昨夏の宿題、というのもまた面白いもので、単に場所という切り口での宿題もあれば、全く別の形でのそれもあります。前回、どういう訳かとことん縁がなかった旋頭歌関連の地。平城宮跡の東庭園や元興寺もそうですが、個人的にもう1ヶ所、旋頭歌関連で特に訪ねてみたいな、という場所がありました。
 いや、厳密に言えば旋頭歌関連というだけではなく、古事記絡みでもあり、ひいては今回の万葉巡りに対し、自身が掲げていた最大のテーマにもそれなりに纏わる土地でもあります。
 倉橋。「万葉集」には倉橋川、倉橋山、倉橋の山、などの形で登場し、古事記にもまた、倉椅山として登場する土地です。場所は、明日香村のお隣・桜井市。多武峰を源流として最後は大和川へ合流する、寺川(別名が倉橋川)を次に目指します。

 倉橋が詠み込まれている万葉歌は5首。うち3首が旋頭歌です。

|はしたての倉橋山に立てる白雲見まく欲り我がするなへに立てる白雲
                 作者不詳「万葉集 巻7-1282 柿本人麻呂歌集より選」
|はしたての倉橋川の石の橋はも男盛りに我が渡りてし石の橋はも
                 作者不詳「万葉集 巻7-1283 柿本人麻呂歌集より選」
|はしたての倉橋川の川の静菅我が刈りて笠にも編まぬ川の静菅
                 作者不詳「万葉集 巻7-1284 柿本人麻呂歌集より選」
|倉橋の山を高みか夜隠りに出で来る月の光乏しき
                            間人大浦「万葉集 巻3-290」
|倉橋の山を高みか夜隠りに出で来る月の片待ちかたき
                           沙弥女王「万葉集 巻9-1763」


 「はしたての」は倉橋を伴う枕詞。意味は梯子のことで、高床式の倉に梯子を架けることに拠ります。

 先ずは短歌2首ですが一目瞭然、類似歌で結句のみが違うもの同士ですね。
「倉橋山が高いからか、夜が更けてから出てくる月の光が乏しい」
「倉橋山が高いからか、夜が更けてから出てくる月をひたすら待ちかねている」

 これらについては、どちらが正しいかが不明な為、併せて収録するという断り書きが「万葉集」に出てきます。また、前者は詞書に拠れば初月、つまりは上弦の三日月を詠んだ、とされてはいますが、藤原宮から倉橋山を眺めると、地形的に山から月が出てくるなら満月に近い状態でなければならず、また同時に夜更けに出る月ならば下弦の三日月でなければならず...。どうも虚構に感じられてしまいます。
 個人的には、後者が本来の歌で、前者が本歌取りという形で成り立ったのではないか、と考えていますが。

 さて、この倉橋山。「万葉集」自体には何処の何山である、とは記述されておらず、古事記も然り。ただ、説としては多武峰か、そのさらに東にある音羽山か、というのがもっぱら定説のようですね。
 なので、個人的にもどちらなのかな、と興味がありました。


 寺川に着き、川の流れにそって少し歩いて見ました。川に沿うように桜並木が設えられていて、なかなか綺麗な場所らしき知識はもっていましたから、できればまだ桜が散りきっていないことを祈りつつ、です。
 ...何とかギリギリで散り残った桜に間に合えたようです。軽く響く瀬音と川面が照り返す陽射しと、そしてちらほら風に舞っては降って来る花びらと。夜行で奈良入りし宿題、宿題、などとあくせくしていた気持ちが、何だかふんわり落ち着いていくのを実感していました。不思議と懐かしい時間だったと思います。

 この寺川を間に西に多武峰、東に音羽山、となるのですが実際に眺めて思ったのは恐らく、倉橋山は音羽山なのではないだろうか、ということです。あくまで私見ではありますが、実際に臨んだ両山では少なくとも旋頭歌の中で詠まれている「立てる白雲」という風情が多武峰から感じられなかったんですね。

 「倉橋山に湧き立ち昇っている白雲よ。わたしが見たいなあと思った時に立ち昇っている白雲よ」
「倉橋川の飛び石はどうなったのだろう。若い盛りにわたしが渡ったあの飛び石は」
「倉橋川のしず菅よ。わたしが刈っても笠に編まずにしまった、あのしず菅よ」

 「笠に編む」は古典的比喩表現で、妻にするという意味です。

 そして、それに続く倉橋川に纏わる残り2首の旋頭歌はいずれも、かつての恋を偲ぶもの。前作の泊瀬に関連して書きましたが、山間の、その谷間を流れる川沿いの土地である泊瀬は、日頃逢えない相手との妻問いの舞台でした。何となく似ているんですね、倉橋川の周辺の雰囲気が泊瀬に。

 しばらく土手を歩いていると、川縁まで降りられる場所があったので行ってみました。正直、周囲にはゴミも結構ありましたし、本当に人里はなれた田舎の川、と言うのにはかなり無理もあるのでしょうが、それでも水は澄んでいました。
「...冷たい」
 屈んで指先をそっと浸すと自然、言葉が洩れました。寺川は泊瀬川に比べて川幅も狭く、川そのものの印象はむしろ明日香川に近いかもしれません。
 石橋。明日香川にも飛び石を渡って妻問いする歌や、そんな過去を振り返る歌がありました。そして倉橋川もまた、今なお飛び渡れそうな石が点在し、川向こうへと続いている場所があります。

 川縁にしゃがみ込んだまま東を眺めると音羽山が、いやに高く聳えているように感じられてしまい、再び頭は倉橋山へ。古事記に登場する悲恋と言いますか、個人的には一部、自業自得とも思っているカップルのことをふと思い出していました。

 万葉より300年以上昔の仁徳天皇期。詳しくはゆくゆく書きますが、ともあれ仁徳天皇には磐之媛命という皇后がいました。この磐之媛命、「万葉集」では一途で健気な女性、という印象を放っているのですが、これが古事記になると酷く嫉妬深い女性として描かれているんですね。とにかく、仁徳が若い妃に執心するとヘソを曲げてしまいます。
 なので、仁徳が異母妹の「女鳥王/めどりのみこ」を召し抱えようと、弟の「速総別王/はやぶさわけのみこ」を使いに出した処、皇后の気性を恐れる女鳥王は、どういう訳かそのまま速総別王と懇意になってしまい...。それ自体は仁徳も容認したのですが、この2人。何を思ったのか勢い、皇位を狙ってしまいます。

 はい。当然ですが、そんなことはすぐに仁徳の耳に入り、2人は謀反人として追われる身に。最終的に2人が逃げたのが倉椅山を越えた宇陀方面で、その道中での速総別王の歌が古事記に収録されています。

|梯立の倉椅山を嶮しみと岩掻きかねて吾が手取らすも
                       速総別王「古事記 下巻 仁徳天皇 70」
|梯立の倉椅山は嶮しけど妹と登れば嶮しくもあらず
                       速総別王「古事記 下巻 仁徳天皇 71」


 手に手を取っての逃避行。なれど追っ手はすぐに追いつき、お隣の宇陀界隈が2人の終焉の地となりました。

 現在の行政区分では、桜井市と大宇陀町の境界は、まさに音羽山や経ヶ塚山などの音羽山山塊。標高も600m台の多武峰と900m近い音羽山塊では、険しいという表現がよりそぐうのも後者でしょう。

 倉橋山、倉橋川。記紀の頃から何かと人々の思惑で彩られた土地なのでしょうし、わたし自身の中でも古典を読んでは思い描いていた倉橋という土地に対する印象は、とても散漫でした。
 が、少なくとも現代の倉橋は長閑で、静かな、それこそスケッチでもしたくなるような雰囲気の場所だったのが、何だか少し嬉しかったです。

 梯立の倉橋川をゆく花の弁よ
 石橋によぢらるゝも善し流るゝも善し      遼川るか

 道さかし嶺高ければ越えまくほしや
 梯立の倉橋山のさきをし懸けて         遼川るか
 (於:寺川)


 余談ですが、倉橋川のあとに倉橋池という後世に造られた溜池も周り、次なる目的地を目指します。


           −・−・−・−・−・−・−・−・−・−

 再び国道165号へ戻り、長谷方面へ。この辺の道路は前回に数度走っているので、初めて走る道よりは肩の力も抜けていた、と思います。でも、これから向かう、いや。厳密には探すことになる場所は、長谷よりさらに先の榛原町。しかも愛用のルートマップでは広域扱いになってしまっていて、詳細は殆ど判らない、という有様。
 ...本当に見つけられるか否か、かなり心配でした。

 前作でも簡単にふれましたが、人麻呂・家持に並ぶ万葉期の大歌人がいます。そう、山部赤人ですね。
 改めて書きますが、万葉歌人の中では人麻呂・家持と並んで36歌仙に選ばれていて、家持の言葉を借りるなら「山柿の門」、つまりは崇め、学び、見習うべき歌の先達ということでしょう。

 人麻呂と赤人。活躍した時代は少しばかりずれますが、それでも境遇的にはそこそこ近くもあり、けれども同時に大きく異なっていたのは、歌風です。人麻呂がその胸の丈を重厚に、荘厳に、ややもすれば少々暑苦しさすら醸す風情で歌にして詠み上げた一大叙情歌人だったのに対し、赤人は清しく、端正に歌を詠み続けた高潔なる叙景歌人です。彼の歌はまるで最初に絞った焦点から次第に広角的に広がっていく視野を写したカメラワークのようで、詠まれた光景の空気の感じまで伝えているようにすら思えます。
 そんな2人のことを、時代を下った平安期。こちらも当時は「当世一の大歌人」と呼ばれていた紀貫之が、古今和歌集の仮名序にて書いています。

| 古よりかく傳はるうちにも、ならの御時よりぞひろまりにける。かの御代や歌の
|心をしろしめしたりけむ。かの御時に、正三位柿本人麿なむ歌の聖なりける。これは、
|君も人も身を合はせたりといふなるべし。秋の夕、龍田川に流るる紅葉をば帝の御
|目に錦と見たまひ、春の朝、吉野の山の櫻は人麿が心には雲かとのみなむ覚えける。
|また、山部赤人といふ人ありけり。歌にあやしく妙なりけり。人麿は赤人が上に立た
|むことかたく、赤人は人麿が下に立たむことかたくなむありける。
                           紀貫之「古今和歌集 仮名序」


 どうやら貫之自身は、人麻呂の身も心も天皇に捧げた上で詠んだ数々の歌よりも風情があり、神妙な美々しさを湛える赤人の歌を、高く評価していたようです。
 わたし個人としては、何も2人を比較してどうこう、というつもりなど毛頭ないのですが、それぞれの歌風を端的に示す好例があります。件の雷の丘です。
 人麻呂が
「大君は神であらせるので雷の上に仮宮をお造りなられる」
 と、たった10mにも満たない茂みを詠んだのに対し、赤人はこんな風に詠みました。

| 題詞:神岳に登りて山部赤人の作る歌一首
|みもろの 神なび山に
|五百枝さし しじに生ひたる
|栂の木の いや継ぎ継ぎに
|玉葛 絶ゆることなく
|ありつつも やまず通はむ
|明日香の 古き都は
|山高み 川とほしろし
|春の日は 山し見がほし
|秋の夜は 川しさやけし
|朝雲に 鶴は乱れ
|夕霧に かはづは騒く
|見るごとに 音のみし泣かゆ
|いにしへ思へば
                           山部赤人「万葉集 巻3-324」


 「玉葛」は絶ゆることなく、を伴う枕詞。題詞の神岳は雷丘のことです。
「神が宿る神奈備山に繁る沢山のツガの枝のように、ずうっと通っていたい明日香の旧都は、山は高く、川は雄大。春の昼にはその山は美しく、秋の夜には川は清らかだ。朝の雲間を鶴が舞い飛び、夕方には蛙が鳴く。見るたびに自然と泣けてしまうよ、かつての旧都を思うと」

 ただ同じ場所を詠んだというだけで、背景となる時代も、何もかもが異なりますから、こんな比較では人麻呂に対してかなり失礼だ、と思います。けれども、何となく貫之が言いたかったことは、納得できます。
 いや、純粋に歌として云々というのではなく、貫之の時代に於ける和歌の有り様を念頭におけば、自ずと赤人の方がより高評価にもなろうか、と。

 国道165号、通称・泊瀬街道とも伊勢街道とも言われている道を、ただひたすら運転していると次第々々に民家もまばらになってゆき、前方の山々もどんどん迫って来るようです。やがて見えた「伝承・山部赤人之墓」という大きな看板。国道を左折し、もう1度左折して。そこから先は運転し辛い、山道でした。
 赤人のお墓は、通称・大和富士という額井岳の山腹にあります。山自体の標高は816m。事前の予習に拠れば、お墓のごく近くまで車で登れる、とのことでしたので結構、呑気に構えていたのですが、いやはや...。何とか舗装こそされていましたけれど、車同士の行き違いすら出来ない道幅と、かなりな急斜面、そして延々続く蛇行には流石に閉口してしまいました。
 挙句、その道がいきなり途絶え、目の前がまだ水も張っていない棚田になってしまったのには、しばし呆然。どうやら道を何処かで間違えたのでしょう。
 仕方がないので、その棚田の所有者らしき民家を訪ねて伺った処、ここから歩いて行ける、とのこと。ご好意で車まで駐めさせて戴いて、予定外の軽い山登りとなりました。

 棚田の畦道を辿って向こう側の山へ着くと、どうも殆ど獣道にも近い風情の山道がひとつ。大きな熊笹の葉が、勢いよく繁っては行く手を微かに阻みます。既に時刻は3時近く、大和富士の山中はいやにひんやりしていて、聞こえるものといったらやや強めの風の音だけです。
 元々耳が、特に左耳が弱い所為か、そちら側だけに虎落笛のような風の唸りが響き続けます。ギリギリまで仕事をして、そのまま乗った夜行。奈良入りしてすぐに各地を巡っていたので、かなり疲れていたのでしょう。何だかこの山登りはどうにもきつく途中、何度も何度も休みました。

 何度目かの休憩の時、ふと振り返って眺めた光景にハッとしました。泊瀬、忍阪、恐らく遠くには吉野や大台ケ原なども見えていたのかも知れません。眼下に映るのは大和盆地。周囲の山はきっと杉が多く生えているのでしょう。季節柄、やや黄色味が掛かった部分もあれば、新芽の淡い色合いの部分もあり...。
 熱を出すたびに夢に見る、あの光景と何だか似ている気がしていました。けれどもやはり、少し違う...。
「気の所為か...」
 唸るように通り過ぎていく風の音にとり紛れて、自身の呟きがやけに大きく響いていました。

 登っていたのは休憩も含めて20分くらいだったと思います。やがて古びた五輪塔が姿を現し。...伝承・山部赤人之墓です。


 辿り着いてみて悟ったのは、お墓の裏側にきちんと公道が走っていることで、やはり車で来られる場所だったようです。何処で一体、間違えたのやら。
 山部赤人。36歌仙の1人にして、小倉百人では天智・持統・人麻呂に続いて4番目の詠み手として

|田子の浦にうち出てみれば白妙のふじのたかねに雪はふりつつ
                       山部赤人「新古今和歌集 巻6 冬 675」


 が採られている大歌人。なのにそのお墓は、まるで人目を避けるかのようにひっそりとしていて。「歌聖」、つまりは歌の神様として並び称されている人麻呂に比べると、こちらもまたかなりな相違です。けれども、古ぼけた五輪塔に、それほど古くはなっていない花やお供えがあったことから、地元の方か、観光者かがたまには訪れているのでしょう。

 個人的に赤人の歌で好きなのは、前作にてご紹介しました真間の手児名に纏わる長歌と反歌なのですが、それ以外で、ということならば、わたしはこちらを挙げたいと思います。

|あぢさはふ 妹が目離れて
|敷栲の 枕もまかず
|桜皮巻き 作れる船に
|真楫貫き 我が榜ぎ来れば
|淡路の 野島も過ぎ
|印南嬬 辛荷の島の
|島の際ゆ 我家を見れば
|青山の そことも見えず
|白雲も 千重になり来ぬ
|榜ぎ廻むる 浦のことごと
|行き隠る 島の崎々
|隈も置かず 思ひぞ我が来る
|旅の日長み
                            山部赤人「万葉集 巻6-942」
|玉藻刈る唐荷の島に島廻する鵜にしもあれや家思はずあらむ
                            山部赤人「万葉集 巻6-943」
|島隠り我が榜ぎ来れば羨しかも大和へ上るま熊野の船
                            山部赤人「万葉集 巻6-944」
|風吹けば波か立たむとさもらひに都太の細江に浦隠り居り
                            山部赤人「万葉集 巻6-945」


 「あぢさはふ」は目を、「敷栲の」は枕を、それぞれ伴う枕詞。

 面白いのは、長歌は通常1〜2首の反歌を伴うものなのですが、上記引用の赤人の場合は3首。因みに「万葉集」で反歌を3首伴うものは6組あり、詠み手は人麻呂が1組、赤人が2組、残り3組は家持でした。また、それ以上に反歌を伴っている万葉歌は...。いや、倭歌そのものをわたしは知りません。恐らくは「長歌1首に対して3首の反歌」という体裁が、伴う反歌の数としては最多なのではないか、と思います。

 天皇の行幸に従い、またそれ以外にも日本各地を旅した歌人・赤人。それゆえなのか、目の前に広がる光景を前面に押し出し、僅かに添えるように自身の心情を語った彼の歌は「万葉集」に長歌が13首、短歌が37首。
 主な活動時期は聖武前期、というだけで生没年からその出身に至るまでも、凡そ詳しいことは全くと言って差し支えないほど謎のままです。ただ兵庫県の姫路市にある津田神社の摂社として赤人神社がある、という話は聞いたことがあります。また、前作で少し触れていますが、多分に藤原氏との関係が色濃かったであろう可能性は推測されていますね。

 わたし自身は、36歌仙に挙げられる万葉歌人3人では、どうしても人麻呂に思い入れが強く、そういう意味では家持も赤人も執着する、というほどの思い入れは希薄なのですが、やはり叙景と言う点で、赤人は少々距離が遠いかな、と感じているのが正直な処。
 それでもお墓を前にすると、思い出してしまいました。幼稚園に上がる時には100首空で言えた百人一首。...実際は歌意など全く理解していなかったのですが、それでも確かに30年以上もわたしの中には、「田子の浦に〜」は刻み込まれていますし、恐らくは破調というものを最初に認識させられたのは、この歌か天智の「秋の田の〜」だったはずです。

 手向けるものなど何も持っておらず、ただ手を合わせて黙祷しただけでしたが脳裏には幼いながら
「お母さん、これ気持ち悪い。何か覚え辛いんだもん」
 と破調であることを必死に亡母へ訴えようとしていた自身が甦っていました。

 玉桙の道ゆきのむた謡へるは
 いましのごとし
 はからずもたびとゝなれり
 けふあしたこぞに熊野の空望み
 吉野の山を越えたれば
 いにしへのむた
 道のむた
 空のまにまに謡ひゆき
 謡ひ来ぬれば
 索ぐりて懸くるいにしへなほしあり
 道なほしあり
 空ありて
 また索ぐらむいめの山
 いめに映れるいづへが空を

 をゆいえて立ち返るすゑ え忘れざるとほきまほろばいづへにあるや

 青垣に隠りゐるらむ 奥つ城の影にしあれの霊もゐるらむ

 謡へどもたづたづしけり 謡ひてはをさをさしきや、けふにあしたに   遼川るか
 (於:伝承・山部赤人之墓、のち再詠)







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