万葉3期、異国つまりは半島や隋なり唐なりですが、平城京からそれら異国や、九州、山陰山陽へ向かうルートは、難波から海路というのが一般的でした。そして、難波へ向かうには当然ですけれど生駒・竜田・二上・葛城・金剛といった奈良盆地の西側に連なる峠を越えることになります。もっとも距離的に、ルートは主に2つに限られていて、1つが竜田山を走っていた竜田越え、もう1つが生駒山を走っていた
「直越え/ただこえ」
 となります。

 余談になりますが、平城京ではなく、万葉2期の明日香からだと、難波行きのメインルートは竹内街道となり、こちらについては後述させて戴きます。
 竜田越えは、当時の道筋もほぼ判明していて現在も辿ることができますが、直越えは場所が特定されていません。ですが、有力視されているルートならば、現存しています。
「暗峠/くらやみとうげ」。
 万葉巡り3日目は、この暗峠を最初に目指します。

 暗峠について古事記にこうあります。

|初め大后日下に坐しし時、日下の直越の道より河内に幸行でましき。爾に山の上に登
|りて国内を望けたまへば、堅魚を上げて舎屋を作れる家有りき。
                  「古事記 下巻 雄略天皇 2 志幾の大県主の家」

 現在の泊瀬界隈に宮を設けていた雄略が、河内へ向かった時の記述ですが、ここに直越と登場する峠道。このことを殆どの古事記では注釈として、生駒山の暗峠のことであろう、としていて直越という呼び名は、大和・難波間の最短ルートであったから、ともあります。
 少し余談になりますが、上記引用のあとに、雄略が峠の頂上で詠んだ歌、というものが採られています。


|日下部の こちの山と
|畳薦 平群の山の
|こちごちの 山の峡に
|立ち栄ゆる 葉広熊白檮
|本には いくみ竹生ひ
|末方には たしみ竹生ひ
|いくみ竹 いくみは寝ず
|たしみ竹 たしには率寝ず
|後もくみ寝む その思ひ妻
|あはれ
             雄略天皇「古事記 91 下巻 雄略天皇 2 志幾の大県主の家」


 「いくみ竹」はいくみ、「たしみ竹」はたしみ、をそれぞれ伴う枕詞。2句目の「こちの山」が生駒山だとされています。

 ともあれ、この古事記の記述と注釈を信じ、直越え=暗峠。さらには道自体は雄略期から拓けていた、とします。要は、万葉期には暗峠は存在していた、と。以下、この前提でお話を進めさせてください。
 難波へ向かう2大ルートのうち、竜田越えは遠回りになるものの道は比較的なだらかだったようで、一方の直越えは近道ではあるもののとても険しかった、といいます。しかも天平時代当時の生駒山界隈は、ほぼ未開の地でもあったらしく、唐や隋を目指す留学生たち、半島への交渉に向かう官人たち、そして防人として九州へ向かう庶民たちには、不安は隠せなかったことでしょう。
 唐や隋へ行けばいつ帰れるかも知れず、半島の特に新羅などへ交渉に行こうものなら生きて戻れる保障などなし。防人の役とてそれなりの期間、辛苦を嘗めるのは避けられません。
 そういった数多の不安を抱えながら、未開のままの生駒を越える。それは恐らく、都や家族との決別の覚悟すら要したものなのかも知れません。だからでしょうか。「万葉集」にある生駒関連の歌の多くは、妻恋の絶唱ばかりです。

|妹がりと馬に鞍置きて生駒山うち越え来れば黄葉散りつつ
                          作者不詳「万葉集 巻10-2201」
|君があたり見つつも居らむ生駒山雲なたなびき雨は降るとも
                          作者不詳「万葉集 巻12-3032」
|夕さればひぐらし来鳴く生駒山越えてぞ我が来る妹が目を欲り
                           秦間満「万葉集 巻15-3589」
|妹に逢はずあらばすべなみ岩根踏む生駒の山を越えてぞ我が来る
                          作者不詳「万葉集 巻15-3590」


 「愛しい人のもとへ、と馬に鞍を置いて生駒山を越えてくると紅葉がしきりに散っていることだよ」
「あなたの家の辺りを見続けていよう。生駒山に雲よ棚引かないでおくれ。雨は降ろうとも」
「夕方になると蜩が来て鳴く生駒山を越えてわたしはやって来る。愛しい人に会いたくて」
「会わないでいるとどうにもしようがないので、険しい岩を踏み生駒山を越えてわたしはやって来ることだ」

 この中では秦間満の歌に注目して戴きたく思います。秦間満は遣新羅使の1人だったのですが、先ずは時系列からすると

|2月28日 従5位以下の阿部朝臣継麻呂を遣新羅大使に任命した。
                      「続日本紀 天平8年(736年)2月28日」
|夏4月17日 遣新羅使の阿部朝臣継麻呂らが天皇に出発に臨んで拝謁をした。
                      「続日本紀 天平8年(736年)4月17日」
|天平8年丙子夏6月、使を新羅国に遣はしし時に、使人等、各々別れを悲しびて贈答し、
|また海路の上にして旅を慟み思ひを陳べて作る歌。所に当りて誦詠する古歌を并せ
|たり。
                             「万葉集 巻15 冒頭」


 となりますから、2月末に任命され4月に拝朝。実際に出発した6月まで間に、秦間満は一旦、里帰りしたのでしょうし、上記引用歌はその年に詠まれたもの、となります。
 天平期の軍法令では、拝朝後はすぐに任務に就くことになっていたらしく、位が相当高い官人なら、ここで里帰りはほぼ不可能だと考えるのが一般的なようで、それゆえに間満は下級官人であったのでしょう、恐らくは。

 さて、当時の日本・新羅間はかなりの緊張状態にあったといいます。その為の遣新羅使だったのでしょうけれども、不安定な海路への恐怖もさることながら、ひとつまちがったら敵地にて囚われの身、さらには...。という可能性も秘めていた、ということなのでしょうね。作者は不詳ですが、同様に歌番号3590のものも、間満の歌とほぼ等しいシチュエーションで詠まれたものです。
 もちろん、何も遣新羅使だけに限ったことではありませんが、それらも併せた絶唱によって生駒越えには妻恋、というイメージが何となく固定化している印象があります。

 斑鳩の宿を出たのは、前日よりは少し遅くて8時過ぎでした。流石に、前日とさらには夜行で奈良入りした初日の余波が襲ってきて、少し寝坊してしまったんですね。慌てて身支度を済ませ、先ずは斑鳩を流れる竜田川沿いを北上。川を渡ると直ぐに、万葉期に峻険だったという山道になります。
 多分に、車同士の行き違いもギリギリではないかしら、と思える程度の道幅と普通の山道以上、場所によってはほぼヘアピン状のカーブもある蛇行を、時速30km程度で登り続けて。...何度か耳が抜けなくなりました。
 道自体は一本道ですし、噂に生駒山界隈は宅地化されてしまっている、と聞いていた通り、登れど登れど片側は崖、片側は民家、という景色に少々興ざめしてしまったのが本音のお話。そのまま15分くらい運転し続けたでしょうか。ようやく、峠らしき辺りに到着しました。


 暗峠。万葉関連の写真集などには、石畳を敷き詰めた峠に古めかしい風情の民家が数件並ぶ写真がよく紹介されていますが、まさにそのまま。日本各地にある小京都と呼ばれる街の一画を切り取ったような風情で、ほんの数10mの範囲ではあれど、中々に感慨深いものがあります。
 立っている標識のこちら側には生駒市、裏側には東大阪市、とあってまさしくここが、あきづしまやまととおしてるやなには、の境であることを物語っていました。

 奈良側からの登りも相当厳しかったのですが、聞いた処によると大阪側からはさらに険しいらしく、だからでしょうか。時折、突風とも言えるような強い風が押し寄せ、左耳だけ唸るように響かせて、吹き過ぎていきます。風の森峠もそうでしたが、やはり峠というのは風の通り道なのでしょうね。
 1つだけ残念だったのが、事前の下調べでも生駒山界隈は宅地造成されてしまっていて眺望は望めない、と知っていたのですけれど、結果はやはり。峠から奈良盆地を見下ろせば、もしかしたら前日の高丘宮跡伝承地のようなことが...、とかすかに抱いていた期待は叶いませんでした。

 さて、万葉期に生駒山界隈は未開の地だった、と書きました。もう少し噛み砕いてご説明しますと、万葉1、2期の斑鳩や明日香の文化は現・大和郡山市にある矢田丘陵を越えることはなく、万葉3期の天平文化は現・生駒市南部の生駒谷を渡ることがなかった、ということなんですね。要は畿内ではあれど、所謂人里はこの山のごく近くで途切れ、山自体はあくまでも難波への途上、としての存在でしかなかった、ということです。
 そもそもが妻問婚の時代。夫婦が一緒に暮らすという習慣などなく、まして未熟な航海技術に頼る海路を行く、または海路より帰る峠道。殊、歩くこともそれなりに心許無かったであろう未開の道は、難波側からではさらに険しく、突風さえも吹き荒びます。

 間満にしてもそうですが、そんな悪路を通るくらいなら何故、より安全な竜田越えを、とは考えなかった人々が多かったのか。彼らは何故、わざわざ直越えを選んだのか。...はい。それは、まさしくこの峠道が直越えだったから、でしょうね。最短ルートだったから、と。
 そして、彼らの足をひたすら急がせたものは、家族。それこそ「我妹/わぎも」。携帯電話はおろか、手紙すらもほぼありませんでした。稀に、もしかすると風の便りにでも、何かは聞けたのかもしれませんが、きちんと相手の安否を確かめるには、もはや会う以外に手段のなかった古代。だからこそ、拝朝から出帆までの寸暇を縫ってでも都へ。
 遣新羅使ではなくとも、人々が竜田越えではなく直越えを選ぶ、という行為の裏側には、とにもかくにも急ぎたい理由があったことは否めませんし、そういう峠に纏わる歌々こそが、きっとその何よりもの理由であり、答えなのだ、と思います。

 嶮しくもまた暗けれどなほし越えまくほしきとて
 弥見がほしきのあるも、なくとも          遼川るか

 直越えて懸くる旅路はなほしうむがし
 息の緒のきはこそ越えめ いざ手向山        遼川るか
 (於:暗峠、のち再詠)


 また、妻恋とは別に直越に関連する歌群へ多く詠まれたものがあります。峠から眺める難波の海です。

|難波潟潮干のなごりよく見てむ家なる妹が待ち問はむため
                        神社忌寸老麻呂「万葉集 巻6-976」
|直越のこの道にしておしてるや難波の海と名付けけらしも
                        神社忌寸老麻呂「万葉集 巻6-977」
|やすみしし 我が大君の
|高敷かす 大和の国は
|すめろきの 神の御代より
|敷きませる 国にしあれば
|生れまさむ 御子の継ぎ継ぎ
|天の下 知らしまさむと
|八百万 千年を兼ねて
|定めけむ 奈良の都は
|かぎろひの 春にしなれば
|春日山 御笠の野辺に
|桜花 木の暗隠り
|貌鳥は 間なくしば鳴く
|露霜の 秋さり来れば
|生駒山 飛火が岳に
|萩の枝を しがらみ散らし
|さを鹿は 妻呼び響む
|山見れば 山も見が欲し
|里見れば 里も住みよし
|もののふの 八十伴の男の
|うちはへて 思へりしくは
|天地の 寄り合ひの極み
|万代に 栄えゆかむと
|思へりし 大宮すらを
|頼めりし 奈良の都を
|新代の ことにしあれば
|大君の 引きのまにまに
|春花の うつろひ変り
|群鳥の 朝立ち行けば
|さす竹の 大宮人の
|踏み平し 通ひし道は
|馬も行かず 人も行かねば
|荒れにけるかも
               田邊福麻呂「万葉集 巻6-1047」 田邊福麻呂歌集より撰
|難波津を漕ぎ出て見れば神さぶる生駒高嶺に雲ぞたなびく
                    梁田郡上丁大田部三成「万葉集 巻20-4380」


 「かぎろひの」は春、「露霜の」は秋、「春花の」は移ろひ、「群鳥の」は朝、「さす竹の」は大宮、をそれぞれ伴う枕詞。


 ...もちろん、万葉期と現代ではそもそも大阪湾の海岸線が全く違いますし、当時は今よりもずっと内陸近くまで海だったようです。その上、建物など殆ど無かったのでしょうから、きっと暗峠から見下ろした海は、丁度夕焼けの時刻なら夕日を湛えてさぞかし見応えもあったのでしょう。
 この大阪湾ですが、現代でも地名に残っていますし、今なお地元の方の呼んでいる別の名前がありますね。「茅渟の海/ちぬのうみ」。万葉歌にも複数詠み込まれています。...余談ですが、魚の茅渟は黒鯛のこと。大阪湾界隈では黒鯛を茅渟と呼んでいるそうですが、魚の標準和名は一般に海水魚は江戸湾での呼び名が採られ、逆に淡水魚の標準和名は琵琶湖での呼び名が採られている、というのは歌ともう1つの趣味・料理系の豆知識ですが。

|茅渟廻より雨ぞ降り来る四極の海人綱手干したり濡れもあへむかも
                            守部王「万葉集 巻6-999」
|妹がため貝を拾ふと茅渟の海に濡れにし袖は干せど乾かず
                           作者不詳「万葉集 巻7-1145」
|茅渟の海の浜辺の小松根深めて我れ恋ひわたる人の子ゆゑに
               作者不詳「万葉集 巻11-2486」 柿本人麻呂歌集より撰
|茅渟の海の潮干の小松ねもころに恋ひやわたらむ人の子ゆゑに
             作者不詳「万葉集 巻11-2486 別記」 柿本人麻呂歌集より撰


 さて、本題の暗峠から敢えて脱線させて戴いて、この茅渟という地名に纏わるお話が2つほど。どちらも、ある意味に於いては、和歌や万葉歌に関連深いものとも言えるかも知れません。

 前作でご紹介した木梨軽太子と同母妹の軽大娘皇女のスキャンダルに関連して少し書きましたが、この軽大娘皇女。古事記では衣通郎姫(古事記での表記は衣通王)と同一人物とされ、日本書紀では別人で木梨之軽太子の母・忍坂大中姫の妹、となっています。
 そして、禁忌を犯したスキャンダルの主人公としてではない、木梨軽太子の叔母としての衣通郎姫に因んでいるのが茅渟です。古事記による衣通王関連の説話は前作に書きましたので割愛しますが、先ずは日本書紀の説話です。

 第19代允恭天皇は、新居の落成祝いの宴席にて自ら琴を弾き、それに和して皇后・忍坂大中姫(安康天皇、雄略天皇の生母)が舞いました。...が、当時の風習として宴席で舞った者は舞い終わると主催者に向かって
「娘子を奉りましょう」
 と言う事になっていたらしく、けれども皇后はこれを言わなかったんですね。理由は、その奉る娘というが彼女の妹で、しかも妹は容姿絶妙で並ぶ者がないほど。その麗しい体の輝きが衣を通して外からも見てとれたということから、人々の口に「衣通郎姫/そとおしのいらつめ」という通称がのぼるほどだった、ということですからやはり心中穏やかではなかったでしょう。けれども、一方の天皇は逆にこの噂を知っていたからこそ、どうしても皇后に件の台詞を言わせたかったわけで。結局、皇后は不承々々天皇に従い使者が衣通郎姫を迎えにいきました。
 とはいえ、そこはやはり実の姉妹。妹である衣通郎姫も、天皇からの声掛かりは嬉しいものの、やはり躊躇も遠慮も、姉の嫉妬への恐怖もあることから、天皇は後宮ではなく、別殿を藤原に設えて彼女をそちらへ住まわせました。

 やがて皇后は臨月(産んだのは雄略)を迎えたのですが、この最中にも天皇は藤原へ出向いてしまい...。流石の皇后もこれに我慢できず自殺を図ってしまったので以降、天皇は藤原へは足が遠退いてしまったんですね。
 翌年、天皇がこっそり藤原へ出掛けると、それに気付いていない衣通郎姫は歌を詠んでいました。

|我が夫子が 来へき夕なり。 ささがねの 蜘蛛の行ひ 是夕著しも
                   衣通郎姫「日本書紀 63 允恭8年(420年)2月」


 「夫の君が訪れてくれそうな宵です。巣を営む蜘蛛の動きが今夜はせわしくて目に付きます」
 これを聞き喜んだ允恭の歌です。

|ささらがた 錦の紐を、解き放けて 数は寝ずに、唯一夜のみ。
                   允恭天皇「日本書紀 64 允恭8年(420年)2月」


 さらには、その後朝に詠んだのが有名なこちら。

|花ぐはし 桜の愛で。 同愛では 早くは愛でず。我が愛づる子ら。
                   允恭天皇「日本書紀 65 允恭8年(420年)2月」


 「細やかに美しく咲きかかっている桜の花の見事さよ、同じ愛するのなら、もっと早く愛するべきだった。早く賞美しないで惜しいことをした、我が愛する姫よ」

 余談になりますが、歌材としては最高峰とも言えるべき桜。あの花が詠みこまれた最古の歌が、これになります。

 お話を茅渟に戻しまして、このお忍びも結局は皇后の知るところとなってしまいます。なので衣通郎姫は、王宮より遠く離れた地に住むことを願い、允恭もこれを叶えます。そして、建てられたのが河内は茅渟の宮です。
 因みに允恭の宮は古事記によると遠つ飛鳥宮となっています。遠つ飛鳥宮そのものの所在地は不詳とされていますが、一般に遠つ飛鳥と言えば現・奈良県明日香村飛鳥界隈で、近つ飛鳥と言えば現・大阪府羽曳野市飛鳥界隈のことですから、それから推測するに、衣通郎姫は難波のかなり海岸部近く、允恭は大和盆地の真ん中辺り、というくらいの距離でしょうか。
 後日談です。その後も允恭は何度か茅渟まで出向いていて、その中での歌も日本書紀に残っていますね。

|とこしへに 君も会へやも。 いさな取り 海の浜藻の 寄る時時を。
                   衣通郎姫「日本書紀 66 允恭11年(423年)3月」


 「いつまでも変わらずに、あなたさまはわたしに逢ってくれるでしょうか。きっとそうもいかないでしょう。海の浜藻が波のまにまにふと岸辺に近寄り漂うように、稀にしか逢えないのでしょうね」

 これを聞いた允恭は、皇后を恐れてこの歌を人には聞かせてはならない、と彼女に言い聞かせます。それ以来、浜藻のことを
「名告藻/なのりそもorなのりその:人に告げるな」
 と言うようになった、とのこと。名告藻、こちらは名、を導く枕詞にもなっていますね。

 名告藻あが名はあもゆ
 継ぎたれば
 継ぎたるものは名でありて
 名にてなきもの
 真澄鏡ふたあやのごと
 時のむた
 かはへのむたに
 歌のむた
 あらまくほしと沁むりては
 あが眼に見るを
 あが耳に聞くを返して
 とにしへにゆかましものと
 継ぎたるは人にな告げそ
 謡ひゆくほか

 あれは知らに あれとふたれかえ知らざるものゝ
 ことはりに見ゆるはふたつえなかざる川        遼川るか
 (於:暗峠、のち再詠
)







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