お話を元に戻します。そんな天細女命を祀った神社が穴師山麓の穴師大兵主神社で、これら全てを統合すると柿本氏の本拠地・活動地域・職などが浮き彫りになってくる、と思います。
 つまり、柿本人麻呂という傑出した歌人は、個人であると同時に、彼と同じように歌を詠むことを生業としていた一族の総称でもあった可能性は捨てきれないように私見では思えるんですね。同時に、そういった一族の歌を編んだものこそが、柿本人麻呂歌集なのではないだろうか、と。
 個人的にはそう思っていますし、これ自体は学説として主張されている研究者もいらっしゃいます。

 そして、この考察を後押しする奇妙な符牒が「乞食者/ほかひびと」の存在と、足跡でしょう。乞食者とは家々を訪ねては歌を即興で歌い、それによって糧を得ていた吟遊伶人の集団、とされています。
 「万葉集」にも乞食者の歌は2首採られていて、特に注目したいのがこちら。

|おしてるや 難波の小江に
|廬作り 隠りて居る
|葦蟹を 大君召すと
|何せむに 我を召すらめや
|明けく 我が知ることを
|歌人と 我を召すらめや
|笛吹きと 我を召すらめや
|琴弾きと 我を召すらめや
|かもかくも 命受けむと
|今日今日と 飛鳥に至り
|立てども 置勿に至り
|つかねども 都久野に至り
|東の 中の御門ゆ
|参入り来て 命受くれば
|馬にこそ ふもだしかくもの
|牛にこそ 鼻縄はくれ
|あしひきの この片山の
|もむ楡を 五百枝剥き垂り
|天照るや 日の異に干し
|さひづるや 韓臼に搗き
|庭に立つ 手臼に搗き
|おしてるや 難波の小江の
|初垂りを からく垂り来て
|陶人の 作れる瓶を
|今日行きて 明日取り持ち来
|我が目らに 塩塗りたまひ
|きたひはやすも きたひはやすも
                           乞食者「万葉集 巻16-3886」


 「今日今日と」は明日香を、「立てども」は置勿を、「つかねども」は都久野を、「天照るや」は日を、「さひづるや」は韓を、それぞれ伴う枕詞です。但し、前3者に関しては恐らく即興で作られた枕詞であろう、とされていますし、置勿・都久野は流れからして十中八九、地名なのですが何処かは不明だと言います。

 これ自体は、難波から天皇の命により召抱えられる為に、と都へと向かった葦蟹(乞食者本人)が、
「何で召されたのだろう、歌を歌う為か、笛を吹く為か、琴を弾くためか、とにかく承ろう、と明日香に着いたら縄で括られ塩漬けにされ、天皇にご賞味されてしまった」
 という戯れ歌。要は、時の天皇を皮肉り、風刺しては、道々で民衆相手に披露していた歌なのでしょう。ただ面白いのが「大君召すと 何せむに 我を召すらめや 明けく 我が知ることを 歌人と 我を召すらめや 笛吹きと 我を召すらめや 琴弾きと 我を召すらめや」という件。

 当時、歌詠みはもちろん、笛吹きも、琴弾きも、れっきとした氏族の職で、柿本氏の櫟本のように、活動拠点となる土地がありましたし、現代の地名としても残っているんですね。つまり新庄町笛吹、御所市琴引原(住所としては御所市富田)。
 余談ですが、この歌には登場しませんけれど、同様なのが御所市猿目(住所としては御所市櫛羅)で、こちらは「俳優/わざおき」という身振り手振りによる表現の芸能を専らとした職人集団の活動拠点だったと言われています(猿女氏とも無関係ではないでしょう、恐らくは)。

 万葉期、こういう様々な芸能集団が離合集散しつつ、人口の多い都への道を歩んでいったことは、さほど想像に難くないと思います。
 そしてこのルート、つまりは大阪→葛城峠→新庄→御所→橿原→明日香となりますが、こちらもまた人麻呂関連の史跡が点在しています。新庄町の柿本神社や柿本氏の氏寺・柿本影現寺、大和高田市根成柿の天満神社(境内に人麻呂のお墓と言い伝えられている石塔あり)、橿原市の人丸神社(祭神は人麻呂)、と。

 ...少しお話が複雑になってしまいましたね。整理します。以下、あくまでも私見であり、同時に様々な御説の請け売りをわたしなりに取捨選択したものに過ぎませんが、人麻呂は祭事に関わる柿本氏から生まれでた傑出した歌詠みであり、その柿本氏の活動拠点は山の辺の道に近い、現・天理市櫟本。ただ、彼らは各地を移動しつつ家々で一族の誉れである人麻呂の歌を詠み、時には笛吹、琴弾といった他の芸能集団とも統合してゆき、大きな楽団となる。
 そして、その楽団もまた人麻呂と名乗った結果、人麻呂楽団の足跡地にも人麻呂を祀った史跡が点在するようにもなれば、のちに人麻呂本人が編集した人麻呂歌集なるものには人麻呂自身の作もあれば、別人の作も採られるようにもなった...。
 こんな仮説とも考察とも言えない、想像をわたしは何となく楽しんでいます。

 人麻呂の最期については、前作でも少し触れました。彼の絶歌です。

|鴨山の岩根しまける我れをかも知らにと妹が待ちつつあるらむ
                           柿本人麻呂「万葉集 巻2-223」


 終焉の地は赴任先の石見の国、というのは先ず間違いないのではないか、と思いますが、この鴨山。これがどの山なのか、という点も諸説紛紛ですね。ただ、有力説の1つに、柿本氏が神として崇めていたのは、葛城山系の高鴨神社であり、同時に三輪山であった、というものがあります。

 人麻呂。本人が望んでか、望まなかったのかは判りませんが、偶々傑出した歌詠みだった彼は、やがて宮中に召され官人となりました。先に引用した貫之の古今和歌集仮名序では、正三位という位が明記されていますが、実際は中流官人であった、というのが一般的な考え方です。
 そして、彼は君命に従わざるを得ない立場となる...。

 一方の柿本氏からしてみれば、人麻呂は一族の期待を一身に背負った出世頭。もはや神格化にも近い扱いのスーパースターです。当然、一族は彼の歌をそれまで以上に持ち出しもしたでしょうし、道行く先々で伝説とも、神話とも、つかない「人麻呂物語」を伝えるようになっていきます。

 単なる中流官人である実像と、不世出の神懸かった存在としての虚像と。全国津々浦々、どうしてこれほどまでに人麻呂伝説が種々雑多に入り乱れているのか、という疑問に対する1つの答えだと思います。赤人でも書きましたが、本来中流官人に纏わる説話など、そうそう幾つも残っていないのが普通。そんな時代だったのですから。
 ただ、この独り歩きし始めた虚像は、必ずしも人麻呂にとっては良いものではなかった気が、わたし個人としてはしています。

 全ての人間関係では、所詮はそれぞれが相手に対して勝手に思い抱いている部分がありますし、そういった虚像と実像のギャップは現代社会に於いても、頻繁に遭遇するものです。といってもちろん、それらは当事者同士の努力で乗り越えることも可能でしょう。
 ですが、人麻呂のような個人対集団というのは、そうも言ってはいられないものです。集団の1人ひとりにとって人麻呂は1人しかいませんが、人麻呂からすれば、あっちの人、こっちの人、というかなりな複数を相手にせねばならず、あちらを立てれば、こちらが立たず。こちらの誤解を解けば、あらちが誤解する、という身動き不能の状態になってしまうことでしょう。
 だからこそ、彼は天皇に赤心を捧げてしまったのではないでしょうか。大切な同族の誰を選び、誰を選ばず、などは到底できるはずもなく、選ぶも選ばないもない絶対的な存在だけを残し、他の全員へ差し伸べていた手を離した...。それ以外に選択肢がなかった、と言いますか。

 ...もちろん、だからといってそれを良しと彼自身ができたかは、またお話が別のように思えます。「万葉集」そのものの編纂に関わったとされている大伴家持にも、似たような印象があるのですが、人麻呂自身もどこかそういう一族の存在の証を、残したがっていたのではないか、と。そしてそれが人麻呂歌集でもあるのではないか、と。
 まだまだ当時は律令が徹底されていたとは言いがたい時代でしたけれども、でも逆を言えば仏教の台頭は眼にも明らか。遠い伊勢に天照は祀られているものの、都周辺には寺も多い。...祭事歌謡というものも、神職というものも、恐らくは氏族の職自体がいずれは無くなり、単なる官人としての時代が来ることを、朧げに気付いていたのかも知れません。...万葉の時代が終ろうとしていた頃の家持がそうであったように、です。

 お話を戻します。君命に従い遠隔地へ赴任する...。これ自体は官人なら当たり前のことに過ぎません。が、一族からしてみれば、それとて伝説の1つになってしまいます。日本に古来から多数ある説話の一類型、貴種流離譚ですね。
 貴種流離譚。元々は故・折口信夫先生の提唱のようですが、若い神や英雄が他郷を彷徨いながら数多の試練を乗り越え結果、神や尊い存在となる、というもの。実例には倭建命の各地平定や、在原業平の東下り伝説、かぐや姫伝説など。源氏の須磨流謫も該当するかも知れません。

 「万葉の歌びとたち」の著者であられる中西進先生は、人麻呂のことを韜晦の歌聖と称しています。果たして人麻呂自身が進んで自らを隠そうとしていたのか。それとも、彼の背後に常に見え隠れしている一族、つまりは「集団としての柿本人麻呂」が虚像を打ち立てたからなのか。
 そのいずれかは判断不能ですが、少なくとも人麻呂という大歌人は、本人だけではない、複数の人間たちの思惑から、虚実入り乱れる説話によって彩られてしまった、実像の殆ど手繰れない存在に思えてなりません。

 志貴が自らを殺すことで、自身でもコントロール可能な程度に生きられたのに対し、人麻呂はそれが叶わなかった、ある意味に於いては対極とも言える存在でしょう。
 そんな複雑な胸中のまま、故郷を遠く離れた赴任地で迎えた最期。人麻呂の心が求めたのは、氏族が神と祀っていた鴨の地、葛城の高鴨。そして三輪山。だからこその、あの絶歌なのではないでしょうか。
 同時に、柿本氏もまた一族の代表とも言える存在が何処で果てようとも、その魂の帰巣先は自分たちの元でなくてはならない、と考えても不思議ではないですし、そういう教育というか刷り込みは、人麻呂自身にもあったように、個人的には考えています。

 「この鴨山の岩を枕に横たわっているわたしのことを、妻はそうとは知らずに訪れを待ち焦がれていることであろうか」

 人麻呂最期の歌は、自らの魂の源流は何処にあるのか。人は何故生き、何処から来て、何処に向かっているのか。そういう誰もが生涯何度となく対峙しなければならない疑問を、この21世紀の現代へも問い掛けて続けているように、わたしには感じられてなりません。

 たまさかになり来たる地
 大倭豊秋津洲
 たまさかに継ぎて来たる血
 そのうがら
 たれもえ選らざる
 え交はざる
 ひとつのみなる世のこゝろ
 かれ、ゆくのみや
 やつかれのゆくがまにまに
 土も血も世もやつかれを
 まつらはむ
 ゆくすゑいづへ
 いさと言ひ
 もとよりきたる地いづへ
 なればやなほしいさと言ふ
 滄海に水泡なり
 青垣山に草木なる
 天つ日のもと
 穂は秋にくがねのいろにかはりゆき
 月のもとにて空蝉の人は子をなす
 世にあれば
 世にみなもともすゑもなく
 世は世なるのみ
 しかあらば
 ゆくもゆかずも世のうちに
 くるもこざるも世のうちに
 帰らまくほし
 かくも欲り
 かくもを乞ふは人のゆゑ
 それもえ選らざる
 え交へざる
 ひとつのみなるものなりて
 人みな流る
 時じく流る

 白雲の立ち別かれども忘るゝことは
 あらざらむ 瓊響なしなしまた祈ぎ継がむ   遼川るか
 (詠草:第488回トビケリ歌句会お題「縁」/詠草当時未発表、のち再詠
)

         −・−・−・−・−・−・−・−・−・−

 一方、土地としての穴師・巻向です。前回も大神神社の広すぎる境内にてニアミスはしていますし、今回はもう少し広範囲から見て周ったのですが、あちこちに御陵と思われる茂みあり、山あり、川あり。とにもかくにも長閑で静かな一帯でした。ここが本当に、人麻呂歌集に謳われた風荒び、川音高く、雲立ち渡り、雪も降る、という比較的天候が変わりやすい土地だったのかしら、と思いたくなる雰囲気だったんですけれどね。
 正直、すこし拍子抜けしました。


 しづまりて穴師の天つみ空はも 沖つ波荒れゐしはいめとも  遼川るか

 子らが手を巻向山の弓月ヶ岳の
 弥高に聳きゐれどもおだひになれり   遼川るか
 (於:穴師、のち再詠
)

 「沖つ波」は荒れるを導く枕詞。

 万葉仮名によると穴師は「痛足」、「痛背」、「病足」などと表記されています。このことから古代、穴師は鉱山であったのではないか。ゆえにそこで働く坑夫たちのことを穴師と呼んだと考えられるし、坑道での作業による足の疾患に悩まされた人々も多かった可能性が高く、それゆえの万葉仮名である、とする御説もありますね。...実際、鉱掘穴や鉄滓なども発掘されているようです。
 個人的には、まだ要素が足りなくて何とも言い切れないのですけれどもね。

 既に薄暗くなり始めていた穴師・巻向では、とにかく歌碑探しに奔走しました。事前のチェックではあちこちにやたら点在していることは判っていましたが、時間的にも3ヶ所が限界でした。穴師相撲神社境内の「巻向の桧原も未だ雲居ねば〜」と、纒向川沿いの「あしひきの山川の瀬のなるなへに〜」、そして最後は人麻呂と全く無関係にして、歌そのものも穴師・巻向とは無関係の

|天雲に近く光りて鳴る神の見れば畏し見ねば悲しも
                           作者不詳「万葉集 巻7-1369」


 こちらです。この歌碑は穴師大兵主神社境内にあり、では何故、人麻呂とは無関係なこのお社を訪ねたのかというと、やはり神楽の祖である天鈿女命にお参りがしたかったんですね。古事記によると祝詞の祖と言えそうなのは「天児屋命/あめのこやねのみこと」なのでしょうが、神楽となると彼女ですから。
 ですが、件の歌はこれまた天細女命とは無関係です。お参りに行ったら見つけた、という偶然の産物でした。ご挨拶程度に天細女命を詠んだ拙歌も併記します。

 鼓、吹、幡旗奏づるも歌謡ふも
 天つ日女尊をしいざ称へてな
 衣ぬきてかはへえなせじよそほひに
 霊あゆかしむもろひとの霊かつも霊
 もろかみの霊かつも霊
 狂ひてな
 なほ狂ひてな
 うけ伏せて踏みとゞころす
 手次とて天の日影をかけしまた
 天の真析を縵とて
 手草に天の香具山の小竹葉を結ひて舞はしける
 かしこしひめかみ
 謡はゞや
 謡はゞやつかれけだしくも
 なねのみことのその如く
 謡はゆるやも思ほえて
 霊に纏きゐる衣ぬかむ
 よそほひぬかむ
 なほしゆきてな

 ひめかみが教へたまへり 誣ふとふことは
 やつかれがやつかれを誣ふことにしならむと

 滾りゐる血に宿る霊継ぎ来るのみ
 たれもみな弥遠長きいにしへゆ来ぬ      遼川るか
 (於:穴師大兵主神社、のち再詠)


 人麻呂からは離れますが、余談を幾つか。前述の琴引原、という土地は国見山の麓にあるのですが、実は倭建命と関連があります。...というより万葉巡り2日目の最初の訪問地が、ここでした。さらには、同じく前述の笛吹、琴引、高鴨神社などの土地は全て葛城山麓に位置し、こちらも2日目に訪ねています。今回の万葉巡り最大のテーマが、実はこの葛城・巨勢・宇智方面でした。


 前作では、前半の亡母との約束はさておき、いち万葉ファンとして書きたかったのが、家持を通して
「万葉の時代がどうやって終わり、続く平安へと繋がったのか。ますらをぶりの万葉歌から、たをやめぶりの古今和歌へと受け継がれた流れはどういうものだったのか」
 という点でした。

 けれども今回は、その全く逆。
「万葉の時代はどうやって始まったのか。記紀の時代から受け継がれたものは何か。古代歌謡はどう万葉歌になっていったのか」
 これが目的でした。...なので、ここまでも記紀からの引用が多くなっているんですね、実は。そしてこれとて、大きな1つの流れとしては源流探索、太古回帰、から出てきたものなのでしょうけれども。
 いずれにしても、こんな大層なテーマを扱うには自身が余りにも卑小にして偏狭。身の丈に合っていないのは重々承知だったんですけれどね。

 ともあれ、そんな翌日の為に斑鳩の宿へ向かいます。本当は衾道界隈も寄る予定でしたが、時間に余裕がなく、探しきれずに空振り。3日目の再挑戦に廻しました。







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