古事記にある、神武と欠史8代の皇宮地と陵墓を列挙して見ます。

 第1代 神武天皇 畝火の白檮原宮(現・橿原市)  陵墓:白檮尾(現・橿原市)
 第2代 綏靖天皇 葛城の高丘宮(現・御所市)   陵墓:衝田崗(現・橿原市)
 第3代 安寧天皇 片塩の浮穴宮(現・大和高田市) 陵墓:畝火山(現・橿原市)
 第4代 懿徳天皇 軽の境崗宮(現・橿原市)    陵墓:畝火山(現・橿原市)
 第5代 孝昭天皇 葛城の掖上宮(現・御所市)   陵墓:博多山(現・御所市)
 第6代 孝安天皇 葛城の秋津島宮(現・御所市)  陵墓:玉手崗(現・御所市)
 第7代 孝霊天皇 黒田の廬戸宮(現・田原本町)  陵墓:片岡の馬坂(現・王寺町)
 第8代 孝元天皇 軽の堺原宮(現・橿原市)    陵墓:剣池の中崗(現・橿原市)
 第9代 開化天皇 春日の伊耶河宮(現・奈良市)  陵墓:伊耶河の坂(現・奈良市)

 これらも何処までが、現行の住所に該当するかは、確かではありません。特に神武が即位した橿原の地。これは一説に現・御所市の柏原のことだ、ともされていて現在も神武天皇社がありますし、これから訪ねる高丘宮とて伝承地に過ぎませんしね。
 ただこの中で、注目して戴きたいのが第6代孝安天皇の葛城の秋津島宮、です。秋津島。そう、大和を伴う枕詞である「秋津洲or蜻蛉島」の語源は、実際の地名です。現在の住所では御所市室から池之内辺りの一帯のことですが、今なおそういう名前の学校や病院もあります。
 前作でも書きましたけれど、そもそもの由来は

|天皇の御巡幸があった。腋上のホホ(*)間の丘に登られ、国のかたちを望見していわれ
|るのに「なんと素晴らしい国を得たことだ。狭い国ではあるけれど、蜻蛉がトナメ(交
|尾)しているように、山々が連なり囲んでいる国だな」と。これによって初めて秋津洲
|の名ができた。
                       「日本書紀 神武天皇31年 夏4月1日」
                            (*)「口兼」という字です。


 この記述から、とされていますが腋上、つまりは現JR掖上駅よりやや西へ行くと池之内や室になり、神武の言葉をそのまま地名にしている、ということですね。
 大和を伴う枕詞のうち、「空満つ」は万葉歌の1番最初。時代で言えば磐之媛のものの次に古い雄略天皇の歌に出てきますが、上代歌謡にも登場していますので、相当古い言葉のようです。

|高光る 日の御子
|諾しこそ 問ひたまへ
|まこそに 問ひたまへ
|吾こそは 世の長人
|そらみつ 倭の国に
|雁卵生と 未だ聞かず
                   建内宿禰「古事記 73 下巻 仁徳天皇 7 雁の卵」
|み吉野の 袁牟漏が岳に
|猪鹿伏すと 誰そ
|大前に奏す やすみしし
|我が大君の 猪鹿待つと
|呉床にいまし 白栲の
|袖著具ふ 手こむらに
|虻かきつき その虻を
|蜻蛉はや咋ひ かくの如
|名に負はむと そらみつ
|倭の国を 蜻蛉島とふ
                 雄略天皇「古事記 97 下巻 雄略天皇 5 阿岐豆野」


 余談ですが、日本書紀による蜻蛉島の命名説話は前述の通りですが、古事記による蜻蛉島のそれは、上記引用歌の後者が該当します。

 また、「日の本の」については詳細は寡聞にして知りませんし、「小楯」も上代歌謡に登場しますが、場所としては山の辺の道近く。現・天理市界隈のことのようですね。そして「敷島の」。これが「蜻蛉島」と同様で、第10代崇神天皇の師木の水垣宮(日本書紀では磯城瑞籬宮)を語源に後世、この大和の国全体を表す枕詞になりました。
 現住所は桜井市になりますが、この泊瀬界隈は崇仁天皇も皇宮を設けましたし、欽明天皇も然り。面白いのが、崇神天皇期の出来事に神皇分離が行われていて、欽明天皇期には、仏教が伝来しています。欽明の頃は、すでに国際都市になっていたんですね、泊瀬界隈は。因みに師木、もしくは磯城島、と限定しないものの距離的にごく近い宮跡は、もう書いていたら少々疲れてしまうのでないか、というくらい沢山ある地域です。

 あきづしま。しきしまの。葛城王朝サイドから1つ、のちの大和王朝サイドから1つ。それぞれの国を導く枕詞が存在している、というのも個人的には偶然とは思えず、やはり葛城王朝存在説を一層深く信じたくなってしまいますね。
 それぞれが詠みこまれている万葉歌と上代歌謡を、幾つかご紹介します。

|たまきはる 内の朝臣。
|汝こそは 世の遠人。
|汝こそは 国の長人。
|秋津島 倭の国に、
|雁産むと 汝は聞かずや。
                  仁徳天皇「日本書紀 62 仁徳50年(362年)3月5日」
|やすみしし 我が大君は、
|宜な宜な 我を問はすな。
|秋津島 倭の国に、
|雁産むと、 我は聞かず
                  建内宿禰「日本書紀 63 仁徳50年(362年)3月5日」
|大和には 群山あれど
|とりよろふ 天の香具山
|登り立ち 国見をすれば
|国原は 煙立ち立つ
|海原は 鴎立ち立つ
|うまし国ぞ 蜻蛉島
|大和の国は
                            舒明天皇「万葉集 巻1-2」
|蜻蛉島 大和の国は
|神からと 言挙げせぬ国
|しかれども 我れは言挙げす
|天地の 神もはなはだ
|我が思ふ 心知らずや
|行く影の 月も経ゆけば
|玉かぎる 日も重なりて
|思へかも 胸の苦しき
|恋ふれかも 心の痛き
|末つひに 君に逢はずは
|我が命の 生けらむ極み
|恋ひつつも 我れは渡らむ
|まそ鏡 直目に君を
|相見てばこそ 我が恋やまめ
                          作者不詳「万葉集 巻13-3250」
|磯城島の大和の国は言霊の助くる国ぞま幸くありこそ
               作者不詳「万葉集 巻13-3254」 柿本人麻呂歌集より撰
|久方の 天の門開き
|高千穂の 岳に天降りし
|皇祖の 神の御代より
|はじ弓を 手握り持たし
|真鹿子矢を 手挟み添へて
|大久米の ますらたけをを
|先に立て 靫取り負ほせ
|山川を 岩根さくみて
|踏み通り 国求ぎしつつ
|ちはやぶる 神を言向け
|まつろはぬ 人をも和し
|掃き清め 仕へまつりて
|蜻蛉島 大和の国の
|橿原の 畝傍の宮に
|宮柱 太知り立てて
|天の下 知らしめしける
|天皇の 天の日継と
|継ぎてくる 君の御代御代
|隠さはぬ 明き心を
|すめらへに 極め尽して
|仕へくる 祖の官と
|言立てて 授けたまへる
|子孫の いや継ぎ継ぎに
|見る人の 語り継ぎてて
|聞く人の 鏡にせむを
|惜しき 清きその名ぞ
|おぼろかに 心思ひて
|空言も 祖の名絶つな
|大伴の 氏と名に負へる
|大夫の伴
                          大伴家持「万葉集 巻20-4465」
|磯城島の大和の国に明らけき名に負ふ伴の男心つとめよ
                          大伴家持「万葉集 巻20-4466」


 「行く影の」は月、「玉かぎる」は日、「まそ鏡」は目、をそれぞれ伴う枕詞。

 余談になりますが、「敷島道/しきしまのみち」。これは数ある和歌の別称の1つなんですけれど、和歌はすなわち大和歌ですから、そういうことなんでしょうね。でも、残念ながら蜻蛉島道、という言葉はないようです。

 前作を書くに当たり、題名を「そらみつやまとゆ」、「しきしまのやまとゆ」、「あきづしまやまとゆ」、のどれにしようか、と考えて最後まで迷ったのは、「そらみつやまとゆ」と「あきづしまやまとゆ」でした。「しきしまのやまとゆ」は響きが好きではなかったのと、完全なる大和王朝に因んでいた為に敬遠。
 そして、「そらみつやまとゆ」も言葉自体の歴史はどうか知りませんけれど、字面して登場するのは仁徳期。こちらも完全なる大和王朝にのみ
因んでいますので止めて、最終的に「あきづしまやまとゆ」。この神代ではなく人の歴史が始まって直ぐから字面に登場する秋津洲、という名前を戴く枕詞を拝借した次第です。
 崇神以降の葛城王朝とは関わらない完全なる大和王朝。でも、畿内の歴史はそれだけではありません。故にそれら全ての舞台となった、この歴史深い畿内の地より。そういう意味でした。

 あきづしまやまと
 弥立ち
 はろはろにいゆきもとほり
 弥年に
 弥初花のごとくして
 弥増す増すに
 弥頻くに
 弥見がほしき空ありて
 いゆきはゞかるうらもあり
 いゆきさゝぐむ浦あらむ
 青垣隠れる国なれど
 大八洲国なればこそ
 ゆくをえとめざれ
 こに来ては
 こゆ発ちゆきて
 こに帰り来む
 こに在らむ
 瑞籬の神ふさ坐まし
 なし賜ひたる玉鉾の道い辿れば
 春柳かづらぎ山ゆ
 また小楯やまとの地ゆ
 あきづしまやまとに成れる
 ふさにしてふさにあらざる
 道ひとつゆゑ

 繰りて繰り畳ねて畳ねゆく道のすゑあらばあれすゑなくばなし  遼川るか
 (於:高丘宮跡伝承地へ向かう途上、のち再詠)


 一言主神社から、高丘宮跡伝承地は案外近く、とは言えとにかく道が細くて難儀しました。そしてこれ以上は車で入れない、という地点から徒歩。こちらもまだ耕してもいない田圃だか、畑だかの畦道をぽっくらぽっくら歩いて進みます。豌豆の花が蔓と一緒に伸びていて、踏まないようにしながらただ、ぼんやりと。
 やがて畦道は林を目の前にして途絶え、その林の手前には一本の石柱。彫られている文字は、綏靖天皇高丘宮伝承地。これ以外には何もない。そう、遺跡のような雰囲気すらもない場所でした。

 今回の万葉巡りで何度、同じことを思ったでしょうか。
「ああ、何もない...」
 と。そして自分が如何に本質を歪曲した観光向け史跡に慣らされてしまっていたのか、もです。遠い遠い昔に存在していた建築物は、時代と共に風化・崩壊します。そこに人の手が入らなければ、1000年も2000年も原形を留めるなんてことは、ほぼ不可能。そして崩れた上に砂や土が積もり、地中に眠って。仮に発掘により再び地表に現れても、そこで復元したりするのはどうなんでしょうね。
 昨夏の嶋宮や吉野宮にしてもそうですし、敢えて人の手を加えずに再び眠らせることが恐らく最も自然なのでしょう。

 似たようなことは自然にも言えますね。人々は簡単に自然が好きだ、と言いますがそれは人にとって都合よい状態まで人為的に整備されたものであって、本当の自然は人の手が加わっていないからこそ、自然。でも、それは1つ間違えると人外魔境のようなものです。どうしてそれを好きだ、などと簡単に言えるのでしょうか。
 ...物事の本質、というのは敢えてそれら魔境に踏み込んだ者にのみ、その扉を開き、また招き入れてもくれるものだと思います。何もない伝承地や史跡の数々も本来、何もないのが在るべき姿であり、逆に何かが在る方が不自然。
 そういうものなのだ、と改めてフィールドワークという方法の大切さを実感したものです。

 そして同時に、そうやって招き入れられた魔境で実際に感じ取ったもの。知覚や経験など、自らの引き出しの中身をフル活用して察したものは、譬え自身には到底理解し難かったり、見当外れなものであったとしても、先ずはそのままを認め、そこから受容可能か否か、を取捨選択する。
 認めたくなくても在るものは在ります。また自分にとって認め易いように意識を改竄することは、もはやエゴイズムとも言えるのかもしれません。...認めるという作業がどれだけできるのか。これは了見の広狭の問題に関わってくることなのでしょうね。...視野も、了見も広く在りたいものです、本当に。

 知らざらば
 うらのまにまに沁むるとも
 また知りたれば
 知りたるがゆゑにまとふも
 知りゐれば驕ることゝも
 驕らぬも
 水泡あゆきて浮くも果つ
 みづ流るればえ止まらず
 時のまにまに
 うそみのまにまに
 たれも浮きかつも果つるものゆゑ
 息の緒のかぎりあなぐる
 ものひとつ
 授り賜へば
 みしねがごとく

 いさゝけく祈ひ祷みまたも繰るを欲りして在ることの
 懐きゐるとはむがしきものはも            遼川るか
 (於:高丘宮跡伝承地、のち再詠)


 林の向こうには葛城山が圧し掛かるように聳えていました。この高丘宮跡一帯は、実は前述している磐之媛の故郷でもあります。


|つぎねふや 山代河を
|宮上り 我が上れば
|あをによし 奈良を過ぎ
|小楯 大和を過ぎ
|我が見が欲し国は
|葛城高宮 我家のあたり
         石之日売「古事記 59 下巻 仁徳天皇 4 石之日売皇后の嫉深」 再引用


 「山代川を宮(仁徳難波高津宮)を目指してわたしが川を上っていくと奈良を過ぎて、わたしが見たいと思う国は葛城の高丘、わたしの家の辺り」

 詳しいことはよく判りませんが、葛城氏そのものの拠点はお隣の金剛山、北窪界隈なのはほぼ間違いないとも聞いている一方、同時にこの葛城山高丘周辺という説もあるようで恐らくは、後世の玉田宿禰の系譜の本拠地が北窪界隈ではないのか、と。そしていずれにせよ、磐之媛や父親である葛城襲津彦といった、葛城氏が興った当初の拠点は、この地であるのでしょう、きっと。
 上代歌謡はさておき、「万葉集」です。既に引用させて戴いているもの以外に、葛城の地に因む歌を幾つかご紹介します。

|臣の女の 櫛笥に乗れる
|鏡なす 御津の浜辺に
|さ丹つらふ 紐解き放けず
|我妹子に 恋ひつつ居れば
|明け暮れの 朝霧隠り
|鳴く鶴の 音のみし泣かゆ
|我が恋ふる 千重の一重も
|慰もる 心もありやと
|家のあたり 我が立ち見れば
|青旗の 葛城山に
|たなびける 白雲隠る
|天さがる 鄙の国辺に
|直向ふ 淡路を過ぎ
|粟島を そがひに見つつ
|朝なぎに 水手の声呼び
|夕なぎに 楫の音しつつ
|波の上を い行きさぐくみ
|岩の間を い行き廻り
|稲日都麻 浦廻を過ぎて
|鳥じもの なづさひ行けば
|家の島 荒磯の上に
|うち靡き 繁に生ひたる
|なのりそが などかも妹に
|告らず来にけむ
                        丹比真人笠麻呂「万葉集 巻4-509」
|明日香川黄葉流る葛城の山の木の葉は今し散るらし
                          作者不詳「万葉集 巻10-2210」
|春柳葛城山に立つ雲の立ちても居ても妹をしぞ思ふ
             作者不詳「万葉集 巻11-2453」 柿本朝臣人麻呂之歌集より撰
|葛城の襲津彦真弓新木にも頼めや君が我が名告りけむ
                       作者不詳「万葉集 巻11-2639」 再引用


 静かで、余りにも静かで、何だか怖くなってしまうようでした。...欠史8代については簡単な記述すらもほぼ皆無で、故にこの高丘宮にて、どんな歴史が営まれたかは、知るよしもありません。
 ただ、日本書紀にだけある僅かな記述では、綏靖は神武の第3皇子で、神武の他界後、政を任されていた第1皇子が邪な考えを抱き、権力を欲しいままに振る舞ったといいます。そこで第2皇子と綏靖が、第1皇子を討つことにしたのですが、いざという場面で第2皇子は及び腰になってしまい、弓を射ることができなくなり...。
 とっさに綏靖がその弓を奪い、第1皇子を討ったんですね。そして、皇位については第2皇子が、自分にはどうもそぐわないので、神を祀る方面を受け持つから皇位はお前が、と綏靖に譲ったのだとか。結果、第2代綏靖天皇即位、となったわけなんですね。...もっとも、以上の説話の舞台はこの高丘宮跡ではなく、畝火の白檮原宮なんですけれども。

 早朝から、随分とハイペースであちらこちらを周って来たからでしょう。もはや何を考えるでもなし、ただ石碑と、竹林と、その背後にある葛城山の頂きと、そしてその向こうの空を眺め続け、それから何となく立ち位置を変えて奈良盆地側を振り向きました。
 目の高さには、若草山や高円山、三輪山など奈良盆地の東側の山並み。見下ろすと大和三山がぽつん、ぽつん、ぽつん、とあってその周辺はいずこもまだ耕されていないのか、休耕田なのか、とにかく淡い緑が敷き詰めたようになっていて、そして川が、幾筋か淡い緑の中を走っていて。
 ふいにとても懐かしい、懐かしい声が鼓膜の奥で響きました。
「苦しいね。でも、大丈夫だよ。朝にはきっと起きられるよ」


 眼前に広がる光景。それは、幼い頃から発熱する度に夢に見ていた、あの場所...。そんなはずはない、こんなのは偶然だ、と何度も目を凝らして見つめ直しても、やはり像が重なってしまいます。そして同時に、昔から何となく感じていた懐かしさが、実感として堰を切ったようにわたしの全身を駆け巡ります。
 昨夏、藤原宮跡で仄かに感じた既視感。それよりさらに深くて濃く、熱い不思議な感慨。巨勢、宇智、金剛、葛城と近づくにつれて強まっていった懐かしさは、まるで押し寄せた波が大きくうねり、逆巻き、昂ぶり、極まり、そして果てたのちに静かに引くかの如く、この高丘宮跡で寄せて、帰ってゆきました。

 あがうらに潮騒響み
 勇魚取りおほうみは満つ
 寄せ来るは
 甚振波の間なく寄せ
 間なく滾りて
 間なく散り
 間なく果てゆく
 束の間は
 またとこしへのあはひとて
 毛の麁ものも
 柔ものも
 もろひと来る綿津見ゆ
 みづに生れども
 みづに絶え
 みづを統ぶれば
 地ちかし
 地に増されど
 地にい寝
 地にて生せば
 火も近く
 風とて近し
 いにしへゆはろはろに来し
 あがうらの
 なほしえ忘れざる波と潮を頼み
 けふやけふ
 けふ在ることの
 ことはりよろづ

 とほき日のあものこゑとて響ませ賜ふ山なれば
 神し坐まさむ、神宿るらむ           遼川るか
 (於:高丘宮跡伝承地、のち再詠)


 「勇魚取り」はうみ、を伴う枕詞。

 ...正直な処、よく判りません。実際、フィールドワークを本業としている知人の話では、日本各地の盆地を山から眺める景色は、何処もよく似ているそうです。なので、わたしがずっと熱に喘ぎながら見ていた光景はここではないのかも知れません。でも...。
 実は、奈良から戻り最初にした作業は父方と母方、双方の家系図を辿ることで、畿内に因んだことがあったのではないか、とも思ったのですが手繰れる範囲では収穫はなく、それ以上は家系図そのものが存在しませんでした。

 どうなんでしょうね。偶然なのか、奇跡なのか。本作を書いている間も何度か発熱しましたが、やはりまた夢に見ます。そっくりなようでもあり、微妙に違うようでもあり、ただ目覚めると記憶が朧げになってしまうので、何とも曖昧なまま。...でも、答えを出す必要はないのでしょう。
 そして、また訪ねるであろう奈良はもちろん、出雲や筑紫や伊勢、近江、紀伊といった各地で、わたしはまたあの光景を探すこともあれば、見つけることもあるのだ、と。きっと、そういうものなのだ、と思っています。







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