次第に肌寒くなって来る春の夕刻。夕日が金剛・葛城と連なる葛城山系へと沈んで行こうとしていました。

 自身の中で掲げていた記紀から万葉、上代歌謡から万葉歌、というテーマ。もちろん、何らかの答えが欲しかったわけではなく、ただ純粋に行って見たかった、見てみたかった、空気を肌で感じたかった。たったそれだけのことなのですが、改めて実感したのは、少なくとも明文化されているこの国の歴史。そのほぼ冒頭近くから記載されている歌、というものであり、歌は人々の歴史と共に存在し続けて来た、というごく当たり前の、判りきったことでした。
 ...そう、最初から判りきっていたことなんですけどね。

 上代歌謡と万葉歌。この葛城山系に於いて、両方に地名として詠み込まれた土地は意外にも少なく、もちろん大きな括りでの「葛城」は別として、現在も残る地名でありながら、というものは知る限りで1箇所だけだと思います。葛城氏が本拠地とした、という北窪の集落近く。現在の住所では御所市朝妻、と呼ばれる土地があります。
 葛城山へ向かう前に立ち寄った朝妻の地は、高天よりは標高がかなり低いからでしょうか。民家も結構多く、これまで辿ってきた高鴨、高天周辺とも明らかに違う、人里の雰囲気です。

|朝嬬の 避介の小坂を、 片泣きに 道行く者も 偶ひてぞ良き。
             仁徳天皇「日本書紀 50 巻11 仁徳22年(334年)1月」 再引用


 こちらが上代歌謡に登場する朝妻です。件の八田若皇女のことで仁徳と磐之媛がひと悶着した末に、八田若皇女が失意のまま泣きながら去るのを見た仁徳が、せめて誰か道連れがあればよいのに、と詠んだものとなります。
 一方の万葉歌はこちら。

|今朝行きて明日には来なむと云子鹿丹朝妻山に霞たなびく
               作者不詳「万葉集 巻10-1817」 柿本人麻呂歌集より撰
|子らが名に懸けのよろしき朝妻の片山崖に霞たなびく
               作者不詳「万葉集 巻10-1818」 柿本人麻呂歌集より撰


 「今朝は帰り、また明日来ようと言って別れて来た妻ではないが、朝妻山に霞が棚引いているいることだ」
「あの子の名前に付けたらよい、と思う朝妻という名の山の崖に霞が棚引いていることだ」
 子、もしくは児。前作でも触れた大名児や安見児もそうですが、要は女性の名前のあとに親しみの表れとしてつける呼び方です。現代で言うならば差し詰め「〜ちゃん」という感じでしょうか。
 また、上記万葉歌のうち前者は一部、万葉仮名が未解読のままとされていますね。

 朝妻の地は、当然ですけれど葛城氏出身の磐之媛にとってはまさに故郷となりますし、同時に人麻呂を始めとする柿本一族にとっても縁の深い地なのでしょう。実際、上記引用のように三輪山麓とは別に人麻呂歌集には、葛城山麓縁の歌も複数存在しています。
 ですが、実質的にはこの地に纏わる上代・万葉、そのいずれの歌も突き詰めれば、山なり山道に因んで詠まれているわけで、朝妻という土地の歴史とはさほど関係はありません。実際、わたし自身もそういう側面は全くのノーチェックなままで現地を眺めるに留めてしまいましたが、神奈川帰還後にあれこれと資料を引っくり返したら、いやはや。それなりに歴史的にも意味があったようです。

 詳しいことは調べきれませんでしたけれど、古代豪族に朝妻を名乗る氏族も存在していました。朝妻氏。百済渡来系氏族ですが、金や銀などの金工に長けた技術集団だったようで、朝妻手人とも呼ばれていたと言います。だからなのでしょうか、北窪界隈の遺跡からは銀の簪が出土しているそうです。
 そして新撰姓氏録によれば、百済渡来系といっても突き詰めると中国、それも秦の始皇帝の末裔だとのことです...。にわかには信じ難いですが。ただ、系譜を辿るにこの朝妻氏。後世、秦氏と名乗るようになるのは記録上では確認しています。
 新撰姓氏録からです。

|秦忌寸。太秦公宿禰と同じ祖。秦始皇帝の後なり。功智王、弓月王、誉田天皇(諡は応神)
|の14年に来朝 〜(中略) 〜天皇嘉でたまひて、大和の朝津間の腋上の地を賜ひて居ら
|しめたまひき。
                           「新撰姓氏録 山城国 神別」


 この件に関する内容は日本書紀にもあって、応神朝に弓月君が渡来。
「故郷の沢山の人民を率いて渡来しようとしたのだが、新羅の抵抗にあって皆、加羅の国にいる」
 と嘆いたので応神は葛城襲津彦を派遣した、と。...が、これが中々戻ってこないので、今度は平群木菟宿禰と的戸田宿禰を派遣し、ようやく弓月の民や襲津彦も併せて帰参した、とのことです。他にも、允恭天皇の名前が雄朝妻稚子天皇となっていますね。
 朝妻氏はゆくゆく近江に拠点を移していったのか、氏族の一部が移住したのか、いずれにせよ近江にも金工集団・朝妻氏の足跡は幾つかあるようです。
 ですが、個人的にそれらより気になったのは日本書紀の天武紀に

|9月9日、朝妻においでになった。大山位以下の者の馬を、名柄杜でご覧になり、そこで
|騎射を行わせた。
                     「日本書紀 巻29 天武9年(681年)9月9日」


 とあることで、要は天武が朝妻界隈に行幸した、ということになります。なので物理的なこととして、少なくとも天武期に天皇の行幸を受け容れられるだけの建造物が、朝妻の地には存在していたことになりますし、その有力候補であるのが、朝妻氏が興したという朝妻寺です。
 朝妻寺は、発掘によって礎石その他は見つかっていて、現在も朝妻廃寺跡として訪ねられるんですね。わたしが朝妻で立ち寄ったのもその朝妻廃寺跡でした。

 けれども大まかな位置関係は判るものの、周辺に目印もなければ碑も立っていなくて、近所の方に聞いた通りに行った先はこちらも単なる空き地。丁度、花大根がやたらと生え、咲いているだけで、もはや礎石を探す気力もなく、ただただぼんやりと暮れていく朝妻の地に佇むだけでした。

 過ぎば絶ゆ 過ぐれば絶ゆるみなひとは在りき、在りけり
 あに思へやも あに至れやも                 遼川るか

 朝妻の山深ければ遠つ国、外つ国なるもえならざる国      遼川るか
 (於:朝妻廃寺跡、のち再詠)


 明文化されているものだけ辿れば、葛城王朝期ではなく、既に飛鳥時代に入ってから、朝妻氏は渡来したようです。またそれとは別に、柿本一族が思い親しかったであろう、朝妻の地。
 訪問地の位置関係優先で、各地に立ち寄る万葉巡りです。必然的にポイントが密集する土地では、さっきまでは神代、今は万葉以前、次に出向く先は万葉期、と行く先々で目まぐるしく頭を切り替えねばなりませんし、ともすれば混乱しそうにもなってしまいます。
 この日に出向いた土地は、巨勢も宇智も、それほど広範な時代に渡ってあれこれと考えることはなかったのですが、そこはやはり葛城山地です。とてもとても一筋縄ではゆきませんし、改めてこの地に刻まれた歴史の厚みを再認識し始めていました。...もっともそれが葛城の魔力であり、魅力でもあるんですけれどね。

 余談になりますが本作を書いていて、痛感してしまったことがあります。それは
「大和だけじゃだめだ...」
 と。...いや、前述しているようにわたし自身は記紀の前半に語られていることは、みな畿内の出来事が寓話化したもの、思っています。ですが、だからといって、大和だけを訪ねていても、それは表層を撫でているに過ぎないのではないか、と感じてしまいまして。
 そして改めて考えるに、九州から東北まで。記紀万葉期の記述に登場する故地は各地に点在しているわけで、
「ゆけるかぎりゆくべきではないのか、いや、ゆきたい」
 そう思ってしまったんです。

 かつて王朝文学が大好きでした。万葉と同じくらい好きで、京都にも憧れ募ったものです。...が、気がつけば京都ではなく奈良へ通うようにわたしはなっていましたし、更には上代文学の故地を目指し始めていて。やくもたついづも、しらぬひのつくし。多分、わたしは行くのでしょう。漠然とそんなことを考えながら、金剛山を後にします。

 八雲立つ出雲はとほく
 白縫ひの筑紫はなほし弥遠き
 懸くるを欲れば
 馬の爪筑紫ともあり
 朝月の日向しかれど
 けだしくも違ひゐるらむ
 なにすとかゆかまくほしきを沁むりては
 あれ欲るものゝいかなるか
 またなにすとかゝくしては
 ゆきの急ぎのゆゑ知らに
 色かへぬ松
 色かへぬ杉がごとくにあるらむを
 祈ぐりゐれども難ければ
 あれ極まりて欲るは
 なにをか
 
 離るれば寄る、また寄れば遠ざかることはりはみなえ知らざるもの  遼川るか
 (於:朝妻廃寺跡、のち再詠)


 「白縫ひの」は筑紫、「朝月の」は日向(但し地名ではあるものの筑紫の日向とは確定されていないと言います)、をそれぞれ伴う枕詞。

            −・−・−・−・−・−・−・−・−・−

 葛城山系を縦断するように走っている県道・御所香芝線をさらに北上します。金剛山の頂上が見る見る背後へ流れてゆき、代わって見えてきたのが葛城山の頂上です。この日、最後の訪問地はこの葛城山界隈に2箇所。先ずは県道近くの一言主神社へ行き、最後が高丘宮跡伝承地となります。


 一言主神社。正式名は葛城坐一言主神社、となりますがこちらもあれこれ考えると頭を抱え込みたくなるような曰くがあります。というのは、この神社の祭神に因むのですが幼武尊、つまりは雄略天皇と一言主神です。
 古事記、日本書紀、それぞれにこの一言主神と雄略天皇に纏わる説話が登場します。先ずは古事記。

 ある時、天皇が葛城山に行幸した処、天皇の一行に服装や様子がそっくりな行列と行き会います。雄略は従者を遣わせて尋ねます。
「この大和の国には大君はわたししかいないのに、一体誰がこのような行列をつくって行くのか」
 と。けれども相手の行列も鸚鵡返しに全く同じ言葉を言うだけで答えません。これに雄略は怒り、辺りは緊迫し一触即発という雰囲気になります。再び雄略が
「先ずは互いの名を名乗ろう。その上で互いに矢を放とうではないか」
 すると、相手はこう答えます。

|是に答へて曰さく、「吾先に問はえたれば、吾先に名告り為む。吾は悪事も一言、善事も
|一言、言離の神、葛城一言主之大神ぞ」とまをしき。天皇、是に惶れ畏みて白したまはく、
|「恐し。我が大神、うつしおみ有らむとは、覚らざりき」
| と白して、大御刀及弓矢を始めて、百官の人等の服せる衣服を脱がしめて拝み献りた
|まひき。
                   「古事記 下巻 雄略天皇 6 葛城一言主之大神」


 「あなたが先に問うたのだからわたしが先に名乗ろう。わたしは悪事も善事も一言で解決する葛城の一言主神大神だ」
 と。すると雄略は畏れ多い、と自分たちの着ていた服を全部献上し、改めて拝礼した、ということですね。

 さて、問題はこの一言主神です。大前提として記紀双方の神代にこの神様は登場していません。最初の登場がこの、雄略との関わりなんですね。
 そもそもは言離の神、とある以上平たく言えば託宣を司る神、ということなのでしょう。そして、ここでポイントになるのが託宣の神、と言えばもう1人、有名な存在があります。事代主神、つまりは阿遅鋤高日子根神の異母兄弟であり、国譲りの決断を下した張本人であり、恵比寿様でもあるのですが、この事代主神と同じ性格を持つ神、ということです。
 では、どういう系譜の神様か、と言えば先代旧事本紀曰く、別名は葛城神、速須佐之男命の子どもなのだとか。

|素戔烏尊
|此尊は天照大神と共に誓約て、則ち、生所三女是爾児とせよとのたまふ。号は田心姫命
|亦名は奥津嶋姫命亦は瀛津嶋姫命
|宗像の奥津宮に坐す。是遠瀛嶋に居所者なり。
|次に市杵嶋姫命亦佐依姫命亦中津嶋姫命と云ふ。宗像の中津宮に坐す。是中嶋に居所者
|なり。
|次に湍津姫命亦名は多岐都姫命亦名は遺津嶋姫命。宗像の邊都見やに坐す。是海濱に居
|所者なり。
|己上の三神、天照大神生所三女之神、是汝の児なり。因て素戔烏尊に授て、則ち葦原中国
|に降居す。宜しく筑紫国宇佐嶋に降居して、北海の道中に在るべし。号を道中貴と曰ふ。
|因て之教曰はく
|「天孫を助奉り天孫為に祭所よ」
| 即ち宗像君の斎祠る三前大神なり。
|次に五十猛神。亦大屋彦神と云ふ。
|次に大屋姫神。
|次抓津姫神。己上は三柱竝て紀伊国に坐す。則ち、紀伊国の造斎祠神なり。
|次に事八十神。
|次に大己貴神、倭国城上郡三輪神社に坐す。
|次に須勢理姫神。大三輪大神の嫡后なり。
|次に大年神。
|次に稻倉魂神。亦宇迦能御玉神と云ふ。
|次に葛木一言主神。倭国葛木上郡に坐す。
                          「先代旧事本紀 巻4 地祇本紀」


 要は完全なる国つ神で、しかも様々なことを考えれば考えるほど、鴨氏に関わる神なのであろうと思われます。というよりも恐らくは阿遅鋤高日子根神のことではないか、と。

 この一言主神に関わる各文献の記載内容を、照らし合わせるとよく判るのですが、古事記(712年成立)では前述の通りで、一方の日本書紀(720年成立)では、これが雄略と一言主神が一緒に仲良く狩りを愉しんだ、となっています。さらに時代を下って続日本紀(797年成立)になると、一緒に狩りはするものの、雄略と一言主神が獲物を争ったために怒りを買い、土佐に流罪になっているんですね。

|11月7日 再び高鴨の神(高鴨阿治須岐託彦根命)を大和葛上郡に祠った。高鴨神につい
|て法臣(僧位)の円興とその弟の中衛将監・従5位下の賀茂朝臣田守らが次ぎのように言
|上した。
| 昔、大泊瀬天皇(雄略帝)が葛城山で猟をされました。その時、老夫があっていつも天
|皇と獲物を競い合いました。天皇はこれを怒って、その人を土佐国に流しました。これ
|はわたしたちの祖先が祠っていた神が化身し老夫となったもので、この時、天皇によっ
|て放逐されたのです。ここにおいて天皇は田守を土佐に派遣して、高鴨の神を迎えて元
|の場所に祠らせた。
            「続日本紀 巻25 廃帝 淳仁天皇 天平宝宇(764年)8年11月7日」


 はい、この引用でわたしが一言主神=阿遅鋤高日子根神、と考えている根拠もお判りになると思いますし、同時に上記3文献から窺い知ることができるのは、鴨氏が時代と共に没落していく様でしょう。古事記は天皇より上位、日本書紀は天皇と同等、続日本紀では天皇より下位、それも罪人とまでされている次第。この没落の著しさたるや、ちょっと他に例を見ないようにすら思えます。

 余談になりますが、一言主神が流罪となったという土佐。流石に続日本紀は律令国家になってから編まれたものですし、前作の家持に関連しても書きましたが、九州や四国、東北など各地の記録は畿内限定ではなく、実際に各地であったことであるのは間違いないですから少し調べた処、土佐神社の祭神は一言主神と味鋤高彦根神(阿遅鋤高日子根神)。神社に伝えられている話ではこの2柱を同一神としている、とのこと。
 加えて極めつけが土佐風土記・逸文です。

|土佐の国の風土記に曰はく、土佐の郡。郡家の西に去ること四里に土佐高賀茂の大社あ
|り。其の神のみ名を一言主尊と為す。其のみ神は詳かならず。一説に曰へらく、大穴六道
|尊のみ子、味鋤(*)高彦根尊なりといへり。
                               「土佐風土記・逸文」
                         *厳密には「金且」という表記です。


 流石に雄略の時代まで、阿遅鋤高日子根神が生きていた筈もないですから、雄略が葛城山で行き会ったのは、鴨氏の末裔なのでしょうね、恐らくは。
 ただ、少なくとも続日本紀編纂の時期ともなると、鴨氏出身のある人物が世間を席捲していたわけで、鴨氏の没落もさることながら続日本紀に関してはそちらに対する歴史的牽制の意味合いもあったのかも知れません。
 ある人物、それは役小角、すなわち役行者です。

 役行者。まま一般には日本の修験道の実質的な祖と言われますが、実質は没落しつつあった鴨一族の中で、一時はそれなりの勢力の首魁的存在だったのでしょう。彼については、今回のテーマからかなり外れてしまうので詳しくは割愛しますが、様々な伝説を残していて、とにかく空は自由に飛べるわ、秘術を駆使して様々な鬼や神様を使役してしまうわ、と人間業とは思えない行状です。
 そんな中でも、件の一言主神に関わるものがあるのでご紹介しましょう。日本霊異記によると

|諸の鬼神を唱ひ催して曰く、
|「大倭国の金の峯と葛木の峯とに椅を度して通はせ」
| といふ。是に神等、皆、愁宇へて、藤原の宮に宇御めたまひし天皇のみ世に、葛木の峯
|の一語主の大神、託ひ讒ぢて曰さく、
|「役の優婆塞、謀して天皇を傾けむとす」。
| とまうす。天皇詔して、使を遣はして捉ふるに、猶し験力に因りて輙く捕へられぬが
|故に、其の母を捉へき。優婆塞母を免れしめむが故に、出て来て捕へらえぬ。即ち之を
|伊図の嶋に流しき。
          「日本霊異記 上巻 28 孔雀王の咒法を修持して異しき験力を得、
                        以て現に仙と作りて天を飛びし縁」


 つまり、役行者が金剛山と葛城山の間に石橋を架けようとして、一言主神もその労働に使役した、と。一言主神はこれに不満を抱き、天皇に
「役行者は天皇を陥れようとしている」
 と讒言。これによって彼は伊豆に流罪になった、ということですね。

 この1件には別の言い伝えもあるらしく、曰く石橋が早く出来上がらないので、行者が怒って一言主を呪い、深い谷に縛りつけた、といいます。霊異記もさることながら、こちらはもう噴飯ものでしょうね。
 けれども、この噴飯ものとも思える説話。実は謡曲になっています。葛城です。

 あらすじは、葛城山に到着した出羽の山伏たちが大雪で難儀していると、女笠を被った山女が現れ庵に一行を案内します。山伏たちを持て成しながら女は世の無常を語り、やがて

|シテ「はづかしながら古の。法の岩橋かけざりし。其とがめとて明王の。策にて身をいま
|  しめて。今に苦絶えぬ身なり」
|ワキ「これはふしぎの御事かな。さては昔の葛城の。神の苦尽きがたき」
|シテ「石は一つの身体として」
|ワキ「蔦かずらのみかかる巌の」
|シテ「撫づとも尽きじ葛の葉」
|ワキ「はひ広ごりて」
|シテ「露に置かれ。霜に責められ起きふしの」
                                  謡曲「葛城」


 自分はかつてこの山に岩橋を架けられなかった罰として明王の縛縄を受けている葛城の神だ、と打ち明け加持を彼らに依頼します。そして女は葛城の神の姿に戻り蔦鬘の戒めと醜い顔貌を恥じつつ舞い、ようやく戒めが解けると、夜の明ける前に暗い岩戸の中に消えていきました。
 ...とこんな感じでしょうか。一言主神が女神として扱われているんですね。因みに、恐らくはこの謡曲が頭にあったのでしょう。芭蕉が吉野紀行でこの一言主神社に立ち寄った際の記述と句に

|葛城山の麓を過ぐるに、四方の花は峯々は霞わたりたるあけぼのの景色いとど
|艶なるに、彼の神のみかたちあししと人の口さがなく世に言い伝えまつれば、
|「猶みたし花に明行神の顏」
                              松尾芭蕉「笈の小文」



 こうあります。他にもこの橋や葛城の神に纏わる歌には

|岩橋のよるの契も絶えぬべし明くる侘しきかつらぎの神
                   春宮女蔵人左近「拾遺和歌集 巻18 雑賀 1201」
|我がごとや久米路の橋も中絶えて渡しわぶらむ葛城の神
                     實方朝臣「新拾遺和歌集 巻14 恋歌4 1269」


 などがあって、後者に詠まれている久米路の橋は、実際は信濃にあり、「雉も鳴かずば撃たれまい」という台詞で有名なお菊伝説に関わる場所ですが、いずれも金剛山と葛城山に架けようとして架けられなかった石橋と葛城の神=一言主神の説話を下敷きにしているのでしょう。

 悪事も善事もなさばひと事なるらむ
 言離の神に誓ひてあれもひと言         遼川るか

 祝なればかつも禍言かへしかへりてなりなれば
 世に言霊はありてあらなく           遼川るか
 (於:葛城坐一言主神社、のち再詠)








BEFORE  BACK  NEXT