山を降りたのは既に4時近かったでしょうか。前回、時間を気にせず突発的に訪ねた所為で、薄暗くてお社の雰囲気がよく観られなかったのが、橿原市東竹田の竹田神社。はい、大伴坂上郎女に関連している場所です。
 なので明るいうちにちゃんと見学したい、というのも前回からの宿題の1つで、けれどもすでにしっかり陽は傾いていましたから、慌てました。

 前回の万葉巡りと、その紀行を書いた流れで、改めてわたしの中でクローズアップし直された歌人の筆頭格は坂上でした。元々が好きでしたし、憧れてもいたのですが、やはり讃良や額田のような、畏れ多いというのか、神懸かっているとも思える存在たちよりは、ずっと現実感があるから、印象が淡かったのかも知れませんね。
 そういう意味では鏡女王もまた、その魅力を再認識させられた歌人でしたね。...と、これは余談ですが。

 竹田神社へと向かう道沿いには左右に田圃がぽつんぽつんと広がっています。まだまだ田植えの気配も遠そうでしたが、それでもかつてこの泊瀬・橿原東部一帯が大伴氏の庄として田園地帯であったことが彷彿とさせられます。

| 題詞:大伴坂上郎女、竹田庄にして作る歌2首
|しかとあらぬ五百代小田を刈り乱り田廬に居れば都し思ほゆ
                        大伴坂上郎女「万葉集 巻8-1592」
|隠口の泊瀬の山は色づきぬ時雨の雨は降りにけらしも
                        大伴坂上郎女「万葉集 巻8-1592」


 この竹田庄で詠まれた歌たちの前者で、坂上は「大したこともない五百代の田」と言い切っていますが、代というのは当時の面積の単位。現代の度量衡に換算すると大体1haに相当します。確かに貴族の田圃としては比較的、小規模だったのかもしれませんね。
 ただ、田圃こそ小規模であっても、庄としては橿原東部〜泊瀬の竹田、宇陀周辺の跡見、そして本拠地・佐保などを考え併せると、大伴氏の勢力を再認識させられる気がします。

 寺川のほとり、少し奥まった場所にある竹田神社は、やはり昼間に眺めると印象が全く異なっていました。前回は何だか寂しげで少々おっかなびっくりしつつ駆け足で見学しただけでしたが、今回は敷地自体はさほど広くもない、でも建造物その他が少ないために、妙にすこんと目の前が抜けてしまう印象の境内をじっくり眺めることができました。
 既に葉桜になりかかっている枝からは、花びらがはらはらとゆっくり静かに降っています。


 再認識した坂上の魅力。それは改めて彼女の歌を全て読み返した中で、恐らくはわたし自身が幼少の頃より心の奥底に抱いていたイメージに近い雰囲気のものがあったからだと思います。...彼女がそういう歌を残しているんですね。

|ひさかたの 天の原より
|生れ来る 神の命
|奥山の 賢木の枝に
|しらか付け 木綿取り付けて
|斎瓮を 斎ひ掘り据ゑ
|竹玉を 繁に貫き垂れ
|獣じもの 膝折り伏して
|たわや女の 襲取り懸け
|かくだにも 我れは祈ひなむ
|君に逢はじかも
                          大伴坂上郎女「万葉集 巻3-379」
|木綿畳手に取り持ちてかくだにも我れは祈ひなむ君に逢はじかも
                          大伴坂上郎女「万葉集 巻3-379」


 「天上から来られた我が祖先の神よ。人々に汚されない山奥の榊の枝に純白の幣帛を取り付けて斎甕を慎み清めて土に盛り据え、竹の玉を沢山紡いで垂らし、鹿のように地に跪き、女の襲衣を頭から被って、これほどまでにわたしは祈りましょう。それで愛しい人には会えないことでしょうか」
「木綿畳を手に持ち、これほどまでにわたしは祈りましょう。それで愛しい人には会えないことでしょうか」

 「斎瓮/いはいべ」とは神に捧げる酒を注ぐ土器のこと。竹玉とは細長い竹を短く切った円柱状の首飾りなどの玉ですね。これを紡いだ飾りは主に神事に遣われました。加えて、「木綿/ゆふ」は楮の繊維を晒して、晒して真っ白にしたもので織った布地。榊の枝に取り付けて「しで」にしていたのでしょう。

 この長歌と反歌には左注があります。

|右の歌は、天平五年冬十一月を以ちて、大伴の氏の神に供へ祭る時、いささかこの歌
|を作る。故に神を祭る歌といふ。
                          「万葉集 巻3-380」 左注による


 つまり、坂上が祖先たちの霊鎮めの神事の際に詠んだ歌、ということですね。ここに登場する「愛しい人」とは同門の亡夫・大伴宿奈麻呂でしょうし、同時に自らに繋がる全ての祖先たち。彼を通して坂上は遠い祖先たちの口寄せになろうとしていた、という感じだと思います。
 この歌自体は以前から知っていました。...が、何度目かの再読は正直な処、とても衝撃的でした。恐らく以前のわたしはこの歌を自身に取り込むだけの素地がなかったのでしょう、志向的に。

 個人的な主義として、わたしはひたすら自らの実存と心情を追求している歌詠みで、虚構は詠みたいと思ったことが殆どありません。もちろん、心情を表す為の暗喩や隠喩はしますし、それに必要なパーツとして未知のものや未体験のこと、などが字面に出る時はあります。でも、それはあくまでも表現手段であって、表現しようとしているもの自体を想像なり空想で詠む、ということは先ずないのですが。
 和歌。それは正に「和する歌」である以上、実際にそのものと触れなければ生まれてこない何かが、確実に存在していると信じています。だからこその万葉巡りなのだし、フィールドワークでもあります。

 そして昨夏、実際に万葉の舞台を訪ね、その場の空気を肌に感じてから、わたしの中で何かが蠢き始めていることにも気づいていました。だから、坂上の歌に衝撃を受けたのでしょう。
 その蠢いている何か。これが具体的な形となってようやく現れてくれた最初の拙歌があります。

 瑞籬の神代悠けく
 天地の発けし初むるあがりたるよ
 高天原も葦原中国もが治まりて
 いで言霊の八十神が上知授かり賜れば
 幾多数多の玉章の人の子日並み暮るゝまゝ
 産めよ増やせよ育めよ
 つゝを野狭に千町田に
 土師の業もてかはらけを生ればみづをも愛で統べつ
 さても穣れば獲り獲りて蓄へらるゝそを祝きつ
 出立たむや迸む
 つゝに天にと拝すべく
 わたり眺むれば聳えたる火の山ゆ気は湧き昇る
 海原には波うねり逆巻き昂ぶり散り砕け
 地は鳴り響み脈々と鼓動孕みつ戦慄きて
 いまあれの裡成り出づる茫たる滾りなにならむ
 やをらほとほりせぐりあぎ
 われかひとかとなるほどに
 あが身に依るか言霊よ
 このくちびるものみとさへ統べて八雲を紡がすや
 天の岩屋戸まへにしつ
 集へば思金神仰せがまゝに尊くも清らな祝詞唱へける
 天児屋命こそあが始祖なれや
 天降りつく天の香具山
 斎つ榊玉串としついざ述べむ
 霊振り魂を結びては
 いつきの宮の巫覡となり
 言葉の花を八雲こそいざ詠み詠まめ
 天地のことはり、したもゆをりをりの折見草のみ紡ぎては
 あれしがまゝの象もなき刹那に消ゆる跡を残さむ

 いま願ふ梦問はるれば惑ふことなくいらへたし 引き忍ばずに詠まゆる勇みを

 あが裡に脈打つ血潮たゞ遡り 水上のひとしづくそは太古の声とも   遼川るか
 (初出:第485回トビケリ歌句会お題「夢」)


 「瑞籬の」は神を導く枕詞。

 この歌自体は、今回の万葉巡りより1ヶ月近く後に詠んだ代物で、追々書く予定の巨勢・葛城方面で得た感慨や、印象などがあったからこそものせた、と思っています。
 が、根底に流れていたものをある程度まで引き上げてくれたのは、やはり坂上の歌でしょう。

 ぶっちゃけた話、この拙歌を詠んで以降、自身の歌は方向性がかなり変わりました。もちろん、その時その時のありのままの感情を載せる、というのは何も変わっていません。...が、その感情の志向が変わったのだと思います。
 それまでわたしは、極めて私的な感情を垂れ流し状に載せていました。恋歌もあり、母恋歌もあり、家族のこと、仕事のこと、体調のことなどなど。それが、これよりあとでは...。こと最近になるに従い加速度的に、生きるとは何か。自らの魂の源流は何処にあるのか。歌に限定するなら、この2つ以外の内容を詠んだものは1首しかないですね。ここ数週間では。

 子どもの頃から地母神とか、霊降りをする巫女とか、そういうイメージが自分の根底にありました。天と土と水と太陽と。山と田圃、水路、そして空。
 歌、それは解放。前回の万葉巡りで得た、わたしなりの1つの答えです。そして解放された自我が求め始めているもの。それはきっと太古の世界に対する、あまりにも強い傾倒なのかも知れません。
 ...別に現代社会を否定したいとか、アニミズムが云々、ということでは決してないのですけれども。

 讃良や額田とは違い、家刀自として自身もまた農耕作業を何度となく経験したであろう坂上。彼女の地に根ざした、何処か土の匂いを孕んだ歌々が、きっとわたしの魂を揺さぶったのでしょう。
 地面にどっしりと根を張った竹田神社の桜の大木の下、寺川から届く水の匂いと、若草の青い匂いと、土の匂いを胸一杯に吸い込んでしばし、ぽけっと立ち尽くしていました。

 あがうらにおのづ満ちくる香なれど緩し
 偲びゐるいにしへなれど間近きいにしへ  遼川るか

 けだしくもいづへ交はりゐるを願ひて
 花細し桜 よろづの春にしゑまむ     遼川るか
 (於:竹田神社、のち再詠)


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 「万葉集」に数多登場する歌枕。前回、近くまで行きつつも、眺めた程度に済ませてしまったのが穴師山や巻向川、つまりは穴師・巻向の里です。泊瀬から天理市を通過して奈良市東部へと続いている、山の辺の道沿いにある此処は、ある意味とても特徴的というか、限定的と言いましょうか...。


 万葉集検索ソフトで「穴師」「巻向」などの関連地名でor検索すると15首抽出されるのですが、うち13首は全て、柿本人麻呂歌集よりの選、となります。

|穴師川川波立ちぬ巻向の弓月が岳に雲居立てるらし
                 作者不詳「万葉集 巻7-1087 柿本人麻呂歌集より選」
|あしひきの山川の瀬の鳴るなへに弓月が岳に雲立ちわたる
                 作者不詳「万葉集 巻7-1088 柿本人麻呂歌集より選」
|鳴る神の音のみ聞きし巻向の桧原の山を今日見つるかも
                 作者不詳「万葉集 巻7-1092 柿本人麻呂歌集より選」
|三諸のその山なみに子らが手を巻向山は継ぎしよろしも
                 作者不詳「万葉集 巻7-1093 柿本人麻呂歌集より選」
|巻向の穴師の川ゆ行く水の絶ゆることなくまたかへり見む
                 作者不詳「万葉集 巻7-1100 柿本人麻呂歌集より選」
|ぬばたまの夜さり来れば巻向の川音高しもあらしかも疾き
                 作者不詳「万葉集 巻7-1101 柿本人麻呂歌集より選」
|子らが手を巻向山は常にあれど過ぎにし人に行きまかめやも
                 作者不詳「万葉集 巻7-1268 柿本人麻呂歌集より選」
|巻向の山辺響みて行く水の水沫のごとし世の人我れは
                 作者不詳「万葉集 巻7-1269 柿本人麻呂歌集より選」
|巻向の桧原に立てる春霞おほにし思はばなづみ来めやも
                 作者不詳「万葉集 巻10-1813 柿本人麻呂歌集より選」
|子らが手を巻向山に春されば木の葉しのぎて霞たなびく
                 作者不詳「万葉集 巻10-1815 柿本人麻呂歌集より選」
|玉かぎる夕さり来ればさつ人の弓月が岳に霞たなびく
                 作者不詳「万葉集 巻10-1816 柿本人麻呂歌集より選」
|あしひきの山かも高き巻向の崖の小松にみ雪降りくる
                 作者不詳「万葉集 巻10-2313 柿本人麻呂歌集より選」
|巻向の桧原もいまだ雲居ねば小松が末ゆ沫雪流る
                 作者不詳「万葉集 巻10-2314 柿本人麻呂歌集より選」


 「子らが手を」は巻向山を、「鳴る神の」は音を、それぞれ導く枕詞。弓月が岳は巻向山の頂上付近のことを指す呼称です。

 人麻呂歌集。「万葉集」には古歌集を始め、田辺福麻呂歌集や、笠金村歌集など、様々な私家集ともいえるものを出典とした歌が採られています。ただ、少なくとも他の歌人の歌集は、えてしてその歌人本人の歌のみ、という見方が強く、けれども一方の人麻呂歌集は、そうではないんですね。追々触れますが、人麻呂歌集から万葉に採られている歌には、明らかに人麻呂以外が詠んだと明記されているものが複数あります。

 昔からよく言われているのが、例えば倭建命という名前は余りにも平凡すぎて、それこそ現代で言うのなら、サトウヒロシさんとか、スズキタカシさんとか、に相当すると思います。なので、それが果たして本当に個人の名前だったのか、と。
 いや、むしろ後からそう
「総称された」
 集団だったのではないか、という考え方は日本古代史においてそこそこ登場します。前述の倭建が筆頭格ですが、さらに挙げられるのが柿本人麻呂なんですね。要するに人麻呂を名乗る人間が複数いた集団だったのではないか、ということです。

 そもそも人麻呂の数ある伝承地のひとつに奈良県天理市の櫟本がありますが、実際に現在でも柿本寺の境内には人麻呂の歌塚(お墓)が残っています。...といって彼の没地は前作でも触れましたが、石見の国というのが一般的なので、このお墓そのものの信憑性については、ここでは擱きます。
 ただ、柿本氏というのは「新撰姓氏録」によると、「天足彦国押人命/あまたらしひこくにおしひとのみこと」の後裔らしく...。

|柿下朝臣。
|大春日朝臣と同じき祖。天足彦国押人命の後なり。敏達天皇の御世、家の門に柿
|の樹有るに依りて、柿本臣といふ氏と為れり。
                            「新撰姓氏録 大和国 皇別」


 天足彦国押人命というのは、孝昭天皇の皇子で、琵琶湖西岸に栄えた古代氏族の始祖。これが和珥氏で、春日氏はこの和珥氏から分かれた一族。つまり、その春日氏と同じ祖である、ということは柿本氏は和珥氏のいち末裔、ということですね。

 和珥氏から派生した氏族は、春日・小野・粟田・大宅・柿本氏ということですから、蘇我・巨勢・平群・紀氏などを同族とした葛城氏と並んで、万葉よりさらにさらに昔の古代日本を支えた名門と言えるでしょう。皇妃も沢山輩出していて、特に応神天皇以降は、応神・仁徳・反正・雄略・仁賢・継体・欽明・敏達の7天皇に9人という実績。正に大氏族で、この系譜が後世、輩出した著名人は他に小野妹子、稗田阿礼、小野篁、小野道風、小野小町などなど。
 余談になりますが、さらに歴史を遡るなら、和珥氏からは景行天皇の后が出ていますので、その皇子である倭建命も輩出している、ということです。

 お話を戻しまして、櫟本は和珥氏の本拠地・和邇の里のごく近くですから、少なくとも人麻呂が櫟本周辺に縁が深かったのことには、それなりの信憑性もあるように思えます。また人麻呂や人麻呂歌集が出典の万葉歌は、穴師・巻向だけではなく、後述する予定の衾道にしても、三輪周辺にしても、とにかく山の辺の道一帯に極端に集中しているんですね。そして櫟本もまた、山の辺の道にごく近いですから、人麻呂も含めた柿本氏の活動範囲は、まさに山の辺の道周辺が主だったのでしょう。

 では、その柿本氏とはどんな氏族だったのか、と言えば通説として祭祀神事に深く関わる職だった、と言われていますね。さらにはこの当時の祭祀関係者は歌や芸能とも密接に関わっていた、と考えられています。
 これについても個人的には殆ど疑ってはおらず、その根拠としているのが、柿本氏と縁筋といわれている「猿女氏/さるめし」。前述している和珥氏の末裔の1人に稗田阿礼がいますが、彼が猿女氏一族の稗田氏出身ですから、縁筋というのは突き詰めると、和珥氏より派生した氏族同士、ということでしょう。

 さて、古事記にお詳しい方はピンと来られているでしょうが、この猿女氏が遠祖としていたのが国つ神・猿田彦命の妻・天つ神の「天鈿女命/あめのうづめのみこと」です。そう、天の岩戸の前で歌い踊った、神楽の祖である女神ですが、その子孫であるとされている猿女氏もまた、祭祀関係の集団でした。
 宮中で神楽の神事を奉仕する猿女という職があったようで、これは天細女命の子孫にあたる一族の女子が、代々に引き継いでいたようです。
 余談ですが、猿女という氏名は、猿田彦の「猿」と天細女命の「女」に拠るもの、と伝えられています。







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