のみが御陵なら、単純な円墳なのでしょうが。
 ...これは未だに不明です。

 お話を本筋に戻します。...志貴。彼の歌というと好き嫌いはともかく、真っ先に頭に思い浮かぶのはやはり例の「采女の〜」でしょう。そして、当時としては斬新とも言える
「明日香風」
 という造語までものしている所為なのか。それとも、その他の歌からも字面にはなくとも何となく感じ取れるからなのか、は判りませんが、わたしの中の志貴は、風を詠んだ歌人というイメージが、人柄の印象とは別にあるんですね。

|采女の袖吹きかへす明日香風都を遠みいたづらに吹く
                            志貴皇子「万葉集 巻1-51」


 だけに、朝まだ8時過ぎ。春のやわらかい陽射しの中で見た光景は、あまりにも志貴のイメージに相応しくてしばし歌が詠めませんでした。広がる茶畑に幾つも、幾つも立っている霜除けの扇風機。それらがすべて静かにくるくる、ゆるやかに廻っていて。手前と奥で2つに分かれた御陵の隙間を本物の風が、のんびり吹きすぎて行って。

 飛ぶ鳥の明日香はとほく
 はろはろに来ぬ来ぬるすゑ
 玉鉾の道の隅さへ落さずに偲びたまひし
 吹き寄するよすがありゐしとほき宮
 とほき都の風なれば
 よろづよ来経るけふに吹くなほし離れゐる
 あをによし寧樂
 高円の山裾廻
 吹きまくほしや風だにも
 あまた舞ひゐる羽統ぶる風
 明日香風
 陵に時じく間なくなほしな絶ゆな

 冬ごもり春さり来れば陵にまたも南ゆ風の吹くらむ   遼川るか
 (於:春日宮田原西陵、のち再詠)


 控えめに、控えめに。そうやって生き抜いた志貴の魂が、今なお周囲に吹く風たちを宥めているかのような、そんな厳かで静かなひと時でした。
 彼の歌は、前作で殆ど引用してしまっていますし、残る2首のうちもう1首は追々詳しく書こうと思っているので、もう一方の歌を。志貴にしては珍しく宴席で詠まれたもののようです。

|大原のこのいち柴のいつしかと我が思ふ妹に今夜逢へるかも
                            志貴皇子「万葉集 巻4-513」


 「大原のこのいつ柴ではないけれど、いつになったら逢えるのか、と思っていた愛しい人に、今夜逢っていることだ」

 1、2句目はいつしか、の「いつ」を導く序詞。いつ柴のいつ、はあるものを誉める時の接頭語として用いられます。柴は雑木。

 「万葉集」に6首採られている志貴の歌の中では、個人的に最も「隙がある」つまりは志貴本人が身構えていない、リラックスした状態で詠んだ歌ではないか。そう感じているものです。...もしかしたら、彼の歌で1番好きかも知れません。

 この田原西陵。西陵とわざわざ断るくらいですから当然、東陵もあります。西陵から東へ4kmほど行った場所に眠るのは、志貴の第6皇子・光仁天皇。志貴を田原天皇として追尊したその人でもあります。
 余談になりますが、天武系皇族に対する藤原氏の粛清が続いていた中、まだ若かった光仁天皇はお酒に溺れた愚か者の振りをして凌いだ、という逸話がありますから、逆境を生き抜く力と知恵は、父親譲りだったのかも知れませんね。
 加えて、この2つの御陵の中間地点には、古事記編纂と、さらには日本書紀の編纂にも関わった、とされている太安万侶の墓誌の出土した場所があって、国の史跡に指定されているようです。

田原東陵(光仁天皇陵) 太安万侶の墓誌

 ...東陵も太安万侶の史跡も、方向が違ったので今回は見られなかったんですけどね。古事記編纂を提唱した元明天皇の御陵と併せて、太安万侶のお墓はこれまた先々への宿題となりました。

 さらにもう1ヶ所。同じく宿題になった志貴関連の場所があります。奈良豆比古神社。祭神は、この地に元々から祀られていた、産土の神・平城津彦神(奈良豆比古神)と志貴、そして彼の第2皇子である春日王です。県道754号(木津横田線)は万葉当時、西側の歌姫街道と並ぶ、奈良・山城間の二大峠越えルートの1つでした。
 奈良豆比古神社は、その街道沿いにある延喜式内社。奈良坂の氏神さん、と現在も地元の人に親しまれているようです。

奈良豆比古神社

 万葉からは離れてしまいますが、謡曲。つまりはお能に関連して、この奈良豆比古神社には見逃せない謂れがあります。そもそもこの神社は、「歌舞音曲の司神」とされているらしいのですけれども、志貴の血脈はその名に、相応しい一面を持ち合わせているようです。
 彼の息子・春日王には浄人王(弓削首夙人)という皇子がいるのですが、この浄人王が殊更好んだのが「散楽俳優/さんがくわざおぎ」。散楽は所謂、猿楽のことであり、俳優は手ぶり足踏みなど、面白おかしく技をしては舞い歌って神人を和らげ楽しませること、という意味。
 春日王が難病に倒れ、この奈良豆比古神社へこもっていた時、浄人王と弟・秋王は弓を削ったり、季節の花を売ったりしては父親の看病の助けにしていた、といいます。そして、病の平癒祈願に浄人王はこのお社に舞を奉納。すると父・春日王はすっかり元気になれた、と。
 この伝承に基づいてなのか、奈良豆比古神社では毎年10月8日の宵宮に、翁舞(奈良県及び国の無形文化財指定)の奉納が現在も続けられているそうです。また、社に奉納されている能面も20種にも上るようで、最古のものとして室町時代に彫られたベシミ面(鬼面の1種)があるのだとか。
 能楽そのものの祖が猿楽であることは疑う余地もなく、その猿楽がこの奈良豆比古神社で発展していったことも、ほぼ明らかとされているんですね。

 翁舞そのものは350種以上ある能楽の中で最も古く、最も神聖視されているもので、ひと言で説明してしまえば祝言舞。五穀豊穣、生命長久、天下泰平、国家安穏などを祈る祝謡で、おめでたい言葉を連ねた囃しなど、長いこと口伝のみで受け継がれていた、とされています。...現代は流石に謡本もありますが。

|翁「とうとうたらりたらりら。たらりあがりらゝりとう」
|地「ちりやたらりたらりら。たらりあがりらゝりとう」
|翁「処千代までおはしませ」
|地「我等も千秋さむらふ」
|翁「鶴と亀との齢にて。幸ひ心に任せたり」
|翁「とうとうたらりたらりら」
|地「ちりやたらりたらりら。たらりあがりらゝりとう」
                                 謡曲「翁」冒頭部


 控えめに、控えめに...。生臭い皇位継承争いから外れて自らの心を部分的に殺し続けた志貴。けれども、そういう境遇にいたからこそ、とも言えるその繊細で感じやすい内面は「万葉集」に採られた6首が雄弁に物語っています。
 そんな彼と彼の子孫たちが現代まで、わたしたちに残してくれたもの。それは権力や栄達欲とは別次元の、もっと人間の魂の原初的な部分にある謡い、舞う心なのかも知れません。
 志貴を祖に、皇統とは別に1200年に渡って受け継ぎ、継がれているのはきっと天と、地と、人と「和する歌の心」そのものだとわたしは思っています。







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