※雷丘は現在、登れるようになりました。

 田原の里を後にして、目指したのは明日香。前回の訪問の宿題、として未消化のままになっている、水落遺跡と雷丘が目当てです。ただ、心配だったのが車だと何処まで入れるかという点で、同時に適当な駐車スペースはあるだろうか、と...。
 取り敢えず、まだちゃんとした公道に面している、というだけの理由で先ずは雷丘へ。丁度、適当な駐車スペースもあったので、ここから先は徒歩にて、水落遺跡へ向いました。

 前回は、結構どんより曇った正午前後だったと思います。夕方から雨になっただけあって、水落遺跡の印象は色彩で言うと、何となく灰色掛かっていたのですが、晴れ渡った春のこの日、再訪した水落遺跡は何だかとても、あっけらかんとしていた、といいますか...。
 広さも、記憶のそれと比べると、いやに広々としていて、曇天の下だからこそ空耳に聞こえてきそうだった太鼓や鐘の音は、逆に殆ど聞こえなくなってしまったかも知れません。
 それでも、1300年。その昔、確かにここから発せられた音色で、人々が生活を刻んでいっていたのだ、と思うと、あっけらかんとしていることが意外でもあり、でも逆に奇妙なリアリティもあり。不思議な感覚でした。

 響みしはしましきものか
 玉響に聞きしはいめか
 時となく時の刻みの音の消えて
 弥日異越ゆれば
 皆人はなほし流るゝ時のむた流れ流れぬ
 褻衣を時みづのごと
 稲莚河ゆくがごと
 うつそみの人の命も人の世も
 え違はざればいで響め
 よろづちよろづ
 日も夜もさはにし越えば
 をつゞにもまた聞こゆらむ
 いにしへの時の刻みの音や
 いめの音や

 ときは過ぐ ときは過ぎゆくものにしてしましきものはまたもしときは 遼川るか

 (於:水落遺跡、のち再詠)

 8ヶ月前は、予習をしていなかった為に全く歌が詠めませんでした。でも、やっと現地での即詠が叶えられ、少し胸に何かが満ちていくのを実感していました。
 詳しくは前作にて記述していますので割愛しますが、この水落遺跡で製作・運用に成功した漏刻は、後々遷都の度に移設されていた可能性が高いようで、天智が天智6年(667年)に行った近江京への遷都に関しても同様。現在の近江神宮(滋賀県大津市内)に漏刻の跡が残っているそうです。


             −・−・−・−・−・−・−・−・−・−

 駐車していたのは、雷丘の目の前。丁度、道路がT字路になっているのですが、その路肩にちゃっかりと。一応、標識からするに駐車禁止地帯ではないようでしたが...。
 車へ戻り、そのままこちらも前回の宿題であった、雷丘です。昨年夏は車で前を通り過ぎただけで、ゆっくり観ることも出来ませんでしたので、じっくりと眺めてみたかったですし、叶うならば登ってみたい、とも思っていました。

 正しくは北側の城山と南側の上の山、の2つの丘の総称が雷丘、というらしいのですが、それでも
「たった9mしかない」
 丘というより、茂みと表現したほうが的確なのではないか、とも思われるささやかな風情。しかし、にも関わらず冠している名前の勇壮さもそうですし、かつては三輪・雲梯・葛城と並ぶ出雲縁の神奈備のひとつであったのではないか、という説が存在していることといい。そして、人麻呂のあの歌です。

|大君は神にしませば天雲の雷の上に廬りせるかも
                          柿本人麻呂「万葉集 巻3-235」


 実際とは凡そかけ離れた情報が集う、不思議な丘。一体、この茂みにどんな秘密が隠されていて、人麻呂は何を敏感に感じ取っては、上記歌を詠んだのか。古代の人々がこの丘に託した思いは、どんなものだったのでしょうね。
 1年弱経った今でも、この謎はわたしの中で萎えるどころか、事有るごとに引っ掛かってしまうままで残っていました。

 そろそろ薄く汗ばむ陽気になりつつある中、改めて仰ぎ見た雷丘は、やはり勇壮とか、偉大というイメージは湧き難く、長閑な田園風景の中に気持ちのいい影を落とす程度の茂みです。生えているのは笹と橡、雑木なのだそうです。
 周囲を歩いてみて、登れるようであるならば...、と願っていたのですが、それらしき登り口もなく、通りに面していない裏側は民家まで建っていました。

 雷丘を詠んだ歌は、他にもあります。

|大夫の 出で立ち向ふ
|故郷の 神なび山に
|明けくれば 柘のさ枝に
|夕されば 小松が末に
|里人の 聞き恋ふるまで
|山彦の 相響むまで
|霍公鳥 妻恋ひすらし
|さ夜中に鳴く
                    作者不詳「万葉集 巻10-1937 古歌集より選」
|旅にして妻恋すらし霍公鳥神なび山にさ夜更けて鳴く
                    作者不詳「万葉集 巻10-1938 古歌集より選」


 この長歌と反歌に登場する神奈備山、というのが雷丘だといいます。神奈川帰還後に、これを糸口にふと雷丘ではなく、明日香の神奈備という括りで調べてみようか、と思いあれこれを資料を引っくり返してみました。
 面白いな、と思ったのは甘樫丘から始まって途中、明日香川を挟み雷丘、そこから北へ続く瓢箪山、げ山、かど山、法然寺山、飛騨山はいずれも海抜100m前後の小高い丘で、すべて地質的にはひと続きの丘陵地帯であった、とされているらしいんですね。そして雷丘自体は、上述の通り現在こそ東西に切り通した道と集落で分断されていますけれど、万葉期は当然ですが、1つの丘でした。...もう少しは小高かったのかもしれません。

 ひと続きの丘陵...。なるほど、これで少しは明日香の神奈備が本来、雷丘説であったり、甘樫丘説であったりするのが納得できそうに思えますし、さらには雷丘、という名前の由来については日本書紀と日本霊異記に答えが記述されていました。

| 7年秋7月3日、天皇は少子部連スガルに詔りして、
|「わたしは三輪山の神の姿を見たいと思う。お前は腕力が人に勝れている。自ら行っ
|て捕えてこい」
| といわれた。スガルは、
|「ためしにやってみましょう」
| とお答えした。三輪山に登って大きな蛇を捕えてきて天皇にお見せした。天皇は
|斎戒されなかった。大蛇は雷のような音をたて、目はきらきらと輝かせた。天皇は恐
|れ入って、目をおおってご覧にならないで、殿中におかくれになった。そして大蛇を
|岳に放たせられた。改めてその岳に名を賜り雷とした。
                         「日本書紀 雄略7年(463年)7月」
|栖軽(スガル)が天皇の命で落ちてきた雷を捕えた。その落ちてきた所が雷丘。
                                 「日本霊異記」


 覚えておいででしょうか。前作で書きましたが、そもそも出雲より大和に鎮座させられた神奈備は4ヵ所。三輪、葛城、雲梯、そして明日香。また三輪の神奈備、つまりは三輪山のご神体は山そのものにして、大国主命。箸墓伝説にあるように正体は大蛇であり、恐らくの大元は水神信仰。農耕に欠かせない水、つまりは川と雨にまで遡れるであろう、と。

 これらの下知識を併せると、雷丘という名前の謂れが見えてきますね。つまり、山そのものの風情とは無関係に先に雷丘という名前があり、しかもそれは万葉の首座たる神奈備の蛇神様が降りた地でもあった、と。
 そういう伝承が人麻呂の時代に定着していたことは、人麻呂より後の時代に編纂、記述された日本書紀と日本霊異記に著させていることと、同時にその記述通りに、人麻呂よりかなり年代が古い雄略天皇期あたりから始まったもの、とすれば納得に難くはありません。
 その上、当時の明日香の神奈備として最も有力視されている甘樫丘とは、ひと続きの丘陵地帯でもあり...。

 人麻呂。あの気宇壮大な歌を詠んだ際、彼が見ていたものは、やはりたった9mの茂みではなく、三輪山。そして、さらにはその大元たる国つ神だったのではないか、と。それらと自らの赤心捧げる天皇とをオーバーラップさせたものであるならば、とてもすんなり読み解ける歌だったのではないか。
 今のわたしにはそう思えています。

 山の際ゆ出雲に坐す国つ神
 豊葦原中国
 瑞穂国をはぐゝます
 はぐゝましける斎つをろち
 みもひそ統べす千早振る神命のよすがにて
 号けられたる雷丘なればこそよろしけれ
 かれその象のちひさきもおほきもあらず
 つれもなし
 たふときますらを謡ひゐし
 その目に見えしものこそがまことの象や
 とほしろき
 なほしこの地この草木
 はぐゝましゐる斎つみもひ
 いざ降り給へあまつみづ
 雲ゆけ
 川ゆけ
 みもひゆけ
 天つみ空をしらしゐる
 神のみうらを帯ぶしづく
 つかねつかぬる言霊のほかふ歌あり
 雷丘

 味酒の三輪、夏麻引く雲梯、飛ぶ鳥の明日香も斎へるはみづ  遼川るか
 (於:雷丘、のち再詠)


 あと、水神に関してですが、こちらも前作で書いた通り雲梯の杜。雲梯の語源は水神のウナネ神です。三輪と明日香と雲梯のそれぞれに共通する要素、として確実に水神信仰が浮き上がって来ていますね。

 太古の昔、ようやく定住し稲作を始めてから、人々が何よりも崇めたもの。何よりも尊び、その有り難味を噛み締めたものは、やはり太陽と大地と水なのでしょう。やがて集落が生まれ、国家が成立しても、その根底に流れていたものは、変わることなどできなかったのだと思います。
 つまりは、天皇であれ、神であれ、全ては生きとし生ける命たちを繋いでくれるものへの感謝。穀物と野菜と木の実と。

 食べられるということを当たり前と思ってしまい、それに対する感謝を忘れ果ててしまった現代人にとって、神奈備や水神信仰といったものたちが静かに語りかけてくれているのは、命の重みなのかも知れません。

            −・−・−・−・−・−・−・−・−・−

 昨夏、大津に関連して捜し歩いた磐余の池跡。実はあの日、宿泊していたホテルへ戻り、偶々フロントで無料配布されていた観光地図を見て唖然としました。磐余の池跡、ときちんと明記されている場所が載っていたんですね。
 ...もちろん、それはもう、悔しかったものです。

 そういうことで、次に向ったのはその地図に載っている磐余の池跡。案外、場所も近く、雷丘から天の香具山方面へ進み、右折して飛鳥資料館方面へ。道路沿いを流れる小川、とも言えないような側溝に近い戒外川、これは明日香村と桜井市の境界でもあるのですが、ともあれその流れの傍に磐余の池跡はある、と件の地図ではされています。

 ...が、実際に行ってみてもそれらしき碑は1つもなく、車を降りて虱潰しに観て歩けども、結果は同様。これに関しては3日目も再挑戦したのですが、やはり空振りでした。そもそも、場所は確定されていないというのが定説なのですから、たった1枚の地図から辿ろう、と思ったことがむしろ無理筋だったのかも知れませんね。
 ただ、必死に探しているうちにふと思ったのが、磐余の道。この磐余、という地名も古典をやっていると中々に面白い記述が次々に出て来ます。

 先ず地名の由来ですが、これはもう天皇の贈り名になっているくらいですからそれだけ当時は、かなり重要な土地だったということでしょう。曰く「神日本磐余彦天皇/かむやまといはれびこのすめらみこと」と。
 ...神武天皇のことです。

 神武天皇に関しては拙作「神の故里」でも少し触れましたが、古事記によると九州の高千穂、つまりは日向を出発して、宇佐、筑紫、安芸、吉備などを経て熊野灘に到着。そののち、八咫烏の先導により畿内へ入りました。そして畿内各地を平定して、畝傍山の東南・橿原の地にて即位、という流れです。
 日本書紀に磐余の地名の由来が記述されています。

| 磐余の地の元の名は、片居または片立という。皇軍が敵を破り、大軍が集まってそ
|の地に溢れたので磐余とした。またある人がいうのに、
|「天皇がむかし厳瓮の供物を召上られ、出陣して西片を討たれた。このとき磯城の八
|十梟師がそこに屯聚み(兵を集めて)した。天皇軍と大いに戦ったが、ついに滅ぼさ
|れた。それで名づけて磐余邑という」
| と。
              「日本書紀 神武即位前 己未の年(紀元前662年)4月20日」
     ※西暦年は日本書紀記載の和暦から、単純に算出しただけのものです(以下同)。


 要するに、天つ神の御子である神武による大和平定の件に登場している、ということですね。古事記にも同様の流れはありますが、この磐余という土地に関しては登場していません。磯城の豪族を倒した、とはありますが。

 ただ、これはあくまで記紀の時代のことであって、それよりかなり後世の万葉期、磐余は八十の巷、と言われた交通の要衝・海石榴市辺りから、飛鳥方面へと伸びていた重要な街道。のちに山田道と呼ばれたとも言われています。
 現在では県道15号・桜井明日香吉野線が相当しますが、この街道沿いにある史跡を挙げれば、いかに大動脈であったのかは推して知るべし、と言った処です。つまり山田寺跡、飛鳥寺、石舞台、と。
 また、そういう土地だったからこそ、なのでしょう。大津関連以外にも、磐余の地を詠んだ万葉歌は複数あります。

|つのさはふ磐余も過ぎず泊瀬山いつかも越えむ夜は更けにつつ
                           春日蔵首老「万葉集 巻3-282」
|つのさはふ 磐余の道を
|朝さらず 行きけむ人の
|思ひつつ 通ひけまくは
|霍公鳥 鳴く五月には
|あやめぐさ 花橘を
|玉に貫き かづらにせむと
|九月の しぐれの時は
|黄葉を 折りかざさむと
|延ふ葛の いや遠長く
|万代に 絶えじと思ひて
|通ひけむ 君をば明日ゆ
|外にかも見む
                             山前王「万葉集 巻3-423」
|かけまくも あやに畏し
|藤原の 都しみみに
|人はしも 満ちてあれども
|君はしも 多くいませど
|行き向ふ 年の緒長く
|仕へ来し 君の御門を
|天のごと 仰ぎて見つつ
|畏けど 思ひ頼みて
|いつしかも 日足らしまして
|望月の 満しけむと
|我が思へる 皇子の命は
|春されば 植槻が上の
|遠つ人 松の下道ゆ
|登らして 国見遊ばし
|九月の しぐれの秋は
|大殿の 砌しみみに
|露負ひて 靡ける萩を
|玉たすき 懸けて偲はし
|み雪降る 冬の朝は
|刺し柳 根張り梓を
|大御手に 取らし賜ひて
|遊ばしし 我が大君を
|霞立つ 春の日暮らし
|まそ鏡 見れど飽かねば
|万代に かくしもがもと
|大船の 頼める時に
|泣く我れ 目かも迷へる
|大殿を 振り放け見れば
|白栲に 飾りまつりて
|うちひさす 宮の舎人も
|栲のほの 麻衣着れば
|夢かも うつつかもと
|曇り夜の 迷へる間に
|あさもよし 城上の道ゆ
|つのさはふ 磐余を見つつ
|神葬り 葬りまつれば
|行く道の たづきを知らに
|思へども 験をなみ
|嘆けども 奥処をなみ
|大御袖 行き触れし松を
|言問はぬ 木にはありとも
|あらたまの 立つ月ごとに
|天の原 振り放け見つつ
|玉たすき 懸けて偲はな
|畏くあれども
                            作者不詳「万葉集 巻13-3324」
|つのさはふ磐余の山に白栲にかかれる雲は大君にかも
                           作者不詳「万葉集 巻13-3325」


 「つのさはふ」は磐余、「霞立つ」は春、「大船の」は頼む、「曇り夜の」は迷う、「あさもよし」は城、「あらたまの」は月、をそれぞれ導く枕詞(前作にて記述したものは全て省略)。余談ですが、つのさはふとは蔦の這う岩、という意味になります。

 この中では山前王の長歌と、恐らくは藤原宮にて夭折した文武天皇に対するものという説と、続日本紀の記述から逆算して天武の第6皇子・弓削皇子に対するものとの説がある挽歌(長歌)が、道としての磐余をきちんと詠み込んでいますね。

|7月21日、浄広弐(従四位下相当)の弓削皇子が薨じた。浄広肆(従五位下相当)の大
|石王、直広参(正五位下相当)の路真人大人らを遣わして喪葬のことを指揮させた。
                        「続日本紀 文武3年(699年)7月21日」


 ...しかし、どうにも「万葉集」に収められている磐余関連の歌は、何故か死に纏わるものが多いですね。大津の辞世の歌を始め、挽歌やそれが伴う反歌ばかり。唯一、無関係なのは春日蔵首老の短歌だけとなります。
 極めて個人的な想像ですが、やはり当時の葬送地であった泊瀬・忍坂山方面へと続く街道だったからなのかもしれませんね。個人的には磐余の道、というと黄泉路という印象が付いて廻ってしまっていますが。


 因みに、この磐余の道そのものを表す石碑も、飛鳥村と桜井市の境あたりに2ヶ所あります。1ヶ所は桜井商業高校のグラウンドの前、もう1ヶ所は山田寺跡の入り口の近くです。
 そして、この街道近くに恐らくはあったであろう、とされているのが大津縁の磐余の池。昨夏、必死に推測してロードマップに書き込んだ赤ペンの丸印は、未だ色褪せることなく、今回の旅でも大活躍しては、すでに綴じているホッチキスから外れてバラバラになり始めた地図にしっかりと残ったままです。

 記紀、万葉、さらには王朝でも、磐余に関する記述は登場します。枕草子です。

|勝間田の池。盤余の池。にえのの池、初瀬に參りしに、水鳥のひまなくたちさわぎし
|が、いとをかしく見えしなり。
                          清少納言「枕草子 38段“池は”」


 遠い遠い昔、あきづしまやまとに天つ神の御子・神武天皇が辿り着き、八咫烏を始め吉野からは様々な国つ神たちも、これに従いました。そして、神武は各地の豪族たちを討ち、ついに大和平定。ここに大和王朝が誕生。磐余もまた、そのうちの一部でした。
 時は流れ万葉期、交通の大動脈となった磐余の道は、けれども葬列が多く通った道でもあり...。さらに平安の世となると、街道沿いの池はある種の景勝地として人々の口に上るようになりました。
 そして現代。すでに池はなく、当時の面影は殆ど感じられない県道を車が何台も走り去っていきます。神武が、大津が、弓削が、文武が。このアスファルトの下に彼らの足跡がそれでもきっと残っているに違いない...。
 磐余の池の跡は見つけられませんでしたが、それでも自身が立っている道路にそっと手を添えずにはいられなかった、そんな春のお昼前でした。

 たなうらは地にしづきて震る とほき世のはぶりにてむせひし背のごと 遼川るか
 (於:磐余の道、のち再詠)







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