一言主神社は高鴨神社とは全く逆で、神さびていながらも大きく厳粛な風情を湛えたお社に出発前、勝手にイメージしていた葛城がようやく具現化したように思えました。地元の人からは「いちごんさん」と呼ばれて親しまれているそうですが、これも古事記の記載からでしょうね。一言、というのは厳密には願い事を1つという意で、願い事をたった1つだけ叶えてくれる神社、ということですね。

 社殿へ向かう階段はかなり堪えるのですが、上り切るとすぐに目に入ってくる
「一陽来福のお守り」
 と書かれた木札が少し嬉しかったです。要は良くないことが続いても、やがて良い運が巡ってくる、ということでしょう。境内には、とにかく風格ある大木が多くて、特に樹齢1200年とも言われている乳銀杏(沢山の瘤が垂れるように幹から突出している)は、口をあんぐりと開けて見上げてしまいましたね。
 他にも見所があって神武東征に登場する「土雲/つちぐも」。これに関連するのが同じく境内にある蜘蛛塚です。


 お話が少しややこしくなりますが、先ずは神武東征に纏わる土雲についてです。八咫烏の先導で畿内へ入った神武軍は阿陀(現・五條市)、国栖(現・吉野町)、宇陀(現・菟田野町)、忍坂(現・桜井市)、そして畝傍(現・橿原市)と進んでいくのですが、宇陀以降は戦闘に次ぐ戦闘。
 その中でも、忍坂で戦った相手が土雲八十建といって、八十建とは多数の勇猛な人々の意味。これに対して神武は彼らを招いて饗宴を開き、数多い土着の勇者たちに、各々複数の配膳人を配置。そして、神武が歌を詠むのを合図に斬りかかったんですね。ここまでが、古事記に拠ります。

 一方の日本書紀では、上記ルートの最後、忍坂などの後になりますが、やはり土蜘蛛という身長が低く、手足の長いやや異形の民が抵抗したので、鬘で編んだ網にてまさしく一網打尽。その地を葛城と名づけた、とのこと。恐らく土蜘蛛というのは、土着の先住民に対する賤称でしょう。
 ともあれ、先ずはそれら戦闘に纏わって詠まれた歌をご紹介します。

|忍坂の 大室屋に
|人多に 来入り居り
|人多に 入り居りとも
|みつみつし 久米の子が
|頭椎 石椎もち
|撃ちてし止まむ みつみつし
|久米の子等が 頭椎
|石椎もち 今撃たば良らし
                 神武天皇「古事記 11 中巻 神武天皇 5 久米歌」


 これでこの戦いに勝利を治め、以降も似たような方法で詠んでは戦いました。

|みつみつし 久米の子等が
|粟生には 臭韮一本
|そねが本 そね芽繋ぎて
|撃ちてし止まむ
                 神武天皇「古事記 12 中巻 神武天皇 5 久米歌」
|みつみつし 久米の子等が
|垣下に 植ゑし椒
|口ひひく 吾は忘れじ
|撃ちてし止まむ
                 神武天皇「古事記 13 中巻 神武天皇 5 久米歌」
|神風の 伊勢の海の
|生石に 這ひ廻ろふ
|細螺の い這ひ廻り
|撃ちてし止まむ
                 神武天皇「古事記 14 中巻 神武天皇 5 久米歌」


 そんな戦闘が続き、軍が疲れてきた時にはこうも詠みました。

|楯並めて 伊那佐の山の
|木の間よも い行きまもらひ
|戦へば 吾はや飢ぬ
|島つ鳥 鵜養が伴
|今助け来ね
                 神武天皇「古事記 15 中巻 神武天皇 5 久米歌」


 これらが後世に言う処の久米歌(来目歌)です。久米、とは神武の畿内入りに従った将軍・大久目命の姓でもあり、元々はどうやら狩猟や山菜の収穫によって暮らし、武力を蓄えていた集団生活の氏族だといいます。なので共同体的結束も強く、弓矢の技術に長けていたわけですね。
 大和朝廷は早くよりその武力を買って大伴氏の統率下に配置。ただ久米氏そのものは後に没落しているので、領地その他は大伴氏の管轄になったようですが。
 そして久米歌とは、そんな集団生活の氏族であった久米氏が山野での生活の中で作り上げた戦闘歌舞であり、宮中では来目歌・来目舞として大嘗会にて披露されることが通例となったといいます。
 日本書紀にある来目歌(日本書紀の表記)です。

|菟田の 高城に
|鴫羂張る。 我が待つや
|鴫は障らず、 いすくはし
|鯨障り、 前妻が
|肴乞はさば、 (*)立蕎麦の
|実の無けくを 幾多聶ゑね。
|後妻が 肴乞はさば、
|斎賢木の 実の多けくを
|幾多聶ゑね。
             * 正確には、梭の字の「ム」の部分が「土」という漢字です。
            神武天皇「日本書紀 7 神武即位前3年(紀元前663年)8月2日」
|神風の 伊勢の海の
|大石にや、 い這ひ廻る
|細螺の、 細螺の、
|吾子よ。 吾子よ。
|細螺の い這ひ廻り、
|撃ちてし止まむ。 撃ちてし止まむ。
            神武天皇「日本書紀 8 神武即位前3年(紀元前663年)10月1日」
|忍坂の 大室屋に
|人多に 入り居りとも、
|人多に 来入り居りとも、
|みつみつし 来目の子等が、
|頭椎い 石椎い持ち、
|撃ちてし止まむ。
            神武天皇「日本書紀 9 神武即位前3年(紀元前663年)10月1日」
|今はよ、 今はよ、
|ああしやを。 今だにも
|吾子よ。 今だにも
|吾子よ。
           神武天皇「日本書紀 10 神武即位前3年(紀元前663年)10月1日」
|夷を、 一人 百な人。 人は云へども、
|抵抗もせず。
           神武天皇「日本書紀 11 神武即位前3年(紀元前663年)10月1日」
|楯並めて 伊那瑳の山の
|木の間ゆも い行き瞻らひ
|戦へば、 我はや飢ぬ。
|島つ鳥 鵜飼が従、
|今助け来ね。
           神武天皇「日本書紀 12 神武即位前3年(紀元前663年)10月1日」
|みつみつし 来目の子等が
|垣本に 粟生には、
|韮一本。 其根が本。
|其ね芽繋ぎて 撃ちてし止まむ。
           神武天皇「日本書紀 13 神武即位前3年(紀元前663年)12月4日」
|みつみつし 来目の子等が
|垣下に 植ゑし山椒、
|口疼く。 我は忘れず。
|撃ちてし止まむ。
           神武天皇「日本書紀 14 神武即位前3年(紀元前663年)12月4日」


 「みつみつし」は来目もしくは久米、「楯並めて」は伊那瑳もしくは伊那佐、「島つ鳥」は鵜飼もしくは鵜養、「いすくはし」は鯨、「立蕎麦の」は実の無けく、「斎賢木の」は実の多けく、をそれぞれ伴う枕詞。

 お話を上代歌謡から神武東征に戻しまして。...こちらの東征も個人的には葛城から奈良盆地へ降りたことに準えている、と考えています。といって上述している行軍のルートからするに、もっと距離の近い平野部の真ん中を行けばいいのでは、ないかとも思えてしまうのですけれども。

 ...が、記載上は奈良盆地を半ば山伝い状に先ず東へ、次いで北上していることも、1つに戦略レベルで有象無象の少数氏族を相手に消耗戦を展開するより、山路であっても勢力の強い豪族ばかりを、先に討ってしまう方が確実かつ迅速である、と判断していたとも考えられます。
 そしてもう1つに、当時の道がどのように拓けていたかはよく判りませんが、やはり件のルートは河川沿いと山道による補給の都合(久米氏が随行している以上、食料確保には困らなかったのではないか、と)などなどから、だったのではないか、とも思える次第。
 故に、東征ルートは先ず、葛城を出発して下山しつつ一旦南下。現・五條市あたりから吉野へ。吉野から宇陀、忍坂、そして畝傍、と。日本書紀の記述で行けば、さらに忍坂の前に一旦葛城に戻り、最後の征伐を終え、畝傍へ。
 この辺については詳しい学説もろくろく知りませんので、完全なる空想なんですけれどね。

 ともあれ、そうやって大和王朝は興るわけですが、一言主神社の蜘蛛塚は日本書紀にある土蜘蛛を葬った場所、とされています。また、実際には見落としてしまったんですが、高天彦神社のごく近くには蜘蛛屈という場所もあるようで、そこは土蜘蛛たちが暮らしていた洞窟ないしは塹壕のような場所だそうです。

 ただ、わたし個人としては土蜘蛛と聞いてしまうと、どうしても直ぐに謡曲「土蜘蛛」を連想してしまいます。が、こちらもやはり関係ありです。...と言いますか実際に謡曲の中にも謡われていますね。

| 怪しき岩間の陰よりも。鬼神の形は。顕れたり。
|シテ「汝知らずやわれ昔。葛城山に年を経し。土蜘蛛の精魂なり。猶君が代に障をな
|  さんと。頼光に近づき奉れば。却つて命を断たんとや」
|ワキ「其時独武者進み出で」
| 其時独武者進み出でて。汝王地に住みながら。君を悩ます其天罰の。剣にあたつ
| て。悩むのみかは。命魂を断たんと。手に手を取り組みかゝりければ。蜘蛛の精霊
| 千条の糸を繰りためて。投げかけ投げかけ白糸の。手足に纏り五体をつゞめて。
| 仆れ臥してぞ見えたりける。
|独武者「然りとはいへども」
| 然りとはいへども神国王地の恵を頼み。かの土蜘蛛を中に取りこめ大勢乱れ。か
| かりければ。剣の光に。少し恐るゝ気色を便に切り伏せ切り伏せ土蜘蛛の。首う
| ち落し喜び勇み。都へとてこそ。帰りけれ。
                                謡曲「土蜘蛛」


 はい、つまりは討たれてしまった土蜘蛛の恨みが怨霊となって、平安京界隈に出没。そして酒呑童子退治で有名な源頼光の身辺にも現れるんですね。咄嗟に斬りつけたものの討ち損じた頼光に代わり、部下の独武者が血痕を辿っていくと古塚に辿り着きます。その塚を壊そうとした処、土蜘蛛の精が現れて上述の内容を告げ最終的には首を討たれる、と。
 謡曲に複数ある源頼光やその家臣による退治物の1つですね。

 余談になりますが、謡曲「土蜘蛛」自体の出典は平家物語になっていますし、「葛城」は源平盛衰記です。平安末期。武士の時代が訪れようと、各地で騒乱が起こり始めた時代、長い長い平安の世よりも、大和時代やそれ以前の荒削りで、ある意味では荒唐無稽とも思える伝承・寓話が持て囃されたのかも知れません。

 世に風の絶えず吹きゐて
 世の風の世のみなひとはえ追はざり
 追ひて追ふれど
 逆へては逆ふればこそ
 うつそみを哀しびなほし
 哀しぶれ
 祈ひ祷み祝くは
 弥日異に違ふことなく
 来し来り
 なほしゆかまくほし、ゆかむ
 息嘯のむたに
 なみたとてあらましければ
 痛みても
 痛むを忘れざらくまくほしと

 いにしへを恋ひば恋ふればまたいにしへの暗きさへ
 見ゆるは見むと見まくほしけれ           遼川るか
 (於:蜘蛛塚、のち再詠)


 蜘蛛塚は、本殿の片隅で何だか少々陰気でひっそりとした印象でした。説明書の立て札を読み、塚そのものは眺める程度で済ませ、肝心の1つのお願い。これを一言主神社へ来た以上はお祈りしないことには、とも思っていたのですがお社自体も案外に人が多く、正式な参拝は断念しました。...心の中ではもちろん祈りましたけれども。
 たった1つだけ。たった1つ。意外に難しいもので、少し迷いました。そして選んだのは、少々反則業とも思える、大は小を兼ねる的なものではありましたが。
「自分に連なる全ての人が幸せでありますように」
 結局、最後はいつもこの願いを祈ってしまうわたしです。

 みなひとのまさきくあらまくほし ひとことに   遼川るか
 (於:葛城坐一言主神社、のち再詠)


            −・−・−・−・−・−・−・−・−・−

 余談ついでに少々豆知識めいたことを。件の国譲りで、最初の決断をした事代主神、つまりは恵比寿様についてです。


 鴨氏内部での地位という意味では、前述している迦毛大御神という記載からしても事代主神ではなく、阿遅鋤高日子根神が氏族を束ねていたことはほぼ間違いないのでしょうが、同じく前述している通り皇統が事代主神の血筋であったり、国譲りの決断をしていたり、と後世に与えた影響という側面では、彼の方が圧倒的に勝っています。さらには、鴨氏の信仰の中心も彼です。
 ついでに言うなら、父親の大国主神と彼は七福神ですが、兄の阿遅鋤高日子根神はそうではない...。いや、むしろ名前も知らない、という人の方が一般的だと思います。

 さらにこれ以上ないほどの極めつけは、「御巫八神/みかんなぎはっしん」。明治以降に整備されたものに宮中3殿があるのですが、1つの「賢所」には天照、もう1つの「皇霊殿」には歴代天皇、最後の1つの「神殿」に祀られているのが、この御巫八神とその他、天神地祇(天つ神と国つ神)です。
 御巫八神というのは、天皇の守護と鎮魂を司るとされている神様8柱なんですが、このメンバーが神御産霊神・高御産霊神・魂積産霊神・生産霊神・足産霊神・大宮売神・御食津神、そして事代主神となっています。それぞれの役割は、前5柱は天皇の心身の神とされていて、大宮売神・御食津神は飲食の神、事代主神は言葉の神なのだそうです。神御産霊神・高御産霊神は造化の神のうちの2柱でもあることは前述の通り。ただ、天照は別枠としても、大国主神も速須佐之男も、月読、伊邪那岐・伊邪那美よりも、さらには全天神地祇の祖たる天之御中主神よりも、事代主神なんですね。
 だけに、何とも不可解な存在に思えてなりません。

 もちろん、事代主神が御巫八神に連名されている最大の根拠は、皇統に受け継がれている血脈であることは、疑うまでもないでしょうし、言葉の神というのも、前述の言離の神、という意味ならば納得がいきます。曲がりなのにも天皇には詔を発布する、つまりは物事を判断、解決することは必要なのでしょう。...実際は形骸化されていても、です。
 そして、そういうことを考え合わせると、浮かび上がるのが国譲りの決断を最初に下したのが、彼であるということで、これが言離の神と祀られるきっかけなのかもしれない、と勝手に想像もしています。

 古事記によると国譲りの後日談として、事代主神は国を譲ってしまった責任を取って、出雲の美保関に籠ってしまった、とあります。海の中に籠る、つまりはある種の死を意味します。その後、彼の名前は神武期になって、彼の娘である玉櫛媛が神武の正妃となった時に名前が登場しますが、この玉櫛媛。母親は三島溝咋姫とされています。
 三島。つまりは日本三三島の1つ、大阪の三島鴨神社に美保の1件以降、事代主神は移動している、ということですね。その上さらには、別の三三島の1つ、伊豆の三嶋大社へ移動。因みに、最後の三三島の1つは伊予の三島神社ですが。
 そして全国津々浦々の三島明神と言ったら、事代主神と木花咲耶姫の父親・大山祇神の2柱のこととなります。

 さて、伊豆。この伊豆という地名は「出づ」が語源でつまりは再生の地、とも言えそうです。同時に出雲は、「伊豆・喪」ということで残されてしまった土地という意だ、というものが通説にあります。
 事代主神。勝手極まりない想像では、彼が実際の出身以上の扱いを後世受けているのは、もちろん神武の皇后の父親でもあるからですが、同時に各地を移動しているらしき点が挙げられるのではないかな、と思うんですね。そしてそうすれば、葛城を留守に出来ない首魁・阿遅鋤高日子根神との格差も自ずと見えてくるものです。
 ...首魁であれど、それは所詮、いち氏族の首魁であり動けなければそれ以上の発展は難しいでしょう。でも逆に、負うべきものが少なく動けるものは確かに非力で、けれども広く世界と関われるゆえの影響力も得られます。
 どちらも、それぞれの立場が負う光と影です。いずれが優れていて、いずれが劣るというものでは、もちろんないでしょう。

 ですが、いち氏族としての長はあくまでも阿遅鋤高日子根神だったものの、血筋としては結局、その後を見れば事代主神の方が嫡流のようなもので、こういった辺りに人の世の歴史の文模様が織り上げられるのだ、と感じます。
 前作でも額田と姉の鏡について同様のことを書きましたし、こうも書いた記憶があります。
「凡そ人の一生というものは判らない、というべきなのか。それとも結局、個々人が一生で舐める辛酸というものは、誰にも等しく用意されているのかも知れない、というべきなのか」
 と。

 一言主神社の一陽来福のお守りではないですが、良くないことが続いても、やがて良い運は必ず巡ってくることを信じたいものです。同時に幸運、もしくは幸せの定義にしても、世間的な公式が必ずしも誰にとっても幸福とは限りません。傍目には不幸に見えても、実際の当人は案外満たされてしまっていると例は、自他共にありますので。わたしからしてみれば全て。どんな経験も全て自身の肥やしですし、宝物。物差しは本当に千差万別、人それぞれです。
 要は当人がそれを幸せだ、と感じるのならそれが幸せであるわけで。...個人的に考えても、自身がこれまで望み、望んできたものは、随分と世間的公式から外れている気がします。
 それよりも、自らの置かれた境遇を嘆いては不幸を気取ったり、そもそも望むことすら止めてしまうような生き方だけは御免蒙りたい、と心底思います。そんなことをしみじみ考えながら、今年の秋が暮れて行こうとしています。

 至れるはあがたなうらに在り給ふものふさなるを むがしくなれや  遼川るか

 捨つるもの
 え捨てざるもの
 ひりふもの
 えひりはざるもの
 分け分けば
 分くれば知れり
 いくだいくだ
 むだきむだかれゐるものゝ
 かはらざりせば
 血に
 歌に
 天つみ空と雨に風
 地にみづあり
 日は高し
 あが魂鳴さむ
 響めかさむ
 ゆらにもゆらに瓊響とて
 地に消ゆれど
 風に果つれど

 謡ひては謡へば安きうらあることのかぎりとて
 在れば在るゆゑうらのまにまに             遼川るか
 (於:本日さねさしさがむゆ)


 一言主神社を発った時には、もうすっかり太陽は葛城の山の向こうでした。そして、今回の万葉巡り2日目最後の訪問地へ。ただ実は、この訪問地は当初予定には入れていなかったんですね。代わりに風の森神社の後に高宮廃寺跡へ出向くつもりでいまして。...が、近くまで行って見て判ったのがその立地。
 車道は一切なく、完全なる登山道の先にあるようで、しかもその道程がかなりの距離のようで。...どう考えても1時間の登山は避けられそうもなく時間的にも、まして体力的にはとんでもないですから、こちらを泣く泣く断念。そして、ならばと急遽繰り上げで訪ねたくなったのが、高丘宮伝承地でした。
 高丘宮とは第2代綏靖天皇の皇宮のことですが、伝承地というくらいですから考古学的にはまだ、確たる立証はされてないのでしょう。

|神沼河耳命(綏靖天皇)、葛城の高岡宮に坐しまして、天下治めたまひき。
                           「古事記 中巻 綏靖天皇」
| 元年の春1月8日に、神渟名川耳尊は即位された。葛城に都を造られた。これを高丘
|宮という。先の皇后を尊んで皇太后といった。この年、太歳庚辰。
| 2年春1月に、五十鈴依姫を立てて皇后とした。天皇の母の姨である。后は、磯城津
|彦玉手看天皇(安寧天皇)を生まれた。
     「日本書紀 巻4 綏靖元年(紀元前581年)1月8日、綏靖2年(紀元前580年)1月」


 日本書紀でも古事記でも、この宮はすぐに第3代安寧天皇によって放棄されて、片塩の浮穴宮へ遷都しています。片塩とは、現・大和高田市三倉堂界隈。近鉄の駅にも浮孔とあるようです。







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